【48〜57】頑張れ!岸和田競輪
【48=平成20年4月11日(金曜)】
 競輪の運営が安定してきた昭和30年、自転車の持つ使命をさらに拡大し、スポーツとしての価値を意義づけるとともに、産業人の健康増進の一助として大阪府産業人サイクルロードレースを開くことになった。30年度を第1回として、毎年開催する年中行事とすることを決めた。
 主催は大阪府自転車振興会が主体となり、産業経済新聞社、大阪新聞社、サンケイスポーツの3社が共同主催することになった。いうまでもなく自転車競技を一般に理解せしめると共に自転車スポーツに対する正しい認識を要請、スポーツを通じて健全な人格の昂揚、さらに自転車の普及宣伝をはかるもので、サイクル・ロードレースの示す目的の雄大さは近来の快事といえよう。
 この当時、自粛競輪が確立し、その行く手に希望と光明が輝いている際であり、この行事を通じて自転車スポーツの本質を周知徹底せしめる絶好の機会となった。
 産業経済界にとっては日中貿易の民間における調印がなされ、中国貿易も前途に多大の望みが待たれている。またバンドンで開かれたアジア会議における日本の参加はアジア諸国の経済提携が強く要望され共存共栄の途は近く実現されようとしている。このように、我が国における輸出産業中、アメリカの自動車、スイスの時計というごとく日本の自転車が登場してくるのは当然のこと。新しく振興会が企画したサイクル・ロードレースは幾多の重要な要素を内包していたのである。
 我が国における国民一般のサイクル熱は高く、職場に、学校に団体などがロードレース、サイクリングと自転車への関心が深まっていた。この企画が第1回より第2回、第3回と重ねるに従って人気の焦点となり、隆盛に向かってきた。いまや“商業大阪”の年中行事として400万府民の絶賛を博しているゆえんでもあろう。大阪府自転車振興会が存続される限りにおいて永くその名声が伝えられ続けられてゆくことと信ずるーと書かれてあった。
 残念ながら、振興会はなくなり、近畿自転車競技会となったが、今は日本自転車競技会に吸収合併されて、こんなサイクル・ロードレースを企画することもできない組織になってしまった。これでは自転車熱が高まることもない。府下では岸和田だけが残り、豊中に次いで住の江、中央競輪も休止、廃止となるなど、競輪熱も時代の流れとともに冷めたのかも。

【49】平成20年4月14日(月曜)
 「第1回産業人サイクル・ロードレース」は昭和30年7月10日、大阪市大手前公園、天下茶屋、岸和田、和泉府中から堺、天王寺公園に至る52`のコースにおいて実施。参加チーム70、300名の選手によって行われ、団体チームとしては丸淀手捺染チームが優勝、個人大着は同チームの西原尚二選手に凱歌があがった。
 春3月に計画された産業人サイクル・ロードレースは、どの程度に社会的反響を呼び、大会自身としても参加人員、その他について五里霧中の状態だった。ところが、いざフタを開けてみると予想外の参加者を得るとともに一般に対しても想像以上の効果をもたらした。
 大会当日は午前7時までに大手前公園広場に集合した選手は第1班より第5班に分かれて三列縦隊に整列して開会式を行った。梅田競技委員長の大会宣言に始まり、増村大会委員長の挨拶、福井審判委員長のレースに対する指示があって開会式を修了。そして青空高く轟き渡る打ち上げ花火のうちに選手の行進が開始された。
 大会宣伝車は1台、2台と華やかなスポーツ行進曲を奏でながらコースを進んだ。選手の市中行進は三列縦隊で第1班の白から赤―黄―黒―青の5班に色分けし、各班ごとに3分ずつおいて出発した。選手団の前後には来賓車、警察の白バイ、大会委員長車、各委員長車などが列をなし、その間に移動審判車、連絡車、救護車、収容バスなどが行進する壮観なものだった。
 市中行進は大手前馬場町から内本町2丁目、松屋町筋を南進して天王寺公園北口より大国町、さらに国道26号線を南下して南海高野線ガード下まで続けられた。
 その間、各交叉点は臨時処置が講ぜられ一糸乱れぬなかに行進。日曜日で、朝からの好天のためレースを見んものと多数の市民が沿道に群がり小旗を振って声援を送っていたのが目立った。

【50】平成20年4月15日(火曜)
 ◆しばらく「第1回サイクル・ロードレース」の戦いの経過を追ってみる◆
 南海高野線ガード下に到着した選手はスタートラインに整列。各班ごとに10分間の間隔をおいてスタートした。午前8時40分、第1班がスタート、相次いで各班が出発、午前9時20分を最後として302名の精鋭は天王寺公園めざして熱戦の火ぶたを切った。
 白バイ、先導車、各役員乗用車、移動審判員のオートバイが軽く爆音を残して一路南へ、南へ、色とりどりの選手団はまったく同じペースでクランクを回す。朝といっても真夏の陽光はアスファルトをカンカンに照らしている。住吉公園を左に見て大和川大橋にかかるころには選手団は早くも前後に分かれて混乱状態に陥ってきた。堺に入る頃、日も高く、選手を乗せた。
 銀輪の影も濃くなっていく先頭の一団は海を渡る冷風に力いっぱい力走して、灰色の舗装路を滑り細長くなった隊列はいかにも美しい。出発点を出て10`、石津川を越えるころ右側の防波堤付近に“優勝を祈る”と大きく書き出した白旗を振る一団が目に焼き付くように見られていた。出場選手の職場の応援隊である。
 選手達の前後から宣伝カーのスピーカーから心躍る勇壮な音楽、軍艦マーチなど行進曲のリズムが心地よく響いてくるのも産業人らしい雰囲気をかもし出していく。
 浜寺公園のキャンプ地の前には日曜を楽しむ外国人の家族ずれが幾組か立ち止まり“ハロー、ハロー”と手を振って応援しているのが印象的であった。
 泉大津市内を通過するころは、見物人もかなり多くなり、産経新聞の小旗を振って応援する子どもたちの楽しそうな顔が至るところで見られる。やがて岸和田競輪場が左手に姿を見せてきた。舗装した松並木をスイスイと追いつ追われつ、抜きつ抜かれつと、各選手とも必死の様相を呈している。

【51】平成20年4月16日(水曜)
 コースの半分を踏破した選手の一団は岸和田昭和橋の角にある関門通過判定所へまっしぐらに突っ込み、先を争って通過認定証を渡し左折して進む。この頃から優劣の差がはっきりしてきた。
 「丸淀」の西原尚二選手は一団を抜き、ものすごいスピードで走ってゆく。東岸和田駅付近より小栗街道を北上すると、この辺りから混戦が続く。選手団も後からスタートした赤、黄、その他色とりどりに入り乱れて見当がつかない。
 久米田付近では10時を過ぎ、バラバラになって北上している。各選手の疲労も目立ってきた。西原尚二選手に続いて同じ「丸淀」の西原一夫選手、橋本信明(堺キャンプ)津川栄(嘉穂工業)谷村博司(三星製作所)広原政吉(西成捻子)の各選手が力走。体力と体力の火花散る壮烈な戦いとなってきた。
 和泉府中の街から信太山の裾をあえぎながら走る。この附近は道路事情も悪く、上り下りが多い。街外れの畑地に幼稚園らしいエプロンをつけた可愛い幼児らが小旗を振ってヤンヤと騒いでいる。選手の疲れた心に温かい情熱が沸き返ったようだ。
 南町から大鳥神社前、上石津の橋を突っ切っていく行程40`を走破。あと僅か10`余り。302名の選手から次々と落伍者が出始める。最後尾を行く収容トラック、収容バスに収容される選手と自転車の数が増えていった。
 堺の市内に入るとさすがに見物人や応援隊がひしめいている。堺市役所前では人と小旗の波である。堺の職場からは多くの選手を送り出しているためか、ガンバレ、ガンバレの声援もものすごく、選手の通過するたびにどよめきが起こって、汗まみれの選手も、これに応えて力一杯の奮闘ぶりだ。
 ここからは選手にとって最後の難関、大和川遠里小野橋への上り坂、さすがに選手も苦しそうだ。橋を渡れば天王寺まで坦々たるアスファルト。ゴールを目指すペダルの軽やかになっていた。

【52】平成20年4月18日(金曜)
 最後の頑張りだ。南海高野線の踏切で引っかかった選手は気が気でない。大阪の市街地両側の各商店は家から飛び出して声援を送っている。真っ黒に日焼けした顔、汗に濡れたシャツ、選手の力闘に、あちらから、こちらから拍手と声援。監視員の黄色い旗も左右にゆらめくのが見られていた。
 府立病院前から阪大南校前、次いで松虫より阿部野斎場前交叉点、天王寺駅前、猛烈なラストスパートだ。花火の轟く中を、「丸淀手捺染」の西原尚二選手がトップでゴールイン。黒山のような人波からバンザイの絶叫の嵐。その所要時間は僅かに1時間33分18秒、恐るべき脚力である。
 次いで同じく「丸淀」の西原一夫選手が2着、続いて橋本信明選手(堺キャンプ)谷村博司選手(三星製作所)広原政吉選手(西成捻子)がゴールに入った。
 結局、12時20分までにゴールインした選手は235名。落伍したものが67名となり、ここで一応レースを打ち切り、審判会議を開いて団体並びに個人成績を審議した。
 午後1時40分から閉会式が行われた。団体優勝の「丸淀手捺染」チーム・西原主将に深紅の大優勝旗が贈られ、同チーム各選手に第1位賞としてトロフィーカップが大阪通産局長、府知事、大阪市長、大阪府自転車振興会理事長より贈呈された。山と積まれた賞品を前に丸淀チームの選手達は手を取り合って喜んでいた。
 個人賞として1着の西原尚二選手は団体優勝と両手に花といった格好だ。1位から30位までそれぞれ賞品が贈られ、最後に本大会の紅一点としてただ一人の女子選手、「大阪自転車」の吉田早苗さんに努力賞が贈られ、万雷の拍手をもって迎えられた。
 増村大会委員長から「大会は無事終了した。関係各方面に感謝する」旨の挨拶があり、大阪通商産業局長、産業経済新聞社長らの挨拶、祝辞があって、最後に佐藤大阪市長代理の発声で万歳三唱、大会の幕を閉じた。
            
 52`を1時間33分18秒とは、やはりすごい。当時の道路事情だから許される産業人サイクル・ロードレースだが、同じコースというより、今では交通量が多く市内では実現不可能な企画だ。それでも各企業の親睦、活性化という意味合いでは、こんなレースがあってもいいかな、と思う。

【53】平成20年4月20日(日曜)
 大阪府産業人サイクル・ロードレースの第2回大会が31年10月7日に開催された。第1回は実用車の大会だったが、このころ流行し始めた軽快車を加えて、二本立ての興味ある大会になった。参加は軽快車48チーム、実用車45チーム、合計280名の選手が参加した。
 第2回のコースは大阪より河内長野を迂回、西高野道を堺に出て西田辺地下鉄駅前に至る55`で争われた。その結果、団体では軽快車・小倉製作所チーム、実用車・鍛冶田染工チームが優勝。個人では軽快車・西原尚二選手(鍛冶田染工)、実用車・橋本信明(上代繊布)がそれぞれ優勝し、団体に対し実用車に紫紺、軽快車に真紅の大優勝旗が授与された。
 午前7時までに大阪大手前馬場町広場に集合した選手は、開会式の後、市中行進をした。折からコース上空に爆音高らかに産経機セスナーが激励飛行を行い、大会気分を盛り上げた。
 パレードは天王寺西門前から左折、寺田町、百済を突き抜けて発走地点・杭全町まで7`の間続けられた。日曜日であり朝からの好天気に多数の市民が沿道を埋め尽くし、声援を送っていた。
 ◆第1回と違うコースを走る第2回大会のレース経過を追ってみる◆
 杭全町に到着した選手らは軽快車を前に実用車とスタートラインに整列。押し寄せた群衆のワアワアという声援に、付近一帯は時ならぬ雑音に包まれていった。
 午前9時10分号砲一発! まず軽快車150名の選手が一斉にスタート。みるみるうちに彼方の街に消えていく、おそろしいスピードだ。次いで実用車130名がスタートした。延々と1`に渡る大梯団は先導の白バイをトップに一路南へ、南へ、時速40`に近いスピードで突っ走る。

【54】平成20年4月22日(火曜)
 平野街道をまっしぐら。八尾の街に入ったところから選手梯団は前後に分かれて混乱状態。軽快車はスタートから5`あたりで大家、中川(小倉製作所)吉川(島野工業)笹井(城東輸業)谷村(三星製作所)藤崎(東洋ラスクリュー)小林(小林運送店)の7選手がトップグループを約1000bも離した。20`の富田林に入って、先に八尾で転倒し前車のブレーキを故障した西原(鍛冶田染工)がこの一団にとりつく。砂埃がもうもうと立ち込む砂利道、東高野街道に息詰まるような熱戦を展開した。
 関門の長野駅下りをそのままの形で通過。関門通過判定所では各選手とも、先を争って通過認定証を投げ渡し、次々右折して進む。
 富田林を通過するころは日も高く選手を乗せた銀輪の影も濃くなってゆく。選手達は金剛山から吹き下ろす冷風に流れる汗をいやし、力一杯力走して、灰色の舗装路を滑り、細長くなった隊列はいかにも美しい。
 平野から八尾、柏原、古市、富田林、長野と、東大阪から南大阪の主なる街々には“優勝を祈る”と大書きしたのぼりを押し立てたものや、会社工場など代表選手を送り出した友人や同僚が、いたるところに陣取って声をからして声援を送る姿が見られた。
 大和川を挟んだ両側の田園では、 お百姓さん達が鍬の手を休めて笠や手拭いを盛んに振っている応援ぶりは、まことにほほえましい風景である。
 富田林市役所の湯茶接待所には日曜にもかかわらず出勤した吏員さんや女性が、ほこりと汗にまみれた選手らに心からの接待をして、各選手達は非常に感謝していたのも美しい場面であった。
 また長野銀座ともいわれる中心地の長野関門所には小柴市長も姿を現し、選手を応援、激励した。市民の熱狂ぶりも、また格別である。

【55】平成20年4月23日(水曜)
 長野関門所を右折、西高野街道を真っ先に進む軽快車梯団が関門を過ぎるころ約1000bの急坂を上り切ったところで中山(エナミヤ自転車店)辻林(島野工業)西川(三星製作所)小西(鍛冶田工業)がこのグループに追いつき、12名の選手の大競り合いとなった。
 その後、笹井が関門から2000bの地点でパンク、圏外に去った。他の11名は御陵下の国道13号線のアスファルト道路に最後の競り合いを続け、レースの激しさは最高潮に達していった。
 その他、一般の選手は長野関門を過ぎ、狭山池を右に眺めて進む。相次いでの上り坂に軽快車も実用車も入り交じった混戦。背番号の赤が後になったり、紫紺の背番号が前に進んだり、まったく見当がつかなくなっている。
 各選手の疲労も目立ち、砂利道の坂に転倒するもの、車に故障を起こすもの、車を押して坂を上るもの、レースの峠ははっきりしだした。40`地点の中百舌鳥運動場附近では、前後の差が大きくなってきた。
 堺市内に入ると、さすがに見物人や、それぞれの応援隊がひしめき合っている。堺市役所前、堺東駅前など人と小旗の波。御陵下からこの辺一帯に学童の姿が、かなり多く見られ、「先生、ガンバレ」を連呼していた。このレースに堺市立湊西小学校の先生が出場しているので、教え子の必死の応援だった。
 軽快車の先頭グループは13号線を飛ばし、ゴール前1000bで西原がいったん飛び出し、すぐに力を落とし、600bで再びトップに立って、巧みに逃げ込んだ。第2位となった中川と紙一重の差、競輪で見られるような写真判定の際どい勝負だった。
  軽快車より10分遅れてスタートした実用車は長野までは追いつ抜かれつ接戦を演じていたが、長野関門で丸谷(昭和染工)が約100bリードしていたが、続く15名が一団となって迫ってきた。互いに譲らず後半戦に入った。結局、ゴール前400bで各選手が一斉に追い込んだが、橋本がうまく逃げ切った。2位以下は写真判定で勝敗を決した。
 ゴールインした選手は軽快車、実用車合わせて217名、不幸にして落伍したものは52名であった。

【56】平成20年4月26日(土曜)
 第3回目の「産業人サイクル・ロードレース大会」は、前年度の実績と時代の要請に応じて実用車による競走を廃止、軽快車一本になった。また新しく婦人のみによる競走を加えた。回を重ねるごとに盛況を示し、参加チーム募集発表直後に定員を満たし、参加できないチームから割り込み運動が行われるほどだった。
 32年10月13日、男子87チーム、246名、女子14名、合計260名の選手によって行われた。コースは延長されて男子70キロ、女子は40`。男子コースは大阪市馬場町広場より天満、空心町を経て今福橋、ここをスタートして住道、寺川を南折、東高野街道を八尾市に出て河内長野を迂回、西高野街道を堺に出て西田辺地下鉄駅前に。女子は道明寺允恭帝陵前から男子コース同様に西田辺となっていた。
 その結果は団体第1位に森自転車店チーム、男子1着・中川正博選手(小倉製作所)、女子1着・吉田早苗さんと決定。団体優勝チームに大優勝旗が授与された。
 午前7時55分に集まった選手は一列縦隊となって市中行進を開始。馬場町から谷町→天満橋を経て空心町を右折、銀橋を渡ってスタート地点今橋へ。行進は15`から20`の速度で進み、選手は青、黄、黒に背番号をつけた美しい絵模様を繰り広げてゆく。日曜日で絶好の快晴のため、レース見物の人々が沿道に群がって、小旗を振って声援を送っていた。
 ◆1、2回大会と違うコースを走るレース経過を追ってみる◆
 今福橋に到着した男子選手246名はスタートラインに整列。ラインの両側歩道には見物と応援に押しかけた群衆であふれ、ゴウゴウたる雑音に包まれた。あ
 朝靄がたれ込めた朝の空気を破って号砲一発…午前8時30分、選手は一斉にスタートを切った。見る見るうちに遠く彼方に姿が小さくなっていった。先導車や役員乗用車、異動審判のオートバイが爆音を残して出発する。延々と半`に渡る大梯団は、先導の白バイをトップに一路東へ、さらに南へ、時速40`という驚異的なスピードで進んだ。

【57】平成20年4月30日(水曜)
 秋の陽射しを受けて選手団は、まったく同じペースでクランクを回す。大阪住道線を真っ直ぐに走る選手の距離は少しずつ離れていく。男子選手は15`地点の近鉄奈良線若江岩田陸橋付近では昨年上位に入賞した中川(小倉製作所)西原尚二(鍛冶田染工池田)谷村(三星製作所)を先頭にして20数台が一団となって通過していった。
 長野関門附近では、その集団が50台をはるかに越えるという激戦を展開しながら後半戦に入った。しかしながら依然としてトップグループは中川、谷村、西原らが代わる代わるトップを切り後続を引っ張っていった。
 堺市内に入り、国道13号線をひた走り、遠里小野橋を渡って、ゴール近しと見るや200bぐらいから中川が猛烈にスパート。そのまま逃げ切った。3連勝をねらった西原は練習不足のため11位に甘んじ、好敵手・谷村も中川に名をなさしめた。
 団体優勝した森自転車店は勇一、司郎の兄弟が相次いで7,8位に入ったためで、優勝候補の鍛冶田染工は西原一夫選手がスタートからしばらくして転倒負傷して圏外に去ったのが響いた。
 女子レースは、男子コースの途中にある道明寺允恭帝陵前からスタート。なにしろ初めての試みで、練習や経験も不充分だったためか、途中で転倒する者が多く、レースもかなり混乱していた。15`ぐらいまでは一団となって走っていたが、このあたりから木内選手がトップに立った。
 ところが25`附近で木内選手がパンク。代わって一昨年の男子レースに加わり健脚を鍛えた吉田早苗選手が飛び出し、2位に500bの大差をつけて優勝した。
 
 大会本部のマイクから決勝ゴール地点及び公園内にスピーカーが設置され、レースに協力参加した自衛隊の超短波無線車4台によってレースの模様が手に取るように入ってきた。戦況を刻々放送するなど、マイクを通じて選手の動きが伝えられるたびに、首を長くしてゴールインを待つ応援隊や観衆から、拍手とどよめきが起こった。
 遠里小野橋を通過する選手の背番号が一つ一つ通報されたのも、今回の速報戦の大きな特色であった。

 この大会は第3回までしか資料のないのが残念だ。また競輪の30年史や50年史などを調べて、掲載されているなら紹介したいと思う。