【222】〜【230=完】我が中野浩一
【222】平成20年10月18日(土曜)
 順調に滑り出した平成2年。中野浩一も人生の勉強をする時期にさしかかっていた。4月3日、中野を競輪・人生の師と仰ぐ松本整(京都45期)の結婚式で司会を務めたのだ。松本は競輪学校で合宿する中野に“弟子入り”して以来、互いに向上心をもって切磋琢磨する間柄だった。
 「緊張はしたけど、自分流に、明るく、楽しく、務められればと思ってます」
 一大イベントが終わった翌日は、川崎記念の前検だ。相変わらずバタバタと東奔西走の日々だが、競走には影響ない。川崎記念を51@着で優勝すると、四日市記念21A着、西武園記念11A着と好走。といっても四日市では、またも優勝できずに、“あと4場”のまま持ち越した。
続く大垣記念はデビュー以来の難所。初日の特選は1着でクリアしたが、準決勝は5着に大敗。記念戦では平成元年9月の青森記念(25欠)以来のこと。やっぱり大垣にはびわこと同じく魔物が住んでいたのかも。
 夏の世界選手権開催を前に5月末、「グリーンドーム前橋」が完成するが、「1990年世界選手権記念トーナメント」(5月14日)、前年から始まった「1990年国際ケイリングランプリ」(5月22日)は旧競輪場での開催だった。「グリーンドーム前橋」が競輪用として活用するのは12月になってからだ。
 「1990年世界選手権記念トーナメント」は前年にストで中止になった「1989年KEIRINグランプリ」に出場予定だった坂本勉(青森57期)井上茂徳(佐賀41期)中野浩一(福岡35期)佐々木昭彦(佐賀43期)郡山久二(大阪55期)小川博美(福岡43期)滝沢正光(千葉43期)工正信(広島55期)波潟和男(東京57期)の9人で争った。
 優勝したのは波潟で、2位以下はA郡山B佐々木C井上D小川E中野F工G坂本H滝沢で配当はE―E2480円だった。
 「1990年国際ケイリングランプリ」は外国人5人と中野浩一、俵信之、坂本勉、本田晴美が対戦し、俵が優勝。A中野B坂本と上位を独占した。

【223】平成20年10月22日(水曜)
 競輪界のセレモニー・レースを終えて、中野浩一はびわこ競輪「第41回高松宮杯」に出場、この年も“全冠制覇”に全力を傾注した。
 決勝戦には競輪学校で一緒に練習する関谷敏彦(山口=後に静岡=58期)が乗ってきた。中野は番手を主張したかった。が、井上茂徳がガンとして譲らない。各地の競輪競走では井上が関谷マークで、ガード役として関谷を育てた自負があった。
 後に吉岡稔真(福岡65期)の出現で、中野と井上は真っ向から対決するのだが…。
 この時は関谷に井上が付け、佐々木昭彦―中野で早めに仕掛ける作戦をとった。ただ、佐々木が3番手なら、中野は4番手。これでは1着に届く確率は低い。いくら佐々木に機動力があるといっても、だ。
 案の定、仕掛けが遅れ、中野が3角手前で先に踏むと、浮く格好になった。井上が絶好展開でゴールを目指したが、直線に7、8番手で入った鈴木誠(千葉55期)が“びわこ道”を一気に伸びて初タイトルに輝いた。中野は抜け出せず4着に甘んじた。
 あまりの情けなさに「もう全冠制覇はお終い」と、つい“終戦宣言”が口をついて出た。自力屋の中野は、マーク屋には変われない。ファンの期待に応えるためには自力を捨てきれないためだ。
 このころ、中野は競輪の難しさを改めて考えさせられていた。競っても負けない自信があっても、中野は共倒れが許されない立場だった。ミスター競輪は、例え負けても、豪快に攻めないと、ファンは納得しなかった。
 正式に日本で開催の「1990年 世界選手権自転車競技大会」へ日本代表に決まった。実に4年ぶりの復帰だ。7月末の「第4回全日本選抜競輪」(青森)が終わるまで、国内のスケジュールもぎっしり。
 それでも甲子園記念22C着→松阪記念91A着→福井「ふるさとダービー」11B着を、しっかり戦い続けた。「ふるダビ福井」は坂本勉(優勝)―佐藤正人の3番手を回っての3着だった。

【224】平成20年11月2日(日曜)
 世界選手権の“日本開催”が迫ってきた。「ふるさとダービー福井」の後は、中野浩一も「全日本選抜競輪」(青森競輪)を走って世界選モードに突入だ。その前にタイトル奪取を頭に描いていた。
 強化合宿など、仕上がりに関しても不安を感じさせない。まして、この大会は2連覇中と相性もバッチリ。初日から121着で勝ち上がり、決勝戦は久留米の後輩・津村勝正を目標にできる絶好展開が待ち受けていた。坂本勉の地元であっても、井上茂徳を含めて九州トリオで結束するのが自然の流れだった。
 津村が主導権を握って、中野が番手まくり。井上がぴったり続く。こんなビデオのようなシーンは何度も見てきた。ゴールはきっちりと井上が差し切って、8つ目のタイトルを獲得した。このうち中野を差したのは7回だった。
 全日本選抜が終わるまで、16場所を走って、優勝3回。決勝戦に乗れなかったのは大垣記念の一度だけだった。それほど充実した戦いを繰り広げてきた。
 世界選へ向けて、中野はPRにも駆り出された。なんといっても“世界V10男”はスプリント界の“神”でもあった。各国から選手が集まり始めると、中野は接待に大忙し。練習どころではなかった。
 しかし、だ。世界から離れて4年。中野が思い描くケイリンでのメダル奪取には、ほど遠い競走内容となった。予選、敗者復活戦でも敗退。一瞬の踏み遅れなど、世界の壁を改めて、思い知った。あまりの惨敗に、翌年のドイツ大会での雪辱へ、チャレンジを決めたほどだ。
 この大会期間中、3年後に自転車競技がプロ・アマの垣根をとっぱらい、オープンになることをUCIの総会で決めた。と同時に日本生まれのケイリンもオリンピック種目に採用されるきっかけにもなった。偉大なる世界チャンプ・中野を生んだ日本で、自転車の歴史が変わったのだ。
 15年連続して世界選でプロ部門のメダルと獲得してきた日本。この大会は高校生の稲村成浩・斎藤登志信がアマ・タンデムスクラッチで銀メダルを奪い、辛うじて日本として16年連続メダル奪取に貢献した。

【225】平成20年11月21日(金曜)
 平成2年も後半戦に突入した。世界選では惨めな成績に終わったが、この年の全般にわたって、中野浩一は“競輪選手”としての役目はきっちりと果たしていた。14場所を消化して、決勝戦に乗れなかったのは5月の大垣記念だけ。その間、ダービーは決勝5着、高松宮杯は決勝4着、全日本選抜決勝2着と、タイトルこそ取れなくても、コンスタントに稼いだ。
 8月末の千葉記念11A着→向日町記念21B着を終えて、宇都宮での「第33回オールスター競輪」に臨んだ。第32回は坂本勉が初めてタイトルを取った。もちろん中野の巧サポートが勝因の一つでもあった。
 決勝戦には坂本が乗っていた。中野は当然、マークだ。ただ、滝沢正光の存在が坂本―中野に有利な運びをさせなかった。坂本がドリーム戦を2年連続で制し“先行日本一”の看板を背負っていた。
 しかし、怪物くん・滝沢のパワーも坂本をしのぐほどだ。新陳代謝が激しく、若手の台頭でフラワー軍団という言葉も“死語”になりかけていた。
 中野も3月の平塚ダービーでは新鋭・神山雄一郎に目標を置くなど、再び戦国時代に突入する様相だった。そんな中で、滝沢が仁王立ちだ。坂本―中野を阻み、2着に入った三好章仁と43期両者でワンツー決着だった。
 坂本と心中の3着に終わったオールスター競輪(311B着)。続く京王閣記念41C着→観音寺記念21@着を終え、10月の平塚ルビーカップでも滝沢が優勝、中野は4着に終わった。
 完全に息を吹き返した滝沢に比べ、中野は“他人任せ”の戦いが目立ってきた。前橋記念22B着の後、小倉競輪祭で、中野は勝負に出た。が、結果は準決勝を4着でクリアできず、最終日も2着に敗れた。成績は1742着だった。この時、準決勝後に「(最終日を)欠場? いや走る。もう、そんな(クラスの)選手じゃないよ」とポツリと口にした。

【226】平成20年11月25日(火曜)
 競輪祭で優勝した滝沢正光は井上茂徳に続いて“全冠制覇”を達成した。高松宮杯競輪で“あと一つ”を勝てない中野浩一と比べ、滝沢も井上も、なんと運の強いことか。
 競輪祭で主役の座から追われ、中野の顔にも一瞬の寂しさが漂った。それが広島での「ふるさとダービー」で、モロに出た。地元で、中野を慕う新田義男(60期)にマークしながら、最後の最後に迷って、勝利の女神から見放されたのだ。
 決勝戦には井上茂徳、小橋正義も進出。本来なら中野―井上と並ぶところが、新田―中野と小橋―井上に分かれた。
 勝負所のジャン前に、新田が追い上げると、中野は中途半端な動き。常にレースの流れを組み立て、判断力にも狂いがなかったのに、新田が先行態勢に入ると、後ろには小橋―井上が入り、中野は井上の後位へ。
 逃げる新田に小橋―井上―中野。偶然の並びとはいえ、中野には屈辱の4番手のはずだった。
小橋が番手まくりでゴールを目指すが、井上―中野で突き抜けた。2着で満足なのか、中野の存在感が小さくなってきたのか、未だに腑に落ちない一戦だった。
 いよいよ年末、2年ぶりのKEIRINグランプリ1990が始まる。中野もコンスタントに稼ぎ、無冠でも出場権を手にした。坂本勉を日本一に、そんな気持ちが最後の大舞台で、中野が意地を見せた。
 坂本は2年越しの夢に向かって、強引にでもハナを切って、逃げ飛ばすつもりだった。“ロスの超特急”の異名通りに、快スパートだ。中野と呼吸が合った。坂本の番手へスムーズに飛び付いた。これで中野はホッと一息ついた。
 ゴールへ飛び込んだ時の坂本の笑顔。中野も責任を果たせて、この年、初めて心から笑った。ハワイへも行かずに競輪に打ち込んだ平成2年。日本で初めて開催の世界選にも“日本の顔”として出場した。タイトルは手にできなかったものの、最後に充実感を味わった。

【227】平成20年12月16日(火曜)
 1991年の幕が開いた。数々の記録を打ち立ててきた世界のスーパーヒーロー中野浩一。日本で開催の世界選にも出場したが、世界の壁の厚さを改めて思い知った。
 ケイリンでメダルをー悔しさをバネに、世界挑戦を続けるのを年頭の目標に掲げていた。しかし、ブランクは世界との繋がりをひろげるばかりだった。国内では吉岡稔真という“競輪の申し子”も誕生した。中野の役目は、国内も、海外も、すべてを吉岡に託したかった。
 「やっと久留米でビッグレース(第7回全日本選抜競輪)の開催が決まったんで、是非とも優勝したいと思っている」
 世界への挑戦に加えて、生まれ育った久留米で初めて開催のビッグレースには、選手生活の集大成として、最大限の力を発揮するのが、地元への恩返しと考えた。吉岡と二人で、決勝戦で連係するのが理想だった。
 年頭の立川記念42@着で優勝と順調に新年を滑り出した。玉野記念61E着→久留米TR31@着→一宮TR42B着と一宮ダービーでの特選シード権も手にした。西宮記念4失欠→松山記念64欠とリズムを狂わせても、一宮ダービーの決勝には、きっちりと名を連ねた。
 この一宮ダービー(第44回日本選手権競輪)が後々に“遺恨”を残すことになった。決勝戦に久留米から中野を始め江嶋康光、小川博美、平田崇昭が乗り、井上茂徳も進出した。いつもなら“九州は一つ”なのだが、井上は蚊帳の外に置かれた。佐賀龍谷高校出身の小川は、先輩の井上に「どうします」と相談した。井上は「久留米でまとまるなら、しょうがない」と苦渋の表情を浮かべた。
 今まで九州の並びは中野が軸で、井上が番手。後は前後を固めるのが相場だった。一枚岩の結束に亀裂が生じたのだ。
 中野が「鈴木誠の後ろがあるやろ」と言ったとか。井上にしては「仲間はずれ」になった気持ちだ。
 結果は鈴木が久留米カルテットを分断するなど、中野も何もできずに敗れ、優勝は鈴木マークの坂巻正己だった。

【228】平成20年12月16日(火)
 一宮ダービーが終わった後、4月の川崎記念で前年デビューの吉岡稔真が逃げ切り優勝を飾った。中野浩一の後継者であり、井上茂徳には中野に代わる“目標”だ。
 互いの思惑を抱いて、びわこ競輪場での第42回高松宮杯競輪の前検日(5月29日)を迎えた。マスコミの関心事は配分のない吉岡のことだった。6月22日からの福井競輪「ふるさとダービー」へ向けて中野、井上に質問が集中した。初めて3人が顔をそろえるため、当然の話題だった。
 中野は「吉岡の後ろや。井上が行く? なんで?」と言えば、井上は「中野さんはマーク屋じゃなかでしょう。吉岡にマークしますよ」と話した。
 高松宮杯競輪の初日のスポーツ紙は「西に大将が二人?」の見出しが躍った。全冠制覇のかかった中野は6161着で、またも運が味方しなかった。
 中野の歯車は富山記念16欠→弥彦ふるさとダービー5141着と崩れだし、福井ふるさとダービーへ突入した。
 強い吉岡の後ろが、競りになるのか、回避か。吉岡は「ボクは前で走るだけなんで」と気にしない振りをしていたが、宿舎では「(二人が)話しもしてなかったです」と心を痛めていたのも事実だった。
 問題のレースは2日目にやってきた。吉岡を巡って中野、井上の競りだ。ジャンの3〜4角で外の井上が中野を芝生まで放り込んで決着がついたが、吉岡との差は大きく広がった。まさに“越前独り旅”の激走だ。
 中野は準決勝でも4着に敗れ、最終日を欠場。井上は決勝に乗って、吉岡マークから優勝した。
 深い溝ができた中野、井上だが、久留米・第7回全日本選抜競輪の前には先輩連の仲裁で、一応の和解をした。しかし、中野は気合が空回り。5571着で“オレの庭”での戦いが終わった。せっかく吉岡が決勝戦にコマを進めたのに…。その吉岡は単騎で鈴木誠に立ち向かったが、鈴木のパワーに屈した。

【229】平成20年12月17日(水曜)
 夏8月、中野浩一は吉岡稔真とともに世界選の代表の座を手にし、ドイツ大会へ挑んだ。が、中野は決勝に進出したが5着。吉岡は予選で敗退と、中野の再チャレンジも終わりを告げた。
 国内に戻ってもオールスター競輪3612着、小倉・競輪祭1943着と準決勝で敗れ、暮れのグランプリに初めて出場できなかった。寂しい年の瀬だが、最終戦の岐阜記念41@着は優勝で締めくくった。さらに、中野は「引退」のの文字を心に刻んだ。
 1991年はいきなり和歌山記念31失と乱れ、名古屋TR642着→大宮TR41@着で、初めてダービーでの特選シード権を逸した。直後にハワイへ旅立ち、最後の舞台を「高松宮杯競輪」と決めた。全冠制覇という悲願の仕事に向かって、体を鍛え直し、ギアも考え、なんとしても吉岡稔真とタッグを組む必要があった。
 吉岡はドーム前橋ダービー(第45回日本選手権競輪)を井上茂徳のガードで勝ち、史上最年少のタイトルホルダーとなった。中野は167着で最終日を欠場していた。勢いに乗った吉岡に中野は川崎記念で2敗、第1回寛仁親王牌(第3回からGT)では3度マークしながら一度も抜けずに3敗だ。333バンク、400バンクで勝てなくてもびわこなら勝算も十分だ。
 だから、びわこの500バンク用に勝負ギアは3・85と決めた。4月の高知記念22@着では、すぐに答えが出た。5月の高松記念11A着で勝ち星も666勝に達した。


【230】平成20年12月17日(水曜)
 最後のアタック「第43回高松宮杯競輪」は、前検日から中野も陽気にふるまっていた。西王座戦で中野は吉岡を4着までに残すことを考えて臨んだが、結果は必要以上に固くなった吉岡が持ち味を出せずに5着。東王座5着の滝沢正光と前日着順の差で、吉岡は脱落だ。
 ラストランは6月4日。びわこ競輪場の空は快晴だった。中野の腹は固まっていた。「悔いの残らないように自力で行く」だった。
 最終バック8番手。それでも中野は、全神経を、全パワーをペダルに注ぎ込んだ。踏んだ瞬間、脚応えはバッチリ。番手の滝沢正光も神山雄一郎を交わしてスパート。井上茂徳も中野を追った。
 ゴール前は昭和から平成の競輪界を支えてきた3人が死力をぶつけてのモガキ合いだ。「勝った」―中野は自信のひと踏み。中を割った井上に押し上げられ、滝沢を抜けずに2着に終わった。全冠制覇は、もう中野には縁の無い言葉となった。
 熱い戦いをファンに披露してきたスーパーヒーロー中野。表彰台で爽やかな笑顔を浮かべ、ホッと一息ついて、世界を駆けめぐったナガサワ号を、そっとなでた。
 1991年6月8日、17年間に渡る競輪人生の幕を閉じた。
 引退記者会見には報道陣が200人を越していた。
「(この注目度に)17年間かかって、競輪を一般の人に広く知ってほしいと、がんばってきたことが、やっと報われました」
 通算成績は1230走、1着666回、勝率54%、優勝168回、総獲得賞金13億2764万687円だった。
(完)
※残り1年半を駆け足で書き終えたが、後日、もっと詳しく伝える場を考えたいと思っています。長期にわたって愛読、ありがとうございました。