ぺこり庵

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■未知の文字

 

●1
電卓の文字以前、職場づとめをしていた頃、毎朝出勤すると決まって眼に入るのが、職場の電卓にいつのまにか表示されているおかしな文字である。この電卓はごく普通の事務用のもので、用途は数字の計算、表示される文字は0から9までの数字10文字と決まっている。それがどういうわけか、朝一番に見ると液晶の窓に不思議な文字が現れていて、しかもそれが毎朝異なるのである。おそらく夜明けの不十分な光のもとで太陽電池がおぼつかない身支度をした痕跡なのだろう。電卓という簡素きわまりないデジタル製品でも、人間の想定外の挙動をするのである。
未知の文字というのは、意味や文法に影響されることなく純粋に造形として楽しめておもしろい。ランダムな造形の中にある一定のリズム感や統一感、しかも他のどの言語とも違う個性。それでいてそれが「言語である」ということだけは直観的にわかる。電卓の謎の文字は、人間が発明したものではないにもかかわらず、これらのすべての条件を備えた不思議な造形である。

 

●2
暁に化石のごとく刻まれし宴たけなわの虫たちの跡

 

深夜、人が寝静まると、家具や人形たちがみな楽しく遊び出し、歌い踊るのは周知の事実である。電卓の中の虫たちも夜毎、液晶画面の上まで這い出てきては歌い、駆ける。彼らは陽気な太陽電池を愛しているし、夕方過ぎにはすぐに眠ってしまう彼のおかげで闇の人生を謳歌している。寝ぼけている時の太陽電池は虫たちの格好の遊び相手だ。しかしひとたび彼が目覚めると、命令に忠実な電子たちによって虫たちは一分の隙もなく駆除されることになっている。何しろコンピュータとも呼べないほど簡素で見通しのよい電子回路の上だからひとたまりもない。だが、虫たちもそれほど従順なわけではない。夜明け頃、決まって彼らは危険な遊びを始める。誰が一番最後まで逃げずに残っていられるか競争するのだ。液晶に残された文字は、逃げ遅れ固まってしまった虫たち自身か、あわてて逃げ帰った彼らの足跡か。

 

●3
ぼくの「芸術」の定義(注)の中に、「人間が自分の生きざまを賭けて創ったもの」という一項がある。
だから、電卓の未知の文字が芸術といえるかどうか考えるとき、ネックとなるのはここである。技術者が生きざまを賭けて(?)創ったものはあくまで電卓であって未知の文字ではないからある。(そして、ぼくが惹かれるのはあくまで未知の文字であって電卓ではない。)だから、ぼくにとって未知の文字は芸術の範疇には属さない、ということになる。それではなんと呼ぶか。ぼくは「芸術のたね」と呼びたいと思う。「自然」はもちろんそのままでも十分美しいが、ある制限をくぐり抜けるとより魅力的になることがある。制限の網の目が細かいほど、そこから漏れ出たものは美しい。これはすべての芸術の出発点にも通じるものではないかと思う。電卓ほどシンプルで完璧なデジタル製品もないと思うが、「自然」がその人間の完璧な計算の網の目からやっと漏れ出てきたものが美しいのは、だから当然かもしれない。

(注)
ぼくの「芸術」の定義は、次の三点をすべて満たすもの、である。
・人間が自分の生きざまを賭けて創ったもの
・人が惹きつけられるもの
・人が惹きつけられる理由について、動物行動学的に合理的な説明がつかないもの
なお、「よい芸術」の基準はまた別にあるがここでは割愛する。

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