慣性飛行とスイングバイ

- 大家と店子の問答(その3)-

(2015年7月2日)


 大工の熊さんは大家にいつもやり込められているので一泡吹かせたいと思っているのですがなかなかそうはいきません。今日は大家が答えられない問題を太郎君が見つけたと思い、大家の家に太郎君とやってきました。

(熊) 大家さんなら判るだろうと思って聞きにきたんだ。いきなりだが、ロケットの打ち上げで慣性飛行に入ったというアナウンスは間違いではないかと太郎に聞かれてね。

(大家) 何だい。慣性飛行とは慣性運動のことだね。

(熊) JAXAが種子島からロケットで衛星を打ち上げる時ね、アナウンスがあるだろう。H-UAロケットは1段目の燃焼が終わった後、間をおかず1,2段分離をして2段エンジンを着火する。そして2段エンジンの停止があると、アナウンスは「ロケットは慣性飛行に入りました」と状況を伝える。そして赤道を越えるあたりで、2段エンジンの再着火なり、3段ロケットの点火をするシーケンスは大体何時でも同じだ。この間、20分近く慣性飛行を続けている。

(大家) そうだね。エンジンを停止することによってロケットには何も力が働いていない状態になった。ニュートンの運動の第一法則が示す状態にあるという意味だね。物体に何も力が働かない時、静止している物体は静止を続け、運動している物体は定速直線運動を続けるというのがこの慣性の法則だった。だから2段エンジンが停止して、ロケットは「慣性飛行に入った」と言っているのだろう。何かおかしいかい。

(熊) 慣性飛行とは何も力が働かない時の運動だろう。ロケットには重力が何時も働いているではないか。実際、ロケットは定速ではあるが地球の表面に沿って高度を保っているから、直線運動ではないだろう。慣性飛行とは言えないのではないかというのが太郎の疑問だよ。JAXAのアナウンスは何時も間違ったことを言っていることになる。

(大家) なるほど、太郎君は良いところに気が付いたね。実はね「慣性飛行に入った」という表現は間違いでもあり、正しくもあるのだよ。

(熊) 間違いではないが正しいとは矛盾したことを言うね。

(大家) ニュートン力学では重力は力であるとしているから、慣性運動というのは実際にはあり得ないことになる。厳密に言えば宇宙空間で重力の全くない空間というのはどこにもないからね。

(熊) 問題のアナウンスがある時は、ロケットが高度200kmで地球を周回できる速度に達して、2段エンジンを停止するのだから、重力は地上と殆ど変っていない大きさだ。やはりアナウンスは間違いだね。

(大家) そうだね、ニュートン力学に固執する限り間違いだと言わざるを得ないだろうね。

(熊) それでは太郎、JAXAに教えてやりな。惰性で飛行を続けるだけで「慣性飛行」は間違いだとね。

(大家) 惰性と言い換えても間違いの本質を正したことにはならないね。実は「慣性飛行に入った」と言う表現は変えないほうが良いのだよ。間違っているのは重力を力だとみなしたところにあるのだから。

(熊) 何だって。重力が力であるというのが間違いなのか。確かに重力が力でなければ、力が何もかかっていない運動を慣性運動というのだから、慣性飛行に入ったという表現は正しいことになる。しかし、定速直線運動ではないよ。

(大家) そうなんだ。物体に何も力がかかっていない時の運動は重力に逆らわない運動でこれを慣性運動ということになる。どの星からも遠く離れた重力が極めて小さい宇宙空間ではニュートンの慣性の法則に一致するけどね。

(熊) すると、重力は力でなく、自由落下運動が慣性運動ということになる。これが正しいのかい。

(大家) そういうことだ。相対性理論を勉強している人も自由落下運動が慣性運動であるということはすぐ納得するのだが、重力が力でないという認識はなかなか持てないようだよ。

(熊) アインシュタインが説明に使ったエレベータのような窓の無い個室を思い浮かべるとどうなんだい。

(大家) 熊さんが慣性運動を続けているこの個室にいるとしょう。この個室にいる熊さんは、自分がいるこの個室が宇宙空間で静止しているのか、定速直線運動をしているのか、地球の周辺で自由落下しているのか判らないということだね。

(熊) 自由落下というのは地球の中心に向かっている運動だけでなく、高度400kmで地球を周回している宇宙ステーションも自由落下だよね。中では無重力状態になってぷかぷかと浮いている状態だよ。

(大家) 窓から外を見ることが出来れば、自分のいる個室が動いているのか静止しているのか判るけどね。

(熊) 外を見ることが出来なければ、自分がどういう状況にあるのか判らないということかい。

(大家) 静止している室内の空間と自由落下している室内の空間でいかなる物理法則にも違いがないということなんだ。何か違いが出る物理法則があれば、それを使って知ることが出来るからね。

(熊) なるほどね。

(大家) そうなんだ。アインシュタインがこのことに気が付いたのは1907年で、特殊相対性理論を発表した2年後のことだね。自由落下中の室内でも、星から遠く離れた宇宙空間の室内でも物理法則が同じになるための条件を探したのが一般相対性理論なんだね。物理法則といってもマックスエルの電磁方程式が頭にあったようだね。

(熊) ニュートン力学だけで矛盾がないようにするためには「慣性飛行に入りました」はウソでしたとなるね。慣性飛行というのは世の中に存在しないことになるから。

(大家) そういうことだ。しかし、慣性運動の定義を変えて慣性飛行とか慣性運動と言う用語は残しておきたい。無重力状態は慣性運動に付随するからね。そうだその前に太郎君に聞こう。慣性とはなんだい。

(太郎) 物体の持つ特性の一つで、動かしにくさのことですね。質量の特性というのでしょうか。

(大家) うん、正解だ。宇宙にある物質が共通に持つ特性は質量だね。ニュートリノとか光子とかの素粒子レベルになると質量があるのかないのか私には良く判らないが、原子や分子レベル以上なら間違いなく全ての物質には質量がある。そして、質量の特性は運動変化に対する抵抗だね。動かしにくさだよ。

(熊) ロケットがエンジンを止めて慣性飛行に入ること以外では、他に慣性運動として何かあるかい。

(大家) 地上で無重力状態を作るのは難しいが、ジェット機で弾道飛行をすることで20秒ぐらいは無重力状態を作ることができるね。(図-1)


(図-1) 弾道飛行


(熊) 日本ではダイアモンド・エア・サービス(株)がやっている微小重力飛行のことだね。高空で上昇しながらエンジンを切って弾道飛行に入ると無重力状態になるんだ。他にも何かあるかい。

(大家) すべての人工衛星が常に慣性飛行をしている。低高度軌道から高高度軌道へ移るときの楕円軌道でも殆どの時間は慣性飛行だよ。

(熊) 空気のないところでは慣性運動と言う方が適切かな。

(大家) はやぶさ2は地球スイングバイをするね。これで速度をかせぐのだが、スイングバイ中の運動も慣性運動だよ。米国のパイオニアやボイジャーが太陽系を離れるまで遠くに行けたのは惑星間飛行の途中で木星や土星の重力を利用するスイングバイをして速度を稼いだからだね。

(熊) スイングバイ中も重力に逆らっている訳ではないから無重力状態であることは変わらないのかい。

(大家) そうだよ。ロケットで加速するとペイロードには必ず加速度負荷がかかるが、スイングバイで加速するときには全く負荷がかからない。従って、スイングバイ中に衛星が壊れることは絶対にないと言える。

(熊) ふーん。スイングバイで大きな速度が付加されるのに力がかからないとは不思議だね。ついでに、もう一つ。スイングバイで地球に近づくときは重力で加速されるのは判るが、地球から離れる時に同じく重力で減速されるから、差し引き同じでないの。飛行方向に変化を受けるのは間違いないにしても。

(大家) 私もスイングバイで衛星に速度を得られることを見つけた人は偉いと思うのだが、天文学者が早くから見つけていたと思うよ。月は小惑星が地球に近づきすぎて地球の重力に捕らわれたとする説があったが、この説が成り立つためには地球に近づいたことによって減速されなければならないからね。

(熊) 地球に近づくことによって、減速されたり加速されたりするということかい。どうしてそうなる。

(大家) 実は地球が公転速度を持っているということ。はやぶさ2は地球の重力圏に再び入ったときの軌道の位置により加速も減速もされ得るということだね。公転速度の一部を貰うわけだ。はやぶさ2が加速されると逆に地球は減速されるわけだが、質量が全く違うから地球の公転速度は変わらないさ。

(熊) 慣性飛行からスイングバイの話になったね。今日は解説をありうがとう。

(大家) はやぶさ2は今年の12月3日に地球スイングバイを行う予定だよ。そのときが来たら、スイングバイと慣性飛行が話題になるかもしれないね。 また、おいで。今度は重力が力でないことの説明もしてあげる。
スインバイ航法の詳細はJAXAの宇宙情報センターに載っているから。
http://spaceinfo.jaxa.jp/ja/swingby_navigation.html

(了)


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