ぺこり庵

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■美しいとはなんだろうか(美術工芸特論2-1)

 

自然の造形についてはひとまず措くとして、人工の造形に見出される美とは何か。絵画は、画家が美を求めて悪戦苦闘を重ねてきたから美しい。インド美術は、信仰への赤誠を証明するために魂を捧げたから美しい。つまり、美とは挑戦や格闘の痕跡のことではないかとぼくは思うようになった。美術だけではない。陸上選手の無駄のないフォームも物理学の一般相対性理論も、その比類ない美しさの所以はそこに至るまでの挑戦と格闘ということに尽きるのではないだろうか。ぼくは以前、学習塾で教えていた生徒からよく「数学を何のために学ぶのか」と責められた。ぼくは「自然の摂理の不思議さに感動するため」と答えたが、もちろん納得してはもらえなかった。それは、生徒が、数学が確立されるまでの発見と挫折の歴史を本気で追体験していないからである。そうやって数学の中の「挑戦と格闘の痕跡」を発見することなしにその美を実感することはできないのだ。「この崇高な学問は、その中に深くのめり込む勇気を持つものにのみその魅力を現す」という、天才数学者ガウスの二百年前の言葉もこのことを証明している。
「挑戦と格闘の痕跡」はかくのごとく美にとっての必要条件ではあるが、しかし十分条件ではない。挑戦と格闘は、発見や創造のためのそれでなければならないからである。そうではなく、すでにこの世に存在するものを奪い合うためのそれは、かえって醜さを際だたせる。現代の造形(建築、商品、言語…)がなぜ醜いか。それは現代が奪い合いの時代だからである。「豊かな」現代では、本当に必要なものはすでに行き渡ってしまった。だから、必要のないものを無理やり売りつけるための広告合戦で客を奪い合わなければ生きられない。「もっと安く、もっと早く、もっとたくさん、もっともっと…」という呪縛に首が回らなくなっている。このように、奪い合いのためにしか挑戦と格闘が存在しえない。だから醜い。
光琳は調度品を味わい豊かにするという使命を引き受けて創造力の限りを尽くした。インド人は本当の信仰を求めて命さえなげうった。このような、発見と創造へのやみがたい憧憬を取り戻さなくては現代の芸術は死んでしまうのではないか。自称芸術作品で飽和状態、観客を奪い合うのに汲々たる現代アートシーンを見るにつけ、ぼくはそう思う。

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