|
【71】〜【80】我が野中和夫 |
【71】平成19年10月8日(月曜)
「野中和夫にはっぱをかける会」の準備は着々と煮詰まっていった。それでも、野中和夫は「1000勝パーティー」を看板にしたかった。今まで、競艇界で個人パーティーが催されたことがない。外部と、いや一般の人とも接触を避けてほしいというのが、業界の暗黙の“指示”だった。
「個人でやるにしても、了解だけはとっとかんとあかん。できれば、名目だけでも主催をしてくれたらええんやけど。関係団体には頼みに行ってるんや」
何度も、野中は足を運んだが、答えはいつも同じ。「ダメ」だった。当時はお堅い、閉鎖的な業界の壁に、トップスターの願いもはね返されたのだ。仕方がない。「はっぱをかける会」ががんばるしかなかった。急いで案内状も印刷。日時、場所は昭和55年3月12日、大阪ミナミのホテルと決まった。
「なんで、応援してくれへんのかなぁ。閉鎖的すぎるわ。競艇をいろんな人に知ってもらうのに、ええ機会なんや。男ばっかりやない。奥さんと子どもさんに来て欲しいんや。こんなパーティーに来て、楽しんでもらいたいんや。それが分かってもらえんかった。情けないわ」
オークションに出展するパネル写真も、仲のいいカメラマンに頼んだ。第1回笹川賞の優勝パネルを始め、特別V6のパネルを用意。飾り付けの連続写真など、野中の“思い出”をそろえた。
【72】平成19年10月10日(水曜)
その日がやってきた。昭和55年3月12日、大阪ミナミの御堂筋側のホテルで「“競艇界の怪物” 野中和夫にはっぱをかける会」が催された。受付は知人が応対、子ども連れの来場者が多く、日ごろ、野中和夫と面識の無い人が大半をしめた。進行役は発起人の一人、歌手の早瀬一郎。軽妙な語り口で雰囲気を盛り上げていく。林家小染が会の成り立ちを説明しながら、乾杯の音頭でにぎやかなパーティーが始まった。
真っ白なタキシード姿の野中。「私も、知人もパーティーを開くのは初めてすが、子どもさんもたくさん参加してくださってるし、なごやかに、楽しく、最後の最後まで笑って、誰のパーティーかわからんかったような、そんなパーティーにしたいと思ってます」
彦坂郁雄は約束通りに娘さんと来場。中村男也に松本進、後川博、村上一行、安岐真人、林通、貢兄弟、国光秀雄、大阪の選手ら同僚の他に、競輪の中野浩一選手、中野の自転車を作る長沢義明氏、競馬の武邦彦騎手、オートレースの鈴木選手、パーティーの途中で発起人の横山やすし、漫才のオール阪神・巨人、大阪府立体育館で大相撲春場所に出場中の横綱・輪島らが、続々と駆けつけた。
|
|
【73】平成19年10月11日(木曜)
横山やすしが「ワシは漫才で芽が出んときに、競艇選手になったろと思たんやけど、親父に相談すると“3年我慢せえ、3年経ってあかんかったら、好きにしたらええ”と言われて漫才を続けたんや。そしたら2年6ヶ月目で上方漫才大賞の新人賞をもらいましたんや。ブチ(野中)にも親父の言葉を言うたんや。“3年たってA級になれんかったら止めて、元の板金塗装でも果物屋でもせえ”と言いましたんや」と自らの人生と合わせて、デビュー当時の野中を励ましたことを明かした。野中はやすしの気持ちを受けて、実戦の舞台では負けじ魂で突き進んだ。まるで“競艇の申し子”のように輝いた。
水の上では敵同士でも、彦坂郁雄は野中の良き理解者でもあった。「千勝おめでとう。これからも2千、3千勝に向かって、お互いに競艇界発展のためにつくしましょう」と祝辞を述べた。そして「競艇は一戦、一戦が条件が違うなかで、いかに1着を取るかを考えて走ってます」とファンの期待に応えるため、常に全力を傾注しているのだ。体重も食べたものが体に残らないように改善して“王者”として君臨してきた。そんな彦坂だからこそ、野中は打倒・彦坂を掲げて打ち砕き、モンスターの称号を得たのだ。
中野浩一が「私生活でお世話になってます。ボクも野中さんのように記録を残したいと思ってます」。会場に集まった選手からも、それぞれが、野中を評し、競艇の素晴らしさを話し、水面では見られない素顔のモンスター野中が、来場者と競艇の距離を縮めた。
【74】平成19年10月12日(金曜)
パーティーの最後に、大阪選手会の新開拓夫会長が「野中選手は、今日で1000勝を忘れて、初心に戻って、頑張ってください」と挨拶をした。浪花のど根性を持った野中和夫を誇りに思い、競艇の発展を切なく願う、この日、唯一の“業界”の言葉だった。
野中も「長い間、おつきあい、ありがとうございました。たくさんのかたに後援していただき感謝しています。ギャンブルの集まりといえば男ばかりになりがちですが、今日は家族や子どもさんがたくさんきてもらいました。これからは2千勝に向かって、今は北原さん(友次)、彦坂さん(郁雄)が目指していますが、私もこれから10年、20年と頑張っていきたいと思っています。カゲながら応援していただければ幸いです」と、楽しいパーティーに感激していた。
強いがゆえにモノを言う。我が世の春と思わなくても、待遇改善など、選手の立場で、プロ野球やゴルフと同じように、世間の評価を高めるために、スポーツとしての競艇をアピールし続けるのだ。出る杭は打たれるのかも知れないが、業界では強い・野中が、脅威の存在となっていた。「1000勝パーティー」を個人で開くのは、ある意味で“挑戦”だったのだ。
【75】平成19年10月15日(月曜)
新たな期待を背負った野中。夏からの特別戦線へ向けて、全身にやる気を充満させた。そして、予期もせぬ“事件”が起こった。その前に、野中は丸亀競艇「周年記念」に走っていた。4月30日で7月からのA級復帰も決め、さらに勢いに乗る予定だ。丸亀までに一般戦でV3をマーク。記念優勝こそなかったが、優勝戦にはきっちり進出した。
丸亀の優勝戦には、私も競輪取材の流れで、馴染みの深い丸亀に立ち寄った。もちろん、野中の優勝を期待してのこと。そして大阪で「A級復帰」と「祝勝会」をするためだ。
昭和55年6月25日、丸亀競艇場では「開設28周年記念・第4回京極賞」の優勝戦が行われた。オイルショックのころから、競艇界は12R制から10R制にして、給油制限に対応してきた。この10R優勝戦、野中には感慨深い一戦となった。メンバーは@吉田重義A竹内将浩B岡本義則C野中和夫D中道善博E柴田稔の6人。
“インの鬼”柴田は枠有利にピットオフ。中道、岡本も負けじとイン奪取へ挑むが、1分前には柴田、中道が舳(へ)先をスタートラインに向けた。岡本も続く。インは3バイ。ダッシュを効かせて4コースから竹内ー野中ー吉田が発進だ。イン3、アウト3の、いわゆる3・3スタイルでスタートすると、まだスタート150b前の地点で、ピット内では「野中、ええまくりや」の声が観戦中の選手から上がった。それほど野中の自信に満ちた、仕掛けだった。
|
【76】平成19年10月17日(水曜)
丸亀競艇「開設28周年記念」の優勝戦は、野中和夫がコンマ05、会心のスタートだ。1マーク手前では他艇に1艇身以上も差をつけて、鮮やかすぎるまくりでツケ回った。BSではすでに独走態勢の圧勝だ。2着の中道に100bも引きちぎって、ガッツポーズで、この年、初めての記念優勝を飾った。
「スタート勝ちやね」と真っ先に口をついた言葉だ。49年、54年のMB記念を2度制した丸亀。思い出の地で、復活の狼煙を上げた。
「久しぶりの記念優勝でうれしい。整備員さんも、ほんと、ようやってくれた。ありがたいことです。丸亀との相性もええなぁ」。丸亀競艇「開設28周年記念」を優勝した野中和夫は、陰の力にも感謝を忘れない。7月にはA級へ戻る。大好きな水のシーズン到来へ向け、休む間もなく記念戦が続く。
そんな場に立ち会った私も感動の優勝だった。野中が「さあ、大阪へ帰るで。もう直行や。飛行機やから8時にはミナミに着いとるやろ。待ってるで」と気安く声をかけてくれたのはいいが、原稿を書いている若い記者を放って帰るわけにもいかない。ヒーロー原稿の送稿が終わって、帰路についたが丸亀から高松→宇高連絡船→宇野→岡山→新大阪の長旅ではミナミに着くのも日付が変わるころだった。今では2時間ほどで大阪に着くが、瀬戸大橋ができるまでは丸亀も“僻地”だった。
【77】平成19年10月19日(金曜)
野中和夫の店「ブッチー」に顔を出した後、私も合流して、知人らとはしご酒。久々に飲む美酒、野中和夫も気持ちよく酔った。得意のノドもたっぷりきかせた。気が付けば空が白んでいた。やっと堺の自宅にたどりついた野中、いつもよりも深い眠りについた。
昨年は長嶺和夫の整備違反から除名→復籍、そして除名。大阪選手会の副支部長だった野中は長嶺の復帰運動に奔走したが報われなかった。そして、愛弟子・北山二朗の整備違反→除名の“事件”にも身を粉にして嘆願した。それでも北山は“引退”するしかなかった。前年の浜名湖周年で優勝、この3月25日の平和島・施設改善記念で野中を破って優勝と、まさにスターへ飛び立つところだった。野中も「もうジロウ(北山)には勝てんかも知れん。それほどスピードがあって巧い」とほめちぎっていた。
「ちょっと頑張ってきますわ」と北山が宮島へ向かったのは4月3日だった。誰もが「平和島で優勝した後やし、欠場したら」と言ったが、北山は勇んで宮島へ行って6日の2日目に整備規定違反を犯し、5月14日の「褒賞懲戒審議会」で出場停止12ヶ月の制裁。そして選手会の規定項目で退職勧告を受け、艇界を去った。野中は深い悲しみに包まれた。
苦しみ悩んだ後に丸亀周年記念の優勝。野中は久々に心の底から喜べた。6月26日はゴルフの後、横山やすしと「祝勝会」だった。先の「野中和夫にはっぱをかける会」の発起人は、うれしくてたまらない。飲んで、しゃべりまくって、野中を圧倒だ。延々と飲み続けた。二日酔いになるぐらいの酒量だった。翌日、まさか、天変地異が起こるとは夢にも思わない。
【78】平成19年10月22日(月曜)
大阪の毎日新聞夕刊1面に「競艇ナンバー1の野中選手 暴力団ノミ屋と交際」(昭和55年6月27日)が報じられた。寝耳に水の出来事に、各マスコミも大慌て。さしずめスポーツ紙にとってはスターの“事件”を放っておけない。私が社から連絡を受けたのは競輪取材を終えた夕刻。とにかくすぐに社へ戻った。
野中にノミ行為と暴力団との交際に関する疑惑がかかったのだ。夕刊によると「ノミ屋の暴力団幹部と交際があり、暴力団幹部のノミ客向け隠し口座に現金を振り込んでいたことが、大阪府警西署の調べで分かり……全国モーターボート競走会連合会に通知するとともに二十七日午後、同選手から事情を聴取した」と書かれてあった。
夕刊が各家庭に届く頃、野中和夫は「聞きたいことがあるので出頭してほしい」と大阪府警西署から連絡を受けて事情聴取に応じた。まだ自宅でくつろいでいるときには、夕刊ができあがり、すでに事情聴取も行われていたとか。この時間差は、野中も納得がいかなかった。
野中が事情聴取を終えて、西署の門を出るとテレビのライトにカメラのフラッシュがひっきりなしに光る。その時の第一声が「どうなっとんのや。なんか、ようわからん」だった。「毎日新聞の夕刊に載ってますよ」と返すと「よっしゃ、あとで」と言い残して、全国モーターボート競走会連合会の担当者の待つ大阪・長堀の船舶ビルにある大阪選手会事務所(当時)へ直行した。
|
|
【79】平成19年10月23日(火曜)
全国モーターボート競走会連合会は報道と同時に、登録消除の手続きに動いた。基本理念は「疑わしきは罰す」だ。内規によっての罰はファン重視の姿勢(厳しい訓練、管理の厳罰主義)で疑わしき行為を優先した。野中は話し合いの中で、身の潔白を証明するために選手登録を一時的に、返上した。それでも登録消除=引退=クビの図式が描かれていた。
選手登録を返上した後、共同記者会見が行われた。
ー現在の心境は 「警察へ何をしに行くのかわりませんでした。聞かれたことについては答えたが、バカらしくて話しにならん。とくに暴力団との交際というのはとんでもない」
ー暴力団との付き合いは 「私の店が昭和49年のオープンです。50年の後半頃に(暴力団の)奥さんが一見でこられた。問題の人は53年の夏頃、奥さんと一緒にきたので覚えている。その後、店だけで4,5回会ったことは会ったが、あちらはお客さんだから…。“いらしゃいませ”というぐらいのものです」
ーパネルはどこで渡したか 「渡すもなにも、ボクはまったく知らないことです。自宅で(暴力団が)貰ったといってるらしいが、ボクは店以外で会ったことはないんですよ」
ー口座振り込みは 「これも私は全く関知しておりません。なにか店の者が買ったらしいです。実はその代金を店の方で払えなく、何しろもうからずの火の車ですから、女房に店の者が頼み込んで払ってもらったんだろうと思います」
ーこれからどうするのか 「とにかく記事になったということで、ファンはもちろんのこと、業界、関係者の人達に迷惑をかけたことは間違いなく、さっそく選手手帳を渡し、ボクの身柄すべてを連合会に預けるとともに、選手登録消除を申し出ました」
【80】平成19年10月24日(水曜)
社へ戻って原稿をまとめ、野中和夫宅に電話を入れた。「何が、何か、さっぱりわからん。明日、ゆっくり話しを」と戸惑う野中に、「善後策を考えましょう」と翌日に会うことを決めた。激動の一日は終わった。テレビでも競艇界のスター・野中の「黒い交際」を取り上げた。逮捕された暴力団の事務所に野中和夫の大きなパネル写真が飾ってあったのと、“ノミ口座”に野中和夫名義で11万円が振り込まれていたため、翌朝の新聞、とりわけスポーツ紙はでかでかと“犯罪者”のように、野中を斬りまくった。原稿は本人の意思とは関係なく厳しい内容ばかり。ファンも自然と「引退」と受け取った。
「オレは何を言われてもかまわん。ただ、小学校1年の子どもが何か言われてるんじゃないかと思うと、それが辛い」
厳格な業界の約束事は「暴力団とは一切、付き合ってはいけない」だ。不特定多数を相手にしなければならない水商売を副業に選んだことに、問題があったのかも知れないが、疑惑を招いただけでも、超一流選手の野中が負った責任は重かった。
野中は、すぐに「ブッチー」を売却した。店の5周年記念の商品代を振り込んだ先が“ノミ口座”では、元凶になった店を処分して、潔白を証明するために出直すしかなかった。ただ、事情聴取の段階で、黒い付き合いを、マスコミで決定されてしまったのは紛れもない事実だった。
|
|