【136】〜【150】我が中野浩一
【136】平成19年12月17日(月曜)
 スイス・チューリヒ市で開催の「1983年世界自転車競技会」は8月23日に幕を開け、28日にプロ・スプリントの決勝戦が行われる。中野浩一が史上初の7連覇を飾るか、選手団一行とサンスポ特派員の私は約21時間の長旅を経て、18日午後、宿舎「エアーポートホテル」に着いた。そして、気になる競技場を視察に出向いた。
 日本を出発前に、川村昭三郎監督、長沢義明メカニシャンらが、さかんに気にしていた競技場は予想外に日本人選手向きだった。
 ケイリンに出場する山口健治は3コーナーの上から「きつい傾斜だね」と言いながら「日本の333b走路のカントをきつくし、幅を広げたようなものだね。ちょっと継ぎ目とか、ガタがありそうだけど…」と安心したような表情を見せると、コンビでケイリンにも挑む世界選初参加の滝沢正光は長旅に疲れた様子で「そうですね」とうなずいていた。
 中野も同様に“やれる”という確信を持ったようだ。下見は早々にして「自転車を組み立てよう」と他を先導するように、荷物が到着している日本のキャビンへ急いだ。
 川村監督も「カントは報告されている40度より低く見えるけど日本選手向き。直線も長いし追い込みもききそう」と自信たっぷりに話していた。
 日本選手の指定練習19日から開始だ。そこでサンスポ独自取材の中野浩一を追っかける《V7だ 中野》を明日の【137】から書き記したい。

【137】平成19年12月18日(火曜)
   《V7だ! 中野》(58年8月19日)
 日本選手団は21時間の長旅の後、エアーポートホテルで旅装を解いた。機内でグッスリ眠ってはいたが、「眠たいなぁ」と全員目をこすりっぱなし。中野浩一も8回目の世界選で慣れているとはいえ“時差ぼけ”の兆候が出ていた。
 それでもアリコン競技場へ下見に出向くと、ビシッと身体が引き締まった。スプリントの師匠D・モレロンやベネズエラでV1を勝ち取った相手のJ・ニコルソンを育てたビル・ロング、国際競輪で来日したY・カール、H・カネルは顔なじみ。“親交”を温めあったあと、「ヨシッ、いっちょう走ってみるか」とTシャツを脱ぎ捨て、ランニングと柔軟体操で汗を流していた。
 周長333b、最大カント40度、コンクリート作りの競技場。7連覇を達成するバンクをぐるりとながめ「大きく感じるなぁ。まあ、一度走ってみないことには何ともいえない」と慎重に言葉を選んだ。その実、内心は気になって仕方がないようだ。
 モレロンに「このバンクはどうですか」と質問。それに対し「レスター(昨年のイギリス大会)より速いよ」の返答を得た。そして「レスターは重かったもんねぇ」とポツリ。ちょっぴりでも自信の裏付けになったようだ。
 番外はホテルへの帰路。ロードレーサーにまたがって、亀川修一、山口健治らとロード練習場を物色に行った。ところが道に迷う。言葉が通じない。結局、1時間ほどの遠乗りになった。「クネクネ曲がっていて土地勘をつかめない。あ〜ぁ、疲れた」と夕食の後、午後10時に疲れを癒す眠りについた。遠征初日は、まさに“お疲れさん”だった。

【138】平成19年12月19日(水曜)
   《V7だ! 中野》(58年8月19日)
 西ドイツ国境近くまで向かう60`のロード練習では、起伏のある坂道を全員が完走。先導車が道を間違うなど、選手にとってはオーバーワークになりかねないほどの道のりだった。バンクでは堂田将治と山口健治が傾斜のきつい“3半”で落車、関係者を慌てさせたが、ともに擦過、打撲程度で大事にいたらなかった。
 「もう、道をすっかり間違って練習にならんよ」
 “主将”と“コーチ役”と“選手”―。三足のわらじをはく“東洋の偉大な男”中野浩一は、不平を並べながらも60`を完走。汗取りのウエアを上半身にまとい、ビッシリと体を絞った。
 「いつも初日からあまり乗らんのやけど、ちょっと多すぎた。まあ、レースまで日はあるし、このぐらいがいいかな」
 バンクでは大外、中、内とあらゆる箇所をくまなく点検。対戦相手を調べるよりバンクの特徴を知る方が、今後の役に立つからだ。
 「まくりは効かないみたい。スピードは出るね(10秒台)。今の時期ならいいよ。ガタも気にならないし、走りやすいね」
 堂田、山口の落車を見て「オレだって初日は怖いから慎重。落車しては恐怖感を植え付けられる。一人でどんどん周回すれば解消するよ」とアドバイスしていた。V7の夢実現へ、最終調整は順調に運び出した。
 疲れを取るのにはマッサージが一番。今回で4回目になる“おっさん”ことニューマンさん(オランダ)は、前日、マイカーでチューリヒ入り。中野が全幅の信頼を置いている人だ。ケアもばっちりだった。

【139】平成19年12月21日(金曜)
   《V7だ! 中野》(58年8月20日)
 V6の時に死闘を演じたゴードン・シングルトンの不参加を聞いた中野浩一は「来ても、来なくても、どっちでもいいんと違う」と、まるで無視。ラフプレーの障害が消え、V7への可能性はグッと近くなった。
 「走ってみんことには」とあくまでも慎重な姿勢を崩さないが、「ワザは考えなくても、前へ走って行けばいい。ここはスピードがでるからね」と暗に“V7”はもらったといいたげ。
 世界選用のフレームは明石での強化合宿から使用。メカニシャンの長沢義明氏がバンクにあわせて作った“走るマシーン”だ。
 「走らないて言ったら(長沢氏に)蹴飛ばされるよ。バンクにペダルをかく(当たるの意味)ことがないだけでもいいね」
 亀川修一、堂田将治と3本のスクラッチ。直線の伸び、3角からの仕掛け、先頭に立っての先行、あらゆる状況を考えて走った。3本目は亀川の“3半まくり”を許さず、直線は軽く流して11秒42のハロン。目イチのモガキなら10秒台はマークできていた。
 「脚がパンパンに張っている。あと1週間(27日が予選)あるからうまく調整したい」
 午後10時に床につくスーパーヒーロー。連日の猛暑で寝苦しそうだが、心・技・体とも充実しきっているのは確かだ。

【140】平成19年12月22日(土曜)
  《V7だ! 中野》(58年8月21日)
 日本のアマ選手団も合流した。5月の函館・全プロで手合わせをした坂本勉(日大)やプレ五輪で銀メダルを獲得した中武克雄(シマノ工業)も入っている。
 「今度はかなりやれるんだろう? やらなきゃダメだぞ」と中武にカツを入れる。そして「いっちょう練習をつけてやるか。4コーナーまで引っ張ってやるから交わして行けよ」と声をかけると中武は「ハイ、お願いします」とペコリと頭を下げた。
 予告通り? プロ世界チャンピオンは中武に敗れた。が、中野は“脚だめし”の相手に日本アマbPの中武を選んだのは懸命だった。
 「踏み出しはいいけどスピードに乗り切るのが遅い。脚がおかしいよ。バタバタする」
 自嘲気味に、現状を自己分析。連日、60`のロードで疲れもピークに達してきた。それでも「脚の張りはあと少しでとれる。二、三日すれば筋肉も本番用になるよ」と落ち着き払っている。“敗戦”はあくまでもオーバーワークから生じたものだ。
 練習4日目を前に、ギアも1枚上がった。実戦に向けて、最終チェックの段階に入ったわけだ。
 「これからはバンクでのモガキを多くする」
 各国の選手も続々とチューリヒ入り。彼らが注目するのは中野の動向。日本からもテレビ、雑誌の取材で“監視”されてばかり。そんななかでもプレッシャーを感じさせずに乗り込んでいるのは、世界選8回目のキャリアだ。

【141】平成19年12月23日(日曜)
  《V7だ! 中野》(58年8月22日)
 「ねえ、退屈やから何か遊ぶもんないやろか」
 ホテルの周辺は緑に囲まれた住宅街。チューリヒ市内まで約8`の道のり。夕食の後、練習の合間など、選手団一行は暇を持て余している。
 「いつも遊ぶもんは何かあるんよ。昨年はダーツ、その前は玉突きもあったんよ。今年は何もないもんねぇ」
 ボヤくのは言葉だけ。中野自身は、ちゃんと退屈しのぎを持ってきた。デジタルでコンパクトな麻雀ゲームだ。一人か二人でもゲームが楽しむことができる機会だ。
 「ひとつ一万五千円もしたんよ。ネクラ? やりはじめたらやめられないんよ。二人でしても勝ってしまうしね」
 練習5日目はチューリヒ湖1周(62`)のコース。きょう23日(現地時間午後5時20分)は山口健治、滝沢正光のケイリン組が出場する。二人とは別に、目先の変わったチューリヒ湖で気持ちよさそうに疾走した。その後、バンク練習を止め、半日を休養にあてた。
 「この休養は良かった。疲れは取れるよ。気分転換にもなるしね。マージャン? しないよ。こんな日は街へ出てぶらぶらするのが一番だよ」
 蒲谷友芳日自振会長との会食後、数人が連れ立って市内へ探訪に出かけた。ホテルへ帰ってきたのは午後10時半。「別にどうってことなかった。さあ、寝るか」とすっきりした顔? で110号室へ戻った。鋭気を養ったスーパーヒーロー、もうV7への秒読みは始まった。

【142】平成19年12月24日(月曜)
  《V7だ! 中野》(58年8月23日)
 1分3秒79―電光掲示板にくっきりときざまれたアマ千b独走のタイム。「やっぱり怪物や。ボクも一時は怪物よばわりされたけど、コピロフにはとてもとても」と両手をひろげてため息をついた。
 1分ジャストの世界記録を保持するソ連のS・コピロフ。夕食後坂本勉クン(日大)の応援を兼ねて、初日のメーンレースを観戦にやってきた。外国の記者にも取り囲まれ、次から次へとインタビュー攻勢。質問はきまって「V7の後はどうするのか」だ。「うん、まあ、やってみてから」と軽く受け流す。外国記者には、6年もチャンピオンを続けるのさえ脅威にうつるのに、7連覇となれば“神様”と思っている。
 「3、4年前までだったらプロ、アマ混合で戦ってみたい気持ちもあったが、今はそんな気はない。コピロフなんてスクラッチでも10秒29を出すんだよ。ボクは頑張っても10秒50ぐらい。だけど一対一なら勝負はわからんよ」
 “怪物”とほめたたえても、プロ1の意地をチラリ。期待の坂本クンは1分06秒68(日本記録1分6秒62)の自己新をマークして23人中の10位に健闘。世界の壁は厚かったが、ケイリンで滝沢正光敗退のショックを打ち消すカンフル剤にはなった。
 「よし、オレもひとつ世界の記録にでも挑戦してみるか」
 7連覇とタイム更新。2つの世界記録をかけ“世界の中野”がスタンバイする日は近づいてきた。

【143】平成19年12月26日(水曜)
  《V7だ! 中野》(58年8月24日)
 千b独走に続き、アマ・スクラッチでもS・コピロフの話題でもちきり。一次予選でいきなり10秒68のラップ。ベスト8入りを決めたレースでも10秒57。L・ヘスリッヒが10秒45、10秒39をマークしても、コピロフの方は余力残し。
 「なに、このタイム」
 目を白黒させる中野。テクニシャンでパワーあふれるコピロフを見ると、ついついみじめな思いにかられる。チューリヒ入り以来、バンクのもがきは数えるほど。そろそろ脚がムズムズしてきた。
 「今回はモガキが足りない。直線で3、4回もがけるところをさがしに行くか」
 雨の降る中を調査に行って道に迷ったが、午後には1周19`のグレフェイン湖を見つけた。車の往来は少なく、予定通りにスパーク。雨は昼前にやみカラッと晴れた街道で汗を流した。
 「あと2日。雨さえ降らなければバンクで調整ができる。別にあせってもいない」
 日本の取材陣も続々と詰めかけた。シャッター音がひっきりなしに鳴っても、快くポーズの注文に応えている。この日はケイリンの決勝。山口健治のぺーサー(後ろから押す役目)をつとめた。が、結果は落車。金メダルの獲得の夢はまたも破れた。
 「健坊の持ち味を出せるいい位置(3番手)だったのにね。悔しいよ」
 アクシデント(乗り上げ落車)に巻き込まれた山口に肩をかし、しきりに悔しがった。あとはスクラッチで“日の丸”の量産だ。

【144】平成19年12月27日(木曜)
  《V7だ! 中野》(58年8月25日)
 3日ぶりのバンク練習。約1時間のロードの後、アリコン競技場入り。
 「ちょっと重たいなぁ。持久力もひと息。200bの勝負ならなんとかなるけど、1周は…」
 亀川修一の先行を3角一気に抜き去ったり、2角先行で亀川の差しを10秒86のラップで封じながら不安なコメント。理由は疲れがピークに達しているからだ。
 「まあ、逃げて10秒86だから、今の状態ならいいね。あとは3角からの掛かり具合が良くなれば言うことない」
 きょう26日の夕刻には対戦相手が決まる。Y・カールやM・バルタン、O・ダザンのほか、アメリカからも初参加する。
 「いま、一番イヤな相手はカールやね。ホームからカマしたりするし、テクニックもある。疲れさえとれれば対処できるけどね」
 カールはモスクワ五輪の銀メダリスト、昨年のレスター大会でも準決勝で1本取られた。パワーで勝っていても、やはり気になる存在だ。

 ※いよいよ本番だ。予選の相手はT・ティンスリー(英国)と決まった。ケイリンで予選敗退の滝沢正光も亀川修一、堂田将治とともに急きょエントリー。日本は4人でメダル独占をねらう。
 そして27日、中野は予選を難なくクリア。最終2角でインを突かれたたものの、その外を一気にまくって圧勝。ラップ10秒71は予選5レースのなかで最高タイムだった。準々決勝はC・ライアン(ニュージーランド)が相手。1本目は逃げ切り、2本目は奇襲駆けにあったが最終バックで追いつくと豪快にねじ伏せ、準々決勝、決勝へ向けて、軽快に滑り出した。

【145】平成19年12月28日(金曜)
 連日、アリコン競技場には1万人を超すファンが詰めかけている。“世界の中野”の名前は知れ渡っており、スタンドから温かい拍手が鳴り響く。準決勝の2本目も奇襲を許しながら慌てずに対処。中野浩一のスーパーダッシュを思う存分披露した。
 「ラップは10秒91だが、ボクだけのタイムなら10秒50は出ていた。予選、準々と全力で走ったし、準決、決勝を考えて練習のつもりでもがいた」
 日本選手の中では敗者復活から勝ち上がった滝沢正光が準決勝入り。自転車のハンドルから手を離すことのできなかった滝沢が、敗者復活で勝利を奪うと、思わずバンザーイとやった。「滝沢、危ない」の声も届かず、気持ちよさそうにウイニングランに酔った。この時を契機に、滝沢は国内でも“怪物”へと変わっていった。いわば世界選は滝沢の素質を開花させた大会だった。
 準決勝は中野がO・ダザン、滝沢はY・カールとの対戦となった。滝沢はカールに2本ともまくられて敗れたが、中野は圧勝だ。
 1本目は最終2角でダザンにフェイントかけられたが、外を力任せにまくって、追いすがるダザンを振る切り10秒75にラップでゴールに駆け込んだ。
 2本目は最初からマイペースの逃げを打った。ダザンのまくりを封じて逃げ切り、10秒91でゴール。2本とも中野の楽勝だった。
 決勝の相手はカール。中野のスプリントの師・モレロンの弟子で、いわば“兄弟対決”となった。どちらに軍配が上がるか。

【146】平成19年12月29日(金曜)
 予選で1着失格、敗者復活戦で2周を逃げ切ったカール。準々決勝では亀川修一、準決勝で滝沢をかるくあしらって、中野の前に最強のチャレンジャーとして立ちはだかった。モレロン師弟の“作戦”は、持久力の落ちている中野に対し、奇襲を考えさせ、さらに仕掛けどころを悟らせずに、スピード戦で雌雄を決することだった。
「ボクはスタンディングができないから、何も考えずに前へ踏んで行くこと。スタンディングをやればカールの思うつぼですからね」
史上初の7連覇をかけた決勝戦。1本目が勝負の分かれ目になるのは間違いがない。中野が勝てばカールが諦める可能性もあるが、逆なら中野の巻き返しも苦しくなる。
 8月28日午後4時時5分(現地時間)、1本目のスタートだ。中野がジワリ、ジワリとスピードを上げて行く。カールは3、4車身ほどの差を保ちながら、中野を視界から離さない。「カールはどこから来るのか」と考えながら、中野は最終3コーナーの手前からフル回転。カールは仕掛けない。1周勝負で、足を最後までためて爆発させる作戦だ。
 中野はスピードアップさせ、そのままゴールまで全力発進だ。カールは4コーナー手前から踏み込み、猛スピードでゴールを駆け抜けた。勝ったのはどっち? 「勝ったやろ? 」と中野。写真判定にもつれ込んでも、中野の目は確かだった。
「どっからきた? カールは。直線だけ? そうやろね。来れば合わすつもりやったから。ボクもペースをつかみきれんかった」
 ホッと一息ついた中野だが、モレロン師弟の作戦に、悩みが、また増した。

【147】平成19年12月30日(金曜)
 あと1本で、プロ・スプリント界の歴史が新しく塗り変わる。“東洋から来た魔神”が、中野浩一が、不滅の記録を打ち立てるのだ。
 2本目までの約1時間。この過ごし方が明暗を分けるのを、中野は7年間の世界選で知り尽くしていた。辛く、切ない、時間だ。午前10時に朝昼兼用の食事。好物のステーキ1枚にパン、フルーツなどを食したが、今度、口に入るのは午後8時ごろ。その間、競技が終わるまで水も飲まない。
 「1日走るとゲッソリするから、大会前から、しっかり食べている。とくにステーキはパワーを蓄えるうえに欠かせない。最後の力がでない」
 日本の選手団で朝、昼、夜と3食をステーキで過ごすのは中野ぐらい。たいがい2、3日は魚を注文するのだが、中野はスタミナ第一主義だ。
 モレロン=カールの作戦に頭を痛め、日本のキャビン前の簡易ベッドで横たわる中野。「もう終わりたいよ」「誰か代わってくれないかなぁ」「カールに棄権してくれるうように頼んできてよ」とか、うわごとのように弱気な発言を繰り返す。
 喉はからから。仮眠もしない。自身を極限に追い込み、差し入れの缶ジュースも少し口に含んだだけ。残りを筆者が、無神経に飲み干すと、我慢していた中野が「ゴールへ入ったらすぐにジュースを持ってきてよ」と強い口調で言った。この時点でプレッシャーという敵を蹴散らしていたのだ。ジュースを飲む瞬間は、中野がV7を飾っているのを、本人が知っていた。

【148】平成19年12月31日(月曜)
 2本目のスタートを前に、中野はカールの“異変”を見抜いていた。約1時間の間に、カールは仮眠をとったかのように、顔から厳しさが消えていた。「カールは寝たみたいやね」とポツリ。中野は集中力を失わないように、襲いかかるプレッシャーと真っ向対決をして、そして勝った。
スタートラインにつくと、もう邪念もない。「早く終わらせたい。タイムの更新なんて考えもしない」と、前へ、前へと踏んで、スピードを上げて行くだけだった。スピード戦で負けたカールは、2周目にスタンディングに持ち込もうとしたが、中野は無視。ワザを封じるには先手必勝しかない。1センターでインを突きかけたカールだが、その前に中野は全速発進。これで決着がついた。
ゴールと同時に缶ジュースを探したのはいうまでもない。ウイニングランの後、バックで一気にジュースを飲み干し「うまいね、ジュース。夜のビールもうまいよ。よかったね、とにかくよかったね」と、史上初のプロ・スプリント7連覇の偉業にも、普段と変わらない多弁で陽気な応対が印象的だった。
ジェフ・シェーレンが1938年に悔し涙を流した7連覇の舞台で、中野はエネルギッシュに躍動した。シェレーンはその9年後、7回目のチャンピオンに返り咲き引退した。名実共に“世界一”の看板を背負うには8連覇が必要だが、中野は「これで区切りがついた」といてってクールに答えた。
日本を出発前に出来上がっていた“V7 おめでとう”のCMは、快挙と同時に全国の茶の間に流れた。期待通りに勝つ中野は競輪界の“宝”なのだ。

【149】平成20年1月5日(土曜)
 世界新記録のプロ・スプリント7連覇を土産にスーパーヒーロー中野浩一が帰国したのは9月4日。チューリヒで祝勝会の後、アイガー北壁やミラノ、ローマ、パリを観光して見聞も広めてきた。パリでは宿敵・カール夫妻と会食、ダンスホールで踊りまくるなど束の間の休息を楽しんだ。
 4日の午後3時10分にスカンジナビア航空で成田空港へ降り立った中野。テレビ、新聞社、雑誌社などのカメラマン、取材記者がワンサと詰めかけ、改めて“世界新”の偉業を感じさせた。
 「決勝戦の日は、1走ごとの間隔が1時間ほどあって、何度も止めて帰りたいと思った。日本へ帰ってきて、今、初めてホッとしました」と満面に笑みを浮かべた。そして「V8は今のところ狙うかどうかは決めてません。正直なところ負ける惨めさだけは味わいたくありません」と、V8への挑戦は微妙だと言った。
 V6でのゴードン・シングルトンとの死闘、今年のカールとの対決、どれをとっても中野の神経をすり減らせた。プレッシャーでホテルの浴槽にバッサリと髪の毛が、何度も抜け落ちた。だから報道陣のインタビューにも歯切れが悪かったのだ。
 5日にホテルオークラで共同記者会見と祝勝会、6日に銀座・ソニースクエアで“V7”記念サイン会(午後零時、同3時)、11日に地元・久留米競輪場で優勝の挨拶、久留米市長からの表彰と続き、帰国第1戦は22日から始まるオールスター競輪(平競輪場)と、ホッと一息いれる間もないスケジュールが待ち受けていた。

【150】平成20年1月6日(日曜)
 世界選7連覇フィーバーはすさまじい。“日本の顔”となった中野浩一は9月14日、東京・永田町の首相官邸に中曽根首相をたずね、優勝の報告をした。
 “闘魂”と書いた色紙を手渡した首相は「緊張したか」「余力があったか」と矢継ぎ早の質問。これに対して中野は「V6まではプレッシャーを感じたことはなかったが、今度だけはスタート前、緊張しました。でも、いざ走ってしまえば、それも関係ないですね」と答えると、首相は「無心だね。総理大臣が演説する前と同じだ」と、我が意を得たりーといった表情。
 中野もつられて「総理も緊張するんですか」とニッコリ。さらに「酒は飲むけど、タバコはすいません」というと、「ますますボクと同じだ」とすっかり意気投合。
 首相の「この次マークする人は」との質問に「今年のメンバーなら、自分に勝てれば来年も…」とたくましいV8宣言。重ねて「巨人軍のV9に負けないように」と」激励され、感激ひとしおといった表情だった。
 午後には東京・霞ヶ関の通産省大臣室で宇野通産大臣に優勝を報告、同相から表彰状と記念カップが手渡された。
 日本全国に知れ渡った“中野浩一”の名前。もう知らない人は、ほとんどいなくなった。競輪をメジャーへ、やっと認知されかかったのだ。それでも競輪の中野ではなく“世界の中野”の方が知名度も高い。まだまだ、全体から見れば“競輪”は日陰の存在だった。
 V7で勢いのついた中野は、日本を、競輪界を熱い戦いの中へ巻き込んでいく。昭和58年の暮れまで、中野フィーバーは激しさを増していく。