赤城台の歴史


 この企画は母校の名称である「赤城台」にまつわる歴史およびその関連情報を調査するものです。
「赤城台」の名称のルーツは群馬県にある赤城山とされていますが、赤城山がどのようにして母校と結びついているのかを主に調査していこうと考えております。
第4回目「戦国の興亡−赤城山から赤城台へ−」です。


戦国の興亡
 山吹町とゆかりのある大田道灌は主家・扇谷上杉氏に謀られて暗殺されてしまいました。それから数十年後、後に北条早雲(1432-1519)と呼ばれる人物がついに行動を起こします(*1)。早雲は策略で小田原城を乗っ取った後、小田原周辺と伊豆半島を勢力下に治めます。早雲の子孫は北条氏を名乗り、関東地方の多くを勢力下に治めていた両上杉(扇谷・山内)を次第に圧倒していき、1546年の川越の戦いで両上杉連合軍に大勝、ついに関東の勢力図は逆転します。実はこの北条氏の躍進が赤城台と非常に深くつながっているのです。

(*1)意外にも大田道灌と同年の生まれ。「北条」姓は子孫が名乗ったものですが、一般的には北条早雲の呼び名の方が通っているため、このコーナーでは北条早雲とします。他の大名・武将も時期によって呼び名が異なることがありますが、、一般的に通っている名称とします。
尚、北条早雲はこれまで素浪人の出生と言われていましたが、最近の研究では素浪人どころか室町幕府の名族・伊勢氏出身という説も有力になっているそうです。


大胡氏
 戦国時代初期、赤城山の麓に大胡城という城があり、この一帯を大胡氏という豪族が治めていました。大胡氏は第2回で紹介した藤原秀郷を祖とする豪族で、北条氏が上野(現在の群馬県)に侵攻した際にはこれを迎え撃ったとの記録があります。この後、大胡一族の上泉氏が大胡氏を名乗り、越後(現在の新潟県)の上杉謙信が上野に侵攻した際にはこれに協力して大胡城を奪還したとの記録があります(*2)。ただ、大胡一族の中には北条氏康に招かれて武蔵国牛込(現在の東京都新宿区)に移住して牛込氏を称した者もいました。牛込氏は後に徳川家旗本となりました。
この時、牛込氏は故郷の赤城山の神を祭っていた赤城神社を現在の場所に移転しました。牛込氏は故郷の赤城山の神を祭っていたことから崇敬したといわれており、「赤城台」という名称はここから来ていることは容易に推測できます。

(*2)剣豪で知られている上泉信綱も上泉氏です。

大胡城は現在廃城になっていますが、跡地が残っています。跡地に行ってみると、小さな城の立地に適した場所のように思えました。

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大胡城跡地は群馬県勢多郡大胡町にあり、上毛電鉄大胡駅から徒歩5分程度です。
(尚、上毛電鉄には上泉駅や赤城駅(!)もありますが、それらは後日特集します)

(写真をダブルクリックすると拡大表示されます)


激動の上野
 さて、北条氏に関東地方を追われた関東管領・上杉憲政は上杉謙信を頼って越後に落ち延びます。上杉謙信はこの後たびたび関東に出兵、一時北条氏の本拠地・小田原城を包囲したものの、小田原城を落とすことが出来ず、越後に引き上げていきます。後に武田信玄も西上野に侵攻。赤城山のある上野は北条・上杉・武田の有力戦国大名の間で激しい攻防が繰り広げられていきました。
 その後、織田信長は武田氏を滅ぼし、上野に進出したものの、北条氏は「本能寺の変」の混乱に乗じて上野を奪還。しかし、それもつかの間、1590年、北条氏は豊臣秀吉に滅ぼされて滅亡。
 戦国時代の上野は有力戦国大名の間で攻防が繰り広げられた激戦地だったようです。

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