◆28〜41◆ちょっとした思い出
◆28◆平成19年7月24日(火曜)
 モヤシからキューピーにー何の話しかといえば、吉岡隆伸の成長を物語る引用語だ。27期でデビューしたが、学校時代は“落ちこぼれ”の成績。当時は、学校を出てからの練習が大事だった。エリートよりも努力家が、最後は追い抜いて行くのが大半だった。吉岡と同じ仲間に28期・桝井道弘がいた。二人の練習場は京都・亀岡。自宅から亀岡に出て、そこから国道9号線→池田の往復だ。起伏が激しく地力強化にはもってこいの場所だった。そんな二人が昭和50年11月6日からの向日町競輪「開設25周年記念・平安賞」前節に出場。どう戦うのか、インタビュー記事を掲載した。
 24周年で揃って決勝入りしながら「人をアテにしすぎた」ために敗れた。だから「今年は二人でタッグ」と気合を入れ直していた。吉岡は昨年の競輪祭、今年のオールスターで決勝に進出。モヤシのようにヒョロッとしていたからだが、桝井らとの練習で鍛えられ、いまではキューピーのように肉付きも良くなっていた。可愛い顔もキューピーに負けず劣らず。ところがライバル選手には、強引なレースをする吉岡が鬼のように怖い存在だったとか。街道練習の後は、向日町競輪場で日が沈むまで汗にまみれた。タイトルは取れなかったが、特別戦線をにぎわせた近畿のスターだった。

◆29◆平成19年7月25日(水曜)
 世代交代の波が押し寄せるなかで、競輪界3強の一人、福島正幸が初登場の西宮競輪場で復活の狼煙をあげていた。初見参の組み立て式特殊バンクは、まだ8車立ての時代。世界の銅メダリスト・阿部良二や矢村正、秋田建一、地元でハッスル必至の坂東利則らが相手。福島はギア倍数を3・54に落とし、俊敏な捌きで阿部を翻弄。逃げる坂東を2段駆けした秋田の後位を最後はきっちりキープ。そして4角から一気に踏み込んで、昭和51年3月9日、西宮「開設27周年」を制覇、この年初の記念優勝を3連勝で手に入れた。
 「初日に走ってあるていどの特徴をつかんだ。要は自分の気持ちの持ち方ひとつ。今は完調の状態。仕上がり具合も万全だし、千葉(ダービー)は500走路でギアも元の3・69に戻す」と、あらゆる角度からレースを分析して最上の戦法を用いる福島。コンピューターのような緻密な福島が、千葉ダービーでは全知全能を傾注して全冠制覇を目指す。それも、今でのような「取りたい」気持ちではなく「取りに行く」と執念をぶつける覚悟だった。それほど、西宮の優勝は手応えがあったのだ。
◆30◆平成19年7月26日(木曜)
 昭和51年4月8日から3日間、デビュー間近の競艇40期を「スタート1分前」で紹介した。このなかで香川期待の竹内知樹が目を引く存在だった。競艇の創始者、笹川良一全国モーターボート競走会連合会会長の物真似が得意で、ニックネームも「会長」だった。「アウト一本で7点も8点も稼ぐ加藤峻二さんが目標です。僕もアウトで押し通したい」。高松商業時代は応援団に籍を置くなど、硬派で面倒見の良さも抜群だった。サラリーマン生活を4年経験した後、ボート界に入ったが、模擬レースの複勝率は第3位と非凡な才能の持ち主だ。安岐真人や平尾修二らと練習に精を出し、大いに将来を嘱望されていたが、デビューからいきなりフライングを連発。大輪の花は咲かずじまいだった。
 九州では河内正一が九州共立大学を3年で中退してボート界入り。「4年生の人の就職がなかなか決まらず、僕も不安になって中退した」そうだ。喫茶店経営の義兄の「ボート選手になってみないか」の言葉も、中退を決意させた要因だった。「中退の後悔はありません。これからは彦坂選手(郁雄)のように、どこからでも行ける選手になりたい。プロに成る以上、勝たなければ意味がない」と、意気に燃えていた。

◆31◆平成19年7月28日(土曜)
 競艇40期のデビュー前の連載で「スタート1分前」の『近畿』は6人。このなかに兄を目標に門戸を叩いたのが上船幹生、水野要、岩口留夫の3人。上船は「兄(俊一)の影響を受けた。それとサラリーマン生活がイヤになったのがレーサーになった動機」と言い、賞金を稼いで行くヨーロッパ旅行を楽しみにしていた。水野は「ボートレーサーになったのは兄(文明)がやっているから。僕の方がレーサーに向いてるし、負けない自信もある。1年で兄を追い抜きます」、おとなしい文明と対照的に闘志をむき出しにするタイプだった。岩口は本栖の1年間で49sから58sに増えた。「1年間は本当に疲れた。太った体は運動をして引き締める。兄(昭三)を追い抜くように努力する」と、偉大な兄・昭三を目標にプロの荒波を乗り切る覚悟だたた。
 他の3人では石川常美が話題満載。蒲郡での現地訓練でカポックの上にユニホームを着用するのだが、逆にして出走資格を喪失。同期生から失笑をかったり冷やかされ小さくなっていた。「悔しくて涙が出た。次は絶対に勝つ」と言って、浜名湖の訓練では1着2本を奪い汚名をすすいだ。愛媛県立川之江高校では水泳部で活躍した。三谷征伸は高校野球の名門・興国でプロ野球選手を夢見ていたが挫折。そんな折り、父親の睦雄さんが「途中でケツを割るようではダメだ。本栖へ行って鍛え直してこい」と三谷を突き放した。三谷は7回目でやっと合格。「年齢(当時は25歳まで)の制限まで受けるつもりでした」と根性では負けない自信をもっていた。白石桂三は滋賀で10年半ぶりに出てきた新人。京都仏教大学在学中(2年で休学)で「田原淳行さんのレースに対する執念が好き」と、二足のわらじをはいてデビューした。

◆32◆平成19年7月30日(月曜)
 兄は千勝レーサーの吉田実。一時は吉田正三もA級1班に在籍して兄をしのぐ人気を誇ったが、昭和51年7月は2班に落ちて4期目を迎えていた。ぬるま湯につかりすぎて、そのうちレースの流れも向かなくなった。マーク屋が着順を崩すと惨めなもの。特選シードから選抜回りになるなど、番組面でも優遇されなくなる。7月3日からの高松競輪「サンスポ杯」を前に、正三は「やっと自分のレースができるようになった。それに3人目の子供も生まれて、のんびりしてられません。上の子はテレビで“パパが出てる”といいますからね」と、やる気をあふれさせていた。
 この大会、兄は第8、9回を、弟の正三は第2回を優勝と、兄弟には相性のいいタイトル。それに長女・有紀子ちゃん(3つ)、次女・多美子ちゃん(2つ)に続いて6月28日に3女が生まれたばかり。「これからは、頑張らんと“パパ、ダメよ”といわれそうですね。イン待ちで前、前に攻めて、誰も来なければ先行でも。それだけの練習はしている」と、力こぶを入れていた。その後、正三は痛風に悩まされ、偉大な兄を越すことはできなかった。


◆33◆平成19年7月31日(火曜)
 46歳の古田泰久が親子ほど年の差がある20歳の境良市(後の津野田良市)を破って優勝した。昭和51年7月5日の高松競輪「第10回サンスポ杯」決勝戦のこと。初日に境が最終バックで古田を内へ押し込み、レースをさせなかった。レース後に境が「すみませんでした」とこわごわ頭を下げると、古田は「ちょっとムチャやったなぁ」と、にこやかに若者をみつめた。その古田のはからいに、境は「決勝戦はフェアにレースをしないと」と心に決めた。
 決勝戦では、偶然にも境マークは古田になった。もちろん境は強烈なまくりを放ち、ゴール前はきわどく古田が差し切った。「まさか優勝できるとは思わなかった。ついてたね。それにしても境君の出足はすばらしかった。もう行けない(まくれない)と思ったんだがね」と境をほめちぎっていた。
 この頃、古田は心電図と脈拍に異常が出て、10ヶ月ほどドクターストップ。好きなアルコールを止めて、体質改善と取り組み、復帰して半年が経っていた。「体重が10sほど落ちたよ。それにしても長いこと走ってるな、とつくづく感じました。境君は息子(長男は大学2年、次男は高校2年)と同じ年ごろだからね」と感慨深げだった。この年は松山、和歌山、広島に次いで4回目の優勝だった。

◆34◆平成19年8月1日(水)
 好きな選手が勝つと、心からうれしくなる。昭和51年9月27日の西宮競輪「サンスポ杯」で優勝した坐古猛のことだ。5月29日に左鎖骨を骨折、約2ヶ月の治療のあと5場所走ったが結果はでない。「レースの勘は悪かった。脚はもどっている」。ハンドルをわずかに外へひろげ、乗車フォームに安定感をもたせた。その効果はすぐに出た。追い込み不利な西宮バンクで電光の差しを決めて、1年ぶりの優勝を決めた。
 イン待ちか、誰かをかませて2番手か、迷いながら戸上茂に前を託したのが正解だった。塚本英美や藤原弘志の人気どころがけん制し合い、坐古に展開が向いた。井上博司や坂東利則、坂本敏博が中心の兵庫勢だが、2班に落ちても坐古は“兵庫のスター”だった。ガッツあふれるレースぶりがたたって落車の繰り返し。ファンが期待する通りの戦いは、落車がつきまとうのだ。「この優勝をきっかけに、若いのと一緒に兵庫を盛り立てたい」とガッツ復活を宣言。そして「きょう飲む酒がほんとうの美酒やな〜」と久しぶりに笑いをふりまいた。そんな、坐古の“気合走”が好きだった。

◆35◆平成19年8月2日(木曜)
 西宮バンクは“逃げ屋天国”といわれるほど先行選手が有利な走路だった。1周300bの小回りもそうだが、誘導員のペースも速く、前受けから逃げると誘導員を味方に西宮名物の“ぶん回し”になった。ちょうど、そんな恩恵に授かったのが昭和51年9月7日の「サンスポ杯」決勝戦の堤昌彦だ。前検日の練習で「ガタ(継ぎ目)が多くて走りにくそうですね」のコメントが新聞に載ると、初日の朝に管理室に呼ばれて「泣き言をいうな。条件は同じだ」と注意され、目が覚めたとか。
 堤は6月の「高松宮杯競輪」で練習仲間の中野浩一を破って男を上げた。決勝は前受けからの戦い。マークは矢野行敏ら九州が3人。8車立てで4人が一丸なら、堤には願ったりかなったり。4周ホームから誘導ペースが上がると、そのまま加速して逃げ切った。井狩吉雄や岩崎竜己らは「4周バックから上がると思った」のが誤算。まんまと堤にしてやられた。矢野が2着に流れ込み配当金は250円の断トツ一番人気だった。「中野浩一君が世界選に行ってるので、オールスター競輪に向けて、逃げ切れるように仕上げたい。中野君が一緒だと、強すぎてペースを狂わされますから」。この堤も昭和55年に中野と一緒にフランス・ブザンソン大会へ出場するなど、このころからグッと上昇した選手だ。


◆36◆平成19年8月3日(金曜)
 ゴールへ入る前に両手を挙げてガッツポーズをした第1号は阿部良二だ。日本人で初めて世界選手権で銅メダルを獲得したが「世界ではメシが食えない」と、競輪一本にしぼった男だ。昭和51年11月29日、小倉競輪「第18回競輪祭・全日本競輪王決定戦」の決勝で、阿部が強烈なバックまくりを放って、ハイセイコー岩崎誠一を2車半もぶっちぎり、初めてタイトルをを手に入れた。バンザイ・ゴールだけでなく、ネット越しにファンと握手してスタンド前を回るなど、喜びも型破りの表現だった。
 「一番、喜びを伝えたいのは僕の車券を買ってくれたファンです」と切り出し、「“世界の阿部”が、このごろ“町内会の阿部”でした」と笑わせ、さらに「これからは俺の言ったことは何でも正しい。勝ったんだからネ。負ければ何を言っても、それは“言い訳”ですよ」と、とどまるところを知らない“阿部語録”が続いた。そんな阿部は「今回、負ければ俺も終わり」と、いわば背水の陣で臨んでいた。
 29期の中でもデビュー20連勝や世界選・銅メダルなど華々しいスタートを切りながら、特別競輪ではいつも準決勝で脱落。決勝には昨年の競輪祭(13E着)だけで、一番人気の支持を受けながら惨敗。「実績では駆け出しの菅田順和と同じだから、負ければ終わり」と自らを鼓舞していたのだ。まあ、常に存在感を示す阿部は、にくめない“役者”だった。

◆37◆平成19年8月4日(土曜)
 レーサーにゲンを担ぐ選手は多い。近畿地区では和歌山と岸和田が同じ南海沿線にあって、両競輪場で走ると決まって好成績を残す選手がいる。昭和52年7月26日に岸和田競輪「サンスポ杯」で優勝した埼玉出身の竹野有一もその一人。竹野と人気を分けたのは大ベテラン石田雄彦だ。「ホームでカマスつもりだった」と、仕掛けを誤ったが、まだまだ健在だった。前受けの竹野が逃げる柳川瀬和博の番手を奪って、石田の追撃とともに直線鋭く踏み込んで優勝。
 4月には和歌山競輪で西村公佑、山本博章のベテランを倒して「スポーツ5社杯」を獲得と、この年2回の優勝はともに南海沿線だった。「僕は近畿に来るといつもいいんですよ。出身地がわからなくなりますね。岸和田と和歌山は、すぐ近くですもんね。この優勝をきっかけに、もう一度、A1班にアタックしたい」と大喜びだった。選手のコメントで「ここは初優勝したところです」なんて載ってたら、今でも一票を投じたくなるから、不思議だ。

◆38◆平成19年8月5(日曜)
 選手である限りビッグな舞台に出て、脚光をあびたいもの。長嶺和夫もそうだった。長嶺豊、保兄弟と従兄弟どうしだが、ファンの間では“三男”だった。「まあ、違う言うても、分かってくれたらそれでええ」と、気にしないふりをしていたが、内心は「俺は俺」と言いたかった。だから、スター街道に乗るのがてっとりばやい。チャンスはめぐってきた。
 昭和52年5月1日からの住之江競艇「第4回笹川賞」の舞台だ。中間発表で47位。当落線上に「やっぱりダメやなぁ。走りたいなぁ」と半ばあきらめの境地だった。それが新聞紙上に「長嶺和夫」の名前を見つけると「夢やなかった」と飛び上がりたいほどの喜びに襲われた。「気持ちだけやが減量している。スタートも張り込みたい。初めてでも何とか準優勝戦まで進みたい」。ベスト18入りなら野中和夫と長嶺豊が、でっかいプレゼントを用意している。
 「みんなが励ましてくれる。僕にとってはステップの場としたい」。牛歩のようにノロノロのアップだが、着実に“長嶺和夫”の名前もファンに浸透していた。結果は攻め抜きながら予選19位に終わったが、最終日は繰り上がって“特選”に乗った。そのがんばりに野中は高級ライターを長嶺に贈った。短い選手生活だったが、長嶺には思い出の深い「笹川賞」だった。


◆39◆平成19年8月8日(水曜)
 競艇の世界は、スタート事故で天国と地獄を味わう。デビューから一気に記念クラスへ出世しても、すぐに脱落。それもフライングで頭を打つ。そんな苦しみを乗り越えて、再度、浮上してくるとスターへの道を歩む選手が多い。新井敏司も、そうだ。昭和49年の丸亀「MB記念」(優勝は野中和夫がビッグV2)で特別の舞台を踏みながら、以後はフライング過多でB、C級暮らし。
 「これじゃぁダメだ。レーサーになった以上、記念、特別で走らないと。スタートを控えて、3、4コースからの自在を心がけよう」と、自在への転身を肝に銘じた。52年後期には勝率7・70を残し、第7位に躍進。その中には2月の関東ダービーで7戦全勝の優勝も含まれている。こんな新井を昭和52年8月5日の住之江競艇「第11回太閤賞」の前打ち原稿で取り上げた。当時の太閤賞は記者選出で、4大レースよりもオールA級のスターが勢揃いした。新井も初めて選出されたスター候補だった。
 「僕は同期(32期)を大事にしたい。お互いに連絡をとりあって、仲のいい友達でありたい。もちろんライバルです」と、この大会に選ばれた大楽恭也、高辻幸信とも切磋琢磨し合う仲。また「勝率でbPになってみたい願望がある。理想とする取り口は野中和夫さんのように、レースの展開を読みながら、自在のレースをすることです」。こんな新井は“名人戦”で優勝するなど、息の長いスターに成長した。

◆40◆平成19年8月10日(金曜)
 選手生活25年目のベテラン・安井登喜夫の意外な人脈を書いた。昭和53年2月27日の紙面で、住之江競艇「第7回飛龍賞」の前打ち記事として、復活目指す安井を取材していると、長嶺豊との接点が浮かび上がった。暮れの12月20日、戸田でフライングを切ったあと、義弟の森下晴夫と海津勢の3人で大阪泊まり。ボート選手のゴルフ大会に備えての来阪だ。接待役の長嶺は森下と同期(15期)で大の仲良し。そんなことで安井も含め4人はグラスを傾け、親交を温めた。
 「ゴルフは好きですね。選手同士の時はハンデ7。でも、長嶺クンに住之江のことを色々聞いたんですよ。久々の住之江でも不安はないです」と予備知識もバッチリ。優勝は昭和51年8月のびわこ以来、優出は52年6月の唐津以来遠ざかっているが、フライング2本でB級に落ちただけ。「若い人は特訓もできるけど、私らは乗り込んでも進歩を期待できない。今度、20秒針から12秒針に変わるときは特訓しますけど、感覚をつかむ程度でしょうね」。結果は優勝戦にも進出できなかったが、こんな隠れた“人脈”を探し出すのも、取材の楽しみだった。

◆41◆平成19年8月12日(日曜)
 左足ふくらはぎをプロペラで60余針も縫う裂傷を負いながら2ヶ月の欠場だけで復帰したのが国光秀雄。昭和53年3月7日の住之江競艇「第7回飛龍賞賞」の優勝で完全復調を実証した。昨年の5月「第4回笹川賞」で特別初出場ながら優勝戦で6着。8月「第23回MB記念」は小気味のいいまくりを連発させて予選を1着4本、2着1本で切り抜けながら準優勝戦でフライング。その直後、9月10日の宮島で事故の追い打ち。「ケガは表面だけで、不幸中の幸いでした。でもねぇ、休んだことでレースの勘が鈍っていて、デビュー当時よりもひどかった」。負傷欠場にプラスしてフライング欠場が1ヶ月。この空白は国光に痛手だった。しばらくは悪戦苦闘だったとか。
 全国的に強烈にアピールしながら、事故率でB級に落ちた。年が明けて、やっと「ケガの後遺症はなくなりました。どこへ突っ込んでも怖くない」と立ち直った。そして住之江で5コースから差して2番手を追走しながら、2マークで先行の都一夫の左舷へ強烈な突っ込み、一気に決着をつけた。「都さんに悪いことをしました。でも、久々の優勝で、うれしいです」と、2年ぶりに味わう美酒に、やっと手応えを感じ取っていた。人なつっこく、いつも笑顔を絶やさなかった国光。酒席でも明るく、人をひきつけた。故人となったが、懐かしい選手だ。