何故重力が力であってはいけないか  

(作成:2011年6月11日)
(修文:2011年6月18日)


 一部の新聞は未だに平気で「重さ10kg」というような書き方をしている。[Kg]は質量の単位だから、「質量10kg」と書くか、「重さ100N」と書かなければならない。これを指摘しても、「それでは、一般の人は解らないでしょう。判らなければ伝える意味がありませんから。」という答えが返ってくる。この返事をした記者や編集員が不勉強なだけだろう。学校で教える現在の理科の教科書では、重さと質量を正しく区別している。

 米国ではメートル法に切り替えようとしたものの、馴染めなくて結局フィート、ポンドに戻ってしまった。長さを1メートルと言わずに3フィートと言ったり、10センチを4インチと表したりするのは、単位の変換に過ぎないから、とやかく言うことはないだろう。しかし、重さと質量の単位を混同することは物理の認識の間違いであるから許してはならない。混同して使っても判るからいいではないかと見過ごしてしまうと、その判る人にはいいかもしれないが、これから学ぶ子供たちが迷惑するのだ。分かり損ねるかもしれないし、理科嫌いになってしまうかもしれない。

 重力は加速度であって力ではないとの認識は、同じく直さなければならないことである。このことはアインシュタインが最初に気がついたこと(注1)であるが、何故か無視されてきた。おそらく次のように言うのだろう。「重力が力でないことが正しいとしても、重力加速度に質量を乗じたら力になるのだから重力は力であるとしても良いのではないか。重力が慣性力と分子レベルで釣り合うから自由落下中の物体に重力に基づく応力の発生はないという理解で良いのではないか。」

 物体に力が作用しているか否かは、その物体の座標で考えなければならないことである。アインシュタインが生涯で最高の発見と言った現象は「自由落下している物体は重力が消えている」という事実である。自由落下している物体は、外の座標で見て加速度運動をしているわけであるが、その加速度に質量を乗じた力は見かけの力に過ぎないことになる。見かけの力である重力に釣り合う力が慣性力であるならばその慣性力も見かけの力である。

 つまり単純に重力が力であると言ってしまうと、その力は見かけの力であるということが判らなくなるのである。理論物理学者は全体が分かっているから気にしないかもしれないが、これは物理の認識の問題であって、インチとセンチの差ではないのだ。子供たちだけでなく、工学関係者も正しい理解が必要である。

 実際、重力が力であってはいけない物理的な理由には次の二つがあげられる。

@ 質量の概念は一つ
物体の質量は慣性質量の意味しか持ち得ないのに、重力を力であると考える限り、重力質量の概念も捨てることができない。このため、アインシュタインは等価原理として慣性質量と重力質量は同じであると認めざるを得なかった。重力質量の概念が不要であったと明確に記述しているのは小野健一である(注2)。(何故かアインシュタインは重力質量の概念を捨てていない。(注3))

A 力の概念の理解に修正が必要
自然界に存在するとされる4つの力のうちの重力は慣性力のことと理解されなければならなくなる。「不自然な運動」とはアリストテレスの言葉(注4)であるが、外力により不自然な運動を起こさせるときにのみ、実際の力である慣性力が釣り合い力として発生するのであり、物体内部には必ず応力が発生する。応力が発生しない力は何時でもそれは見かけの力である。外力になり得るのは電磁力以外に、他の物体からの慣性力である。

(注1)「重力場の作用だけを受けて運動する物体は、その物質にも物体の物理的状態にも少しも関係しない加速度を受ける。」 → 特殊および一般『相対性理論』について、アインシュタイン、白揚社、1991年

(注2)「そもそもアインシュタインの解釈では、自由落下は慣性運動であり、物体には重力など働いていないのであるから、重力質量などというものは、そもそも持ち込む必要がないのである。」→ アインシュタインの発想、小野健一、講談社、1981年

(注3)「さてここに、物体の重力質量と慣性質量とはたがいに相等しい、という定理が成り立つ。」→ 特殊および一般『相対性理論』について、アインシュタイン、白揚社、1991年

(注4)「重いものは地下にあるべき場所があるからである。そしてあるべき場所に帰るのが自然な運動であり、投げられた石や飛ぶ矢の運動は強いられた不自然な運動である。」→ マクスウェルの魔、戸田盛和、岩波書店、1997年

(了)


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