113
桑木
・桑木彧雄は、アインシュタインの相対性理論をいち早く
日本に紹介した物理学者として知られている。
・アインシュタインに、初めて会った東洋人でもあり、名著
『アインシュタイン伝』がある。
・西洋の最新の物理学と、その科学哲学の認識論などを、
いち早く日本に紹介し、論じたのも桑木彧雄の功績である。
・長らく九州大学において教授し、東西の科学史研究を進め
た業績もある。小倉金之助、天野清、岡邦雄、会田軍太夫
などの科学史家たちを育てたのも、桑木彧雄の人徳である。
・安藤昌益の発掘者である狩野亨吉との共通点・接点もあり、
その蔵書の一部を譲り受けてもいる。九州大学の「桑木文庫」
は、科学史文献の宝庫として知られている。
・最近では、西田哲学や田辺元などへの多大な影響が指摘さ
れており、桑木彧雄への再評価の気運が高まって来ている。
・【 人文的数学者・小倉金之助とその周辺 】
・【 日本科学史学会創立80年記念 】
・【 東京物理学校 〔東京理科大学〕 創立140年記念 】
・【 恩師・會田軍太夫先生 没後40年記念 】
・日本科学史学会 初代会長
・科学史・科学哲学 研究の先駆者
・物理学者・桑木彧雄の「経歴」とその「業績」
――「年譜」による考証と考察
――【そのニ】
和田耕作
・【目次】
・「はじめに」 〈 前回 〔第48号〕 「その一」 を参照 〉
・「主要参考文献一覧」〔「その一」・「その二」の分〕
・「桑木彧雄主要著作一覧」
・「桑木彧雄略年譜」 〔未完〕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・【前回〔第48号〕「その一」の内容】・・・・・・・・・・・・・・・
・「1」・桑木彧雄と東京物理学校
・「2」・桑木彧雄の「経歴」とその「業績」
――〔Ⅰ〕・「ヨーロッパ留学まで」
・【今回〔第51号〕「その二」の内容】・・・・・・・・・・・・・・・
・「3」・桑木彧雄の「経歴」とその「業績」
――〔Ⅱ〕・「ヨーロッパ留学以後」
・・・・・・・・・・・・・・・
九州帝国大学「講師」時代の桑木彧雄
・〔明治44年(1911)~大正3年(1914)4月〕・
・【以下、次号につづく】・・・・・・・・・・・・・・・・・
・【主要参考文献一覧】・
・・・【「その一」、「その二」の分】・・・・・・・・・・・・・・・
・①岡本良治・山内経則「桑木彧雄氏の経歴について―100年目の小
さな謎―」(日本物理学会講演概要集、2007〔Web公開による。〕)
・②原田雅博「物理学者・桑木彧雄に関する資料」(『社会文化論集』
第15号、2018年3月、抜刷。〔Web公開による。〕
・③九州大学附属図書館の「桑木文庫」の解説〔Web公開による。〕
・④『東京物理学校五十年小史』(東京物理学校刊、昭和5年)
・⑤和田耕作「石原純と小倉金之助」(小倉金之助研究会編『小倉金之助
と現代』第四集、教育研究社、1988、所収)
〔・第三節「桑木彧雄と小倉金之助――物理学の誘惑」〕
・⑥和田耕作編・追補「石原純自筆年譜」(同前、所収)
・⑦和田耕作『石原純――科学と短歌の人生』(ナテック、2003)
・⑧森口昌茂「桑木彧雄著作目録について」(「東海の科学史」第13号、
2019)
・⑨『科学史研究』(復刊第一号〔通巻10号〕、1949年4月)
・⑨-A)「前会長桑木彧雄博士を悼む」〔著者名なし。〕
・⑨-B)「父を想う」(桑木務)
・⑨-C)「桑木彧雄博士の追憶:その業績と学風」(矢島祐利)
・⑩『東京帝国大学五十年史』(上冊・下冊、東京帝国大学、昭和7年)
・⑪西尾成子「著者桑木彧雄先生と本書の特色」(桑木彧雄著、桑木務・
西尾成子増補『アインシュタイン』、サイエンス社、昭和54年、所収)
・⑫『長岡半太郎伝』(藤岡由夫監修、板倉聖宣・木村東作・八木江里著、
昭和48年、朝日新聞社刊)
・⑬長岡半太郎『随筆』(昭和11年、改造社刊)
・⑭桑木彧雄「ポアンカレの追憶」(『科学史考』、昭和19年、河出書房刊、
所収)
・⑮『東京帝国大学一覧』(東京帝国大学、明治35年12月)
・⑯『マッハ 力学の発達 とその歴史的批判的考察』(青木一郎訳、
昭和6年、内田老鶴圃刊)
・⑰ポアンカレ『科学の価値』(田辺元訳、大正5年、岩波書店刊)
・⑱日本物理学会編『日本の物理学史』(上=歴史・回想編、下=資料編、
1978、東海大学出版会刊)
・⑲高田誠二『プランク』(「人と思想」〔100〕、1991、清水書院刊)
・⑳湯浅光朝編著『コンサイス科学年表』(三省堂、1988)
・㉑『科学技術史年表』(菅井準一ほか編集、平凡社、昭和31年)
・㉒田中節子「桑木彧雄と日本の物理学―相対性理論を軸として―」
(辻哲夫編著『日本の物理学者』、東海大学出版会、1995、所収)
・㉓安孫子誠也「桑木彧雄『絶対運動論』(1906)における相対運動
概念」(『安孫子誠也論説集―エントロピー論・近代物理学史・科学論―』、
2019、東京教学社、所収。〔初出は、「科学史研究」45、185~188、2006〕)
・㉔岡本拓司『近代日本の科学論』(名古屋大学出版会、2021)
・㉕小倉金之助「明治科学史上における東京物理学校の地位」
(「東京物理学校雑誌」第600号、昭和16年、『小倉金之助著作集』
第2巻、1973、勁草書房、所収)
・㉖岡部進『小倉金之助 その思想』(昭和58年、教育研究社刊)
・㉗岡邦雄「桑木彧雄先生」(「科学知識」昭和22年5月号)
・㉘會田軍太夫「九大時代の桑木彧雄先生」(「自然」1981年12月号)
・㉙和田耕作「林鶴一と小倉金之助」(小倉金之助研究会編『小倉金之助
と現代』第三集、教育研究社、1987、所収)
・㉚有賀暢迪「ローレンツ『物理学』日本語版の成立とその背景
――長岡・桑木と世紀転換期の電子論――」
(Bull.Natl.Mus.Nat.Sci.,Ser.E,36,pp.7-18,December22,2013)
・㉛西尾成子『科学ジャーナリズムの先駆者 評伝石原純』
(2011年、岩波書店刊)
・㉜桑木彧雄「電子の形状に就いて」(『東京物理学校雑誌』、
巻16、第183号、明治40年2月8日発行)。
初期の業績と物理学史的背景」(「窮理」第1号、2015)
・㉞伊藤憲二「『論文』の無い科学者・桑木彧雄(二)
ヨーロッパ留学と相対論」(「窮理」第2号、2015)
・㉟伊藤憲二「『論文』の無い科学者・桑木彧雄(三)
物理学・哲学・科学史」(「窮理」第3号、2016)
・㊱和田耕作編・追補「小倉金之助自筆年譜」(小倉金之助研究会編
『小倉金之助と現代』〔第1集〕(教育研究社、1985、所収)
・㊲『科学史技術史事典』(伊東俊太郎ほか編、弘文堂、昭和58年)
・㊳桑木彧雄「記載と説明」(「理学界」第四巻、1906年7月)
〔「科学図書館」の「桑木彧雄の部屋」でWeb公開されている。〕
・㊴中村禎里『科学者――その方法と世界』(朝日選書、朝日新聞社、1979)
・㊵辻哲夫『日本の科学思想――その自立への模索』(中公新書、昭和
48年)
・㊶『東京帝国大学一覧(従明治36年~至明治37年)』(東京帝国大学、
明治36年12月)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・〔Ⅱ〕・・・・・・・・・
・・・【「その二」の分】・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・㊷桑木彧雄「新著批評・林鶴一氏訳『科学と臆説』」〔「東洋学芸雑誌」
27巻342号、明治43年3月5日発行〕
・㊸桑木彧雄「科学及び工業の高等なる学校の趨勢」(「東洋学芸雑誌」
27巻、第343号、明治43年4月5日発行)
・㊹桑木彧雄「普通教育に於ける理科の功利以外の目的」(「東洋学芸
雑誌」27巻、第346号、明治43年7月5日発行)
・㊺桑木彧雄訳「プランク教授『力学的自然観に対する新物理学の
位置』」〔「東洋学芸雑誌」28巻、352号、明治44年1月5日発行〕
・㊻桑木彧雄訳「プランク教授『力学的自然観に対する新物理学の
位置』(承前)」〔「東洋学芸雑誌」28巻、353号、明治44年2月5日
発行〕
・㊼石原純訳〔プランク著〕「力学的自然観に対する近代物理学の
立場」〔『世界大思想全集48:プランク「物理学的展望」ほか、昭和5
年、春秋社刊〕
・㊽桑木彧雄「相待原則ニ於ケル時間及空間ノ観念〔一〕」
〔「東京物理学校雑誌」第232号、明治44年3月8日発行〕
・㊾桑木彧雄「相待性原則ニ於ケル時間及空間ノ観念〔二〕」
〔「東京物理学校雑誌」第233号、明治44年4月8日発行〕
・㊿桑木彧雄「相待性原則ニ於ケル時間及空間ノ観念〔三〕」
〔「東京物理学校雑誌」第234号、明治44年5月8日発行〕
・(51)・「にうとん祭ニ於ケル長岡博士ノ書状」
〔「東京物理学校雑誌」第232号、明治44年3月8日発行〕
・(52)・金子務『アインシュタイン・ショック〔Ⅱ〕』〔1981年、河出
書房新社刊〕
・(53)・ポアンカレ『晩年の思想』〔河野伊三郎訳、岩波文庫、昭和17年
第三刷〕
・(54)・桑木厳翼「自然科学者の哲学観」(「教育学術界」24巻2号、
臨時増刊、「最近学芸大観」、明治44年11月、同文館刊〕
〔同文館創業15周年記念号〕
・〔西田幾多郎の「ベルグソンの哲学〔ベルグソンの純粋持続〕が
同時に掲載されている。〕
・(55)・佐藤文隆「『プランクのマッハ批判』を哲学者西田に伝えた
桑木彧雄」〔「現代思想」49巻4号、2021年4月〕
・(56)・森口昌茂「西田幾多郎と桑木彧雄の交流について――
西田哲学の形成と物理学の認識問題をめぐって」(「東海の科学史」
第12号、2017)
・(57)・田辺元「相対性の問題」〔「哲学雑誌」302号、明治45年4月、
・(58)・田辺元「桑木理学士の『物理学上認識の問題』」〔「哲学雑誌」
310号、大正元年12月、『田辺元全集』第14巻、所収〕
・(59)・田辺元「カントと自然科学」〔「哲学雑誌」大正元年8月、『田辺元
全集』第14巻、所収〕
・(60)・西田幾多郎「認識論者としてのアンリ・ポアンカレ」
・〔「芸文」第三年第十号、大正元年10月、『西田幾多郎全集』第1巻、
所収〕
・(61)・田辺元訳「プランク氏『物理学的世界形像の統一』」
・〔「哲学雑誌」大正2年3~5月、『田辺元全集』第14巻、所収〕
・(62)・田辺元「プランク『物理学的世界像の統一』訳者小引」
・〔「哲学論叢」の一冊、昭和3年(1928)11月、岩波書店刊、『田辺元
全集』第14巻、所収〕〕
・(63)・安孫子誠也「明治末・大正期日本における物理学と哲学の交
流」(『安孫子誠也論説集―エントロピー論・近代物理学史・科学論―』、
2019、東京教学社、所収。〔初出は、「科学史研究」46、231~240、2007〕)
・(64)・三上義夫「ポアンカレーの空間論」〔「東京物理学校雑誌」181号、
明治39年12月〕
・(65)・石原純〔岡邦雄〕『科学史』(「現代日本文明史第13巻」、昭和17
年8月、東洋経済新報社出版部刊)
・(66)・画伝子編輯『人物画伝』〔明治40年7月、有楽社刊〕
・(67)・『近代文学研究叢書59』〔昭和61年11月、昭和女子大学近代文化
研究所刊〕
・(68)・『近代日本哲学思想家辞典』〔中村元・武田清子監修、昭和57年
9月、東京書籍刊〕
・(69)・林鶴一「数学と自然科学」〔「哲学雑誌」296号、明治44年10月〕
・(70)・桑木厳翼『現代思潮十講』〔大正2年6月20日、弘道館刊〕
・(71)・西尾成子編『アインシュタイン研究』〔昭和52年2月、中央公
論社刊〕
・(72)・A.I.ミラー「特殊相対性理論の歴史」〔『アインシュタイン――
物理学・哲学・政治への影響』、P.C.アイヘルブルク・R.U.ゼクスル編、
江沢洋・亀井理・林憲二訳、岩波書店、1979、所収〕
・(73)・桑木彧雄「力学の見方」〔「日本及日本人」、第696号、大正6年
元旦号「日本学界の代表的研究」〕
・(74)・三上義夫訳「数理的物理学ノ原則ヲ論ズ」〔ポアンカレー述〕
・〔「東京物理学校雑誌」164、165号、明治38年7~8月〕
・(75)・日本科学史学会編『日本科学技術史大系13、物理科学』
〔1970年、第一法規出版刊〕
・(76)・『寺田寅彦全集』全30巻〔1996~1999年、岩波書店刊〕
・(77)・ヘリガ・カーオの『20世紀物理学史(上)』〔岡本拓司監訳、
2015、名古屋大学出版会刊〕
・(78)・石原純『現代物理学』〔唯物論全書、昭和10年、三笠書房刊〕
・(79)・広重徹訳『ローレンツ電子論』(解説「ローレンツ『電子論』
とその歴史的背景」)〔1973、東海大学出版会刊〕
・(80)・『男爵山川先生遺稿』〔男爵山川先生記念会編纂・発行、昭和12年〕
・【桑木彧雄主要著作一覧】・
・〔A〕桑木彧雄・述、渡辺潔・記『験糖器之説明』(明治35年、
東京税務管理局)
・〔B〕桑木彧雄編『普通力学』(明治41年、高岡書店刊)
・〔C〕ローレンツ著『物理学』(上巻=桑木彧雄訳、下巻=長岡半太郎訳、
大正2年、冨山房刊)
ラグランジュ著『解析力学抄』(桑木彧雄訳、長岡半太郎校閲・
「解析力学抄小引(長岡)」、大正5年、丸善刊)
・〔E〕『アインスタイン・相対性原理講話』(桑木彧雄・池田芳郎共訳、
長岡半太郎・序文、大正10年、岩波書店刊)
・〔F〕『物理学序論』(大正10年、下出書店刊)〔新生会叢書、第4篇〕
・〔G〕『絶対と相対』(大正10年、下出書店刊)〔新生会叢書、第11編〕
・〔H〕『物理学と認識』(大正11年、改造社刊)
・〔I〕『物理学教科書』(上巻、大正13年、三省堂刊)〔中等学校用〕
・〔J〕『物理学教科書』(下巻、大正13年、三省堂刊)〔中等学校用〕
・〔K〕『物理学実験書』(大正14年、三省堂刊)〔中等学校用〕
・〔L〕「PHYSICAL SCIENCES IN JAPAN (1542―1868)」
(『Scientific Japan, past and present』、Maruzen、1926)
〔第三回汎太平洋学術会議:prepared in connection with the third
Pan-Pacific Science Congress,Tokyo,1926〕
・〔M〕『実業物理学教科書』(昭和8年、三省堂刊)〔実業学校用〕
・〔N〕『アインシュタイン伝』(偉人伝全集第18巻、昭和9年、改造社刊)
・〔O〕『泰西科学の摂取と其の展開』(啓明会第99回講演集、昭和15年
11月、笠森傳繁編輯・啓明会事務所発行)
・〔【著作〔T〕】=『科学史考』に収録。〕
・〔P〕『近代科学の展開』(教育パンフレット403輯、昭和16年3月、
社会教育協会発行)
・〔Q〕『明治以前の我が国に於ける自然科学の発達』(教学局編纂
「教学叢書 第十輯」、昭和16年、内閣印刷局発行)
・〔R〕「ゾンマーフェルト教授」〔「科学者の面影」の内〕(『戦争と科学』、
昭和16年、帝国大学新聞社編・刊、所収)
・〔S〕『WESTERN SCIENCES IN LATER TOKUGAWA
PERIOD』(英文、昭和17年、日本文化中央聯盟刊)
・〔これは、【著作〔O〕】(啓明会での講演)の英訳である。〕
・〔T〕『科学史考』(昭和19年、河出書房刊)
〔・・・ 没後 ・・・〕
・〔U〕『黎明期の日本科学』(序文・桑木厳翼、跋文・桑木務、昭和22年
4月、弘文堂書房刊)
・〔【著作〔T〕】=『科学史考』からの日本科学史を中心とした再録が
多い。〕
・〔【著作〔H〕】=『物理学と認識』から「九州における理学の先駆」
・〔【著作〔L〕】=「PHYSICAL SCIENCES IN JAPAN (1542―1868)」
を附録に収録。
・〔V〕『アインシュタイン伝』(改造選書、桑木務:新版の序、装幀者:
恩地孝四郎、昭和22年10月、改造社刊)
・〔W〕『アインシュタイン』(桑木務・西尾成子増補、サイエンス社、昭和
54年)〔【著作(N)】=『アインシュタイン伝』の増補版〕
・【桑木彧雄略年譜】・・・〔未完〕・・・
・〔以下の年譜は、本稿の「その一」(「PHN」48号)、「その二」(「PHN」
49号)の考証に基づいての記述である。〕
・〔単行本については、上記の「桑木彧雄主要著作一覧」を参照のこと。〕
・明治11年(1878)9月9日、東京に生まれる。
父・愛信、兄・厳翼。
・明治32年(1899)、7月、東京帝国大学理科大学物理学科を卒業。
9月、同大学院に入学。同月、助手となる。
・明治34年(1901)・8月、東京帝国大学理科大学助手を辞める。
・8月、東京帝国大学理科大学講師となる。
(明治34年8月から明治40年8月まで)
・「桑木彧雄の東京物理学校『講師』〔兼任〕の時期」
・第1期・・明治34年(1902)~明治37年(1904)
・第2期・・明治39年(1906)~明治40年(1907)
・【明治37年(1904)~明治38年(1905)】
・〈桑木彧雄〉・日露戦争で軍務につく。
・明治39年(1906)7月7日、東京数学物理学会で「絶対運動論」
を発表する。
・明治39年(1906)11月、「絶対運動論」が、『東京物理学校雑誌』
(15巻、180号)に掲載される。
・明治39年、1906年6月~1907年5月、月刊誌『物理学講義』
(博文館刊)に「物理学総論」を連載する。
・明治40年(1907)2月8日、「電子の形状に就いて」(『東京物理
学校雑誌』、16巻、第183号)を発表。
・明治40年、「私立明治専門学校」〔現・九州工業大学〕の教授となる。
〔明治40年(1907)7月、設立認可。明治42(1909)年4月、開校。〕
・明治40年10月、「明治専門学校」からヨーロッパ留学を命じられ、
渡欧する。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・【欧州留学】「明治40年(1907)10月~明治42(1909)8月」
・・【欧州留学での桑木彧雄の足跡】・・〔桑木:「留学雑記」による。〕
・ベルリン大学(1907年10月~1909年7月、在学)では、主に
「プランク教授」の講義を聴く。数学の「シュワルツ教授」と交遊。
・明治41年(1908)4月、ウィーンで「エルンスト・マッハ」と
会う。
・明治41年(1908)4月5日、ローマで第四回万国数学会に出席。
・明治41年(1908)秋、ケルン市での「ドイツ理学者及び医学者会」
に出席。
・〈プランク〉12月、講演「物理学的世界像の統一」(オランダ、
ライデン大学学生会自然科学部で講演する。)〔1909年雑誌に発表。〕
・明治42年(1909)3月、スイスの首都・ベルンで、東洋人として、
初めて「アインシュタイン」と会う。
・明治42年(1909)4月、パリでは、晩年の「ポアンカレ」とその
別荘(パリ市外のロゼール)で対面した。
・また、オランダでは「ローレンツ教授」と会っている。
・明治42年(1909)夏、カナダ、キンニベクでの「大英理学協会」
に出席。ラザフォード(数学及び物理学の部長)の演説を聞く。
・明治44年(1911)1月、九州帝国大学工科大学開設と同時に
「講師」として着任する。
・明治44年(1911)1月~2月、〈桑木彧雄訳〉・「プランク教授
『力学的自然観に対する新物理学の位置』」〔「東洋学芸雑誌」352号、
353号〕を発表。
・明治44年(1911)3月、『東京物学校雑誌』第232~234号に
「相待〔性〕原則に於ける時間及び空間の観念」を発表する。
・〔「日本最初の相対性理論の本格的紹介論文」として知られている。〕
・明治45〔大正元〕年(1912)3月、「物理学上の認識の問題」
(「理学界」9巻)を発表〔2月稿〕。
・大正3年(1914)1月、「熱力学の方法」を発表。〔「理学界」
11巻7号〕
・大正3年(1914)4月、九州帝国大学工科大学「教授」に就任。
・〔以後、昭和13年(1938)まで、「力学」などの講座を担当。〕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
➡➡ ・・・〔以下、次号につづく〕・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・「3」・桑木彧雄の「経歴」とその「業績」
―〔Ⅱ〕・「ヨーロッパ留学以後」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・▼・【桑木彧雄の「経歴」とその「業績」・〔Ⅱ〕・「1907~1945」】
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・「Ⅱ-A」・「欧州留学」から
九州帝国大学「講師」時代の桑木彧雄
・〔明治44年(1911)~大正3年(1914)4月〕・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・▼・・前回〔「PHN」第48号〕への【補遺】・・▼・
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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・【明治11年(1878)】・・・《補遺》▼・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・9月9日、〈桑木彧雄〉・生まれる。
・桑木家は、代々加賀藩前田家に仕えた武士の家系である。桑木彧雄は、
父・愛信、母・はる の次男として、東京に生まれた。兄・厳翼は長男で
ある。
・桑木彧雄の父の名について、田中節子は、「愛真」と記述している〔田中:
文献㉒、p31〕。
・このたび参照した『近代文学研究叢書59』〔文献(67)、p362〕の中の
「桑木厳翼」の項の記述には、「愛信」とある。また、『近代日本哲学思想
家辞典』〔文献(68)、p223〕の「桑木厳翼」の項の記述にも、「愛信」と
ある。したがって、本稿においては「愛信」を採用したい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・【明治38年(1905)】・・・《補遺》▼・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・前稿「その一」の上記の部分において、桑木彧雄が、相対性原理を日本に紹
介したのは、1905年であるという多くの本の記述のルーツについて、私は、
「これらの記述のルーツは、おそらく『科学技術史年表』(菅井準一
ほか編集、平凡社、昭和31年)〔文献㉑〕のようである。これにも
同様の記述があるからである〔文献㉑、p338〕。」
と述べたが、このたびそのルーツをさらに遡る文献がわかったので、ここ
に示す。
・【桑木彧雄、相対性原理1905年紹介説のルーツは、石原純〔岡邦雄〕
『科学史』と思われる】
・その文献とは、石原純著『科学史』(「現代日本文明史第13巻」、昭和17年
8月、東洋経済新報社出版部刊)〔文献(65)〕である。この本の実際の著者
が、「岡邦雄」であることは、学会の定説である。当時執筆禁止の状態にあ
った「岡邦雄」に、「石原純」が名義をかしたものである。
・石原純〔岡邦雄〕『科学史』には、次のようにある。
「相対性原理なども彼〔桑木彧雄〕によって、『関係性原理』なる名に
よって、アインシュタインの最切〔最初〕の論文(1905年)が出ると
同時に最も夙く紹介された。」(石原〔岡〕:文献(65)、p362)
・この記述が、多くの本での「桑木彧雄、相対性原理1905年紹介説」の
ルーツになったものと考えられる。湯浅光朝著『日本の科学技術100年史
(上)』(昭和55年、中央公論社刊)においても、「1905 桑木彧雄、
アインシュタインの最初の論文を『関係性原理』として紹介」(p158)と
あることがわかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・【明治38年(1905)】・・・《補遺》▼・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・[1905]・
〔ポアンカレー述〕
・〔「東京物理学校雑誌」164、165号、明治38年7~8月、
文献(74)〕
・〔原文は「カタカナ文」である。〕
・聖路易万国学術大会でのポアンカレの講演。
・この内容は、ポアンカレの『科学の価値』(1905)の「第二篇
物理的科学」の中の
・第7章 数学的物理学の歴史
・第8章 数学的物理学現今の危機
・第9章 数学的物理学の将来
に関連しているものである。田辺元訳『科学の価値』の第9章の
末尾には「此等の数学的物理学に関する考察は、聖路易に於ける講
演から取つたものである。」(p258)とある。
・ポアンカレの受容史における三上義夫の貢献は、翌年の「ポアンカ
レーの空間論」とともに、正しく評価されるべきものである。
・【明治39年(1906)】・・・《補遺》▼・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・〔「東京物理学校雑誌」181号、明治39年12月、文献(64)〕
・〔原文の「カタカナ文」は、「ひらがな文」にして引用する。〕
・【ポアンカレ『科学と仮説』を推奨する三上義夫】
・「余はポアンカレーの新著『科学と仮説』の精読を心ある人に勧めざ
らんとするも得べからざるなり。人一たび此の書を解得せんには、
多年の疑団、甚だ釈然たるものあるべきを疑はず。」〔三上:文献(64)、
p8〕
・「ヘツケルの『宇宙之謎』を読む前に、オストワルドの『自然哲学』
を読む前に、如何なる哲学書を繙くよりも更に前に、此の書の必ず精
読せられんこと余の切望して堪ふる能はざる所なり。哲学家思索家
にも余は此の書を勧むるに吝ならざるなり。」〔三上:文献(64)、p9〕
・「ポアンカレーの所説は、カントの旧説を根本より打破し去れるやの
観あるべし。然れども余を以て之を見ればポアンカレーの説には未
だ到らざる所あるを思ふなり。
他なし、其の推論の稍々認識論上の見地に立たざるの欠点あること
是なり。若し一たび基礎を認識上の考究に置きて之れを論ぜんには、
ポアンカレーの説をしてカントの見と幾分折衷せしむること必ずし
も難事にあらざるを信ず。余は空間観を以て此の中間地に立てるこ
とを茲に告白す。
ポアンカレーの此の一書は、実に得易からざる良書なり。志あるもの
の宜しく反覆精読すべき所に属せり。一たび之れを手にせば、忽ち我
が思想の発展するを自覚せんのみ。・・・。
人一たび〔ポアンカレーの〕此の書を読まば往時の科学至上主義なる
もの果して幾何の価値がありや。」〔三上:文献(64)、p19〕
・この時点で三上が、『科学と仮説』と訳していることは、極めて先駆
的である。林鶴一訳は1909(明治42)年であるが『科学と臆説』と
訳している。ここで、カントの認識論と比較をしているのは、三上が
未だ哲学科選科に入学していない時期であり、その哲学的素養を伺
い知ることができる。三上が、東京帝国大学文科大学の哲学科選科に
入学するのは、1911(明治44)年10月である。
・小倉金之助は、この「ポアンカレーの空間論」は、「数学・科学の基
礎論・歴史・哲学」の方面において、三上義夫の思想を代表するもの
である、と評価している〔小倉金之助「三上義夫博士とその業績」、
『小倉金之助著作集3』所収〕。
・【ポアンカレ受容史を考察するための視点について】
・日本におけるポアンカレの受容史を考察する場合には、単著の翻訳だ
けではなく、このような論考や著作の部分訳などをも十分に検討す
ることが必要である。さらには、桑木が『物理学序論』(初稿、1906
年)でなしたような「原書からの直接の受容」にも目を向けることが
求められる。
・[1906(明治39)年]・
・〈朝永振一郎〉・3月、東京に生まれる。翌年、京都に移る。
・〈国木田独歩〉・3月、『運命』刊。
・〈島崎藤村〉・3月、『破戒』刊。
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・【明治40年(1907)】・・・・・《再掲》+《増補》▼・
・6月、〈山川健次郎〉・「私立明治専門学校」総裁となる。
・【東京帝国大学総長から明治専門学校総裁へと都落ちする山川健次郎】
・ここで、山川健次郎についてのこの年の大阪朝日新聞の「記事」を紹介
しておきたい。それは、その「記事」をまとめた『人物画伝』〔画伝子
編輯、明治40年7月、有楽社刊〕という本の中の一篇である。
「 理学博士 山川健次郎君
帝国大学、名を聞けば立派なり、赤門の学府、外見は誠に美事
(みごと)なり、一と舞台廻(ま)はさば、尻の穴の隘(せ)まい
薄士(はくし)、馬鹿士(ばかせ)が、曲学阿世の暗闘場(だんま
りば)、其の暗闘(だんまり)が菊池大麓氏の総長時代に於て殆ど
極に達し、所謂菊池の縁者贔負〔屓〕(子ポチズム)となった、菊
池氏の後を受けて大学総長となったは、山川健次郎君である、在職
4年、大学総長の辞職に破天荒の例を遺したも君である、君は前総
長菊池氏に比すれば才気に劣り、後総長浜尾氏に比すれば寛厚の
点に於て及ばず之れと同時に君は菊池氏よりは遙かに重厚で浜尾
氏よりは遙かに剛直である、菊池氏を文部に送って、新に君を理科
より迎へた当時の角帽先生は、大学創始以来の良総長として抃舞
(べんぶ)雀躍し、人格に於ても前後総長中第一等にして、久しく
官学の弊竇(へいとう)に、痛嘆せる学界の有志は、大学の革新以
て待つべしと愁眉を開いたが、只私に此に由って子ポチズム倒る
べしと憂へた連中も少なくはなかったらしい。
果して君は良総長であった、大学独立の声は即ち君の時代に呱々
の声を上げたのである、而して君は戸水博士休職事件といふ、新生
児に取っての一大難病の為に、潔よく其の身を犠牲にしてしまっ
た、君の辞職は決して無益ではないが、慾を言へば前総長が文部大
臣となった如く、君をして文相の椅子に倚らしめ、一たび其の剛直
の手腕を振はしたかったのである。
君は会津の士で、資質風采共に古武士の型がある、・・・君今や安
川氏に聘せられて、其の高等工業学校に長たらんとす、九州の育英
蓋し是より大に見るべきものあらん。 」〔文献(66)、p25~26〕
・山川健次郎は、「戸水博士事件」の責任をとり、東京帝国大学総長を
辞任することになった。
・そして、山川健次郎と桑木彧雄は、ともに九州に下る。その後、山川
健次郎が九州帝国大学の総長になると桑木彧雄は、またもや九州帝
国大学へと移る。山川健次郎との関係は、桑木彧雄の生涯において決
定的な影響を与えている。
・後に、山川健次郎は再び東京帝国大学総長の座に返り咲くが、桑木彧
雄は、その後も長らく九州帝国大学に残ることになる。
・白虎隊士から東京帝国大学総長の座に上り詰めた山川健次郎の生涯
については、『山川健次郎伝――白虎隊士から帝大総長へ』(星亮一著、
2003年、平凡社刊)が参考になる。また、その遺稿類は『男爵山川
先生遺稿』〔文献(80)〕に収められている。
・[1907]・
・〈桑木彧雄〉・「私立明治専門学校」〔現・九州工業大学〕の教授
となる。
〔明治40年(1907)7月、設立認可。明治42(1909)年4月、開校。〕
〔1909年4月開校時の学科は「採鉱学科」「冶金学科」「機械学科」。〕
・田中節子の「桑木彧雄年譜」に「1905年(明治38) 九州戸畑の
明治専門学校教授」〔田中:文献㉒、p48〕とあるのは誤りである。
・10月、〈桑木彧雄〉・「明治専門学校」からヨーロッパ留学を
命じられ、渡欧する。
・「会田:文献㉘」には、「文部省によってヨーロッパ留学を命じられ
た」とあるが、「〔岡本・山内:文献①〕では、文部省からの辞令は
なく、明治専門学校から留学の辞令があったという。学校の設立
から開校までには、2年近くの期間があった。この時期を利用して
の留学となったのである。
・[1907]・
・〈狩野亨吉〉・11月、総長の推薦により、「文学博士」となる。
・〈狩野亨吉〉・12月、関孝和二百年忌記念講演会で
「記憶すべき関流の数学家」を講演〔病気のため代読による。〕。
・【桑木彧雄と狩野亨吉の共通点をみる】
・桑木彧雄も後に、総長の推薦により、「理学博士」となるが、その
点は狩野亨吉と同じである。狩野亨吉は、桑木彧雄以上に論文・著
作が少ない人である。古本の蒐集の趣味も共通している。また、
二人とも「科学史研究の先駆者」である。さらに、第一高等学校の
名物校長としての狩野亨吉は、たぐいまれなる教育者である。後に、
松本高等学校校長となる「教育者・桑木彧雄」の姿がある。
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・〈湯川秀樹〉・1月、東京に生まれる。翌年、京都に移る。
・〈夏目漱石〉・4月、朝日新聞社に入社。五月、『文学論』刊行。
6月、入社第一作『虞美人草』を連載(~10月)。
・〈田山花袋〉・9月、『蒲団』を「新小説」に発表。
・1907年、ノーベル物理学賞:マイケルソン、「干渉計の考案と
それによる分光学およびメートル原器に関する研究」。
・・・・・▼・・以下、「その二」・・▼・・・
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・▼・【桑木彧雄の「経歴」とその「業績」・〔Ⅱ〕・「1907~1945」】
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・「Ⅱ-A」・
・「欧州留学」から九州帝国大学「講師」時代の桑木彧雄
・〔明治40年(1907)~大正3年(1914)4月〕・
・【明治41年(1908)】
・〈小倉金之助〉・この年から東京数学物理学会に論文を発表し
はじめる。ドイツのフェリックス・クラインとノルウェー
のソーフス・リーの著述から、最も大きな影響を受けた。
・「桑木文庫解説」〔文献③〕の桑木彧雄の「経歴」「業績」のところに、
「明治41年から『東京数学物理学会記事』に論文を寄稿。」とあるの
は、「会田:文献㉘」を誤読したもので、その記述は小倉金之助につ
いてのものである。
・4月、〈石原純〉・陸軍砲工学校に奉職。大学院を退学。
桑木彧雄を通じ、執筆の依頼があった『理学叢書
美しき光波』(弘道館)刊行〔西尾:文献㉛、p79〕。
・巻末の「光学史年表」は、38頁もあり労作である。
・[1908]・
・6月、『実業物理学教科書』(石沢吉麿編、桑木彧雄閲、金港堂、
明治41年) 〔校閲・桑木彧雄〕
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〔目次〕
第一篇 総論 第二篇 力
第三篇 運動 第四篇 熱
第五篇 音 第六篇 光
第七篇 磁気 第八篇 電気
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・桑木彧雄は、後に単独で「物理学教科書」を執筆するが、
その前にこの教科書を校閲していた。なお、明治44年
11月の『普通物理学教科書』(石沢吉麿編、桑木彧雄閲、
金港堂)〔後述〕と本書とは同じ内容のものである。
・[1908]・
・7月、桑木彧雄編『普通力学』(高岡書店刊)=【著作〔B〕】
・以下の目次からもわかるように、本書は工学的な内容が、多く
含まれている。後に桑木彧雄が九州帝国大学の工学部に勤務
することの必然性がうかがわれるような書物である。その内容
の多くは洋書によった、と序文にある。扉に「桑木彧雄編」と
あるのはそのためであろう。
・出版時に桑木はベルリンにおり、出版の実務を物理学校卒業生
の森山善雄と理学士福田為造に託して洋行していた。序文の
末尾には、「 独逸伯林ニ於テ
明治四十一年六月 桑木彧雄識」 とある。
「福田為造」は、明治36年の「理科大学」の「学生及び生徒」
のなかに、
「実験物理学科」 「第一年」 「福田為造」
とあった人である(前出、参照)。
・「福田為造」は、東京物理学校などで講義をしていた人で、後に
「長岡高等工業学校」の初代校長となる。會田軍太夫を、桑木彧雄
のところに行くように推薦したのが、この福田為造である〔會田:
文献㉘〕。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・《『普通力学』の目次》・・
・第一編 力学総論
・第一章 質点ノ運動 ・第二章 運動ノ原則
・第三章 剛体ノ釣合 ・第四章 エネルギー
・第五章 簡単なる機械 ・第六章 剛体ノ運動
・第二編 構造強弱編
・第三章 構梁 ・第四章 梁ノ彎曲
・第五章 剪断及転扭
・第三編 水力学
・第一章 水ノ流出 ・第二章 水ノ流出ニ関スル諸係数
・第三章 動水圧力 ・第四章 水頭損失原因
・第五章 水力応用ノ機関
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・[1908(明治41)年]・
・1月、『内外教育評論』(第3号)に某文学博士〔狩野亨吉〕談
として「大思想家あり」の題で初めて安藤昌益が紹介される。
・4月、尋常小学校6年制実施開始。理科は5年から。
・7月、〈田辺元〉・東京帝国大学文科大学哲学科卒業。同月、
大学院に入学する。「認識論」を研究する。
・7月、〈池田菊苗〉・「味の素」の製法特許。
・8月、〈河上肇〉・京都帝国大学法科大学講師となる。
・10月、〈狩野亨吉〉・京都帝国大学文科大学長を退官する。
・ポアンカレ、『科学と方法』(1908)。
・1908年、ノーベル物理学賞:リップマン、「光の干渉を利用した
天然色写の研究」。
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・【欧州留学】
・【明治40年(1907)10月~明治42(1909)8月】
・・【欧州留学での桑木彧雄の足跡】・・〔桑木:「留学雑記」による。〕
・ベルリン大学(1907年10月~1909年7月、在学)では、主に
「プランク教授」の講義を聴く。数学の「シュワルツ教授」と交遊。
・明治41年(1908)4月、ウィーンで「エルンスト・マッハ」と
会う。
・明治41年(1908)4月5日、ローマで第四回万国数学会に出席。
・明治41年(1908)秋、ケルン市での「ドイツ理学者及び医学者会」
に出席。
・〈プランク〉12月、講演「物理学的世界像の統一」(オランダ、
ライデン大学学生会自然科学部で講演する。)〔1909年雑誌に発表。〕
➡➡ 〔後述、「1913年」の項を参照。〕
・明治42年(1909)3月、スイスの首都・ベルンで、東洋人として、
初めて「アインシュタイン」と会う。
・明治42年(1909)4月、パリでは、晩年の「ポアンカレ」とその
別荘(パリ市外のロゼール)で対面した。
・また、オランダでは「ローレンツ教授」と会っている。
・明治42年(1909)夏、カナダ、キンニベクでの「大英理学協会」
に出席。ラザフォード(数学及び物理学の部長)の演説を聞く。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・桑木彧雄の「留学雑記(一)~(四)」は、『東洋学芸雑誌』(27巻
345、347~349号、明治43年)に連載された。その後、桑木著
『絶対と相対』(大正10年)=【著作〔G〕】に収録される。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・【明治42年(1909)】
・この訓示の中で山川健次郎が、「物理」などの教員が留学中である
から、「物理」などの講義は「二学期」からであると述べている。
〔男爵山川先生記念会編纂『男爵山川先生遺稿』、文献(80)、p297〕
・〈プランク〉・「物理学的世界像の統一」(オランダ、ライデン大学
学生会自然科学部での講演)〔1909年雑誌に発表。〕
・プランクによる「マッハの認識論批判」の「ライデン講演」として
知られる。 ➡➡ 〔後述、「1913年」の項を参照。〕
・10月、〈石原純〉・相対性理論についての最初の論文「運動媒
質の光学」を発表。
・12月、〈林鶴一〉・ポアンカレ―『科学と臆説』(林鶴一訳、
大倉書店刊)。を刊行。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・[1909(明治42)年]・
・〈小倉金之助〉・この年、荷風文学から大なる力を得た。
・〈永井荷風〉・9月、『歓楽』(易風社刊)
・〈寺田寅彦〉・1月、東京帝国大学理科大学助教授となる。3月、
ヨーロッパ留学の途につく。
・〈森鷗外〉・7月、『ヰタ・セクスアリス』を「スバル」に発表。
〔発禁〕
・ノーベル物理学賞:マルコーニ、ブラウン、「無線電信の発達に
・➡ 10月、伊藤博文、ハルピンで暗殺される。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・【明治43年(1910)】
・2月、〈小倉金之助〉・東京物理学校講師となる。
・3月、〈桑木彧雄〉・「新著批評・林鶴一氏訳『科学と臆説』」を
書く。〔「東洋学芸雑誌」27巻342号、文献㊷〕
・【いち早く「ライデン講演」の「マッハ批判」に言及する桑木】
・桑木は、『科学と臆説』の内容については、すでに「物理学講義」の
中に述べているとして、「プランクが先頃ライデンに行きて講演せる
『物理学的世界像の統一』の中に科学の発達の傾向はマッハの所説と
恰も正反対に進行せりと断じたるも亦注意すべきなり。」と述べて
いる。
・桑木が、ここで前年〔1909年〕に雑誌に発表された、プランクの
・桑木が、ここで前年〔1909年〕に雑誌に発表された、プランクの
「物理学的世界像の統一」の中での「マッハ批判」のところに触れて
いるのには、注目しておかなければならない。
・【科学の進歩とともに物理学的認識論を深化させていく桑木の視点】
・「プ氏〔プランク〕が科学が進歩するに従ひ感覚を離れて客観化すと
云へるも卓説ならずとせず、・・ポアンカレーは・・『科学が到達し得
る所は素朴独断論者の考ふるが如く事物其の物にはあらず、そは単に
事物の間に存する関係なり。この関係の外に認知し得べき実在はあら
ざるなり。』と結論し、之れを・・力学より実験物理学に至る間に論
証したるもの、即ち此の『科学と臆説』の書を成せしなり。」〔文献
㊷、p171〕
・桑木は、ここで物理学的認識論における、マッハ、プランク、ポアン
カレのそれぞれの論点を整理している。桑木は、マッハの影響などか
らその認識論を深化させてきたが、プランク、ポアンカレの主張に対
しても深い理解を示しているのである。
欧州留学以降、桑木彧雄の認識論は「マッハ対プランク」というより
は、「マッハにも、プランクにも、ポアンカレにも」理解を示してい
るとみるべきであろう。
・[1910年]・
・4月、〈桑木彧雄〉・「科学及び工業の高等なる学校の趨勢」を
・【欧州の科学および工業の高等教育の視察報告書】
・工業の専門学校である明治専門学校からの留学である桑木にとって
は、最新の物理学とともに、科学および工業の高等教育の視察は
必須事項であった。12頁を超える巻頭論文である。この論考につい
ては、すでに伊藤憲二による紹介がある〔伊藤:文献㉞〕。
・工業高等学校の組織〔=大学と同様の水準であるという。〕
1.建築 2.土木 3.機械(造船、電気工業を含む) 4.化学
及び冶金 5.一般科学、数学及び自然科学
・欧州の工業高等学校は、大学レベルの水準にあり、工業技術の研究と
自然科学の研究を両立しているという。
・「北米工業高等学校巡見記」により、米国の実験室の充実ぶりについ
て述べている。実地視察とともに多数の参考書〔原書〕によって、
その教育事情を報告している。
・科学史研究のための原典などを含めて、欧文原書の蒐集も桑木にとっ
ては重要な目的の一つであった。
・6~10月、〈桑木彧雄〉・「留学雑記」を連載。〔「東洋学芸雑誌」345、
347~349号〕【前記「欧州留学での桑木彧雄の足跡」参照】
〔桑木『絶対と相対』=【著作〔G〕】に収録されている。〕
・[1910年]・
・7月、〈桑木彧雄〉・「普通教育に於ける理科の功利以外の
目的」を発表。〔「東洋学芸雑誌」27巻346号、文献㊹〕
・【人文学と科学との調和を自然科学の歴史の中で確認する】
・これも巻頭論文であるが、わずかに4頁ほどに過ぎない。これに
ついても伊藤憲二による紹介がある〔伊藤:文献㉞〕。
・理科教育は、単なる職業教育ではなく、人文学と共通する目的が
あるという。ポアンカレの『科学の価値』から、「心を離れて」
は「事物相互の関係」や「世界の調和」などもないという言葉を
ている。桑木が、後に科学史の研究へと進んでいくところの端緒
を見つけることができたのは、この留学での大きな成果の一つ
であった。
・【「明治専門学校」の教育理念と人間教育の伝統】
・理科教育〔工業教育を含む〕は、人間教育につながるとの理念は、
まさに「明治専門学校」の教育理念そのものとなるのである。
「創立経営を託された理学博士山川健次郎氏の高い理想のもと
に、『本校は単なる技術を授くるの場所に非ずして、人間形成
の道場であらねばならぬ』とされ、すなわち『技術に堪能なる
士君子』を養成するという指導精神がここに確立したのであ
る。」〔「九州工業大学」のホームページより〕
とある。これは、桑木のこれらの報告が、山川健次郎らに伝わり
学校・大学の理念・伝統となったものであると理解できる。
わずかに4頁ほどにしか過ぎないこの論考であるが、これには
「巻頭論文」としての価値が十分に備わっていたのである。
・桑木は、文献㊸、㊹の発表により、欧州留学の成果の報告すると
いう役目をここで果たしたのであった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・8月、〈西田幾多郎〉・京都帝国大学文科大学「助教授」となる。
・7月~翌年1月、〈長岡半太郎〉・欧州視察。
・【プランクの演説を聴き日本の学者への奮起を呼びかける長岡書状】
・12月、〈長岡〉・ニュートン祭へ寄せた檄文で、「物理学の革命」を
報告。日本の物理学者への奮起を呼びかける。ローレンツ、アインシ
ュタイン、ミンコフスキーを評価するプランクの「ケーニッヒベルグ
での演説」に触れる〔文献⑱下巻=p225、文献⑫=p374参照〕。
長岡書状の公開発表は、『東洋学芸雑誌』28巻353号(1911年2月)
および『東京物理学校雑誌』(232号、1911年3月)である。
・【エーテル仮説の否定から「革命」の相対論へ】
・『東京物理学校雑誌』(232号)の「長岡書状」を見ると、
「誠にエーテルは、一種の化物に近い、・・此の頃では遂にそんな
ものは無いと結論された。是も革命の動機である。」
と、エーテルの仮説の否定が、相対論の形成へと進んだことを報告
している〔「長岡書状」:文献(51)、p133、原文はカタカナ文〕。
・【プランクの演説「力学的自然観に対する新物理学の位置」】
・長岡が聴いた「ケーニッヒベルグでの演説」とは、1910年9月の
「ドイツ理学者及び医学者会」でのプランクの演説「力学的自然観
に対する新物理学の位置」である。
・桑木彧雄は、すぐさまこの演説の翻訳を『東洋学芸雑誌』352号、
353号(1911年1~2月)に発表する。同誌353号には、上記の
「長岡書状」も掲載されている。〔1911年の項を参照〕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・[1910(明治43)年]・
・〈石川啄木〉・『一握の砂』刊。「時代閉塞の現状」。
・〈柳田国男・『遠野物語』刊。
・ノーベル物理学賞:ファン・デル・ワールス「気体および液体の
状態方程式に関する業績」
・➡ 4月、武者小路実篤ら『白樺』を創刊。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・「山川健次郎」・九州帝国大学初代総長となる。
・1月、〈桑木彧雄〉・九州帝国大学工科大学開設と同時に「講師」
として着任〔「桑木文庫解説」:文献③による〕。
・【桑木彧雄は、「講師」として九州帝国大学工科大学に着任した】
・こでまで、桑木彧雄は、「九州帝国大学工科大学開設と同時」に「教授」
となったと記載されてきた〔文献⑨―A、田中:文献㉒、岡:文献㉗、
會田:文献㉘など〕。
・しかし、九州大学附属図書館の「桑木文庫解説:文献③」によると桑木
の「教授」就任は、「大正3年4月」とある。本稿では、これに従う。
・やはり、最新の物理学についての「オリジナルな研究論文の無い」桑木
彧雄の昇進は、遅かったのである。
・しかし、この年から留学の成果を背景とした桑木の一層の活躍がはじ
まる。
・1月~2月、〈桑木彧雄訳〉・「プランク教授『力学的自然観に対
する新物理学の位置』」〔「東洋学芸雑誌」352号、353号、文献㊺、
㊻〕を発表。
・【長岡が書状で触れたケーニッヒベルグでのプランクの演説の翻訳】
・これは、1910年9月、「ドイツ理学者及び医学者会」でのプランクの
演説の翻訳である。すなわち、長岡半太郎がニュートン祭へ寄せた檄文
「長岡書状」で触れた、「ケーニッヒベルグでのプランクの演説」で
ある。
・【光エーテルの仮説を破棄し、相対論を支持するプランクの演説】
・桑木彧雄は、その「前文解説」の中でプランク演説の要点を次のように
述べている。
「この演説に於てプランク氏は 所謂 力学的説明とエネルギー論
性の理論と最少作用の原則とを以て物理学の新系統を建設するこ
とを概論して居る。
既に著名であるが熱力学の物理化学上の応用、輻射等の不可逆現
象と原子論との関係、エーテルが動体に由る収縮の仮定、並びに
関係相待性原則と最少作用原則とからの種々の論結は何れもプラ
ンク氏の研究創作にかかる。
氏の驚くべき又甚だ有望な思想にミンコースキー〔ミンコフス
キー〕が影響せられたのであることは、ミンコースキー追悼演説の
中でヒルベルトが特に言及している。」〔桑木:文献㊺、p22〕
・【「長岡書状」の「革命の先鋒はローレンツで・・」という一文の出典
・「長岡書状」の中の「革命の先鋒はローレンツで、中堅はアインスタ
イン、而してミンコフスキーが殿(しんがり)である。」という一文
は有名であるが、それは以下のプランクの文章を長岡が簡潔に表現
したものであった。
「この点で相待性理論は如何であるかと云ふに、夫れは物理的
抽象の能力を甚だしく要求するのであるが、その代りに其の
方法は便益で、又普遍的であり、又就中一意的な結果を与へて、
且つそれを比較的容易に形造り得るのである。
この新しい領分の開拓者としては、第一にヘンドリク・アン
トーン・ローレンツを数ふ可きである。彼は相待的時間の概念
を見出し、これを電気力学に導いた。併し彼様に根本的な結論
は与へなかった。然る後、アルベルト・アインスタインが初め
て、凡ての時間の値の相待的なることを一般の前提と宣言す
るの大胆を有した。
ヘルマン・ミンコースキーに至って、相待論を渾然たる数学的
系統に仕上げたのである。」〔桑木訳:文献㊻、pp63~64〕
・「この新しい領分・・」の文については、すでに有賀も引用している
〔有賀:文献㉚〕。そして、これが長岡のいう「革命」であるとも指
摘している。『長岡半太郎伝』〔文献:⑫〕では、この「革命」の中に
「量子論」をも含めているが、有賀は、量子論とは直接関係がないと
いう。この時期、「ドイツを中心に起こっていたのはむしろ、電子論
を中核とする『失敗した革命』(Kragh)であったと考えられる」
〔有賀:文献㉚、p11〕と述べている。
・このプランクの演説を、後に石原純も翻訳〔全訳〕している〔文献㊼〕。
昭和5年の翻訳なので、こちらの訳文の方が分かりやすい。〔以下、
石原純の訳文から引用する。〕
・また、石原純には、このプランクの演説の「部分翻訳」もある。それ
は、以下の文献〈A〉〈B〉に分けて収録されている。
・▼・〈A〉・石原純編著『相対性理論の諸断面 第壱輯』
〔大正11年8月、改造社刊〕
・「エーテルの性質及び運動に関する諸説、並びに其の力学的説明
の不成功」(「エーテル仮説」の章内)
・「力学的自然観の破棄」(「相対性原理の物理学的並びに哲学的
意義」の章内)
・▼・〈B〉・石原純編著『相対性理論の諸断面 第弐輯』
〔大正11年10月、改造社刊〕
・「時間の相対性」(「アインシュタインの空間及び時間論」の章内)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・このプランクの「ケーニッヒベルグでのプランクの演説」、すなわち
『力学的自然観に対する新物理学の位置』は、相対性理論に関する重
要文献の一つなのである。これを翻訳した桑木彧雄が、次にみるとこ
ろの相対性理論の「本格的紹介文」へと向かうのは、もはや時間の
問題であったのである。また、ここには、プランクの「マッハ批判」
の要約もあり、その意味において「ライデン講演」よりも重要な講演
であるとも言える。
・【ライデン講演の中の「マッハ批判」を要約するプランク〔石原純訳〕】
「物理学を人間的な、物理学者の個性に由来する夾雑物から純化
する。かやうな夾雑物を全く取り除くことが、今日の物理学的認
識の真の目的であると云ふことは、私が既に他の場処〔ライ
デン〕で論じた処である。」〔石原純訳:文献㊼、p45〕
・これは、プランクが自らのライデン講演『物理学的世界像の統一』
の中でのマッハの認識論を批判した内容の要約である。
・【相対性原理を支持するプランクの結論部分〔石原純訳〕】
・「物理学上の問題は、芸術的の見地から判断さるべきものではな
く、却つて実験に依るべきであり、・・・相対性原理の高い物理
学的意味は実に、それが以前には全く暗黒に横たはっていた沢
山の物理学的疑問に対して、実験によって確かめることのでき
る精細な解答を与へる点に存する。それ故にエーテルの力学的
仮説とは丁度反対に、この原理を少なくとも、非常な効用性のあ
る一つの作用仮説として認めなければならない。」〔石原純訳:
文献㊼、pp45~46〕
・最初にある「芸術的の見地から判断さるべきものではなく」の一文は、
言うまでもなく「マッハの認識論への批判」である。
・【プランクの「ケーニッヒベルグでの演説」によって相対論への評価
が定まった】
・この訳文と並行して、桑木彧雄は次に「相対性理論の本格的紹介文」
を『東京物学校雑誌』に発表する。それは、このプランクの「ケーニッ
ヒベルグでの演説」によって相対性理論への評価が定まったからにほ
かならないと言える。
・【ローレンツ理論とアインシュタイン理論の根本的な違いを認識した
プランクのケーニッヒベルクの講演〔広重徹〕】
・「相対性理論が一般的に受容されるにつれ、それが力学的自然観を最終
的に廃棄するものであることの認識も深まった。1910年9月、いまや
ローレンツ理論とアインシュタイン理論の根本的な違いと、相対論に
よる時空概念の革新の意義とを明瞭に認識したプランクは、ケーニッ
ヒベルクの・・大会で『力学的自然観を物理学の思考方法の前提となす
者は、決して相対性理論に親しむことができないであろう』と言明する
のである。」〔広重徹「エーテル問題・力学的自然観・相対性理論の起
源」、西尾成子編『アインシュタイン研究』、中央公論社、1977、所収、
文献(71)、p245〕
・3月、〈桑木彧雄〉・『東京物学校雑誌』第232~234号に「相待
〔性〕原則に於ける時間及び空間の観念」(*)を発表する。
これが、「日本最初の相対性理論の本格的紹介論文」として
知られている。
・*)『日本の物理学史』〔下巻、文献⑱〕に、その前半部分を収録。
この論考のタイトルは、232号では「相待原則・・」とあるが
233、234号では「相待性原則・・」としている〔桑木:文献
(48)~(50)〕。これは、巻頭に「相待関係性ノ新原則 Principle
of Relativity」とあるものを短い用語で表現したものである。
・〔 『東京物理学校雑誌』、表紙、232号、明治44年3月発行、和田文庫蔵、無断転載厳禁 〕
・【桑木:「相待〔性〕原則ニ於ケル・・」〔1911〕が、特殊相対性
理論の最初の「本格的な内容紹介」論文である】〔再掲文〕
・これまで、日本における相対性理論の「最初の紹介」としては、
ながらく桑木彧雄による「相待〔性〕原則ニ於ケル時間及空間ノ観
念」(「東京物理学校雑誌」第232~234号、1911)であるとされて
きた〔『日本の物理学史』(下巻)に前半部分を収載、文献⑱、下巻、
p226〕。私は、この桑木の論考が、やはり日本におけるアインシュ
タインの特殊相対性理論の最初の「本格的な内容紹介」の論文であ
ることに変わりはないことを、ここに強調しておきたい。
石原純もこの論考を評価し、1912年のシュタルクの年報への
「相対論総説」の文献の中にあげている〔西尾:文献㉛、p116〕。
次の石原純の相対論の論文は、桑木のこの論考よりも前のもので
あるが、その読者対象は主に海外の物理学者たちであろう。
〔《上記は、本稿の【その一】〔「PHN」第48号〕で述べた文章の
再掲である。》〕
・【桑木:「相待〔性〕原則ニ於ケル・・」の巻頭部分の紹介(1)】
・桑木のこの論文の巻頭部分は、すでに金子務の『アインシュタイン・
ショック〔Ⅱ〕』〔金子:文献(52)〕に原文どおりの「カタカナ文」
で紹介されているが、ここでは読みやすく「ひらがな文」にして紹
介してみよう。
「相待関係性ノ新原則 Principle of Relativityは、1905年アル
ベルト・アインスタイン氏が初めて之れを唱出し、著しきは其
の特殊な時間の観念に在る。
ミンコウスキー(1907年)は尚、在来時間空間の二観念を互
いに独立なものとして別つたのは独断的であつて、吾人はい
つ〔何時〕と云ふ観念には常にどこ〔何処〕と観念を不離に連
結して居る。空間の三次元と時間の一次元とを併せて四次元
に等方なる物理学的世界を造ると云つた。」
来事の時刻の先後に就いて云ふは、吾人に対し相互運動に在
る他の立却地からは、此の先後の順序が恰かも顛倒して観察
せらるることもあり得るので、即ち『同時』とか『先』とか『後』
とか云ふ時間の上の命名が絶対的意義を持たなくなる。」
「プランクは譬喩を用ひて、これは恰かも上下と云ふ空間的方
向の別が地球上相互反対の側の人には全く相顛倒して居ると
同様だと云つた。斯くしてニュートンの仮定した絶対の時間
と云ふものが全く放棄せられてある。」
・金子務の引用は、ここまでであるが、実は桑木彧雄研究の上では、
この先の文章が重要なのである。
・【桑木:「相待〔性〕原則ニ於ケル・・」の巻頭部分の紹介(2)】
「プランクは、是程の大胆は空想的な自然研究にも、亦実に哲学
的認識論にでも、嘗て敢てせらねなかつたものであると云ふ
た。この新観念の説明をここに試みやうと思ふ。」
はローレンツである。併しローレンツの誘導した式の中で動
体の電気密度の式は、アインスタイン及びミンコウスキーの
云ふ相待性原則に厳密に当嵌まらぬ。」
「是等の点でアインスタイン当に先だつて居るのは、ポアンカ
レーである。電気力学上から相待性原則を導いたことは嘗て、
極めて概括的に止まつて居るが、此の雑誌で『電子ノ形状』と
ふ題で記したことがある。」〔以上の引用は、桑木:文献(48)〕
・【ポアンカレの相対論と桑木彧雄「電子ノ形状」の成立】
・桑木は最後に、先に発表した『電子ノ形状』の論考の成立には、
アインシュタインに先立つポアンカレらの相待性原則の業績を
参照したとしている。1905年7月、ポアンカレは、アインシュタ
インの第一論文を知らずに書いた「電子の力学について」を発表し
ている。これには、ポアンカレの「時間の相対性」が書かれていた。
桑木は、ポアンカレへの追悼文〔1912〕(*)の中で
「ポアンカレは、時間の相対性に就て夙に云ふて居た。又
ポアンカレの『電子の力学』(Rendiconti,1905)には
ローレンツ変換の『群』を成すを論じ・・ミンコースキー
の有名な四次元説の論文の先蹤をなしてゐる。」
と述べ、ポアンカレの「電子の力学について」を評価している。
*)桑木「アンリ・ポアンカレ」〔「東洋学芸雑誌」1912年
10月、『絶対と相対』=【著作一覧〔G〕】所収〕
また、その内容は、おそらくポアンカレ『晩年の思想』の「第
二章 空間と時間」と重なるものであろう。
「それでは、『物理学』の最近の進歩に起因する革命とは何
であるか。相対性の原理はその昔のままの形では、抛棄さ
れなければならなかった。それはローレンツの相対性の
原理によって置き換へられたのである。これは、『ローレ
ンツ群』の変換であって、『動力学』の微分方程式を変化
しない。・・」〔河野訳:文献(53)、p53~54〕
・【アインシュタイン以前の相対論と桑木彧雄】
・桑木の論考『電子ノ形状』については、本稿の【その一】
「1907年」の項を参照されたい。『電子ノ形状』は、これまで
アインシュタインの相対論との関連でのみ、注目されてきたが、
広くアインシュタイン以前の相対論にも目を向けなければなら
ない。次の桑木による「相対論発達史の総括文」は、その意味に
おいて重要なものである。
・【桑木彧雄による相対論発達史の総括文】
・この論考の結びのところで、桑木彧雄は相対論の発達史を総括して
いる。〔以下は、「カタカナ文」を「ひらがな文」に直して引用する。〕
「相待論の発達を総括すれば、ローレンツが1904年にxyzt 及
び x’ y’ z’ t’ の 既述の変換式より電磁論上にミ〔ミンコフ
スキー〕氏の所謂相待性定理を導き、アインスタイン(1905
年)が同時刻の定義よりしてローレンツ変換に新たに必然的
意義を附し、即ちt と t’ とが認識上全く同様であることを
云った。ローレンツは、絶待遍通の時を予想して居る。
プランク(1906年及び1907年)は力学及び熱力学に相待論
を応用し、ポアンカレー(1906年)はローレンツ変換を一つ
の群(Group)に成し、相待性原理を一の公準(又は要求仮定
Postulate)と呼んだ。ミンコウスキーはこのローレンツ変換群
により、所謂 現象論的に動体の電磁方程式を導き、又 所謂
「世界公準」(Welt Postulat)により全物理学の一変を期待し
たのである。」〔桑木:文献(50)、pp203~204〕
・【桑木論文のまとめ】
・桑木の文献(48)~(50)の論考は、内容的には主にアインシュタ
インの第一論文の前半部分によるものであるが、その歴史的記述
を含めて相対性原理とは何かを広く知らしめた功績には絶大なも
のがあった。
・【簡潔で、かつ精確な「特殊相対性理論の歴史」〔A.I.ミラー〕】
・上記の特殊相対性理論の歴史を簡潔に、かつ精確にまとめている論
考としては、A.I.ミラーの「特殊相対性理論の歴史」〔『アインシュ
タイン――物理学・哲学・政治への影響』、P.C.アイヘルブルク・
R.U.ゼクスル編、江沢洋・亀井理・林憲二訳、岩波書店、1979、所
収、文献(72)〕を推奨しておきたい。
・【石原純の相対論研究への桑木の影響〔西尾成子〕】
・石原純が、最初の相対性理論の論文「運動媒質の光学」を書いたの
は、1909年10月である。そして、その論文の成立にはおそらく
桑木の影響があったであろうと言われている〔西尾:文献㉛、p86、
92〕。石原純の論文は、日本における「最初のオリジナルな相対性
理論」の研究論文(独文)である。また、石原とほぼ同時期に、
京都の水野敏之丞・玉城嘉十郎もまた相対論研究の論文(英文)を
発表している〔同前、p90〕。
・4月、〈山川健次郎〉・九州帝国大学における初めての訓示。
〔以下、男爵山川先生記念会編纂『男爵山川先生遺稿』、昭和12年、
文献(80)による。〕
・当時の人口5千万人のうち学生は5千人以内(一万人に一人の狭き
門)であるという。
・【職員に対しての初めての訓示】
・「単に学生に教授するのみにあらず、自然学術の研究、学問の進歩に
努むることに伴ふを以て、十分研究に身を尽して、世の進運に後れ、
所謂時代遅れの人となり、延いて大学教授たる資格を失はれざらん
ことを望む。」〔『男爵山川先生遺稿』、昭和12年、文献(80)、p239〕
・4月、〈小倉金之助〉・東北帝国大学理科大学助手(数学教室)と
なる。
・6月、〈石原純〉・東北帝国大学理科大学助教授(物理学教室)
となる。相対性理論についての論文をドイツの研究誌に
執筆する。
・[1911年]・
・6月、〈長岡半太郎〉・心理学会で「クワンテン仮説」を講演。
・量子論についての初めての一般講演。〔8月、「哲学雑誌」294号に
この速記録「『クワンテン』仮説(Ouanten hypothese)に就いて」を
発表。〕
・これが、「量子」という用語の初訳であると思われる。
・9月、〈長岡半太郎〉・「プランクの『エネルギーと温度』」を訳出
する。〔「東洋学芸雑誌」28巻360号〕
・1911年に提案されたプランクの「第二理論」ともいわれるものの
・[1911年]・
・10月、第1回ソルヴェイ会議。
・テーマ「光の理論と量子」。量子論の検討が主要な議題となる。
・ローレンツ、プランク、ゾンマーフェルト、アインシュタインなど
が報告する。
・【自然科学の法則と数学の公理との相違についての林鶴一の考察】
「自然科学者は、その空間に客観的実在を認むるが如し。之れに反し
て数学者のいはゆる空間は、経験に基づきて構想したるものな
り。・・幾何学は之れを実在せる空間に適用して無効なることも
あらん。然れどもそは純正数学者の関すべきところにあらず。」
〔林:文献(69)、p20〕
・林鶴一のこの論考の背景には、非ユークリッド幾何学がある。林は、
「ケイリーやクラインの非ユークリッド幾何学を伝えた、もっとも
初期の方」であった〔『小倉金之助著作集』巻8、p14〕。林鶴一の
『新撰幾何学』(明治31年、博文館刊)は、当時非ユークリッド幾何
学に関する唯一の本であった。その他、林鶴一の詳細については、
拙論「林鶴一と小倉金之助」〔和田:文献㉙〕を参照されたい。
・林鶴一の「数学と自然科学」は、『初等幾何学の体裁』(明治45年
2月、弘道館刊)に附録として収録されている。
・[1911年]・
・11月、『普通物理学教科書』(石沢吉麿編、桑木彧雄閲、
金港堂、明治44年)
〔明治41年6月、『実業物理学教科書』(石沢吉麿編、
桑木彧雄閲、金港堂、明治41年)と同じ内容のもの。〕
・11月、〈桑木厳翼〉・「自然科学者の哲学観」〔教育学術界」24巻
2号、臨時増刊、「最近学芸大観」、厳翼:文献(54)〕
・【プランク「ライデン講演」のマッハ批判を支持する西田幾多郎の
先輩哲学者・桑木厳翼】
・桑木彧雄の兄・哲学者厳翼がこの中で、プランクの「物理学的世界
像の統一」(オランダ、ライデン大学学生会自然科学部での講演。)
〔1909年雑誌に発表、同時に小冊子として刊行される。〕に触れて
いる。厳翼は、このプランクの講演を文献として挙げている。
・「自然科学者の哲学観」については田辺元が1913年に「物理学的
世界像の統一」の翻訳の際に、その前文の中で触れていたが、森口:
文献⑧では桑木彧雄の文献として「不詳」となっていたものである。
・私は、田辺元が「桑木文学博士が『最近学芸大観』に載せられた・・」
とあるのをみて調査したところ、その掲載誌が「教育学術界」の
「臨時増刊」であることが判明した。
・【西田幾多郎も寄稿している】
・この『最近学芸大観』には、西田幾多郎も寄稿していることから、
プランクの「ライデン講演」と西田幾多郎との接点を考える上で、
桑木厳翼によるこの論考は、極めて重要である。
・【「プランクのマッハ批判」は、西田幾多郎に伝わっていた】
・佐藤文隆によれば、これまで「プランクのマッハ批判」を哲学者
西田幾多郎に伝えたのは桑木彧雄であるとされてきたが〔佐藤:
文献(55)〕、この『最近学芸大観』には西田幾多郎も寄稿してい
るので、「プランクのマッハ批判」はこの時点で西田幾多郎に伝わ
っていたのである。
・西田への桑木彧雄の影響を、その書簡から考察した森口昌茂によれ
ば、西田幾多郎から桑木彧雄宛の書簡の最初は、1912年10月29
日である〔森口:(56)〕。しかし、すでにその一年も前に、「プラン
クのマッハ批判」を、西田幾多郎は認識していたのである。
・【プランクに賛意を示す厳翼、ライデン講演に興味を示す田辺元】
・桑木厳翼は、マッハ対プランクの論争に対して、「プランクが反対
の態度に出たのは至当の事である。」と、プランクの方に賛意を示
している。この厳翼の記事を読んでプランクの論考「物理学的世界
像の統一」に興味を示した田辺元は、1913年にこのプランクの
講演を翻訳することになる〔後述、「1913年」の項参照〕。
・【「ベルグソンの純粋持続」を発表する西田幾多郎助教授】
・この「最近学術大観」の「哲学」の節には、井上哲次郎、桑木厳翼、
紀平正美、西田幾多郎が論文を寄せている。まだ、京都帝国大学の
「助教授」であった西田は、「ベルグソンの純粋持続」を寄せた
(目次のタイトルでは「ベルグソンの哲学」となっている)。
・【西田幾多郎の「好きな思想家」、ベルグソンおよびポアンカレ】
・この中で西田幾多郎は、「好きな思想家」として、ベルグソン、
ポアンカレ、マーテルリンクの三人を挙げている〔西田:文献
(54)参照、p83〕。
・ただし、その文章がある「二」節の部分は、単行本『思索と体験』
(大正4年3月、千章館刊)では省略されている。この文章は、
『西田幾多郎全集』(第1巻)の「校異」〔p450〕のところに収録
されている。
・また、西田の「ベルグソンの純粋持続」の単行本収録部分にも、
ポアンカレの名は出ている〔「西田全集」、第1巻、p330〕。
・実は、ベルグソンの純粋持続とポアンカレの思想とは、互いに影響
を与えているようである。ポアンカレは、『晩年の思想』の中に、
ベルグソンの純粋持続との関連で、時間・空間論を述べているから
である〔第二章「時間と空間」〕。
・このポアンカレの『晩年の思想』の中の第二章「時間と空間」に
いち早く注目し、その全文を翻訳したのは、田辺元である。
〔「1913年」の項参照〕
・西田幾多郎は、この年〔1911〕の1月に名著『善の研究』(弘道館)
を刊行したばかりであった。1910年には「ベルグソンの哲学的方
法論」を発表している
・翌年〔1912〕、西田は「認識論者としてのアンリ・ポアンカレ」
(ポアンカレへの追悼文)〔「1912年」の項参照〕を発表する。
・〔1911(明治44)年〕・
・〈林鶴一〉・6月、「東北数学雑誌」を創刊する。
・〈西田幾多郎〉・1月、『善の研究』(弘道館刊)。
・〈西村時彦〉・1月、『学界の偉人』(東京・梁江堂書店)
・特に、三浦梅園・脇愚山・帆足万里を詳述した初めての本。
・〈徳富蘆花〉・2月、「謀叛論」を第一高等学校で講演する。
・ノーベル物理学賞:ヴィーン「熱放射に関する法則の発見」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・【明治45年・大正元年(1912)】
・2月、〈西田幾多郎〉・「法則」を発表。
・〔「哲学雑誌」300号、明治45年2月、『西田幾多郎全集』第1巻、
所収〕
・この文の「二」節で、3か所ポアンカレについて触れている
〔「西田全集」、第1巻、p238~241〕。
・3月、〈桑木彧雄〉・「物理学上の認識の問題」(「理学界」9巻)
を発表〔2月稿〕。 ・・・【後述、参照】・・・
・〔1911年の桑木彧雄の論考に関連しているため、次の〈田辺元〉
「相対性の問題」を先に検討し、次にこの論考について述べる。〕
・[1912]・
・〔「哲学雑誌」302号、明治45年4月、『田辺元全集』第14巻
「雑纂 上」、所収〕〕
・【これは田辺元のオリジナルな論文ではなく、アレキサンダー・
マスコウスキーの「相対性の問題」の要綱の紹介文である】
・「哲学雑誌」は、最初に「論説」、次に「批評紹介」、「雑録」という
構成となっている。例えば、先にみた「哲学雑誌」294号の西田幾
多郎の「『クワンテン』仮説に就いて」は、「論説」として掲載され
ている。
・ところが、田辺元の「相対性の問題」は、「批評紹介」欄に掲載さ
れている。すなわち、田辺のこの論考の目的は、その前文によると、
訳出紹介なのである〔いくつかある( )内の文は、田辺の補足で
あろう〕。
・しかし、これまでの論者は、訳出紹介文であることには触れずに、
田辺元のオリジナルな論文とみなして論じてきた。
・【日本物理学会編『日本の物理学史』(下)の「明らかな誤り」】
・この論述は、日本物理学会編『日本の物理学史』(下)〔文献⑱〕に
収録されている。そして、その「資料解題」には、「哲学者田辺の
哲学的解釈」とある。これは、その「前文」を十分に読んでいない
ことによるもので、明らかな誤りである。
・さらに、文献⑱をみるとその「前文」と「本文」とが区分けされて
いない。『田辺元全集』第14巻では、「前文」は小文字となってお
り、本文と明確に区分けされている。
・【以下の文章 以降が、田辺元の訳出した文章である】
・『日本の物理学史』(下)の235頁の22行目以下の、
説もラヴォアジエーの元素説も或はエネルギー不滅則や進化論
も及ばぬ様な動揺(*)を惹起せんとして居るものは相対性原理
das Princip der Relativität である。・・」
〔*)『日本の物理学史』(下)には「動謡」とあるが、誤植である。〕
この文章以降が、すなわち、アレキサンダー・マスコウスキーの
「相対性の問題」の要綱を田辺元が訳出した文章なのである。
・【『日本の物理学史』(下)は、「前文」の「一字下がり」を見逃した】
・このたび、「哲学雑誌」302号を確認したところ、『日本の物理学史』
(下)〔文献⑱〕において「前文」と「本文」とが区分けされてい
ないことの原因が判明した。「哲学雑誌」の原文では、「前文」の部
分の文章は、「一字下がり」となっており、それ以下の「訳出文」
とは区別している。しかし、『田辺元全集』第14巻のように、「一
行空き」による区分けでないため、見落としやすいものとなってい
る。そのため『日本の物理学史』(下)の編集委員は、その「前文」
の部分の「一字下がり」に気付かなかったのである。それにより
それ以下の「訳出文」を田辺元のオリジナルな論文と誤解し、
「哲学者田辺の哲学的解釈」〔文献(18-下)、p223〕と解題で述
べている。
・【『田辺元全集』14巻には10篇の「批評紹介」文がある】
・『田辺元全集』14巻には、上記「相対性の問題」のように「批評紹
介」欄に掲載された論述が10篇収録されている。これらの諸篇が
『田辺元全集』第一巻の「初期論文集」ではなく、第14巻の「雑
纂」に収められているのは、田辺のオリジナルな論文ではないこと
を示しているのである。この点を、これまでの研究者たちは、十分
に考慮してこなかった。
・【安孫子誠也も、田辺元のオリジナルな論文と誤解して引用し、
論じている】
・安孫子誠也は、「彼〔田辺〕は1912年に数式抜きの哲学論文
『相対性の問題』を書いた。」と、この論述を田辺元のオリジナル
な論文と誤解して、『日本の物理学史』(下)と同じく、下記の文を
引用し、論じている。
「近年に至つて人類の根本思想を顚覆し、コペルニクスの地動
説もラヴォアジエーの元素説も或はエネルギー不滅則や進化論
も及ばぬ様な動揺を惹起せんとして居るものは相対性原理であ
る。」〔安孫子:文献(63)、p199〕
・すでに指摘したように、この文章以下は、田辺元による翻訳の文章
なのである。
・【桑木彧雄に関連する田辺元の「批評紹介」欄の論述に注意!】
・すでに指摘したように「哲学雑誌」の「批評紹介」欄へ寄稿した
田辺元の論述は、『田辺元全集』第14巻に10篇ある。この中には、
桑木彧雄の論考に関連するものが多く含まれている。これらを
論ずる時には、上記と同様な注意が必要である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・(イ):桑木彧雄訳「プランク教授『力学的自然観に対する新物理学
の位置』」〔「東洋学芸雑誌」352号、353号、文献㊺、㊻〕
・(ロ):桑木彧雄「相待〔性〕原則に於ける時間及び空間の観念」
〔『東京物学校雑誌』第232~234号、文献㊽~㊿)
・(ハ):長岡半太郎「クワンテン仮説」(哲学雑誌」294号、1911年
8月)
・上記の(イ)~(ハ)の文献を読んだ田辺元は、相対論の重大性を
認識し、「相対性の問題」を発表する〔『田辺元全集』第14巻、所収〕。
この田辺元の論述は、すでに述べたように「前文」とアレキサンダー・
マスコウスキー の「相対性の問題」の要綱の訳出文からなる。
・【物理学の「革命」は、「哲学、認識論上の大問題」〔田辺元〕】
・田辺はその「前文」で次のように述べている。
・「此の様な物理学上の「革命」に対し哲学は風馬牛で居ることが
出来るだろうか。・・否々、此れは単に物理学の一問題ではな
い、・・論理学の根本原理を顚覆し、認識の可能意義に新しい
変動を起こさせる様な哲学、認識論の大問題である。」
〔田辺:文献(57)、p34〕
・相対論の衝撃は、哲学者・田辺元にとっても重大な哲学的問題
であった。
・【アレキサンダー・マスコウスキーの「相対性の問題」の要綱を
訳出紹介する田辺元】
・田辺は、上記のような認識から、ここにアレキサンダー・マスコウ
スキーの「相対性の問題」の要綱を訳出紹介する。これは数学を
用いないで、「相対性原理の由来」とその「認識論上の意味」が分
かりやすく述べられている、としている。〔田辺:文献(57)、p33〕
この「相対性の問題」が、桑木厳翼や西田幾多郎など、哲学界の
研究者に注目されたことは必定であろう。ほとんどのページに
傍点で強調した文章があるが、この傍点は田辺元によるものであ
ろうと思われる。
・[1912]・
・3月、〈桑木彧雄〉・「物理学上の認識の問題」(「理学界」9巻)
を発表。(【著作〔H〕】=『物理学と認識』、大正11年、に収録)
・【マッハの「認識論」か?、プランクの「実在論」か?】
・「科学は模写(記載、描写)であるか、説明であるか・・認識論者
〔マッハなど〕は科学には模写あるのみと云ひ、実在論者〔プランク
など〕は説明を科学の本領とする。」(【著作〔H〕】、p34-35)
・【 マッハ派とプランク派のそれぞれの主張を紹介する桑木の立場 】
・桑木は、ここでマッハ派とプランク派のそれぞれの主張を紹介している。
桑木のこの論考を単に、「マッハ主義派の主張」とのみとらえるのは正
しくないであろう。マッハ派とプランク派のそれぞれの論点を含むと
ころの最新の「物理学の認識論上の問題点」を整理し、問題提起してい
るのである。
桑木は、留学中のマッハとプランクに身近に接し、さらに認識論論争の
最新の文献を読み込み、両派の問題点をここに整理しているのである。
・田辺元も、「現代認識論の二大傾向たる先天派と経験派との対立に外な
らない。」と結論している〔田辺:文献(58)、p113〕。その他は、下記
を参照。
・【最新の文献情報による桑木彧雄の論考】
・ちなみに、桑木がこの論考の末尾にあげている欧文の文献数は、以下の
とおりである。
・1908年のもの・・・2件
・▼・【プランクのライデン講演】〔マッハ批判〕
・1909年のもの・・・2件
・▼・【プランクのライデン講演】の雑誌での発表。
・1910年のもの・・・4件
・【1910年以降、マッハ派とプランク派の論争に火がついた】
・1910年から文献数が急増している。特に1911年の文献が8件もある。
桑木はそれらの最新の文献によってその内容を論じ、紹介しているの
である。当時のヨーロッパにおいて、認識論の議論がこのように非常に
盛んになったことは、まぎれもなくプランクの「ライデン講演1908年
12月」と、その講演「物理学的世界像の統一」が1909年に雑誌に発表
されたことにより、マッハ派とプランク派の論争に火がついたからで
ある。
・【桑木彧雄の論考に対する田辺元の反応】
・前記の桑木の論考に対して、いち早く反応したのは、田辺元である。
・田辺元が、下記の論考で「桑木氏とプランクとの思想の相違は左迄甚し
いものではない」〔田辺:文献(58)、p112〕と述べているのは、桑木
の立場を理解したものと言える。
・【田辺元「桑木理学士の『物理学上の認識の問題』」】
・田辺元は「哲学雑誌」の「批評紹介」欄において、「桑木理学士の
『物理学上の認識の問題』」〔「哲学雑誌」大正元年12月、田辺:文献
(58)〕を発表する。
・この論述の構成は、以下のとおりに区分できる。
〔以下の引用は、『田辺元全集』14巻による。〕
・「前文」
・「桑木論文への感想・批評文」
・「前文」では、「物理学的認識一般の意義に関し相対立する学説を掲げ、
之れを批評しつつ自己の立脚地を述べられた」としている。
・「桑木論文の要綱の紹介文」は、桑木の文章を短縮し、また語句を追加
して分かり易くしているようだが、かえって分かりにくくしている部
分もある。また、桑木が末尾にあげた文献のほとんどを、本文の中に挿
入している。
・「桑木論文への感想・批評文」のところで、田辺元は、桑木の論点を整
理したうえで、以下のように述べている。
「氏〔桑木〕が一方に於て、マッハと同じく感覚を以て認識の基礎と
せられると同時に、他方に於て思惟の統一、合法性を重視せられる
点は、氏の説がマッハを超越して居る所以である。此の意味に於て、
桑木氏はマッハの取るヒューム的立脚地より、一歩をカントの立
場に進められたものと言うて宜からう。」〔田辺:文献(56)、p112〕
・さらに、田辺元は、プランクの立脚地を「認識論上実在論」と称するこ
とに、疑問を投げかけている。そして、プランクのいう「物理学体系の
客観化」は、「カントの先天観念論に依つて始めて充分に説明せらるる
ものではあるまいか」と述べている。〔田辺:文献(58)、同前〕
・【バウフ「カントと自然科学」における相対論へのナトルプの指摘】
・田辺のいう「カントの先天観念論に依つて始めて充分に説明」できると
いうことを理解するには、田辺元のこの論考の前の論述「カントと自然
科学」〔大正元年8月、田辺:文献(59)〕をみる必要がある。
・田辺元「カントと自然科学」は、新カント派のブルノ・バウフ(1877-
1942)の講演の「大要」を紹介したものである。
「近時の『相対論』は、ナトルプが適切に指摘した如く、或る意味に於
て、実はカントが先天観念論の名を以て表はした哲学的原理の物理
学的変形である。」〔田辺:文献(59)、p54〕
・これによれば、田辺元の「カントの先天観念論に依つて始めて充分に説
明せらるるものではあるまいか」との指摘は、実は田辺元のオリジナル
なものではなく、ナトルプの指摘に由来していたものであることがわ
かる。岡本拓司は、この指摘を田辺元自身のものであると誤解している
〔岡本:文献㉔、p91〕。
・田辺元は「相対性原理に対するナトルプ氏の批評」〔「哲学雑誌」大正
2年8月、『田辺元全集』第14巻、所収〕において、ナトルプの『精密
科学の論理的基礎』をもとに解説し、さらにナトルプの相対性原理に
対する論考を紹介している。
・3月、〈石原純〉・シベリア鉄道で、ヨーロッパ留学への旅に
でる。
・[1912]・
・7月、アンリ・ポアンカレ、逝去する。
・8月、梅園会編纂『梅園全集』〔上巻・下巻〕(弘道館)刊。
・〔「弘道館」は、「哲学雑誌」などを刊行していた。〕
・10月、〈桑木彧雄〉・「アンリ・ポアンカレ」を発表。
・〔「東洋学芸雑誌」373号、『絶対と相対』=【著作〔G〕】所収〕〕
・これは、「ポアンカレへの追悼文」である。ポアンカレの経歴とその
業績の大要を述べている。ここでポアンカレの「電子の力学について」
を評価していることは、すでに述べた。
・【桑木による日本におけるポアンカレ文献案内】
・末尾には、ポアンカレについての日本における文献案内がある。
・長岡半太の「ポアンカレ小伝」
・桑木彧雄訳「数理物理学と実験物理学との関係」
・三上義夫の「ポアンカレの空間論」など。
・桑木彧雄による林鶴一訳『科学と臆説』の批評文
・桑木彧雄「物理学講義」の中の「科学の価値」などの解説文
・以上が挙げられている。前出の「1906年」の項・《補遺》において
述べたように、ポアンカレの受容史を考察する場合には、林鶴一訳
『科学と臆説』のような、単行本のみではなく、これらの部分翻訳や
「原書からの直接的受容」も考慮していくべきである。
・【ベルグソンの哲学とポアンカレの思想の共通点】
・桑木は「アンリ・ポアンカレ」において、次のように述べている。
ポアンカレも科学の法則の真価、仮説の確実性を評価し公理、定
義、約束が等しく皆「便宜」commodeに外ならぬと論じて居る
ので矢張アンチインテレクテユアリストの中に数へられて居る。
ベルグソンは形而上学を復活したと云ふが、ポアンカレは独断
を避け絶対を云はない。」〔『絶対と相対』=【著作〔G〕】、p102〕
・ベルグソンには、一定の類型にはまったイズムとか立場がないという。
そのベルグソンの思想と絶対を言わないポアンカレの思想には、共
通点のあることを、桑木は指摘しているのである。
・西田幾多郎が、この二人を「好きな思想家」としているのもうなずけ
ることである〔前述参照〕。
・この桑木の「アンリ・ポアンカレ」を読んだ西田幾多郎は、桑木宛に
次の「芸文」2冊〔「芸文」第三年第九号、大正元年9月、西田
「論理の理解と数理の理解」を掲載。〔「芸文」第三年第十号、大正元
年10月、西田「認識論者としてのアンリ・ポアンカレ」を掲載。〕
と書簡を送っている。〔大正元年10月29日、「今度かかる偉人を失
ひしこと誠に学界の為め悲しむべきことと存じ候」、『西田幾多郎全
集』18巻、p162〕
・[1912]・
・9月、〈西田幾多郎〉・「論理の理解と数理の理解」を発表。
・〔「芸文」第三年第九号、大正元年9月、『西田幾多郎全集』
(以下『西田全集』)第1巻、所収〕
・この文の5か所でポアンカレに触れている。『科学と仮説』からの
引用もある。『西田全集』、第1巻、p256〕
・[1912]・
・10月、〈西田幾多郎〉・「認識論者としてのアンリ・ポアンカレ」
を発表。
・〔「芸文」第三年第十号、大正元年10月、『西田全集』第1巻、
所収〕
・【プランクのライデン講演をふまえてマッハを批判する西田幾多郎】
・「ポアンカレは単に有用なものは真理であるとか、思惟の経済とい
ふ様なことで満足し得るにはあまり鋭き頭をもつて居つた。氏は
毫も自己の主観的独断を加へない、種々の科学的知識を解剖台上
に持ち来つて、明に物其の者を解剖して見せるのである、ここに
氏の特色があると思ふ。」〔西田:文献(60)、『西田全集』、第1巻、
p399〕
・西田は、ポアンカレの三部作をあげて、なかでも『科学と仮説』が
最も重要であると述べている〔西田:文献(60)、『西田全集』、第
1巻、p400〕。
・これもポアンカレの逝去に際しての追悼文である。西田は、7月に
ポアンカレが亡くなったその直後の8月にこの文を書いている。
「有用なものは真理であるとか、思惟の経済」との文は、すなわち
マッハへの批判にほかならない。これは、かのプランクのマッハ
批判のある「ライデン講演」をふまえた上でのものである。
・この「認識論者としてのアンリ・ポアンカレ」は、『思索と体験』
の最初の本、「大正4年、千章館刊」に収録されたが、その増訂版
である「大正8年、岩波書店刊」では、なぜか除かれている。
しかし、最後の「三訂版」(昭和13年、岩波書店刊)では、少しく
訂正されて、再び収録されている。この文章は、やはり西田にとっ
ては、思い入れのあるものであったのであろう。
・[1912]・
・12月、〈田辺元〉・「桑木理学士の『物理学上の認識の問題』」
を発表。〔「哲学雑誌」大正元年12月、田辺:文献(58)〕
・【この論考については、「前述」の「1912年3月」の項を参照
のこと】・
・[1912]・
・12月、〈水野敏之丞〉・『電子論』を刊行。
・〔大正元年12月、丸善株式会社刊〕
・日本で「電子」の語が書名に使用された最初の本である。
・本書については、伊藤憲二による以下の紹介文がある。
〔「窮理」第8号、2017年11月〕
・伊藤憲二「水野敏之丞と『電子論』(二)―電気学と電子論」
〔「窮理」第9号、2018年3月〕
・伊藤憲二「水野敏之丞と『電子論』(三)―電子論と[富国
強兵]」 〔「窮理」第10号、2018年7月〕
・【「電子論」時代の物理学の要綱を解説している】
・本書の内容は、水野の専門である「電気学」に重点があるものの
当時の「電子論」時代の物理学の要綱を示しているものである。
以下に主な節のタイトルを示す。「カタカナ文」は「ひらがな文」
に直した。
・28節「原子の構造」、29節「長岡理学博士の原子模型」、36節
「光電効果」、37節「エネルギー量子説」、38節「光量子仮説」、
44節「マイケルソン及びモールレイの有名なる実験」、45節
「相対原律」、46節「静止系と運動系に於ける坐標及び時の関係」、
47節「相対原律とマイケルソン及びモールレイの実験」、最終の
48節「電子の形状」、末尾に「総論」がある。
・【48節「電子の形状」と桑木の「電子の形状に就いて」】
・「相対原律」は、特殊相対性理論の解説である。
・ここで注目するべきは、最終の48節「電子の形状」である。
「本論を畢るに臨み玆に記述す可き重要の事項がある、それは
電子の形状である。」〔p318〕
・「電子の形状」といえば、桑木彧雄が最初に「特殊相対性理論」
を紹介した論文のタイトルと同じである。すなわち、「電子論」
時代の物理学において、アブラハム、ローレンツ、ブッヘラーら
による「電子の形状」の議論は最重要のテーマであったのである。
桑木彧雄が「電子の形状に就いて」のタイトルで、同様の内容を
早い時期〔1907年〕に論じているのは、実に先駆的なのである。
・【「失敗に終わった革命」としての「電磁気学的世界観」――
「電子論」時代の物理学】
・桑木の「電子の形状に就いて」は、これまで特殊相対性理論の
最初の紹介としてのみ注目されてきたが、「電子論」時代の物理
学の中で位置づけられることが必要である。
・ヘリガ・カーオの『20世紀物理学史(上)』〔岡本拓司監訳、
2015、名古屋大学出版会刊〕は、その第7章で「アインシュタ
インの相対論と、ほかの人々の相対論」を述べたあとの、第8章
で「失敗に終わった革命」を詳述している。
・その「失敗に終わった革命」とは、「電磁気学的世界観」のことで
ある。
「電磁気学的世界観は1905年の直後にその絶頂を迎えたので
ある。」〔ヘリガ・カーオ:文献(77)、p139〕
「電磁気学的世界観として知られる新たな構想の、さらに急進
的で手の込んだ見解が1900年頃に出現し、およそ10年間栄
華を誇った。その中核にあったプログラムは、力学を電磁気学
へと完全に還元することであった。」〔ヘリガ・カーオ:文献
(77)、同前〕
・しかし、日本では1912年の水野敏之丞の『電子論』が刊行され
たこの時点で、なお「電磁気学的世界観」は勢力を有していたの
である。この時期の桑木の論考類などを読む時には、「電子論」
の時代という背景を見ておくことが必要である。
・【「電子論」の時代の象徴としての『ローレンツ物理学』】
・1913年の桑木・長岡による『ローレンツ物理学』の訳出は、こ
の「電子論」の時代の象徴なのである。〔「1913年」の項参照〕
・【石原純の『現代物理学』における「電子論」の章】
・石原純は、『現代物理学』(昭和10年)において、「相対性理論」の
章の前に「電子論」の章を設けている。一般的には、この順序で論
ずるのが妥当であろう。
・石原純の「電子論」の章は、コンパクトに「電子論」の発展史を述
べて、次のように結論している。
「今日でも電子が物質の究極的要素として重要であることは変わ
らないが、併し電磁的自然観なるものは全くそれらの問題の中
に止揚されてしまつたと云つてよいのであらう。」〔石原:文献
(78)、p155〕
・石原純は、この時点(昭和10年)で、すでにヘリガ・カーオの
いう「失敗に終わった革命」と同様の見解を述べていた。
・[1912(明治45、大正元)年]・
・〈林鶴一〉・2月、『初等幾何学の体裁』(弘道館刊)
・〈土屋元作〉・2月、『新学の先駆』(博文館刊)
・洋学史の視点から三浦梅園らを評価した本。
・〈石川啄木〉・4月、啄木没、27歳。6月、『悲しき玩具』刊。
・ノーベル物理学賞:ダレーン「燈台用ガスアキュムレーターの自動
調節機の発明」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・【大正2年(1913)】
・3~5月、〈田辺元〉・プランクのライデン講演「物理学的世界
形像の統一」〔1909年〕を訳出する。
・〔「哲学雑誌」大正2年3~5月、田辺:文献(61)〕
・「哲学雑誌」の「批評紹介」欄に掲載され、「前文」と「訳文」が
はっきりと区分けされている〔『田辺元全集』14巻、所収〕。
・【厳翼の「自然科学者の哲学観」にふれる田辺元】
・田辺元は、「前文」で先にみた桑木厳翼の「自然科学者の哲学観」
〔厳翼:文献(54)〕に触れている。
・【プランクは、カントの真精神を得た物理学者〔田辺元〕】
・田辺元は、ここでも新カント派のブルノ・バウフ(1877-1942)が
その著『精密科学の哲学研究』の中で、このプランクのライデン講演
を激賞していると紹介している。そして、プランクを「カントの真精
神を得た物理学者」であるとし、この翻訳に至ったという。
・【桑木彧雄訳「力学的自然観に対する・・」を評価する田辺元】
・桑木彧雄訳「プランク教授『力学的自然観に対する新物理学の位置』」
〔「東洋学芸雑誌」352号、353号、文献㊺、㊻〕も「相対性原理に
関してなした・・有益な講演」として「前文」末尾にあげられている。
・【新カント派の先験的構成主義と一致するプランクの主張〔田辺元〕】
・この訳文は、昭和3年(1928)11月、岩波書店の「哲学論叢」の
一冊として新たに翻訳され単独刊行されている。その「訳者小引」に
は、プランクのこの講演の意義がコンパクトに述べられている。
「広く斯界に行はれたマッハの実証主義的思惟経済説に反対して、
物理学にはそれに固有の認識目的があり、それに必然なる方法
的特色があること、・・種々の意味に於ける人為的随意性を去つ
て、統一的なる物理学的世界像の理想に近づくのが斯学発展の
意義なる所以を主張するものである。斯くしてその趣意がカン
ト派の先験的構成主義に一致することは最も顕著なる事実であ
る。・・カント派の認識論者が、何れもプランクの説を引用して
自説の有力なる助けとして居るのもこれが為に外ならない。」
〔田辺:文献(62)、p205〕
・【石原純訳「物理学的世界像の単一性」】
・石原純訳「物理学的世界像の単一性」〔『世界大思想全集48:
プランク「物理学的展望」ほか、昭和5年、春秋社刊、所収〕
・石原純訳は、田辺元訳と比べると非常にわかりやすい文章である。
・【河辺六男訳「物理学的世界像の統一」】
・河辺六男訳「物理学的世界像の統一」〔『世界の名著66』、「現代
の科学Ⅱ」責任編集:湯川秀樹、井上健、昭和45年、中央公論
社刊、所収〕
・これには、詳細な訳注がある。
・【「物理学的世界像の統一」の湯川秀樹による「解説文」】
・湯川秀樹の「解説文」も一読に値する。
「〈感覚からの離脱〉 ・・ライデン大学で歴史に残る有名な
『物理学的世界像の統一』と題する講演をした。・・彼は
マッハの影響を相当受けていたが、量子論を提唱して以後、
だんだん変わって、感覚的にとらえられるものだけで物理的世
界像をつくるという考え方を捨ててしまった。・・普遍妥当性を
もつ世界、人間の感覚を超えて、そこに実在する世界、それを
人間はいかにして把握できるかというふうに問題設定をするよ
うになる。」〔湯川秀樹「二十世紀の科学思想」、『世界の名著66』、
「現代の科学Ⅱ」解説、p16〕
・[1913]・
・6月、〈桑木厳翼〉・『現代思潮十講』を刊行。
〔大正2年6月20日、弘道館刊〕
・これは、大正元年11月から同2年2月までの、京都帝国大学特別
講演をまとめたものである。
・【桑木厳翼のマッハ批判とプランクのライデン講演】
・この中の「第七講 印象主義」において、桑木厳翼は、「マッハ対
プランク」について述べている。
・「此のマッハの説に反対して、物理学の法則は単に記載するもの
でもなく、思惟の経済から生じたのでもないとする人がある。・・
物理学者プランクは其の一人である。其の『物理学的世界形
象の統一』(1909)に述べた所の説に由れば、宇宙には一つの統
一がある。其は印象には現はれないが、実在であつて仮定ではな
い而して科学はこれに近かうとするものである。・・マッハの言
ふ如く簡単で便利でさへあればよいならば、物理学の研究の如
き事は不必要である。」〔厳翼:文献(70)、p154〕
・大正元年の講演であるから、前記プランク講演の田辺元訳が未だな
いときである。この時期すでに「マッハ対プランク」の論争は、哲
学界においても最新のテーマとなっていたのであった。
・[1913]・
・6月、ローレンツ著『物理学』(下、長岡半太郎訳、冨山房刊)
=【著作〔C〕】
・国会図書館本、「上巻」(484頁、大正2年〔1913〕6月15日発行、
冨山房)〔定価=1円60銭〕
・国会図書館本、「下巻」(622頁、大正2年〔1913〕6月15日発行、
冨山房)〔定価=2円20銭〕
・和田文庫本、「上巻」(484頁、大正11〔1922〕年7月10日発行、
再版、冨山房)〔定価=4円〕
・巻末に「正誤表(2頁分)」あり。
・和田文庫本、「下巻」(622頁、大正11年〔1922〕8月10日発行、
再版、冨山房)〔定価=4円50銭〕
・巻末に「正誤表(4頁分〔1葉折込〕)」あり。
・〔森口昌茂:文献⑧には、「1925年」版の記載があるが、これはおそら
く「1922年」版〔再版〕の記載ミスであろうと思われる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・「PREFACE」・・・(H.A.Lorentz)
・「訳者序」・・・・・(訳者)
・【上巻目次】・〔桑木彧雄訳〕
・第1章 運動及び力
・第3章 不変形の固体
・第4章 液体及び気体の平衡及び運動
・第5章 気体の性質
・第6章 熱力学的考察
・第7章 固体の性質
・第8章 液体及び蒸気の性質
・索 引
・【下巻目次】・〔長岡半太郎訳〕
・第9章 振動する物体
・第10章 振動の伝播
・第11章 光の反射と屈折
・第12章 光の性質
・第13章 偏光
・第14章 静電気学
・第16章 磁場の作用
・第17章 電気振動。電磁変動の伝播
・【日本語版増補の第18章】・
・第18章 電子論に依て説明すべき諸現象
・608「電子に於ける磁場の作用」〔608は節番号、以下同〕
・609「磁場に動く線に生ずる感応作用の説明」
・610「稀薄なる気体内の放電現象」
・611「陰極線」
・612「陰電子の帯電及び質量」
・613「孔線」
・614「レントシェン線の作用に由り空気の伝導性を帯ぶること」
・615「ベクレル線、ラヂウム」
・616「放射性物質の線の性質」
・617「種々の影響に由て気体の受くる伝導能の原因」
・618「金属内の自由電子」
・619「不導体内の電子、光及び熱の吸収及び放射」
・620「ゼーマン現象」
・演習問題
・諸 表
・索 引
・【本書は、「もっとも権威ある理論物理学の教科書」か?】
・本書の「日本語版の成立とその背景」については、すでに有賀暢迪に
よる詳細な研究がある〔有賀:文献㉚〕。
・有賀も指摘しているように、『長岡半太郎伝』〔文献⑫〕では、「この
本はのちにプランクの『理論物理学汎論』全5巻(1921~)が・・
翻訳出版されるまで、日本でもっとも権威ある理論物理学の教科書
として用いられた」〔文献⑫、p394〕とされているが、その根拠は示
されていない。再版が9年後ということをみても、この本が定番の
教科書であったとは考えられないといえる。
・「もっとも権威ある理論物理学の教科書」との記述に対しては、実は、
『長岡半太郎伝』が刊行された時点において、広重徹により疑問であ
るとの指摘がなされていたのである〔「科学史研究」No.110、1974年
夏号、「紹介」欄〕。ただし、広重は翻訳本を見みないで、プランクの
原書などを見ての執筆であり、翻訳本が原書の「増補版」であること
などを知らずに書いたものであることを考慮しておかなければなら
ない。
・【本書の読者対象は「高等学校乃至大学初年級用」である〔桑木彧雄〕】
・読者対象については、広重は「旧制高校初年級向け」としているが、
桑木彧雄自身は「高等学校乃至大学初年級用」〔桑木彧雄「ハー・
アー・ローレンツ先生」、「東洋学芸雑誌」512号、1925年12月〕と
述べている。
・【本多光太郎の教科書『物理学通論』などへの影響】
・本多光太郎は、教科書『物理学通論』(大正4年、初版、内田老鶴圃
刊)の「序言」の中で、「ローレンツの物理学」などを参照したこと
を記している。おそらく、他の教科書類にも「ローレンツの物理学」
は大きな影響を与えているであろう。
・【最大の特色は、第18章「電子論・・」のプランク自身による増補】
・本書の最大の特色は、有賀が述べているように、「第18章 電子論
に依て説明すべき諸現象」である(「すべき」は、「できる」の意。)。
・この第18章の「電子論に依て説明すべき諸現象」というタイトルは、
実は長岡半太郎が、すでに自著『ラヂウムと電気物質観』において使
用していたことが、判明したので次に示す。
・【長岡半太郎著『ラヂウムと電気物質観』の第16章のタイトルも
・長岡半太郎は、明治39年〔1906〕4月1日『ラヂウムと電気物質観』
〔「物理学叢書」第1巻、大日本図書株式会社〕を刊行している。
・《目次》・
・第1章 緒言
・第2章 真空放電とX線
・第3章 放射線物体発見の由緒
・第4章 ラヂウム発見の順序
・第6章 放射線の類別
・第7章 放射線のエネルギー及び熱の発生
・第8章 ラヂウムとトーリウムの遊散物
・第9章 放下物と其の変脱
・第10章 放射物質の転変
・第11章 大気中の放射物体
・第12章 原子壊散論
・第13章 電気的物質観梗概
・第15章 電子の荷電量eと質量mの測定
・第16章 電子論に依り説明すべき諸現象
・第17章 電子的原子の構造
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・長岡半太郎は、1903年の「土星型原子模型」の発表前からすでに
電子論の研究を進めていた。そして、『ラヂウムと電気物質観』を
刊行し、さらに物質構造論の研究をしていくことになる。その長岡
半太郎にとっては、「ローレンツ物理学」に「電子論」の章を追加
することは、願ってもないことであった。
・桑木彧雄もまた、長岡門下生として、すでに以下のラヂウム関連論
考を発表していた。
・明治36〔1903〕年11月の「東京物理学校雑誌」に「ラヂウム」
を発表(巻頭論文)している。これは、森口:文献⑧には記載の
ないもので、このたび桑木が「東京物理学校雑誌」に投稿した最
初のものであることが判明した。
・明治37〔1904〕年8月、「東洋学芸雑誌」275号に「雑報
ラヂウム逸散物」を書いている。
と会ったことがあるので、最適の訳者ということであろう。
・長岡半太郎『ラヂウムと電気物質観』をここで紹介したのは、
『ローレンツ物理学』とともに、ヘリガ・カーオのいう「電磁気
学的世界観」の時代の記念碑であるからである。
・【アインシュタイン来日以前の1910年代前後日本物理学史の
重要性】
・『日本の物理学史』〔文献⑱〕や『日本科学技術史大系13、物理
科学』〔文献(75)〕などを見ても、アインシュタイン来日以前の
1910年代前後の日本物理学史の記述は、極めて不十分である。
具体的には、長岡半太郎、桑木彧雄、水野敏之丞らの「電子論」
時代の物理学史が欠落しているように思われる。
・【科学史の「立体描写」のために必要な視点】
・科学史の「立体描写」のためには、オリジナル論文のみを論じる
のではなく、高等教育での教科書的書物や啓蒙的な著作・論考類
〔例えば「東洋学芸雑誌」「東京物理学校雑誌」「理学界」「科学」
などの掲載論考類〕をも視野に入れていくべきであろう。そうし
た中でこそ、桑木彧雄や石原純らの著作を科学史上において
評価することができるのである。
・これまでの科学史研究では、最新のオリジナル論文のみに焦点が
当てられてきた傾向がある。そのような中で、桑木彧雄や石原純
らの科学啓蒙書などの類は、ほとんど評価されて来なかった。
・【長岡の『ラヂウムと電気物質観』と田辺元の『最近の自然科学』】
・長岡半太郎の『ラヂウムと電気物質観』は、田辺元の『最近の
自然科学』(大正4〔1915〕年11月)の成立にも、大きく寄与し
ている。 ➡「後述」=「1915年」の項を参照。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・〈ポアンカレ〉・『晩年の思想』なる。
・田辺元は、この第二章「時間と空間」を訳出する。〔後述〕
・第6章「量子の仮説」では、最新の研究を解説している。
・5月、〈山川健次郎〉・東京帝国大学総長〔再任〕となる。
・8月、〈田辺元〉・東北帝国大学理科大学講師となる。
・田辺元は、「科学概論」などを講義する。
・9月、〈西田幾多郎〉・「自然科学と歴史学」
・〔「哲学雑誌」大正2年9月、『西田幾多郎全集』第1巻、所収〕
・これは、大正2年4月の哲学会(東京大学)での講演録である。
・ポアンカレの『科学と仮説』からの引用がある。この西田のポア
ンカレへの言及部分については、すでに森口昌茂:文献(56)で
紹介されている。
・田辺元の次の論考「物理学的認識に於ける記載の意義」との同時
掲載である。
・この論考は、『日本哲学思想全書』(第7巻)の「学問篇」に収録
されている。
「自然科学は個々の経験的事実を・・一般的法則によって概括し
ようとする・・歴史は・・此等の事実を・・個性によって統一
しようとする」(「学問篇」、p317)
・そのテーマは、自然科学と歴史学の特質の差異についての考察で
ある。
・[1913]・
・9月、〈田辺元〉・「物理学的認識に於ける記載の意義
――キルヒホッフ及びマッハの批評―― 」
・〔「哲学雑誌」大正2年9月、『田辺元全集』第1巻、所収〕
・【マッハ批判への厳しい批判と「世界形象が真の実在である」
というプランクの立場からの田辺の物理学的認識論】
・田辺元は、マッハに対して「・・之を感覚に帰するのは具体的の
経験を無視した独断論である。」〔「田辺全集」1巻、p20〕と、
厳しく批判する。そして、「プランクも云つた通り、・・自己の思
惟する世界形象が真の実在であるといふ信念に導かれたのであ
る」〔「田辺全集」1巻、p23〕という。
・その上で、「物理学の法則は此の如き実在再建の際に於ける思惟
の根本契機間の関数的関係を表はすものであって、其の意味
に於て実在の法則といふ事ができる。物理学者の任務は正に此
の如き意味に於ての実在の法則を立する事である。」〔「田辺全集」
1巻、p26〕と結論する。
・これは、プランクの「物理学的世界形象の統一」を訳出したばか
りの田辺元にとっては、当然の主張であった。
・【東北帝国大学理科大学で「科学概論」を講義する田辺元】
・東北帝国大学理科大学において、物理学者・石原純や数学者・
小倉金之助らとともに勤務し、理科系の学生に対して「科学概
論」を講じていた田辺元は、当時は哲学者というよりも科学者の
一員としての意識の方が強かったのかもしれない。
・こうした研究は、大正4年11月刊行の『最近の自然科学』
(岩波書店刊)へと結実する。 ➡「1915年」の項、参照。
・【小倉金之助の回想の中の田辺元】
・「田辺元さんは――そのころ東北大学には、まだ文学部がなかっ
たので時分なので――講師としてドイツ語や科学概論などを講
じておられました。・・後には数学教室の一部屋に移って、いつ
でも本を読んでおられました。私は文化的色彩に乏しい理学部
の中で、いわば話のできる人という意味で、田辺さんと懇意にな
ったのでした。そのころの田辺さんは、ビールなども飲まれて、
いろいろ哲学界の批評をされたものであります。」〔小倉金之助
「数学者の回想」、『小倉金之助著作集』7巻、所収、p236〕
・「田辺さんは数学や物理の講義を聞いたり、数学の談話会に出て
きて、数理哲学の論文を発表したこともあって、私とも懇意にな
り、二人でしばしば数学論や科学論をやったものです。」〔小倉
金之助「回想の半世紀」、『小倉金之助著作集』8巻、所収、p9〕
・「田辺さんと私は何か議論すると、しまいに田辺さんは、君の議
論はあまりに心理的だといい、私は、田辺さんはあまりに論理
的だ、といって物わかれになったものでした。」〔同前〕
・「数学観などについても、クラインの影響をうけて、理論的なも
のと実践的なものとが統一されるところに、数学の本質的な深
い意味があると、考えていたものです。それで田辺さんとは二・
三年の間、懇意にした割合に、観念論の影響をあまり受けないで
すみました。」〔同前、p10〕
・[1913]・
・12月、〈田辺元訳〉・ポアンカレ『晩年の思想』の
第二章「時間と空間」を訳出する。
・田辺元「ポアンカレ氏『空間と時間』」〔「哲学雑誌」大正2年12月〕
・ポアンカレ『晩年の思想』〔1913〕の第二章「時間と空間」の訳文で
ある。〔『田辺元全集』14巻、所収〕
・【ポアンカレがローレンツの相対原理について論じている】
・「時空相対性の何たるやを論じ、最近物理学上の相対原理の意義を説
き、或はベルグソンの純粋持続にも触れて居る所の「時間と空間」
と題する一篇を此処に紹介しようと思ふ。」〔『田辺元全集』14巻、
p153〕
・ここにいう「相対原理」とは、あくまでもローレンツの相対性原理で
あることに注意するべきである。この章には、アインシュタインの名
はない。
・【ポアンカレ・ローレンツの相対性理論】
「彼〔ポアンカレ〕は、ローレンツの理論にさらに数学的洗練を加え、
その結果を1905-6年に発表した(「ローレンツ変換」という名称
はそこで初めて使われた)。これを指してホイテッカーは「ポアン
カレ・ローレンツの相対性理論」とよんだのである。」〔広重徹
「相対論はどこから生まれたか」、西尾成子編『アインシュタイン
研究』、所収、文献(71)、p43〕
「ローレンツ・ポアンカレの理論は、今日われわれの理解する相対
性理論ではない。それはアインシュタインの相対論とは異なる
問題を追求していたからである。」〔広重徹、同前、p44〕
・今日、ポアンカレ・ローレンツの相対性理論を読むときには、上記
の広重徹の指摘をふまえておかなければならない。
・広重徹は、さらに述べている〔広重:文献(79)〕。
「ポアンカレは、それを〔ローレンツの理論〕全面的に歓迎し、・・
のみならず、アインシュタインの相対性理論が現れるのちにも、
ポアンカレは一貫してローレンツの理論を最新の達成として称
揚し、ついに最後までアインシュタインの理論を無視し続けた
のである。」〔広重徹訳『ローレンツ電子論』、解説「ローレンツ
『電子論』とその歴史的背景」、1973、東海大学出版会刊、p404〕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・[1913(大正2)年]・
・1月、〈寺田寅彦〉・「Umi no Buturigaku〔海の物理学〕」刊。
(ローマ字理学叢書、ローマ字社)田丸卓郎らの勧めによる著作。
・3月、〈寺田寅彦〉・「物理学の応用に就いて」(「理学界」10巻9号)
・「基礎的科学の研究」の重要性を説いている。
・4月、〈小倉金之助〉・第3臨時教員養成所の講師〔嘱託〕。
・10月、〈斎藤茂吉〉・『赤光』(東雲堂書店刊)。
・1913(大正2)年~1914(大正3年)
・国書刊行会編『文明源流叢書』(全3巻、国書刊行会刊)
・三上義夫:『The Development of Mathematics in China and Japan』
刊。〔ドイツ、ライプチヒで出版〕
・〈ニールス・ボーア〉・原子の模型及び原子スペクトルの量子論。
・ノーベル物理学賞:カーメルリング・オンネス「液体ヘリウムの
製造に関連する低温現象の研究」
・1月、〈桑木彧雄〉・「熱力学の方法」を発表。
・〔「理学界」11巻7号、大正3年1月〕
・〔桑木彧雄『物理学と認識』=【著作〔H〕】に収録〕
・【「記載」も「説明」も共に「構成」と云ふ一事に帰する。さらに
「統一的仮像を構成するか」を考えよ〔桑木彧雄〕】
・「キルヒホッフの記載と云つた根柢には説明の実在論的なるに反し、
経験に即するに依りて認識論的なるものあり、・・実際には純経験論
に反して電子論は導かれたのである。又記載学派の主張に最も近い
様に見られる熱力学の方法にも限界あり、分子論を入るるを免れな
かつた。記載と云ひて何等の仮説よりも自由なるべしとすることも
出来ず、説明と云ひて経験を飛躍し得べしとすることも能はぬ。認識
論上、記載も説明も共に構成と云ふ一事に帰する、却て吾人には多
少任意に、力学的自然観、エネルギー論、電子論、量子説等が如何
に吾人の全経験に関して断片的よりは統一的仮像を構成するかを考
うることが問題である。」(桑木『物理学と認識』=【著作〔H〕】、
p142-143)
・桑木の論点は、「記載」か「説明」かではなく、それらが「統一的
仮像を構成するか」どうかにあるのである。
・【プランクとマッハの双方から学びつつ異論もある桑木】
・桑木は、後に「力学の見方」〔「日本及日本人」大正6年元旦号、
特集「日本学界の代表的研究」〕の中で述べている。
「帰朝後、物理学の方法論に就てプランクとマッハとが論戦せられ
たものに就て一二の小篇を認めました。プランクには形而上学風
の独断的な考〔え〕方があり、マッハの考〔え〕方は純経験的で
超経験的観念を一切排斥しようとする、前者には認識論の見方か
ら、後者には科学の概念の論理的統一を求むる点から、共に反対
の説が成〔り〕立ち得ると考へました。」〔文献(73)、p124〕
・桑木は、このようにプランクとマッハの両派に対して賛意と反対の
両論を保持していたのである。すなわち、桑木の認識論はプランク
とマッハの双方から学びつつ、かつ異論も述べていたのである。
・【寺田寅彦のプランクとマッハの両派に対する考えには、桑木彧雄と
の共通点がある】
・「近年プランクなどは従来勢力のあったマッハ一派の感覚即実在論
に反対して、・・いわゆる世界像の統一という事を論じている。
しかし・・これはあまり早まり過ぎた考えではなかろうかと疑わ
ざるを得ない。プランクは物理学を人間の感覚から解放するとい
う勇ましい喊声(かんせい)の主唱者であるが、一方から考えると
人間の感覚を無視すると称しながら、畢竟は感覚から出発して設
立した科学の方則にあまり信用を置き過ぎるのではあるまいか。
・・自分はマッハの説により多く共鳴する者である。・・経験を綜
合して知識とし知識を綜合して方則を作るまでには、種々な抽象
的概念を構成しそれを道具立てとして科学を組み立てて行くもの
である。この道具になる概念は必ずしも先験的な必然的なもので
なくてもよい。」〔寺田寅彦「物理学と感覚」、『東洋学芸雑誌』大正
6年11月、『寺田寅彦全集』5巻、所収、pp76~77〕
・プランクとマッハへの評価は、このように物理学者の桑木彧雄と
寺田寅彦には共通点が認められる。そこが、哲学者・田辺元とは
相違している。
➡➡ 「寺田寅彦と桑木彧雄」については、「後述」を参照。
「1915年」の項などを参照。
・2月、〈西田幾多郎〉・「『物質と記憶』の序」
・〔高橋里美訳、ベルグソン『物質と記憶』、大正3年2月、星文館刊
の序文〕
・西田は、ここで「純粋経験論の立場」としてマッハを位置づけてい
る。そして、同様の立場からベルグソンはより徹底した解釈をなし
とげたという。〔「西田全集」、第1巻、p424〕
これは、桑木彧雄が上に引用した「熱力学の方法」の中で「マッハ
の考〔え〕方は純経験的」と述べていることに一致している。
・[1914]・
・2~3月、〈田辺元〉・「認識論に於ける論理主義の限界
――マールブルヒ派とフライブルヒ派の批評―― 」
〔「哲学雑誌」大正3年2~3月〕〔「田辺全集」1巻、所収〕
・「実にこの「認識論に於ける論理主義の限界」といふ論文は、新
カント派の認識論を先生がはやくも咀嚼し西田博士の純粋経験
の立場を根拠にして、リッケルト、コーヘンの学説に鋭い批評を
加へたもの」〔武内義範「解説」、「田辺全集」1巻〕であると
いう。
・これは西田幾多郎に最初に注目された田辺元の論文である。
〔西田「現代の哲学」、大正5年3月、「哲学研究」創刊号
「西田全集」1巻、所収、p348〕
・[1914]・
・3月、〈田辺元〉・「桑木理学士の物理学の方法に関する一論文」
〔「哲学雑誌」大正3年3月〕
・「批評紹介」欄の論述。〔「田辺全集」14巻、所収〕
・1月の桑木論文「熱力学の方法」の紹介文である。
・「前文」と桑木論文の「要綱」紹介文からなるもの。
・[1914]・
・4月、〈桑木彧雄〉・九州帝国大学「教授」に就任。
〔「桑木文庫解説」:文献③による〕。
・【桑木彧雄に九大「助教授」の時代はない?】
・桑木彧雄は、「講師」から「助教授」ではなく、「教授」になる。
これは、どういうことであろうか。とにかく、これまでの文献に
は、九大「助教授」になったという記述は確認されていない。
・[1914]・
・6月、〈石原純〉・東北帝国大学理科大学「教授」となる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・[1914(大正3)年]・
・三上義夫:『A History of Japanese Mathematics』
(D.E.Smithと共著)〔シカゴで出版〕
・4月、〈阿部次郎〉・『三太郎の日記』刊。
・9月、『新文明の源流(日本洋学の発達)』(アカギ叢書・第61編、
魚澄總五郎著、赤城正蔵発行)
・10月、〈夏目漱石〉・『心〔こころ〕』刊。
・10月、〈高村光太郎〉・『道程』刊。
・1913(大正2)年~1914(大正3年)
・国書刊行会編『文明源流叢書』(全3巻、国書刊行会刊)
・ノーベル物理学賞:ラウエ「結晶によるX線回折の発見」
➡➡ 7月、第一次世界大戦はじまる(~1918)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・ 【 以下、次号につづく 】 ・・・
「 PHN (思想・人間・自然) 」 第51号
〔2022年1月25日脱稿、和田耕作(C)〕
〔2022年1月31日発行、PHNの会、無断転載厳禁〕
・日本科学史学会 初代会長
・科学史・科学哲学 研究の先駆者
・物理学者・桑木彧雄の「経歴」とその「業績」
――「年譜」による考証と考察
――【その一】
和田耕作
・【目次】
・「はじめに」
・「主要参考文献一覧」
・「桑木彧雄主要著作一覧」
・「1」・桑木彧雄と東京物理学校
・「2」・桑木彧雄の「経歴」とその「業績」
――〔Ⅰ〕・「ヨーロッパ留学まで」
・・・ 「以下、次号」 ・・・
――〔Ⅱ〕・「ヨーロッパ留学以後」
・【はじめに】
・「日本科学史学会創立80年」と「恩師・會田軍太夫先生没後40年」
の機会に、あらためて物理学者・桑木彧雄の「経歴」とその「業績」
について、今後の「桑木彧雄研究」の基礎となるように、まとめて
おきたいと思う。
・下記の文献①~③を見ていたら、「桑木彧雄と東京物理学校」につ
いての記述が、錯綜していることがわかったので、はじめに「桑木
彧雄と東京物理学校」についての考証を行ないたい。
・次に、桑木彧雄の「経歴」とその「業績」について
〔Ⅰ〕=「ヨーロッパ留学まで」
〔Ⅱ〕=「ヨーロッパ留学以後」
の二期に分けて、「年譜」としてまとめたうえで、考証と考察とを
してみよう。
・さらに、小倉金之助、その他の関連人物の動向など、他の関連事項
も随所に加えて、その時代の中で考えてゆきたいと思う。
・また、桑木彧雄の「主要著作」などについても、まとめて示して
おきたい。本稿作成中に森口昌茂氏から、詳細を極めた「桑木彧雄
著作目録」〔森口:文献⑧〕が届いたが、ここでは、「主要著作」を中
心としてまとめて、少しく解説などを加えておくこととする。論考
類などについては、参照したものを中心として、「主要参考文献一
覧」の中に示すこととした。
・今後は、原田雅博「物理学者・桑木彧雄に関する資料」〔原田:
文献②〕、森口昌茂「桑木彧雄著作目録について」〔森口:文献⑧〕と
ともに、本稿をも活用した「桑木彧雄研究」のさらなる進展を期待
したい。
・【年譜の中で考察するという本稿の形式について】
・私は、「小倉金之助生誕百年記念」で刊行した『小倉金之助と現代』〔第1集〕
において「小倉金之助自筆年譜」〔和田:文献㊱〕を作成して以後、その
「第三集」(拙論「林鶴一と小倉金之助」、「林鶴一・小倉金之助略年譜」、和田:
文献㉙)、次の「第四集」(拙論「石原純と小倉金之助」、「石原純自筆年譜」
〔和田:文献⑤〕)でも、年譜の作成を重要視してきた。このような私の方法
が、後に拙著『石原純―科学と短歌の人生』〔和田:文献⑦〕などへとつな
がっていることをしみじみと感じている。
・上記のような経験から、今回も当初は論考と年譜とを分けて作成することも
考えていたが、進行しているうちに下記のように年譜の中に考察も含めると
いうスタイルに自然となってしまった。
・私は、かねてより研究の方法や発表のスタイルには、多様性があってよいと
考えてきた。江渡狄嶺の研究では、その前編を評伝形式で執筆し〔拙著:
『江渡狄嶺―〈場〉の思想家』、甲陽書房、1994〕、後編を論考のスタイルで
〔拙著:『場論的世界の構造―江渡狄嶺の哲学』、エスコム出版、2012〕刊行
した。
・【「研究発表形式の多様化への模索の必要性」〔中村禎里〕】
・本稿〔【その一】〕を書き終えたころ、書庫をあさっていると、科学史家・中村
禎里氏の『科学者―その方法と世界』〔朝日新聞社、1979、文献㊴〕が出てきた。
その中の「論文の形式について」において、中村氏はガリレオの主要著作
が鼎談の形式をとっているなどの例をあげて、「研究発表形式の多様化への
模索の必要性」〔中村:文献㊴、p72〕を力説している。この論説に力を得て、
今回は、「年譜の中で考察するという本稿の形式」を採用することにした。
・【小倉金之助がいう「科学史の立体描写」は果たして可能なのか】
・思えば、科学史研究の世界には、年表形式の名著がたくさんある。湯浅光朝
『解説・科学文化史年表』(中央公論社刊、1950)、その進化版である湯浅光朝
編著『コンサイス科学年表』(三省堂、1988)。『科学技術史年表』(菅井準一
ほか編、平凡社、昭和31年)では、より社会的、思想的視点を重要視した
構成が目立っている。
・小倉金之助は、早くから「科学史の立体描写」を主張していた。その具体的
な内容は述べていないが「社会的、思想的視点を重要視」するという『科学
技術史年表』の構成は、小倉のその主張にそったものと考えられる。ただ、
小倉はそれに満足せずに、さらなる進化を期待していたであろうと思われる。
・これらには遠く及ばないとしても、私もなるべく同時代人とその時代の出来事
などをも記述することとした次第である。
・また、本稿では「主要参考文献一覧」〔「その一」の参考文献〕および「桑木
彧雄主要著作一覧」を、巻頭に掲げた。これは、先行研究の重要性を強調した
いからである。そして、今後の研究者諸氏には、これらの先行研究を十二分に
踏まえた上での研究を進めていただきたいがためでもある。
・【主要参考文献一覧】・・〔「その一」の参考文献〕
・①岡本良治・山内経則「桑木彧雄氏の経歴について―100年目の小
さな謎―」(日本物理学会講演概要集、2007〔Web公開による。〕)
・②原田雅博「物理学者・桑木彧雄に関する資料」(『社会文化論集』
第15号、2018年3月、抜刷。〔Web公開による。〕
・③九州大学附属図書館の「桑木文庫」の解説〔Web公開による。〕
・④『東京物理学校五十年小史』(東京物理学校刊、昭和5年)
・⑤和田耕作「石原純と小倉金之助」(小倉金之助研究会編『小倉金之助
と現代』第四集、教育研究社、1988、所収)
〔・第三節「桑木彧雄と小倉金之助――物理学の誘惑」〕
・⑥和田耕作編・追補「石原純自筆年譜」(同前、所収)
・⑦和田耕作『石原純――科学と短歌の人生』(ナテック、2003)
・⑧森口昌茂「桑木彧雄著作目録について」(「東海の科学史」第13号、
2019)
・⑨『科学史研究』(復刊第一号〔通巻10号〕、1949年4月)
・⑨-A)「前会長桑木彧雄博士を悼む」〔著者名なし。〕
・⑨-B)「父を想う」(桑木務)
・⑨-C)「桑木彧雄博士の追憶:その業績と学風」(矢島祐利)
・⑩『東京帝国大学五十年史』(上冊・下冊、東京帝国大学、昭和7年)
・⑪西尾成子「著者桑木彧雄先生と本書の特色」(桑木彧雄著、桑木務・
西尾成子増補『アインシュタイン』、サイエンス社、昭和54年、所収)
・⑫『長岡半太郎伝』(藤岡由夫監修、板倉聖宣・木村東作・八木江里著、
昭和48年、朝日新聞社刊)
・⑬長岡半太郎『随筆』(昭和11年、改造社刊)
・⑭桑木彧雄「ポアンカレの追憶」(『科学史考』、昭和19年、河出書房刊、
所収)
・⑮『東京帝国大学一覧(従明治35年~至明治36年)』(東京帝国大学、
明治35年12月)
・⑯『マッハ 力学の発達 とその歴史的批判的考察』(青木一郎訳、
昭和6年、内田老鶴圃刊)
・⑰ポアンカレ『科学の価値』(田辺元訳、大正5年、岩波書店刊)
・⑱日本物理学会編『日本の物理学史』(上=歴史・回想編、下=資料編、
1978、東海大学出版会刊)
・⑲高田誠二『プランク』(「人と思想」〔100〕、1991、清水書院刊)
・⑳湯浅光朝編著『コンサイス科学年表』(三省堂、1988)
・㉑『科学技術史年表』(菅井準一ほか編集、平凡社、昭和31年)
・㉒田中節子「桑木彧雄と日本の物理学―相対性理論を軸として―」
(辻哲夫編著『日本の物理学者』、東海大学出版会、1995、所収)
・㉓安孫子誠也「桑木彧雄『絶対運動論』(1906)における相対運動
概念」(『安孫子誠也論説集―エントロピー論・近代物理学史・科学論―』、
2019、東京教学社、所収。〔初出は、「科学史研究」45、185~188、2006〕)
・㉔岡本拓司『近代日本の科学論』(名古屋大学出版会、2021)
・㉕小倉金之助「明治科学史上における東京物理学校の地位」
(「東京物理学校雑誌」第600号、昭和16年、『小倉金之助著作集』
第2巻、1973、勁草書房、所収)
・㉖岡部進『小倉金之助 その思想』(昭和58年、教育研究社刊)
・㉗岡邦雄「桑木彧雄先生」(「科学知識」昭和22年5月号)
・㉘會田軍太夫「九大時代の桑木彧雄先生」(「自然」1981年12月号)
・㉙和田耕作「林鶴一と小倉金之助」(小倉金之助研究会編『小倉金之助
と現代』第三集、教育研究社、1987、所収)
・㉚有賀暢迪「ローレンツ『物理学』日本語版の成立とその背景
――長岡・桑木と世紀転換期の電子論――」
(Bull.Natl.Mus.Nat.Sci.,Ser.E,36,pp.7-18,December22,2013)
・㉛西尾成子『科学ジャーナリズムの先駆者 評伝石原純』
(2011年、岩波書店刊)
・㉜桑木彧雄「電子の形状に就いて」(『東京物理学校雑誌』、16巻
第183号、明治40年2月8日発行)。
初期の業績と物理学史的背景」(「窮理」第1号、2015)
・㉞伊藤憲二「『論文』の無い科学者・桑木彧雄(二)
ヨーロッパ留学と相対論」(「窮理」第2号、2015)
・㉟伊藤憲二「『論文』の無い科学者・桑木彧雄(三)
物理学・哲学・科学史」(「窮理」第3号、2016)
・㊱和田耕作編・追補「小倉金之助自筆年譜」(小倉金之助研究会編
『小倉金之助と現代』〔第1集〕(教育研究社、1985、所収)
・㊲『科学史技術史事典』(伊東俊太郎ほか編、弘文堂、昭和58年)
・㊳桑木彧雄「記載と説明」(「理学界」第四巻、1906年7月)
〔「科学図書館」の「桑木彧雄の部屋」でWeb公開されている。〕
・㊴中村禎里『科学者――その方法と世界』(朝日選書、朝日新聞社、1979)
・㊵辻哲夫『日本の科学思想――その自立への模索』(中公新書、昭和
48年)
・㊶『東京帝国大学一覧(従明治36年~至明治37年)』(東京帝国大学、
明治36年12月)
・【桑木彧雄主要著作一覧】・
・〔A〕桑木彧雄・述、渡辺潔・記『験糖器之説明』(明治35年、
東京税務管理局)
・〔B〕桑木彧雄編『普通力学』(明治41年、高岡書店刊)
・〔C〕ローレンツ著『物理学』(上巻=桑木彧雄訳、下巻=長岡半太郎訳、
大正2年、冨山房刊)
ラグランジュ著『解析力学抄』(桑木彧雄訳、長岡半太郎校閲・
「解析力学抄小引(長岡)」、大正5年、丸善刊)
・〔E〕『アインスタイン・相対性原理講話』(桑木彧雄・池田芳郎共訳、
長岡半太郎・序文、大正10年、岩波書店刊)
・〔F〕『物理学序論』(大正10年、下出書店刊)〔新生会叢書、第4篇〕
・〔G〕『絶対と相対』(大正10年、下出書店刊)〔新生会叢書、第11編〕
・〔H〕『物理学と認識』(大正11年、改造社刊)
・〔I〕『物理学教科書』(上巻、大正13年、三省堂刊)〔中等学校用〕
・〔J〕『物理学教科書』(下巻、大正13年、三省堂刊)〔中等学校用〕
・〔K〕『物理学実験書』(大正14年、三省堂刊)〔中等学校用〕
・〔L〕「PHYSICAL SCIENCES IN JAPAN (1542―1868)」
(『Scientific Japan, past and present』、Maruzen、1926)
〔第三回汎太平洋学術会議:prepared in connection with the third
Pan-Pacific Science Congress,Tokyo,1926〕
・〔【著作〔U〕】=『黎明期の日本科学』に収録。〕
・〔M〕『実業物理学教科書』(昭和8年、三省堂刊)〔実業学校用〕
・〔N〕『アインシュタイン伝』(偉人伝全集第18巻、昭和9年、改造社刊)
・〔O〕『泰西科学の摂取と其の展開』(啓明会第99回講演集、昭和15年
11月、笠森傳繁編輯・啓明会事務所発行)
・〔P〕『近代科学の展開』(教育パンフレット403輯、昭和16年3月、
社会教育協会発行)
・〔Q〕『明治以前の我が国に於ける自然科学の発達』(教学局編纂
「教学叢書 第十輯」、昭和16年、内閣印刷局発行)
・〔R〕「ゾンマーフェルト教授」〔「科学者の面影」の内〕(『戦争と科学』、
昭和16年、帝国大学新聞社編・刊、所収)
・〔S〕『WESTERN SCIENCES IN LATER TOKUGAWA
PERIOD』(英文、昭和17年、日本文化中央聯盟刊)
・〔これは、【著作〔O〕】(啓明会での講演)の英訳である。〕
・〔T〕『科学史考』(昭和19年、河出書房刊)
・・・ 「没後」 ・・・
・〔U〕『黎明期の日本科学』(序文・桑木厳翼、跋文・桑木務、昭和22年、弘文堂書房刊)
・〔【著作〔T〕】=『科学史考』からの日本科学史を中心とした再録が
多い。〕
・〔【著作〔H〕】=『物理学と認識』から「九州における理学の先駆」
・〔【著作〔L〕】=「PHYSICAL SCIENCES IN JAPAN (1542―1868)」
を附録に収録。
・〔V〕『アインシュタイン伝』(改造選書、桑木務:新版の序、装幀者:
恩地孝四郎、昭和22年10月、改造社刊)
・〔W〕『アインシュタイン』(桑木務・西尾成子増補、サイエンス社、昭和
54年)〔【著作(N)】=『アインシュタイン伝』の増補版〕
・「1」・桑木彧雄と東京物理学校
・▼・[岡本・山内:文献①]・・・
・岡本良治・山内経則「桑木彧雄氏の経歴について―100年目の小さ
な謎―」(日本物理学会講演概要集、2007〔Web公開による。〕)には、
「桑木彧雄氏は東京物理学校の講師であったとういう記述が一部にある
が、桑木彧雄氏の履歴書にはその事実は記載されていない。小倉金之助
の回想録にはボランティアの講師であったという記載がある。」
とあった。
・▼・[原田:文献②]・・・
・原田雅博「物理学者・桑木彧雄に関する資料」(『社会文化論集』
第15号、2018年3月、抜刷。〔Web公開による。〕)の中の「桑木彧雄
の略歴」には、
「1904(M37)年-1905(M38)年
東京物理学校で講師。日露戦争で軍務につく。」
とある。
・▼・[「桑木文庫」解説:文献③]・・・
・九州大学附属図書館の「桑木文庫」の解説〔Web公開による。〕の
中の「経歴」では、
「明治36年頃 東京物理学校で講師となる。」
とある。この記述は、會田軍太夫の「九大時代の桑木彧雄先生」
〔会田:文献㉘〕によるものである。
・上記の文献①~③を見ると、桑木彧雄の「東京物理学校の講師」に
ついての記述が、十分に明らかでないことがわかる。
・私は、『東京物理学校五十年小史』(東京物理学校刊、昭和5年)〔文献
④〕に、「講師年表」があるのを思い出した。私は、すでに「石原純
自筆年譜」(和田編・追補)の記述においてこれを使用し、桑木彧雄
の「講師」に時期について2回あることを記していたからである
〔和田:文献⑥、p145〕。
・その『東京物理学校五十年小史』の「講師年表」には、
「 担任学科 氏名 委嘱 解嘱
物理 桑木彧雄 明治34 明治37
同 明治39 明治40 」
とある〔文献④、p203〕。
・すなわち、桑木彧雄の「東京物理学校講師」の時期は「日露戦争で
軍務につく」前後の2回であることがわかる。
・最近の研究者は、『東京物理学校五十年小史』の存在すら知らない
人が多いのかもしれない。東京物理学校に関連する人物研究には、
必読の書であることを、ここに強調しておきたい。
・また、小倉金之助の「明治科学史上における東京物理学校の地位」
(「東京物理学校雑誌」第600号、昭和16年、〔小倉:文献㉕〕)も、物理
学校について理解するには欠かせない論考である。
・ここで、ついでに述べておくと、石井研堂の『明治事物起源』に
おける「東京物理学校」についての記述は、そのほとんどが誤り
であるから注意が必要である。
その昔、岡部進氏が『小倉金之助 その思想』〔岡部:文献㉖、p13〕
において、東京物理学校について『明治事物起源』から引用してい
たので、私は小倉金之助研究会の席で、その文に誤りの多いことを
指摘したことがあった。
近年にも『明治事物起源』からの引用によるものと思われる記述を
見かけたので、ここに言及した次第である。
・【桑木彧雄と東京物理学校のまとめ】・
・「桑木彧雄の東京物理学校『講師』の時期」
・第1期・・明治34年(1902)~明治37年(1904)
・第2期・・明治39年(1906)~明治40年(1907)
・桑木彧雄と東京物理学校とのかかわりを見ておくことは、桑木の
その後の歩みと深い関係がある点で、必須の事柄である。小倉
金之助への影響、岡邦雄との関係、さらには會田軍太夫との関係
へ、とつながるものである。その具体的内容については、後述
するが、「教育者としての桑木彧雄」の原点は、この「東京物理
学校講師」の時代にあるといえよう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・以下に、桑木彧雄の「経歴」とその「業績」について
〔Ⅰ〕=「ヨーロッパ留学まで」(1878~1907)
〔Ⅱ〕=「ヨーロッパ留学以後」(1907~1945)
の二期に分けて、「年譜」としてまとめつつ、考証と考察をしてみ
よう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・ 【 桑木彧雄 】 ・・・
・ 〔 「科学史研究」 第10号 (復刊第1号) より 〕
・ 〔 1949年4月、岩波書店刊、和田文庫蔵 〕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・「2」・桑木彧雄の「経歴」とその「業績」
―〔Ⅰ〕・「ヨーロッパ留学まで」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・▼・【桑木彧雄の「経歴」とその「業績」・〔Ⅰ〕・「1878~1907」】
・【明治11年(1878)】
・9月9日 〈桑木彧雄〉・東京に生まれる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・【明治12年(1879)】 3月14日 アルバート・アインシュタイン、
ドイツ・ウルム市に生まれる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・【明治14年(1881)】
・1月15日、〈石原純〉・東京に生まれる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・【明治16年(1883)】 エルンスト・マッハ:『力学史』なる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・【明治20年(1887)】 マイケルソンとモーリーの実験で、エーテル
に対する運動の検出はできなかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・【明治23年(1890)】
・〈小倉金之助〉・酒田尋常高等小学校に入学。
・12月、〈仁科芳雄〉・岡山県に生まれる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・【明治25年(1892)】 ローレンツ、電子論の基本を定式化。
・【明治26年(1893)】
・〈山川健次郎〉・東京帝国大学理科大学学長となる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・【明治28年(1895)】 ローレンツ、ローレンツ収縮仮説を発表。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・【明治29年(1896)】 7月、第一高等学校卒業。
・10月、アインシュタイン、チューリッヒのスイス連邦工科大学に入学。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・【明治31年(1898)】
・〈長岡半太郎〉・「ポアンカレ小伝」(「東洋学芸雑誌」200号)
・ポアンカレについて日本で初めての紹介文。〔長岡:文献⑬所収。〕
・〈林鶴一〉・12月、『新撰幾何学』(博文館、帝国百科全書の一冊)。
〔最初の非ユークリッド幾何学の書〕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・〈桑木彧雄〉・7月、東京帝国大学理科大学物理学科卒業。
9月、同大学院に入学。
同月、助手となる。〔東京大学文書館デジタルアー
カイブによる。〕
・【長岡半太郎教授の指導を受ける桑木彧雄】
・「卒業後、私は長岡先生を指導教授として仰いで、力学を専攻した。
先生からマッハの力学書やヘルツの力学を学んで深き感銘を得た
のである。」〔桑木:「師・友・書籍」、『科学史考』=【著作〔T〕】
p531〕
・〈石原純〉・第一高等学校理科に入学。
・〈横山源之助〉・4月、『日本の下層社会』。
・〈福沢諭吉〉・6月、『福翁自伝』。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・【明治33年(1900)】
〔原田:文献②の「資料1」、および森口:文献⑧を参照。〕
・〈ポアンカレ〉・「実験物理学と数理物理学との関係に
就て」を、長岡半太郎が出席したパリにおける「第1回
万国物理学会」(1900年8月)で講演する。
・〈徳富蘆花〉・8月、『自然と人生』(民友社)を刊行。
・・・ 【 自然豊かな日本の面影 】 ・・・
・ 徳富蘆花 『自然と人生』 表紙
・ 〔 明治33年8月初版刊、大正十年4月241版より 〕
・ 〔 民友社刊、和田文庫蔵 〕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・【明治34年(1901)】
・6月、〈山川健次郎〉・東京帝国大学総長となる。
・山川健次郎は、6月5日まで「物理学第一講座の教授」であった。
・8月、〈桑木彧雄〉・東京帝国大学理科大学助手を辞める。
〔東京大学文書館デジタルアーカイブによる。〕
・8月、〈桑木彧雄〉・東京帝国大学理科大学講師となる。(*)
(明治34年8月から明治40年8月まで)
・【桑木彧雄は、東大の「助教授」にはなっていない】・
*)「科学史研究」復刊第一号〔通巻10号〕の記事「前会長桑木
彧雄博士を悼む」〔文献⑨-A)〕には、「卒業後間もなく同大学
理学部講師となり、やがて助教授となった。」とあるが、この
記述には誤りがある。
桑木彧雄は、明治40年、ヨーロッパに留学するまで、「講師」
のままであり「助教授」にはなっていない。それは、『東京
帝国大学50年史』〔文献⑩〕の「下冊」の「教職員の異動」
(p480)の「講師」のところに「明治34年8月~明治40年
8月 桑木彧雄」とあることから明らかである。
これまで、「文献⑨-A)」に依拠して、「助教授となる」との
記述が、私のもの〔和田:文献⑥、p144、文献⑦、p363〕を
含めて、多くの文献にみられた〔例えば、西尾:文献⑪、p206〕
ので、ここに考証した。
このたび、岡邦雄の「桑木彧雄先生」〔岡:文献㉗〕でも、「間
もなく助教授となった。」とあることがわかった。さらに、
『科学史技術史事典』(伊東俊太郎ほか編、弘文堂、昭和58年、
文献㊳)の「桑木彧雄」〔辻哲夫筆〕の項にも、「その後理学部
講師を経て助教授となる。」とある。これらも文献⑨-A)によ
るものであろう。
文献⑫の『長岡半太郎伝』は、「講師」の期間を「留学まで」
〔p313〕と正しく記述している。
・〈桑木彧雄〉・『東洋学芸雑誌』〔18巻〕に「実験物理学と数理
る。〔(一)〔3月〕234号~(四)〔12月〕243号〕
・【桑木彧雄へのポアンカレの影響について】
*)これは、長岡半太郎が出席したパリにおける「第1回万国物理学
会」(1900年8月)でポアンカレが講演したものである。その後、
ポアンカレの『科学と仮説』(1902)に収録された〔第9章、第10
章〕。長岡が、「仏国物理学者の理論報告中此論は其最大価値有るも
のなるべし。」と評価し、当初、まだ「助手」であった桑木が訳出
したものである〔文献⑭、pp215~216〕。
桑木は、この翻訳とポアンカレとの関係について、後に自身でも
詳しく述べている〔桑木:文献⑭〕。ちなみにポアンカレを日本に
最初に紹介したのは、長岡の「ポアンカレ小伝」(明治30年〔1898〕、
「東洋学芸雑誌」第200号、〔長岡:文献⑬、所収〕であろうと言
われている〔桑木:文献⑭、p392〕。桑木が、晩年のポアンカレと
その別荘(パリ市外のロゼール)で対面するのは、1909年4月の
ことである(同前、p394)。
桑木は、大学二年の時の山川健次郎の「熱力学」講義の大部分が、
ポアンカレの「熱力学講義」によるものであったという。その後
もポアンカレの新刊書を通じて、当時最新の「ローレンツの電子論」
「ラーモアの電子論」(*)などを学んでいる〔桑木:文献⑭、
pp392~393〕。このような学習が、最初の論考「絶対運動論」に
つながっているのである。
*)ジョセフ・ラーモア(1857-1942)、ケンブリッジ大学数学
教授。理論物理学者。「ラーモアの定理」で知られる。
さらに、桑木はポアンカレの死去に接して、「アンリ・ポアンカレ」
を『東洋学芸雑誌』〔1912〕に書いているが〔桑木:『絶対と相対』
=【著作〔G〕】、所収〕、これについては後述したい。桑木への
ポアンカレの影響は、このあとも生涯にわたっており多大である。
なお『科学と仮説』(1902)の最初の翻訳は、林鶴一(当時、東京
師範学校教授)の『科学と臆説』(明治42年〔1909〕12月、大倉
書店刊)である。
・・・ 【 ポアンカレ 】 ・・・・・・・・・・・
・〔 ポアンカレ 『科学の価値』 口絵より 〕、
・〔 田辺元訳、大正5年十月、再版、岩波書店刊、和田文庫蔵 〕
・1901年、ノーベル物理学賞:レントゲン、「X線の発見」。
〔以下、ノーベル物理学賞の記述は、主に『コンサイス科学年表』
(湯浅光朝編著、三省堂、1988)による。〕
・〈夏目漱石〉・この年、ロンドンに留学中、化学者・池田菊苗と頻繁
に議論し、科学への興味がつのる。「倫敦消息」を『ホトトギス』
に掲載。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・〈桑木彧雄〉・東京物理学校講師を兼任。(*) =【第1期】
・【東京物理学校と東京大学との教員人事交流について】・
大学との兼任者が多い。それは、創立者の面々が、東京帝国大
学理科大学〔当時は、東京大学理学部〕仏語物理学科の卒業者
で、その多くは昼間に大学などに勤務し、夜間に物理学校で
無給講師として講義をしていたからである。東京物理学校は、
ながらく夜間のみの講義であった。ついでに、述べておけば
東京理科大学と東京大学との教員人事交流は、今日まで連綿
と続いている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・【明治35年(1902)】
・5月、桑木彧雄・述、渡辺潔・記『験糖器之説明』
・明治35年12月15日発行の『東京帝国大学一覧』(東京帝
「理科大学」「職員」の「講師」のところには、
物理学 理学士 桑木彧雄 東京 士〔士族〕
物理学 理学士 新城新蔵 福島 平 」
とある〔文献⑭、p247〕。
・なお、「大学院理科学生」(明治35年9月末現在)のところ
にも、
「力学 理学士 桑木彧雄 東京 」
とある〔文献⑭、p(15)〕。すなわち、この時点で桑木は
「講師」であり、かつ、「大学院理科学生」であった。
・「物理学」の「助教授」も三名で、「鶴田賢次」「田丸卓郎」
「中村清二」のうち、鶴田と田丸は「留学中」とある。
・「教授」は、以下のとおりである。
「物理学第二講座担任」として、「田中舘愛橘」
「理論物理学講座担任」として、「長岡半太郎」
・また、「理科大学」の「学生及び生徒」の項には、
「理論物理学科」 「第三年」に「愛知敬一」
「第一年」に「石原 純」
「実験物理学科」 「第三年」に「寺田寅彦」
とある。
・以上の人名などから、明治35年(1902)当時の桑木彧雄の
周辺を知ることができる。
・〈ポアンカレ〉・『科学と仮説』〔1902〕初版・刊。
・1902年、ノーベル物理学賞:ローレンツ、ゼーマン。
「放射に対する磁場の影響の研究」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・【明治36年(1903)】
・【明治36年の「理科大学」「職員」「学生」】・
・次に、明治36年12月3日発行の『東京帝国大学一覧』(
東京国大学)〔文献㊷〕を確認してみよう。
「理科大学」「職員」の「講師」のところには、
「 物理学 理学博士理学士 本多光太郎 東京 平〔平民〕
物理学 理学士 桑木彧雄 東京 士〔士族〕
物理学 理学士 新城新蔵 福島 平 」
とある〔文献㊷、p267〕。
・なお、「大学院理科学生」(明治36年9月末現在)のところ
には、
「 力学 理学士 桑木彧雄 東京 」
「 地球磁力 理学士 寺田寅彦 高知 」
とある〔文献㊷、p(16)〕。すなわち、この時点でも桑木は
「講師」であり、かつ、「大学院理科学生」であった。
・「物理学」の「助教授」は二名で、「中村清二」「田丸卓郎」
ともに「留学中」とある。
・「教授」は、以下のとおりである。
「理論物理学講座担任」として、「長岡半太郎」
「物理学第一講座担任」として、「鶴田賢次」
・また、「理科大学」の「学生及び生徒」の項には、
「理論物理学科」 「第二年」 「石原 純」
「実験物理学科」 「第一年」 「福田為造」
とある。
・以上の人名などから、明治36年(1903)当時の桑木彧雄の
周辺も知ることができる。
(初等の力学〔重学(重力・分子力・静力学・動力学など)〕)から感
化を受け、物理学に魅せられる。さらに公私にわたりアドバ
イスなどを受けた。
・【小倉金之助への桑木彧雄の影響について】
・桑木の影響で、物理学に魅せられた小倉は、桑木につれられて、
東大の物理学教室で、液体空気に関するいろいろの実験を見学
する。その実験を見て非常な感激をうけた小倉は、何とかして
東大で物理学を学びたいと思うようになる。
そして、愛知敬一の紹介で、東大教授長岡半太郎に物理の選科生
として学びたいとお願いするが、受け入れられなかった。その後、
小倉は、池田菊苗教授の厚意により、化学選科生として学ぶこと
になる。
・【マッハの『力学史』と桑木彧雄・小倉金之助の研究テーマ】
・小倉は、マッハの『力学史』を桑木から教えられて読んでいる。
ちなみに、『力学史』の第1章は「静力学原理の発達」である。
東大の物理学教室で、小倉が、「液体空気に関するいろいろの実
験を見学」しているのも、『力学史』の第1章の第6節「静力学
原理の液体への応用」、第7節「静力学原理の気体への応用」の
内容にそったものであることがわかる〔マッハ:文献⑯〕。
このような学習体験は、後に「力学を幾何学より観る」(和田:
文献㉙、p150参照)という数学者・小倉金之助の研究テーマに
も通じていくものである。
・桑木彧雄の研究テーマもまた、マッハの『力学史』から多大なる
影響を受けていることは、以後の桑木の論考類などから明らか
である。物理学者にして認識論学者、これはマッハと桑木に共通
しているものである。
・【「教育者としての桑木彧雄」の評価という視点】
・中学校を中退して、上京していた小倉に対して、桑木が中学だけ
は卒業してはどうかとアドバイスし、小倉は大成中学へ編入学
して卒業したのである。桑木の小倉への影響は、公私ともに多大
であった。また、科学史・数学史への興味を喚起したのも、桑木
であったという。〔和田:文献⑤、pp115~116〕
・「東京物理学校講師」としての桑木を考える時、これまでまった
く指摘されてこなかったのは「教育者としての桑木彧雄」の評価
である。小倉金之助への感化は、まさに桑木の「教育者としての
一側面」を示している。
・伊藤憲二がいうように、桑木は確かに「『論文』の無い科学者」
である〔伊藤:文献㉝~㉟〕。そして、伊藤は「桑木は何者であ
ったか」と問うている。しかし、伊藤の考察で欠けているのは、
「教育者としての桑木彧雄」を評価するという視点ではないだ
ろうか。伊藤は、ヨーロッパ留学中の桑木が教育視察をしたこと
には触れている〔伊藤:文献㉞〕が、桑木の業績を「教育者とし
て評価」するという視点には至っていない。
・【「教育界への桑木彧雄の貢献」を評価する】
・後述するが、私は、このたび桑木が中等教育用の「物理学教科書」
〔「著作一覧」:(I)(J)(K)(M)参照〕を単独で執筆している
ことを知り、やはり「教育界への桑木彧雄の貢献」を正当に評価
しなければならないことを痛感したのである。
・桑木の「東京物理学校講師」の時代は、その「教育者としての
桑木彧雄」の出発点として重要な意義をもっているのである。
ここでは、小倉金之助への影響をのみを確認したが、以下におい
ては、「教育者としての桑木彧雄」・「教育界への桑木彧雄の貢献」
という視点を、常に背景に見据えて考察することが、桑木を再
評価する一つの大きな軸となり得るのではないかと思われるの
である。
・東京物理学校の卒業生は、中等教育の教員となる人が多数を占め
ていたのであり、いわば教員養成所のような学校なのであった。
当時は、小倉金之助のような専門的研究者になった人は、極めて
稀な存在であった。そして、物理学校の卒業生たちの多くが、
中等教育の現場において、桑木による中等教育用の「物理学教科
・12月、〈長岡半太郎〉・「土星型原子模型」を発表する。
・1903年、ノーベル物理学賞:ベックレル、キュリー夫妻。
「放射能の発見とその研究」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・【明治37年(1904)~明治38年(1905)】
・〈桑木彧雄〉・日露戦争で軍務につく。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・【明治37年(1904)】
・〈小倉金之助〉・「ベルヌリー兄弟の数学的生涯」を、『東京
物理学校雑誌』(14巻)に発表。
・〈ローレンツ〉・ローレンツ変換式を発表。
・〈寺田寅彦〉・9月、東京帝国大学理科大学講師となる。
・1904年、ノーベル物理学賞:レーリー、「アルゴンの発見」。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・【明治38年(1905)】
・2月、〈小倉金之助〉・東京物理学校の「全科」を卒業。
9月、東京帝国大学理科大学化学選科生となる。三上義夫
を知る。
・3月、〈アインシュタイン〉・「光量子仮説」の論文を発表
する。
〔『アインシュタイン論文選―「軌跡の年」の5論文』、ジョン・
スタチェル編、青木薫訳、ちくま学芸文庫、2011、所収〕
・5月、〈アインシュタイン〉・「ブラウン運動」についての
論文を発表する。〔同前、所収〕
・6月、〈アインシュタイン〉・相対性理論の第一論文「運動物
体の電気力学について」を発表する。〔同前、所収〕
・【桑木彧雄が、相対性原理を日本に紹介したのはいつか】
・桑木自身の回想によれば、アインシュタインの第一論文が出た直
後から、この論文に注目しており、翌年7月の「絶対運動論」の
発表へとつながったという。〔桑木『物理学序論』=【著作〔F〕】、
「出版に際して」による。〕
・『日本の物理学史』(下)〔文献⑱〕の附録2「年表」の1905年の
ところには、「桑木彧雄、アインシュタインの論文を『関係性原
理』の名で紹介」とあるが、これは、1911年のところに書く
べきものを、ここに挿入したミスであろうと思われる。なぜなら、
本文の「資料6-2」に「わが国における最初の相対性原理の紹介」
として収載されている桑木論文は、1911年の「東京物理学校雑
誌」のものだからである。
・このような権威ある文献に記されると、その影響は小さくはな
い。事実、私自身もこれにより「石原純自筆年譜」の追補に書
いてしまった経験があるからである〔和田:文献⑥、p146、
文献⑦、p365〕。
・さらに、高田誠二は、その著『プランク』の中で「桑木は、
それに先立ってアインシュタインの相対論第一論文(1905年
の著名な三論文の一つ)を『関係性原理』という呼び方でその
年のうち!に日本の雑誌に紹介し、翌年の東京数学物理学会
で「絶対運動論」一報を発表した。」(〔高田:文献⑲〕、pp169-
170)と述べているが、これも文献⑱の記述に従ったものと思
われる。
・上記の『日本の物理学史』(下)〔文献⑱〕の附録2「年表」と
同じく、湯浅光朝編著『コンサイス科学年表』〔文献⑳、p350〕
にも、同様の記述が見つかった。これらの記述のルーツは、
おそらく『科学技術史年表』(菅井準一ほか編集、平凡社、
昭和31年)〔文献㉑〕のようである。これにも同様の記述があ
るからである〔文献㉑、p338〕。
・7月、〈ポアンカレ〉・「電子の力学について」を発表する。
・ポアンカレが『科学の価値』(1905)の中で、長岡半太郎の
「土星型原子模型」を評価する〔田辺訳、文献⑰、p252〕。
・〈三上義夫〉・ポアンカレの「数理物理学の原則を論ず」を翻訳する
(「東京物理学校雑誌」)。
・1905年、ノーベル物理学賞:レーナルト、「陰極線の研究」。
・〈夏目漱石〉・1月、「吾輩は猫である」を『ホトトギス』に発表し
始める。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・【明治39年(1906)~明治40年(1907)】
・〈桑木彧雄〉・東京帝国大学理科大学講師(明治40年8月まで)
のまま、東京物理学校講師を兼任する。 =【第2期】
・・・ 【 「大英百科全書」 購読者からの書簡 ・ 桑木彧雄 】 ・・・
〔 『倫敦タイムズ社寄書』、倫敦タイムズ社東京支社編輯、明治39年1月刊より、和田文庫蔵 〕
・【明治39年(1906)】
を発表。
・7月、〈桑木彧雄〉・「説明と記載」(『理学界』第4巻)
・〔今日、「科学図書館」の「桑木彧雄の部屋」においてWeb公開
されている。〕〔文献㊵〕
・これは、後出の「物理学総論」の中の「4、因果律」に書いた
元原稿から整理したものである(『物理学序論』の「出版に際し
て」参照)。
・「近世物理学に対する批評の中で、単に記載学派(*)として
凡ての傾向を論じてあるのが多いが、記載という字には、是の
如く種々の用い様があって、傾向は必ずしも皆所謂 経験論
(Empiricism)的ではない。」〔「説明と記載」の結びの部分。
文献㊵による。〕
*)キルヒホッフ学派。Descriptive School。
・この論考の続編ともいうべきものが、後出の『物理学序論』
(1921)の附録二「説明と記載と構成」であるが、ここでの
論点は、まずは同じく『理学界』(巻9)に掲載された
「物理学上の認識の問題」(1912)へと発展する〔後述、1912
年の項〕。さらに、同じく『理学界』(巻11)に掲載された「熱
力学の方法」(1914)、および「物理学と認識」(掲載誌不詳、
1915)に結実していく〔後述、1915年の項〕。
・7月、〈石原純〉・東京帝国大学理科大学理論物理学科卒業。
引き続き、大学院に学籍を置く。
・11月、〈桑木彧雄〉・「絶対運動論」が、『東京物理学校雑誌』
(15巻、180号)に掲載される。
〔桑木『物理学と認識』=【著作〔H〕】に収録。〕
・この「絶対運動論」の目次は、以下のとおりである。
・二、ニュ―トンの説
・三、ニュ―トンの説の継承
・四、ライプニッツの説
・五、運動律の標準体系説
・六、マッハの説
・七、空間の表象
・八、エーテルの概念
・十、結論
・【「絶対運動論」に、アインシュタインの影響はあるのだろうか】
・この「絶対運動論」に、アインシュタインの名はない。しかし、
アインシュタインの相対論第一論文の影響はあるのだろうか。
・【アインシュタインの論文を示唆している〔田中節子〕】
・この「絶対運動論」の「十、結論」の末尾の
「絶対静止絶対進行を考ふるには現在には電子論の影図に入ら
ざるべからざるなり。唯だ電子論影図が他の関係運動を以て
根拠とする影図によりて代えられるなきや否は自ら別問題と
なる。」
というこの一文が、「非常に控えめであるが、アインシュタイン
の論文を示唆している」と解釈したのは、田中節子である。
田中は、桑木『物理学序論』=【著作〔F〕】の「出版に際して」
〔大正10年8月〕の文章とあわせて読むと、「少なくとも、
桑木彧雄は日本で最も早くアインシュタインの特殊相対性理論
の重要性を理解していた、と言える」と述べている。〔田中:
文献㉒、pp33~34〕
・【アインシュタイン特殊相対論への暗黙の支持〔安孫子誠也〕】
・この田中の論考を評価した上で、安孫子誠也は、次のように述べて
いる。
「最後に、ローレンツの電子論が取り上げられ、そこにおける
絶対運動の認識不可能性に対し『絶対運動を経験的に認識で
きるというのはまったくの誤謬である』と論難する。この言葉
の背後には、桑木のアインシュタイン特殊相対論への暗黙の
支持を読み取ることができる」〔安孫子:文献㉓、pp140~141〕。
・【アインシュタインの名も論文の紹介もない】
・再度言及すれば、「絶対運動論」にはアインシュタイン名も論文の
紹介もない。確かに、この時点で、桑木はアインシュタインの第一
論文を読んで、その重要性を感じとってはいたであろうが、「絶対
運動論」の中では、アインシュタインの論文にそのものについては
言及していないこともまた事実である。
・【桑木の講演・論文の内容を知って相対論に思い至った者は
いなかった〔岡本拓司〕】
・岡本拓司も「1906年当時、桑木の講演・論文の内容を知って相対
論に思い至った者はいなかったのではないかと考えられる。」と述
べている〔岡本:文献㉔〕が、そのとおりであろう。
・【「絶対運動論」とローレンツの電子論】
・私は、最後にエーテルの問題とローレンツの電子論とを主題にして
いることから考えると、直接的にはローレンツの電子論などに触
発されて書きはじめたものと見るのが自然ではないかと解釈した
い。それは、「一、序論」において、
「此の問題は種々の学者の研究題目となり又輓近電子論により
て更に問題を新たにした観がある。之に関する論文マッハ、
ノイマン以後に数十篇を数ふる。・・最近三四年間にはポアン
カレ―、ボルツマン、アブラハム、ラッセル、フヱップル等の
論ぜるもの最も主要である。」〔桑木:『物理学と認識』=
【著作〔H〕】、p65~66〕
と述べていることからも明らかである。これまでの研究者〔〔田中:
文献㉒、安孫子:文献㉓、〕は、この文章については言及していな
い。
・【「絶対運動論」は、当時の学界における最新のテーマであった】
・さらに、「一、序論」を読むと、桑木は、数か月前の「ネイチャー」
誌に掲載されたシュスター教授の「A plea for absolute motion」に
対して、同誌上で二三の反響のあったことを紹介している〔桑木:
【著作〔H〕】、p66〕。すなわち、「絶対運動論」は当時の学界に
おける最新のテーマであったのである。
・【「絶対運動」の二様、ニュートンとマッハ】
・桑木はいう「是等の議論は、要するに、絶対運動なるものを科学上
の概念となし得るものであるか、さうでないかの二様の説に別か
たれるのである。前者はニュートンの唱出せるもので、後説を主張
し大に之れを発達せしめたのはマッハなのである。其説は同氏の
力学史Mach, Die Mechanik in ihrer Entwicklung の中にある。」
〔桑木:同前、p66~67〕。
・【マッハの「力学史」における「経験的相対運動」論】
・マッハの「力学史」を、桑木が小倉金之助に薦めたことはすでにみ
た。その「力学史」に、すでに「絶対運動論」があったのである。
確かにその「第二章 動力学原理の発達」の末尾部分において、
「絶対運動」を論じつつ、マッハは、「経験的には相対運動以外は
存在しない」というハイスマンの説に賛成している。〔文献⑯、
p271~273〕。桑木にとって「絶対運動論」の歴史的検討は積年の
課題なのであった。
・【マッハの「経験的相対運動」論から、電子論の「絶対運動」論を
経て、アインシュタインの相対論の受容へと進む桑木彧雄の
必然的方向性を見る】
・桑木は、「マッハの説」を述べた後にいう。
「以上マッハの経験論的所説である。是れと前節の観念論的
傾向あるものとは力学に於てのみならず、物理学の凡ての部
分に於て相対立し現象論と原子論との別を生ずる。原子論よ
り脱化せる電子論の絶対運動説に本篇の結論を導かんとする
ものである・・」〔桑木:同前、p89〕。
「電子論が絶対運動を可知とし、其概念を容すのは相対運動
論者の賛成しない所である。」「運動といふは元来相対的表象
である。」〔桑木:同前、p100〕。
「マッハ等の現象論者が原子、分子の説を排するのは是等を不
可認識とするからである。」〔桑木:同前、p101〕。
・桑木は、ここで運動というものは「元来相対的表象である」と述べて
いる。それは、「経験上の知識は、凡て相対的(対待的関係的 relative)
である。」〔桑木:同前、p86〕というマッハの「経験的相対運動」論
である。ここには、その後、アインシュタインの相対論をいち早く
受容していくことにつながるところの必然的方向性を見ることがで
きる。
・そして、この「絶対運動論」における課題は、さらに翌年の論考
「電子の形状に就いて」〔1907年の項参照〕へと連なっていくことに
なるのである。
・〈桑木彧雄〉・1906年6月~1907年5月、月刊誌『物理学
講義』(博文館刊)〔*〕に「物理学総論」を連載する。
・これは後に、「補註」などを追加して、『物理学序論』
(【著作〔F〕】、1921)として刊行されることになる。
*〕『博文館五十年史』(1937)の目次によると、明治39年の
ところに、「 『物理学講義録』の創刊 」とある。
・【『物理学序論』の主要目次】・
・「序」〔明治40年7月〕・・・・・・・・・・・・ 1
・一、経験・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1
・「意識的の経験は、観察と実験である。」(p1)
・二、論理・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 7
・「帰納法の原理は、外界の経験と関係するの
である。」(p14)
・三、物理学上の概念・・・・・・・・・・・・・ 14
・「法則は、現象の実際の観察の記載にほかなら
ない。」(p18)
・四、因果律・・・・・・・・・・・・・・・・・ 23
・〈補註〉、「因果律を必然的、アプリオリな範疇で
あるとする議論に餘り多く囚はれていた。」(p88)
・五、仮説・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 35
・「科学は現象の概念を造るを目的とし、概念を造る
は概括に待ち、概括は同時に仮説なりと考ふれば、
科学は到底仮説を脱し得るものではない。」(p38)
・附録の一
・「参考書解題」・・・・・・・・・・・・・・・ 40
一、ヘルムホルツ氏理論物理学講義第一巻の一・ 40
〔1903年出版〕
二、オストワルド自然哲学講義(1902年)・・・ 43
三、ハルトマン近世物理学の世界観(1902年)・ 45
四、マッハ氏「認識と錯誤」等〔1906年〕
・・・・・・・・ 49
五、マクスヱル物質及運動・・・・・・・・・・ 54
六、ポアンカレー氏「科学と仮説」〔1903年〕
「科学の価値」〔1905年〕・・・・・・・・・・ 56
七、スタロ氏、近世物理学の概念・・・・・・・ 80
八、ワード氏自然主義及不可知主義
(1903年再版)・・・・・・・・・・・・・ 84
・・・・・〔明治40年5月〕 ・・・・・・・・ 87
・▼・【以下については、大正10年〔刊行時〕の追加であるから、
大正10年(1923)の項のところで、再度触れる予定である。】
・「補註」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 88
・附録の二
・説明と記載と構成 ・・・・・・・・・・・・・ 95
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・【『物理学講義録』は、刊行目前の留学により中断する。】
・博文館の月刊誌『物理学講義録』に連載された、これらの内容は、
そもそも「物理学とは何か」についての講義であり、「物理学入門」
案内を兼ねたものである。
・博文館は、「帝国百科全書」シリーズなど、優れた教科書類を数多
く刊行していた。この内容は、東京帝国大学理科大学での「講師」
としての桑木の「講義」などを反映したものであろうか。
・博文館の雑誌に連載したものは、普通は博文館で出版されるという
のが、出版界の通例である。桑木は「当時ともかくも夫を一冊子と
して出版しようとしたのであった」〔「出版に際して」より〕。そし
て、その「序文」まで書いていたのである。ところが、桑木は急に
留学が決まったために、その機会を逸してしまったのである。
・【「参考書解題」に見る圧倒する探求心と原典主義】
・この書物で驚くのは、本文40頁に対して、「参考書解題」がそれ
以上の分量を占めている点である。
・桑木の文章は、つまり最新にして、かつ膨大な「参考書」の原書を
読破し、その要綱・要点を簡潔にまとめ上げているものである。
・【ポアンカレ『科学と仮説』、『科学の価値』の内容紹介と解説】
・ポアンカレの『科学と仮説』〔1903〕、『科学の価値』〔1905〕の
概要を紹介し、最大の頁数で解説している。思えばポアンカレの
論考の翻訳から、本格的な研究をスタートした桑木にとっては、
これは当然といえば当然のことである。
・ポアンカレの『科学と仮説』〔1903〕、『科学の価値』〔1905〕も
未だ邦訳のなかった時代であるからこそ、このような詳しい内容
紹介が必要なのであった。これは、この項目だけではなく、「参考
書解題」全体に対してもいえることである。
・『科学と仮説』の林鶴一訳は1909年、『科学の価値』の田辺元訳
は1916年である。言うまでもなく、ポアンカレのこれらの書物は、
今日でも読まれ続けている名著である。日本人に、いな世界に
「科学とは何か」を教えてくれたのは、まさしくポアンカレの功績
である。
・【マッハの「認識と錯誤」など】
・マッハの「認識と錯誤」など〔1906年〕(*)も、当時、最新の
文献である。桑木は、常に世界の最新の情報を吸収し、それを解読・
解説している。このような桑木のマッハの「認識論」などへの追求
姿勢が、アインシュタインの一論文をいち早く紹介したことへと
つながったのである。
*)『認識と錯誤』〔『認識と誤謬』〕の初版の「序」は、『時間
と空間』(マッハ著、野家啓一編訳、1977、法政大学出版
局)に収録されている。
・さらに言えば、このような研究姿勢は、桑木の生涯に一貫している
「方法」であるというのが、私の考えである。ヨーロッパなどの
世界の最新の研究情報を、日本の学界にいち早く紹介することを
桑木は、「自己の使命」であるかのごとく認識していたものと、
私は推測している。なぜなら、『東洋学芸雑誌』などへの桑木の
多数の投稿内容〔原田:文献②、森口:文献⑧、参照〕が、それを
如実に語っているからである。それらの論考を丁寧に読み進めて
いくと、その点はさらに明らかとなるであろう。
・【西洋科学からの受容の時代】
・岡本拓司は、「桑木の議論は諸説を整理して解説を加える点に特徴
があり」〔文献㉔、p86〕と述べているが、その特徴の由来は桑木
の「世界の最新の研究情報を、日本の学界にいち早く紹介する」と
いう研究姿勢によるものであると考えることができる。これは、
日本の科学が未だ「西洋科学からの受容の時代」であったことに
関連している。すなわち、桑木彧雄もまた「その時代の子」であっ
たのである。
・【自立への「模索の時代」】
・辻哲夫は、「日本の物理学者たちが、科学の方法論・認識論に積極
的な関心を示すようになり、・・桑木彧雄、寺田寅彦、石原純など
が、・・理論の変革〔相対論〕を直接うけとめ・・。そうした模索
を通じてこそ、日本でははじめて、科学とは何かを深く理解しうる
ことになった。」〔辻:文献㊶、pp191-192〕と述べている。
桑木彧雄の時代は、まさにこのような自立への「模索の時代」なの
であった。
・【「科学概論」、および「科学哲学」の嚆矢】
・いずれにしても本書の内容は、日本における「科学概論」および
「科学哲学」の嚆矢として位置づけられるであろう。
・これは、桑木彧雄にとっては「科学哲学」研究への出発点でもあっ
た。
・〈三上義夫〉・「ポアンカレの空間論」(「東京物理学校雑誌」)を
発表する。
・〈小倉金之助〉・11月、林鶴一の指導を受け、数学への転向を
決意する。
・〈石原純〉・7月、東京帝国大学理科大学理論物理学科卒業。
引き続き大学院で学ぶ。長岡半太郎教授の指導を受ける。
・〈狩野亨吉〉・6月、第一高等学校長をやめ、7月、新設の京都帝
国大学文科大学長となり、倫理学講座を担当する。
・〈島崎藤村〉・3月、『破壊』(自費出版)。
・1906年、ノーベル物理学賞:JJ.トムソン、「気体内電子伝導の
理論的および実験的研究」。
・【明治40年(1907)】
・2月8日、〈桑木彧雄〉・「電子の形状に就いて」(『東京物理
学校雑誌』、16巻、第183号)〔文献㉜〕を発表。
・【「電子の形状に就いて」は、「絶対運動論」の関連論考である】
・桑木は、論考の末尾に次のように付記している。
「本篇は・・読売新聞教育附録に掲載せるものにして、元来専門の
読者の為にせるものならねども、先きに載せたる絶対運動論の
拙稿と関係せる故多少の修正を加へて本誌の餘白を借り大方の
批評を仰ぐこととせるなり。」〔文献㉜、p80〕
・すなわち、「電子の形状に就いて」は、すでにみた「絶対運動論」
の関連論考であり、その続論ともいえるものである。
・【日本に相対性理論が紹介された最初の論考〔田中節子〕】
・「電子の形状に就いて」は、今日「日本に相対性理論が紹介された
最初である。」〔田中:文献㉒、p34〕と言われている。しかし、
田中節子が指摘した特殊「相対論の要点」とは、この論考の中の
わずかに10行たらずの文章である〔下記参照〕。
・〔以下の引用では、原則として「漢字・カタカナ文」は、
「漢字・ひらがな文」に直して引用する。〕
・【アインシュタインの相対論の要点の部分】
「アインスタイン氏(1905年)は、更に別途に出で絶対運動を
理論の根拠より除き、又二つの場所に於ける同時刻の概念に
は其の両処の間に合図を交換するために光の伝播時間を挟め
ること等、ロ氏〔ローレンツ〕の所謂局所時刻の考を容れ、運
動せる物体の長さを物体以外之と関係運動にある他所よりし
て測るには、上述の定義の下の同時刻に於て該物体両端の位
置を記るして其の長さを測るべきなりとし、是によりて光の
伝播速度や物体の関係速度が、此の長さの測定に入込むこと
を論じ、結局ロ氏の前述の収縮の公式と同一の結果に到着し
たり。」〔桑木:文献㉜、p76〕
・これは、確かに特殊「相対論の要点」ではあるが、その本格的な内
容紹介という点では、桑木の論文「相待原則ニ於ケル・・」〔1911〕
〔後述〕に及ぶものではないといえる。
・田中と同様に、これを「相対性理論が紹介された最初の論考」とし
て記述しているのは、安孫子誠也〔文献㉓、p142〕、西尾成子
〔文献㉛、p74〕である。
・【「電子の形状に就いて」も、「相対性理論」が主題ではなく、
「電子の形状をめぐる議論の経過」である〔有賀暢雄〕】
・そしてこの論考においても「相対性理論」は主題ではなく、有賀
暢迪が指摘するように、あくまでも「電子の形状をめぐる議論の
経過であった」〔有賀:文献㉚、p10〕のである。
・【「ロ」「アイ」二氏の公式は、同一の結果であることを紹介】
ここに「ロ〔ローレンツ〕、アイ〔アインシュタイン〕二氏の公式」
とあるように、「アインシュタイン」が、「ロ氏〔ローレンツ〕の前
述の収縮の公式と同一の結果に到着したり。」と結論している。
伊藤憲二が、桑木は「ローレンツの電子論を最も重要な理論として
捉えていた」〔伊藤:文献㉝、p46〕と述べているのは正解である。
・【桑木:「相待性原則ニ於ケル・・」〔1911〕が、特殊相対性理論の
最初の「本格的な内容紹介」論文である】
・これまで、日本における相対性理論の「最初の紹介」としては、
ながらく桑木彧雄による「相待性原則ニ於ケル時間及空間ノ観念」
(「東京物理学校雑誌」第232~234号、1911)であるとされてき
た〔『日本の物理学史』(下巻)に前半部分を収載、文献⑱、下巻、
p226〕。私は、この桑木の論考が、やはり日本におけるアインシュ
タインの特殊相対性理論の最初の「本格的な内容紹介」の論文であ
ることに変わりはないことを、ここに強調しておきたい〔後述、
・6月、〈山川健次郎〉・「私立明治専門学校」総裁となる。
・〈桑木彧雄〉・「私立明治専門学校」〔現・九州工業大学〕の教授
となる。
〔明治40年(1907)7月、設立認可。明治42(1909)年4月、開校。〕
〔1909年4月開校時の学科は「採鉱学科」「冶金学科」「機械学科」。〕
・10月、〈桑木彧雄〉・「明治専門学校」からヨーロッパ留学を
命じられ、渡欧する。
・「会田:文献㉘」には、「文部省によってヨーロッパ留学を命じられ
た」とあるが、「〔岡本・山内:文献①〕では、文部省からの辞令は
なく、明治専門学校から留学の辞令があったという。
学校の設立から開校までには、2年近くの期間があった。この時期
を利用しての留学となったのである。
・〈狩野亨吉〉・11月、総長の推薦により、「文学博士」となる。
・12月、関孝和二百年忌記念講演会で「記憶すべき関流
の数学家」を講演〔病気のため代読による。〕。
・【桑木彧雄と狩野亨吉の共通点をみる】
・桑木彧雄も後に、総長の推薦により、「理学博士」となるが、その
点は狩野亨吉と同じである。狩野亨吉は、桑木彧雄以上に論文・著
作が少ない人である。古本の蒐集の趣味も共通している。また、
二人とも「科学史研究の先駆者」である。さらに、第一高等学校の
名物校長としての狩野亨吉は、たぐいまれなる教育者である。後に、
松本高等学校校長となる「教育者・桑木彧雄」の姿がある。
・〈夏目漱石〉・4月、朝日新聞社に入社。五月、『文学論』刊行。
6月、入社第一作『虞美人草』を連載(~10月)。
・1907年、ノーベル物理学賞:マイケルソン、「干渉計の考案と
それによる分光学およびメートル原器に関する研究」。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・ 【 以下、次号につづく 】 ・・・
「 PHN (思想・人間・自然) 」 第48号
〔2021年8月1日脱稿、和田耕作(C)〕
〔2021年8月5日発行、PHNの会、無断転載厳禁〕