◆13〜27◆ちょっとした思い出
◆13◆平成19年7月4日(水曜)
 男の涙は美しい。感謝、感謝が、目頭を熱くしたのだ。昭和48年8月24日(25日付け)の甲子園競輪2日目第9Rで、吉田実は播本義勝の先行を目標に、一気に抜け出し4人目の“千勝男”となった。本来なら播本の後ろは地区的にも近藤幸男だが吉田に敬意を表して3番手回り。競りを克服して2着に入った。
 まさに人情味あふれる“昔のレース”だ。まず吉田の口をついて出たのが「地区の違う播本君が僕のために逃げてくれて…。近藤君が競りにくるようなら先行で戦うつもりでいたのに…」と、戦った二人に感謝。ゴール後に右手を高々と上げて1周、着順確定が出て、また1周。ファンの記録達成への祝福の拍手。長かった千勝への道。感激がこみあげて涙が頬を伝い、タオルで何度も目頭を押さえてのインタビューだった。
 「こんなにうれしいことはない。35年のダービー優勝と同じくらい。だが、千勝目は格別うれしい。過去のいろんなことが思い出されてきます。欲をいえばA級1班の時に千勝をしたかった」。41年に急性肝炎を患うとともに、防府(31年)で落車したときの左足クルブシにささっていた木リムが腐食、このころから急激に下降した。46年に仲のいい古田泰久、峰重和夫、平田貞雄らの「倍数を上げてみたらどうか」のアドバイスを取り入れ、47年の15回に優勝につながった。
 「私の現在を支えてくれるのは、多くの友達と女房(邦枝さん)、そして競輪をすすめてくれた兄の達雄(愛媛=A3班)です。子供もなく、いつも自転車とともに歩いてきました。そして、女房の励ましは本当にありがたかった」。取材する方も、ジーンとくる話ばかりだった。石田雄彦、古田泰久の時と違って、メッカ甲子園ではファンの数も違った。紙面の扱いも同じ。私の写したポーズ写真もバッチリきまっていた。

◆14◆平成19年7月5日(木曜)
 頭脳プレートは、こんなレースを言うのか。昭和48年10月24日(25日付け)に高松競輪で、いや四国で初めて開催のビッグ「第16回オールスター競輪」の決勝戦の舞台で、福島正幸の運びが際だっていた。阿部道、田中博と“3強”の揃い踏みに加え、西の刺客・矢村正も名を連ねる豪華版。まず阿部が先行策を取ると、後ろで佐藤秀信とイン粘りの太田義夫が競り。
 あと1周のホームで矢村が奇襲カマシを放つと田中が続き、さらにバックから田中がまくった。この間、福島は流れを巧みに見極め、中団、中団を常にキープ。そして最終的に田中を追う展開で、一気に抜け出した。「前へ、前へと動けた。ダッシュが良く効いた。スムーズに車が出るもの。はっきり言って2コーナーで勝てたと思った。田中さんが仕掛けなくても自分で動くつもりだった」。柔道(3段)の半身のような福島の乗車スタイル。内へ突っ込むよりも、いつも外へ持ち出せるような構えだ。さらに7月に競輪学校の新兵器・EMG診断(筋力測定)で科学性を取り入れ、“人車一体”のスタイルを編み出したのが功を奏した。
 「EMG診断で完全に立ち直れた。この最高の状態のうちに、もう一度EMG診断を受けて、最高の状態を維持できるようにしたい」。こんな研究熱心さが、福島の真骨頂だった。


◆15◆平成19年7月6日(金曜)
 “青い国・四国”のキャッチフレーズをバックに、四国で初めてのビッグレースが開催された「第16回オールスター競輪」。前日に福島正幸の優勝を紹介したが、レース以外で楽しみもあった。まず、初日に気がついたのは、勝者の出身地の民謡が流されたこと。神奈川は? 山口は? 愛媛は? と思い浮かばない地区もあるが、スタッフはちゃんと用意してあった。当時は場外もなく、ファンは地方から高松へドッと押し寄せた。そんなファンの耳に届く「民謡」は新鮮なものだった。
 今では四国の4競輪場で流しているが、いつ聞いても勝者の民謡には“味”がある。また、現在でも営業している高松競輪場近くの「オークラホテル」は新築されたばかりで、超満員だった。夜の町もにぎやかで、我々も夜を徹して飲み、うどんを食し、高松を満喫したものだった。実は2日目か3日目だったか、雨の中で行われ、1コーナー付近で1レースから4レースまで立て続けにスタート直後に落車が相次いだ。
 白線に油が浮き、滑っていたのだ。だから「公正安全なレースができない」と選手会が申し入れて、4Rで中止、順延となった。ファンも騒いだが、賢明な“中止”の判断だったと理解している。それはともかく、この大会は記録ラッシュ。売り上げは累計25億1201万3500円、1日(最終日)は6億8826万9400円、優勝戦は2億1267万2300円と高松での大幅な記録更新だった。開催期間中の入場も合計10万268人と、こんな熱っぽさが懐かしい。

◆16◆平成19年7月7日(土曜)
 ニッコリ笑った顔が、今も思い出す。昭和48年9月7日付けのスクラップは池内正人の、西宮競輪A級初優勝の原稿だ。兵庫の29期生。逸材揃いの29期のなかで目立たない存在だったが、井上博司、磯上勝也らとの猛練習で61sの体重が70sに増え、1年前に35人目の特進を果たしていた。以後、好成績を残し、西宮では準決勝で当時のA1・小谷則雄を相手に逃げ切り、決勝はビッグウイナー伊藤繁を不発に終わらせて逃げ切った。準決勝で8番車の人気薄・池内に単穴印の「▲」を打つと、池内から「▲はうれしかった。僕を見てくれてたんですね。気合が入りました」と頭を下げられた。だから初優勝の原稿も、デスクに頼んで紙面を割いてもらった。池内は28期でデビューしたA2班・坂東利則を目標に努力した。「僕も来年1月に2班。やっと追いつけた。次は追い抜くことを目標にする」と抱負を話していたが、坂東はまだA級優勝を果たしていなかった。「これからもマーク選手に頼ってもらえるような先行選手になりたい」と先行1本のスタイルを貫く決意をしていた。その後、残念ながら若くして病死した。初めは弱くても、練習の積み重ねで力をつけてくる選手が、私は好きだ。池内正人はそんな選手の一人だった。合掌。


◆17◆平成19年7月9日(月曜)
 昭和49年1月19日(20日付け)は“記念の日”だった。“輪界のハイセイコー”といわれた31期の怪物・岩崎誠一が初めて近畿に登場したため、岸和田競輪場へ取材にでかけた。その日は全国的に寒波に見舞われ、新幹線は遅れ、岩崎から連絡が入ったのは午前11時半ごろ。「今、難波です」の電話に関係者もホッとしたもの。「故郷の青森に比べ、下宿している茨城(冬季だけ)も暖かいが、大阪はそれ以上ですね」と、他の選手がガタガタ震えながら自転車を組み立てているのとは対照的に、大阪の暖かさにニッコリ。「練習は街道で70q、あとはバンクで2時間ほど。阿部良二、加藤善行さんらと同じです。下宿も一緒です。でも僕は練習で弱いですよ」と謙遜するが、新田計三や山口国男、藤巻昇らは「ヤツ(岩崎)の出足だけは抜群」とあきれかえっていた。
 この取材の日は担当していた甲子園競輪の決勝日。岩崎の原稿のことで頭がいっぱいで、パーフェクト予想をしているとは社へ戻るまで知らなかった。それも甲子園始まって以来の快挙、廃止されるまで甲子園でパーフェクト予想を達成したのは私だけだった。いつまでも、これが自慢の種。その時の総合版を専門誌の大先輩が私に届けてくれて感謝感激だった。いまでも、その総合版を大事に仕舞ってある。ちなみに他社は5〜7個しか的中していなかった。もちろん社では“部長賞”の金一封を戴き、すぐにアルコールとなって消えた。


◆18◆平成19年7月10日(火曜)
 特別レースの前になると、決まって取り上げたのが矢村正。当時は東高西低で、西の大砲は矢村だけだった。昭和49年2月6日付で「第27回競輪ダービー」を控えて矢村を直撃している。トライアルで惨敗、特選シード(27人)の権利を手にできないなど一大事だった。そこで、まず師匠・藤本長治のアドバイスが大事。「初心に返ってやり直すには寒い熊本より温暖な別府がいい。トライアルはあくまでも前哨戦。本番で見違えるように立ち直っていればいい」と、1月31から2月11日までの長期間(途中で熊本の訓練にも3泊4日で参加)、別府合宿で捲土重来を図った。午前中は100`のロード、午後は別府競輪場でインターバルを取り入れて持久力の養成。周回にして140周。藤本は「精神面と体力のバランスを崩さないように注意を払っていく。いつまでも期待はずれでは応援してくださるファンに申し訳ない」と言う。矢村も「練習方法は師匠に任せてます。すんだことは振り返らないで、前を向いて進んでいきたい。僕としては万全の態勢でダービーに乗り込むつもりです」と復活へ、大粒の汗を流した。それほど鍛え抜いても、本番では答えが出なかった。
◆19◆平成19年7月11日(水曜)
 尼崎競艇の「開設22周年記念競走」が昭和49年5月30日から開幕するのを前に、「優勝をねらうベテラン」として貴田宏一、森弘文、岡本義則、加藤元三、榊原照彦、大北勝之の6人を、2人ずつ3日間に渡って連載した。それぞれに“思い出”がつまっていて、6人とも紹介したいと思う。まず、貴田は登録976番。野中和夫が優勝した「第1回笹川賞」の優勝戦にコマを進め、彦坂郁雄とコース取りにしのぎを削る間に深い進入になって3つめのタイトルを逸した。競走以外でもエンジンいじりが好きで、スポーツカーや自動車の部品を買って性能アップにつとめていた。その頃はBMWを大改造中で、夜遅くまでパワーアップと取り組んでいたそうだ。森は登録301番の大ベテラン。“ペラ博士”といわれ、選手からは“先生”と呼ばれていた。この取材前に鳴門21周年で尼崎18周年以来の周年優勝と、復活劇を演じてきたばかり。「周年優勝ていつ以来か忘れました。ゴールしてもピーンとこなかった」と言うが「年々、レースの勘が悪くなってきたけど、尼崎はそうも言っておれん。減量もしているし、鳴門は53s(従来は55s以上)で走った。やっぱり体重は軽くないと出足がつかない。鳴門はセンターからのダッシュを効かせてスタートを切ったが、尼崎はインから勝負したい」と気合は満点だった。こんな本番前の意気込みを聞く取材は、とても勉強になったものだ。

◆20◆平成19年7月12日(木曜)
 彦坂郁雄と“彦坂・岡本時代”を築いた岡本義則はエンジンが“ナナマル(ヤマト70型)”の登場で苦戦の連続。パワーアップで、岡本の差しが届かなくなったのだ。“ターンの魔術師”もパワーに勝てず、インタイプへ変身中だった。「ナナマルはインを奪わないと苦しい。でも、なかなかうまくいかない」と苦悩の表情を浮かべていた。インが板に付くのはいつの日かーと復活を願って、記事にしたものだ。“ナナマル”に悩む岡本にくらべて、加藤元三は相性がピッタリ。3月鳳凰賞、5月笹川賞で連続して優出。抽選運も抜群だったが、波に乗る加藤は“一流”の座へーと希望がこもった内容だった。そして榊原照彦。地元周年で気合がばんばんに入っている。スタート事故がたたってCBB級から7月にA級カムバックが決まったばかり。44年度のダービー3着、46年の尼崎周年優勝の、勢いよ再び…。「A級が決まったし、地元では恥ずかしいレースはできん。サウナに入ったり減量もした」と闘志をむき出し。直前の江戸川(優勝6着)では「モーターはケタ違いだったが、レース中にビニールが巻きついて勝てなかった」と嘆き、その分を尼崎で取り戻す決意。もちろん、この22周年は、復活を告げる優勝で幕を閉じた。最後は大北勝之。「2着は眼中にない。蛇行や汚い手でインを取りにきたら、自分がつぶれてもインは譲らん」とガッツあふれるファイターだった。イン一本の取り口に、ガッツファンも多かった。この「尼崎22周年」の3連載は、書く方も気合が入っていた。


◆21◆平成19年7月13日(金曜)
 昭和49年は野中和夫のビッグ3連覇で、“王者”の座から追われたのが彦坂郁雄だ。笹川賞で野中にまくられ、MB記念は優勝戦に乗れず、野中のすさまじさを見るだけだった。それでも、初めて野中へ「おめでとう」と祝福した。晴れてライバルと認めた一瞬だった。といっても軍門に下るわけにはいかない。この年の3月、常滑で「鳳凰賞」を勝つなど、まさしく“王道”を歩いていたのだから。8月・住之江「太閤賞」のファン投票は野中を抑えて第1位。野中は優勝戦に乗れなかったが、彦坂は初日特選の3着以外は、5連勝で優出。そして進入の際にエンストしたためアウト5コースからスタートだ。わずかに立ち遅れたが、勝負どころの1マークでは鮮やかなまくり・差しで一気に突き抜けた。野中に負けじと、アウトからの快走に「どうだ」と言わんばかりの圧勝だった。「エンストした時点で半ばあきらめていた。モーターも出ていなかった。でも優勝できてよかった。このツキを生かして、なんとか10月のダービーを取りたい」と、ファン投票1位の面目を保ち、悲願のダービー制覇に思いを馳せていたが、ダービーの結果は野中がV、彦坂はフライングで野望を断たれたのだ。

◆22◆平成19年7月14日(土曜)
 三国競艇場の対岸に電光掲示板ができて間もない昭和50年2月の「第18回近畿地区選手権競走(近畿ダービー)」で異変が起こった。11日の最終日は早朝からの雪で一面は銀世界。そんな悪天候も優勝戦の前にはカラリと晴れ上がった。そして電光掲示板の売り上げ枚数が増えるごとに、関係者は「あと少し、あと少し」と期待の声をふくらませていった。「バンザーイ」の声とともに、初お目見えの電光掲示板は真っ暗に…「実は1億円を越えるような設定にしてなかったんです。だから消えて、売れたことを実感したんです」と、うれし恥ずかしでも、大喜びだった。もちろん、ファンの後押しで優勝したのが、地元のエース岩口正三だった。「今日が一番悪い」と朝からぼやいていたが、長嶺保の「アンちゃん、前の日と同じ状態に戻したら。それであかんかったらあきらめつくやん」とアドバイスを受けて、岩口の腹も固まった。長嶺にもらったプラグを付けて「まくり一本に絞った」と、スタートで一気に決着を付け、地元で錦を飾ったのだ。「選手生活で初めて減量もした優勝戦では49・5sまで落ちた。うれしいの一語です」と、選手生活13年目にめぐてきた“春”だった。ちなみに優勝戦の売り上げは1億843万8400円で49年12月30日の9269万800円を上回る新記録だった。

◆23◆平成19年7月16日(月曜)
 0秒0のオンラインスタートで、冷や汗を流したのが昭和50年3月25日、住之江競艇「第4回飛龍賞競走」で優勝した一色肇だった。この「飛龍賞」は、当時、オールB級戦で争われ、フライング事故など事故点オーバーの記念クラスがそろっていて、泣き笑いのドラマが数多くあった。インに構えたのは脇辰雄で、一色は3コースからスタート勝負に出た。「早い」と思ってアジャストしたが、1マークを先頭で回っても気が気でない。2マーク手前からスタート事故を告げる赤ランプがチカチカと点滅して止まらない。今のように瞬時に判定できなかった時代だ。一色はホームを通過するたびに電光掲示板を見た。赤が点ればフライングでC級落ち。青ならA級復帰の望みが出る上に優勝の美酒も味わえる。「フライングが怖い。調子が上がってくるとフライング。スタート事故だけはしたくない」と祈りながらの旋回だ。神に通じたのか、3周バックになって、やっと「青」が点った。「ホッとした。これで出走回数さえ足りればA級に戻れる」と、0秒0のドッキリSに安堵の表情を浮かべていたのが印象的だった。

◆24◆平成19年7月17日(火曜)
 昭和50年5月6日の常滑競艇で開催された「第2回笹川賞」を制したのは北原友次。イン争いを6コースからまくったのが田原淳行。北原は3コースからの差し。スタートの向かい風7bなら2マークは回りづらくなる。北原は計算通りに「早めに初動を入れた」のが成功。先行する田原はふくれ、2周目ホームで内から並びかけると、2周1マークで決着をつけた。「第1回笹川賞」は野中和夫のワンマンショーだったが、北原は開催前の4月18日に実父の祝蔵さんを亡くす不幸のため、実力を発揮できなかった。いつもタイトルを取るごとに喜んでくれた祝蔵さん、一周忌を済ませて、1年遅れで「笹川賞」を仏壇に供えることができた。また、同年の住之江・ダービーで野中を意識しすぎるあまり1マークをオーバーターンしたとき、息子の祝次クン(小学3年)が観戦していた。そして日記に「お父さんは1マークで大きくふくれて負けました」と書いて学校へ提出したそうだ。父親として、北原はタイトルを手に、祝次クンに「今年は勝った」と書いてもらいたかったのだ。それがインに固執せず、勝ちにこだわった「第2回笹川賞」の優勝だった。

◆25◆平成19年7月18日(水曜)
 競艇に事故はつきものだが、転覆で骨盤の長骨骨折の不運に見舞われたのが昭和50年6月1日の尼崎競艇「23周年記念」4日目の長嶺保だった。初日から好成績を残し初の記念優出も可能性大だった。それが転覆のあと追突され約3ヶ月の闘病生活を余儀なくされた。「骨折箇所が治りやすいところでよかった。もう少し他のところだったら二度とボートに乗れなかったらしいです」。復帰を目指して実家近くの住之江公園でトレーニングをしているところを取材に出向いた。兄・豊の親友で保も信頼している角崎敏一さんもトレーニングにつきあっていた。入院中は毎日病院へ足を運び、退院後は仕事の合間をぬって長嶺のたるんだ筋肉を元にもどすため相手をつとめた。その甲斐あって62sから57sに絞って、実戦の舞台に戻った。この日の写真が新聞に載ると、角崎さんは勤めていた会社にばれたものの、掲示板にでかでかと張られて、一躍、有名人になったとか。長嶺は、その後数年で引退、今はスポーツ紙の評論家と尼崎競艇場で舟券教室の解説者として活躍している。

◆26◆平成19年7月19日(木曜)
 昭和50年の競輪界はダービーを高橋健二(30期)、高松宮杯競輪を藤巻清志(27期)、オールスター競輪を加藤善行(29期)のヤングが優勝と、新旧交代の波が押し寄せていた。最後の「競輪祭」を前にして無冠の“3強”に胸の内を聞いた。ミスター競輪の阿部道は「レース運がないというより、僕の思い切りが悪い。ひとつきっかけをつかみたいが、なにかしっくりこいかない。このままで今年を終わりたくないが…」と迫力がない。走るコンピューター・福島正幸は「調整の失敗もある。競輪祭までに万全の態勢にもっていきたい。いろいろと考えているのですが、どうもピリッとしない。3連覇? 走ってみないと…」と苦悩の表情。田中博は「僕はポカが多いから。調子は競輪祭へ向けて整えている。抽選負け(オールスター準決勝で同着抽選でまけ)しないように、自分で道を切り開きたい」と浮かない顔。3人ともヤングとのパワーの差を感じているのは確かだった。この「競輪祭」は福島(4着)、阿部(5着)が決勝に乗ったが、優勝したのは28期・桜井久昭だった。

◆27◆平成19年7月22日(日曜)
 「第17回競輪祭・全日本競輪王決定戦」は昭和50年11月30日が決勝戦だった。福島正幸は阿部良二と久保千代志の先陣争いを描いていたが、阿部が動かず、久保ー伊藤健次が最終ホームからカマシを放った。伊藤ー阿部が続く流れに、福島はアテがはずれた。必死でバックまくりを放つが伸びない。この福島に命運を託した桜井は内へ切り替え、3〜4コーナーも内をスルスル伸びた。ゴール前で久保ー伊藤の中を割って桜井が優勝した。
 「6番車(弱い代名詞)のユニホームもイヤではなかった。高橋君(健二)がダービーを取ったときも6番だったし、勝ち運のあるユニホームだと自分に言いきかせていた。福島さんマークも初めから決めていたし、インをつくような競走になるとは思わなかったが、それにしても、よく走れた。最高の喜びです」と、常に多弁な桜井が、さらに舌の回転も加速していた。一日の練習量は神奈川県・厚木の朝霧高原へ車ででかけ、そこで100qの乗り込み。工藤元司郎が「あれほど真面目な選手は珍しい。礼儀正しく、いつも真剣に戦っている」と絶賛していた。「フロック」という言葉がきらいな桜井、以後もスピード満点のレースぶりで穴ファンを楽しませた。