■「ままならなさ」の効用(美術工芸特論2−2)
陶芸、染、織…日本にも美しい工芸はたくさんある。これらは実は、いずれも技術的制約による「ままならなさ」が造形的魅力に貢献しているという共通点がある。火熱の気まぐれ、複雑な工程に起因する物理的制約、植物の色むらなどなど、技法や素材によって相手はさまざまなれど、これら「ままならなさ」との格闘なくしては得られない美がそこにはある。
一方、紙に鉛筆で線を引く場合はそういった制約が一切ない。だからこそ、美しい線を引くのは本当に難しい。その格好の例が、(ここで引き合いに出すのは甚だ恐縮ではあるが)講義中にM氏が学生に配った型紙の曲線である。普通の大人が「自由に」引いた線は決まってあのようなうねうね波線になるもので、誰が描いても同じである。つまり、人間は何の制約もないときでさえ自由な線一本引けない動物なのだ。ぼくはよく、紙の上で新種の文字を即興で発明するという遊びをする。文字らしく見えれば意味など与えなくてもよい。ただ自由に鉛筆を走らせて新しい文字をでっち上げればよい、というルールにする。ところが、何の制約もなく鉛筆を走らせる権利があるにもかかわらず、ぼくの創り出す造形はやがて同じようなパターンの繰り返しに収斂してゆく。文字と呼べる造形とはほど遠い、貧しい線の集まり。名目上は「自由」でも、ぼくが実際に引く線はちっとも自由ではないのである。こんな有様だから、美しさを獲得するためにはなんらかの制約との出会いがどこかで必要になってくる。極言すれば、美とは、どのような「ままならなさ」と出会い挑戦しどのように格闘したかという記録のことであるとぼくは思う。
考えてみれば、自然の造形が多様で美しいのはそれが悠久の昔から無数の「ままならなさ」と闘ってできた造形だからである。途方もない年月、風雨や温度変化、あるいは生存競争の圧力と闘い変化し続けなければならなかったのだ。文字や話し言葉のもつ美しさもまた同様である。文字というものが歳月を経て現在の形になったのは、ただ情報を伝えんがためである。それだけのものなのに、どういうわけか本来の目的とは関係なく造形として純粋に面白い。それは、なんとかして意志を伝えようとする「ままならなさ」と闘ってきた歴史の当然の帰結である。
美は、人間の計算の少し外側にある。修練によって計算がそれに追いついたと思ったら、逃げ水のようにまたその少し先で手を振っている。これが、芸術にとって最大の「ままならなさ」であるにちがいない。