std 10
石原純
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・石原純新短歌鑑賞
――『新短歌』の時代から――
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
和田耕作
【解題】
・『PHN(思想・人間・自然)』第25号(2015年3月)の「石原純
新短歌鑑賞」の復元版を2023年2月に「新原稿」により作成した。
・以下の石原純の新短歌などは、『石原純全歌集』(和田耕作編、2005、
ナテック刊)より引用した。
・ 実証論 (昭和12年)
照るための 陽ではない、
夜を つくるための 昼なのである。
〈二つの手〉の存在を実証せよ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・この作品については、石原純による「自歌自釈」がある。
「自分の二つの手は互ひに反対の側にありながら、それらはい
つも争ふことなく協力する。それは同一の自分に属するから
である。それと同じやうに同一の社会や同一の国家に属する
か人々は、たとへ互ひに反対の立場に立たうとも恰も〈二つ
の手〉のやうに互ひに協力すべきであり、またその協力が実
証されなくてはならないのである。」〔『石原純全歌集』、p175〕
・このような解釈に読者が、たどり着くのは至難の業であろう。
だが、例えば三浦梅園の「侌昜」論を あてはめてみると、
石原純の自釈は、よく理解できる。「昼と夜」「男と女」などは、
「侌昜」の一例である。「男と女」の協力なくして、人間社会
は成立しない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ 戦争心理 (昭和13年)
粥のやうな軟らかさ、なめし皮のやうな硬さ。
さて 現代の世界は、そして人間は、
とかく自分を 主義でいろ別けする。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・「主義でいろ別けする」との状況は、現代でもあてはまる。
今日でも、「人間」たちには「進歩」がないような「分断」と
いうものが蔓延しているありさまである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ 果てしなく世界は乱れる (昭和14年)
人間は ふしぎにも愚かな生き物である。
知らぬ間に 魔法の色硝子を もたされて、
お互ひを透き見しながら 争ひあつてゐる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・前作品を受けて、「人間は ふしぎにも愚かな生き物である。」と
言われると納得である。石原純の作品は、これまで評価されずにき
たが、今日、再評価の時を迎えていると言えるであろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ 運 命 (昭和14年)
開かれた窓より、
閉ざされた窓の かなたにこそ
この世の神秘はある と云ふ。
かくて人間は 人間を欺いてゐる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・「人間は 人間を欺いてゐる。」との言葉も、実に今日的である。
現代の犯罪の本質は、まさに人間が「人間を欺いてゐる。」結果
のほかならない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ 雲 (昭和15年)
雲の瞑想は 神秘である。
神々のけだかい 毛ごろものやうな
雲のすがたよ。
雲は 時刻(とき)を知らない。
ふと生まれて、やがて消え失せ、
でも、常に悠々と 心伸びやかである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・「雲」の一篇には、「詩人・石原純」のすがたがある。石原純は、
新短歌において、なによりも「詩的精神」を探究しつつ、表現し
たのであった。
・山村暮鳥の詩「雲」は、あまりにも有名である。石原純の念頭に
は、暮鳥の詩のイメージがあったのかもしれない。
・また、「雲」は、いつの時代にも詩的表現の頂上にあった。
・夏目漱石の最期の漢詩でも、「雲」〔「白雲」〕は、その詩の核心で
あった。
・・・・・・
眼耳双忘身亦失 〔眼耳 双つながら忘れて 身も亦た失い〕
空中独唱白雲吟 〔空中に独り唱う 白雲の吟〕
(吉川幸次郎著『漱石詩注』、岩波文庫より)
・「野の詩人・堀井梁歩」を、追悼した江渡狄嶺の漢詩の一部も
ここに挙げておこう。
・・・・・・
醇質似対名月 〔醇質は名月に対するに似て〕
詩心似見白雲 〔詩心は白雲を見るに似る〕
(江渡狄嶺著『地涌のすがた』、青年書房刊より)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・〔『PHN(思想・人間・自然)』 第25号、2015年3月〕
・〔2023年2月25日、新原稿により復元版を作成、PHNの会〕
・〔新原稿:2023年2月21日、和田耕作(C)、無断転載厳禁〕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・