◆56〜68◆楽しき取材日記
◆56◆平成19年9月24日(月曜)
 競輪44期「近畿」では、大井栄治と京田晃のエピソードが秀逸だ。9位の大井は思わなくても、13位の京田はライバル意識むき出しだった。大井は報徳学園では硬式野球部に籍を置き、左翼手、4番打者として活躍。「どっちみちプロにはなれないし、大学へ行っても遊ぶだけ」と野球に限界を感じて、父・清(A2班)の影響で43期を適性で受験したが不合格。改めて44期として入校。二世レーサーとして着実に進化。特別の舞台も数多く経験して、これからというときに病気で他界した。
 京田は幼いころから父・豊(A5班)にあこがれ「競輪選手になる」と決めていた。「大井には負けたくない。どんなことがあっても勝つ。大井がメシを2杯食べるなら、ボクは3杯」というぐあいに、大井を目標に鍛え抜いたが、当時は体重が60sとパワー不足を埋めることができなかった。それでも達者な“口”でダービー3回、オールスター2回、競輪祭1回を経験するなど、闘志は満々だった。
 報徳で大井の1年先輩だった橋本彰文は同志社大学へ入学したが「大井君のところへ遊びにいくうちに、ボクも自転車に乗ってみよう」と志を変更。素質は200bで11秒3の最高記録を出すなど抜群。「今は野球への未練も無くなった」と競輪に打ち込んだ。といっても、野球への情熱は冷めない。母校へ出向いてはノックバットを手に、白球とまみれている。

◆57◆平成19年9月25日(火曜)
 「近畿」の続きです。17歳(和歌山工業中退)で選手になった中村郁彦、西野卓也も頑張った。中村は愛好会で最初にタイムを計ると1000b1分15秒7の好記録。山本博章(A2)の勧めで受験した。そして学校で13勝をマーク。ガッツあふれるマーク屋として特別戦線でも存在感を示した。西野はアマチュアでインタハイの出場を目指したが中村と同様にプロ入り。191aの長身で気が優しく、面倒見が良くて、和歌山の選手会をまとめている。京田と大の仲良しで“凸凹コンビ”の周りは、にぎやかそのもだった。
 坂東利則に師事して頑張ったのが藤井須恵夫。恵まれない家庭環境の中ですくすく育ち、中学は陸上部(100b11秒9)、高校ではサッカーで暴れ回った。坂東が「真面目な子や。熱心やし、モノになる」と面倒を見た。溝口隆司は父・泉の影響を受けてプロ入り。杉山浩一郎は大阪商大時代はサッカー部に所属。入校から20レース目ぐらいで1勝をあげたが、以後は未勝に終わった。引退後は社会貢献の仕事に従事している。佐野健次は瀬田工業で自転車部に所属。しぶといマーク屋だった。酒井清隆は近畿大中退。剣道3段の腕前。卒業レースは“スポーツ心臓”で心電図に異常が出たため欠場したが、再診の結果“OK”が出てプロ入り。「皆と同じデビューできるようになってよかった」と喜んでいた。川端保則は智弁学園を中退してサラリーマン生活を経験した後「稼げる選手になりたい」と受験した。 
 思い出せば行数が増えるばかり。辛い話しもサラッとしか書けないのは仕方がないか。
◆58◆平成19年9月27日(木曜)
 関大を3年で中退までしてプロ入りした北野正彰が昭和54年12月25日のびわこ競輪「サンスポ杯」後節戦で、念願のA級初優勝を飾った。A2班に上がって丸1年が過ぎても“音無し”の状態。期待されながら伸び悩んでいた。それでも井狩吉雄や西尾重一郎、佐野健次の若手とびわこ競輪場で練習するようになって、自信を深めていった。
 「今までは“練習をやってる”という裏付けがなかった。今は、ちょっぴりだけど自信もわいてきた」
 山口健治や吉井秀仁に代表される38期のなかにあって、競輪学校始まって以来の“学力優秀”で卒業した。頭だけでなく、脚の方も“優秀”だったが、実戦の場は厳しい。それでも練習量の豊富さで「やっと成績もまとまってきた。今回は地元戦やし、なんとかしたい」と気合を入れて臨んだ結果、最終4コーナーから内を突いて抜け出し、うれしいA級での初優勝にありついた。同じ練習仲間の先輩・西尾も前日の24日に福井で優勝。この朗報を聞いて、北野も「ボクも気合を入れて走る」とレース前から燃えていたのだ。
 位置にこだわらず3番手をキープする柔軟な頭脳プレーが、この年の最終戦で実を結んだ。「2ヶ月前から練習量を増やしたのがよかった。この優勝を機会に来年はもっと活躍したい。それにしても初優勝の味は格別ですね」と、舌も滑らかに、来る年の活躍を誓っていた。

◆59◆平成19年9月29日(土曜)
 3、2とくれば1着なんだってー昭和55年2月5日に和歌山競輪で開催の“サンスポ・紀州てまり賞”決勝戦で、ダービーTRで優勝した桜井久昭の言葉だ。「ねぇー、言ったでしょう。BAときたら1着だとね」と、この年の初優勝にVサインをかかげて引き上げてきた。昨年の前半は不振のどん底にあえいでいた。やること、なすこと、すべてが裏目と出ていた。
 心機一転で臨んだ今年も、正月の立川で443着とつまづき前途は真っ暗だった。が、桜井は“良薬”に変えた。「逆に気を引き締めることができた。“ちくしょう”とやる気にあふれたのもよかった」と、勝てば舌の回転も滑らかに“復活”だ。
 目標にした山口健治は谷津田陽一のカマシを離れて追った村田一男に続いた。もちろん桜井は山口任せ。「兄貴(国男)とフラワーラインで3泊4日の合宿を張って万全です」の山口は「村田さんは追いつけない」と焦ってまくりを放つと、村田も仕掛けた。これで山口は外へ浮き、桜井が村田にスイッチして優勝を手にするラッキーだ。
 52年に競輪祭を優勝して以来、常にトップクラスにいた桜井だが、歯車が狂うと軌道修正にも時間がかかった。他人任せの優勝でも「今年はダービーの特選シード(27人)を狙っちゃうかな」と息を吹き返すぐらい、競輪は勝つことが最良の薬になるものだ。

◆60◆平成19年10月2日(火曜)
 世界の中野浩一に挑戦! 昭和55年2月20日の西宮競輪で逃げ切り優勝を飾った荒牧友一(39期)が“4連覇”を達成、それも連対率100%を9場所と伸ばした。内訳は1着21回、2着6回、優勝は6回という素晴らしさだ。最近ではA級で中野浩一が51年に29走オール連絡み(1着27回、2着2回)というのがある。荒牧は次走の宇都宮(3月1日から)で中野の記録に挑戦する。(残念ながら私の資料には、その後が残っていません。申し訳ない)
 荒牧の強さの秘訣は「自在に走れる」ことだった。スタート全盛なら、相手によっては前取りから、先行、イン粘り、まくりと、戦法を多彩に考えられるのだ。この西宮は地元の福山稔、藤野淳一を制してスタートで先手を奪った。正攻法につけた荒牧の後ろは2列併走。赤板前になっても誰も動かない。後続の競りを誘って荒牧、そのまま逃げ切った。「記録は意識してないけど、自分の競走をするように心がけています」。とはいえ、9場所も続けて連対率100%を残せるのは、特筆すべき“記録”だ。
◆61◆平成19年10月5日(金曜)
 ガッツがガッツを呼ぶ! ファイター菊谷修一に弟子入りしたのは西村暢一。この若い大阪コンビは、肉弾戦も辞さないファイトあふれる選手だった。先行で力をアップさせる菊谷に対して、西村はマーク屋への道を歩む。1b60の菊谷は豊富な練習量で小さな体を支えている。1b69の西村は、そんな菊谷の影響を受けた。
 西村は午前6時半に東大阪の自宅を出て、奈良市・石切に住む菊谷の家へ出向く。「朝食の前に生駒のハイキングコースを走ったり、ときには歩いたりする。約1時間で菊谷さんところへ戻ってご飯を食べます」。ひと息つくと、阪奈街道で“特訓”だ。菊谷がグイグイ踏み込むと西村も負けじと追っかける。小兵の生き抜く道は練習、練習、また練習…これ以外にない。競輪学校でわずか2勝の西村。今ではA1班も雲の上ではなく、頂上が見えてきた。
 「まだ力不足。でも、A1班への足がかりはつかめたと思う。気を引き締めてかかれば…。ええ、頑張りますよ」。A級初優勝は昇級後、6場所目の名古屋62@着。先輩の大津初雄、坂本敏博をBSまくりで破った。昨年は3月・武雄、9月・大垣、名古屋、12月・福井で4回の優勝を手にした。着実に“ホンモノ”への道を歩んだ。 

◆62◆平成19年10月9日(火曜)
 小さな“師弟コンビ”、菊谷修一と西村暢一が昭和55年4月16〜18日の奈良競輪「青垣賞」で帯同した。初日特選の相手は松永智ー石川至の四国コンビ。スタートで飛び出した菊谷が松永を突っ張り、番手の西村は外でへばりつく松永を巧みに捌いて、がっちりとスクラムを組む。最終ホーム手前から逃げた菊谷が粘り込むが、番手から西村が鋭く迫る。きわどいゴールに、菊谷の「差された」の言葉で、西村が笑みを浮かべてドリンク剤を配りかけた。が、確定のアナウンスが流れるとガックリ。菊谷がタイヤ差逃げ切っていたのだ。
 「あ〜ぁ、また写真判定で負けや」と西村はため息。実は直前の小田原42A着でも写真判定で微差負けて、2着に甘んじていたのだ。菊谷は「悪い、悪い。差されたと思ったんだけどなぁ」と平謝り。それでも“師弟コンビ”で1,2着とあって、西村は「まあ、いいや。決勝戦があるんだから」と気を取り直していた。
 この菊谷と西村は特別の舞台にも上がった。菊谷は10回(1着1回、2着2回)、西村は13回の経験で、西村は1着3回、2着2回に失格2回と存在感を示していた。ともに引退するまで菊谷が379勝、V43、西村が338勝、V42と、ガッツむき出しで戦い抜くなど、山椒は小粒でぴりりと辛かった。とくに西村は岸和田競輪「35周年記念」(昭和59年11月)で天下の中野浩一を破って優勝したのが燦然と輝く“勲章”だ。

◆63◆平成19年10月13日(土曜)
 A1班返り咲きを目指して菅野良信が一昨年の「オールスター競輪1以来、久々に“思い出”の西宮競輪場へやってきた。当時はA4班でも、世界選の“銅メダル”を胸にバラ色の競輪生活を送っていた。ファン投票17位、野性味あふれたレースぶりが注目を集めたものだ。ところが、その12月に久留米記念で落車。左鎖骨骨折で103日の欠場後、立川ダービー5731着
、高松宮杯4271着で復活の兆しをみせたものの、7月の門司記念で落車。欠場期間は70日でも「練習ではよくなっているのですが、実戦の勘が…」と出ると負け状態が続き、不調が長引いた。A1班の1年間は、みじめさだけが残った。
 「いま、やっと競輪選手になったような気がします。あまりにも順調にきすぎていた。どこかで競輪を甘く見ていたのかもしれません。ワンパターンの攻めをやめて、勝つ競走を心がけるようにしている。ここひと月ほど前から自転車に乗るのが楽しくなってきた」
 55年6月3日に幕を閉じた「高松宮杯競輪」、本来なら西日本の一員として暴れ回るところだった。補欠候補にも選ばれず、屈辱感が身を包んだ。決勝戦のテレビ中継に見向きもしない。再起をかけて、黙々とペダルを踏んだ。
 待ち望んだ期変わり。いきなり門司で北村徹を血祭りにあげ、つづく宇都宮記念を制覇。リズムが戻った。「大レースの偉大さが初めて分かった。もう一度チャレンジです。自分の脚を信用して走ります」。その後、菅野は一瞬の輝きだけで、パワーを持て余した競走が続き、スターロードをひた走ることはなかった。

◆64◆平成19年10月19日(金曜)
 ラッキーな2番手が転がり込んで、大沢仁が岸和田競輪「サンスポ杯」前節を勝ち取った。高垣隆夫や播本義勝、中原博志、樋口和夫ら強豪が揃った決勝戦。大沢は「ボクは
中団に待機するようなことはしない。とにかく先陣を切りますますよ。後ろの人を引き出しますよ」と自力を強調した。初日は鐘後カマシでまくられ、準決勝はイン粘りから競り勝ち、4角一気に1着。このような自在の攻めが大沢の戦法。それでも、気持ちは常に先行だった。
 スタートで前を取った村越康二も「大沢君は突っ張って逃げてくれるからね」と、大沢を迎え入れたのだ。赤板前から高垣ー樋口で上昇してきたが、樋口は村越の横で止まった。突っ張るつもりの大沢は、すんなり高垣を入れ、絶好の2番手だ。播本も中原もハイピッチの流れではまくれない。樋口も「やっぱり高垣君について行けば良かった」と悔やんだが、すでに手遅れ。」あっさりと、大沢が必殺の“3角まくり”で優勝を飾った。
 「恵まれた優勝です。まさか2番手を回れるとは…」と、この年V2にも拍子抜けの面持ちだった。「ボクは後ろが関東でも、関西でも、関係ありません。後ろの人を引き出すのが役目ですから」と、地区にこだわらず積極的に攻める姿勢が、マーク選手の信頼度を高めていた。この優勝も、そんな“つながり”が実を結んだ。

◆65◆平成19年10月20日(土曜)
 ビッグレースで暴れ回っていた小松光治がA1返り咲きのきっかけをつかんだ。昭和55年12月2日の和歌山競輪「紀州てまり賞」後節決勝戦で、小松は3番手から鋭く抜け出し52年2月の宇都宮TR以来の優勝を3連勝で飾った。何年ぶりの美酒なのか、小松はテレくさそうに笑った。
 「いやー、記憶にないですよ。3年ぶりかなぁ。競輪て、本当にわからないですね」
 “出ては負け”の状態から、光が見え始めたのはつい3場所前のこと。平で33G着とまとめ、小田原11A着、弥彦31E着とリズムを取り戻していた。“元A1班”の肩書きは頭から抜き去り、ひたすら浮上の機会を待った。「不思議なくらいに伸びますね。デキはいいね。成績もまとまってきて、リラックスしているのが好結果につながっているんでしょう」と、連日、余裕たっぷりにインタビューに答えていたものだ。
 打鐘で岡本新吾が主導権を握ったが、小松は内に包まれながらも、最終的に3番手をキープ。こうなれば“元A1班”は違う。初日特選を“インまくり”で快勝した脚勢はホンモノだ。一気に末脚を伸ばし、がっちりとVを手に入れた。「あれで勝てないなんて…」と唇を噛む岡本に対し、小松は「優勝したんだね。ウソみたいだ」と優勝の余韻にしばらく酔いしれていた。特別の舞台では“宮城王国”の中軸として存在感を誇示していたが、一般戦では特別戦とは別人のような余裕のある“顔付き”が印象的だった。

◆66◆平成19年10月23日(火曜)
 中野浩一とフランス・ブザンソン大会で対決した尾崎雅彦。0−2のストレート負けだったが堂々の銀メダルに輝いた。「万に一つも勝ち目はない。だけど、ボクは精いっぱい戦う」と果敢にアタック。そんな尾崎の“全力投球”が観衆の共感を呼んだ。「ナカノ」より「オサキ」の声援が上回っていた。
 「銀メダルはボクにとって宝物です。貴重な体験ができたし、これからの競輪競走にも、きっと役に立つはずです。せっかく招待を受けた欧州選手権にはカゼで行けなかったのが残念だけど、世界選にはまた来年も出場したい」
 濃い眉毛とキリッとした目もと。貴公子ふうのひ弱な感じを与えるが、なかなかどうして闘争心はおう盛。意地っ張りで妥協を許さない性格。負ければ「チクショー」、勝てば「良かった。責任を果たせた」と言う。世界を経験して、さらに勝負に対する執着心も強くなった。帰国後、中野はオールスター競輪、競輪祭を優勝したが、尾崎はいずれも準決勝で敗退。気合も空回りだった。
 「自分ではもっと戦えると思っていたのに…。何かツキに見放されているみたい。(最後の広島記念は)せっかくのいい年を、有終の美で締めくくりたい」
 昭和55年12月6日からの広島競輪「開設28周年記念」前節の特集記事で、尾崎を取り上げた。言葉通りに記念優勝を飾り、次年度への飛躍につなげた。そして、フラワー軍団の中核として、打倒!中野へ、闘争本能をムキ出しに攻めまくった。
◆67◆平成19年10月25日(木曜)
 デビュー間もなく世界選の銀メダルでもてはやされた菅田順和だが、4位の中野浩一が世界でV4、国内4冠に対して無冠のまま。惜しかったのは、55年11月の競輪祭。中野の番手まくりよりも一瞬はやく2角まくりを放ったが、中野の右肘のブロックに封じられて3着に甘んじた。それでも初めて表彰台に上がった。
 「2分の1輪ほど中野より出ていた。自分では“行けた”と思ったんだけど、やっぱり中野は強いのかなぁ」
 レース後はあlきらめきれない表情で敗因を語ったが、中野と実力的な開きはほとんどないのに、なぜ勝てない…。中野が「菅田さんの弱点は力を大事にしすぎること。自分(菅田)が3着でいいと思って駆ければ、菅田さんの脚なら優勝できる」と分析。要するに“出渋る”のがタイトル取りへブレーキのかかる一因だ。4大レースの決勝には9回進出して競輪祭の3着が最高。12回の中野はV4と比べるまでもなく菅田の“無策”が浮き彫りにされている。それでも平・オールスター競輪では先陣を切って突っ走り、競輪祭でも積極的に動いて道を切り開いた。
 「また勝てなかったけど、次はいいことがありそうな気がする。負けてばかりじゃ面白くないからね。最後も悔いの残らない競走をしたい」
 広島競輪の「開設28周年記念」前節に特集記事で、尾崎雅彦とともに“対決”させたが、結果は尾崎の優勝で終わった。それでも、この年は夏場に取手、松阪、前橋の記念で吉井秀仁を徹底的に叩いてV3をマーク。着実にタイトルへは近付いてきた。

◆68◆平成19年10月29日(月曜)
 鎖骨骨折の診断が一夜明ければ脱臼? 昭和56年1月の和歌山記念でゴール後の乗り上げ落車の不運に遭った国持一洋は「右鎖骨骨折」で2日目以降を欠場することになった。その夜は選手宿舎に泊まり、翌日、静岡へ帰郷する予定だった。朝に受け取った診断書を見て血相を変えた。
 「骨折? これは違うよ。確かに痛いけど、骨折の痛みとは別のもの。ほら、ウデも上がるし、脱臼だと思うよ」
 ドテラを着こんでハンドルを握った。しっかりと、力強く引きつけた。大丈夫だ。さっそく診断書は「右肩鎖骨脱臼」に書き換えられた。骨折と脱臼では他選手に与える影響も違う。目前にはダービーTRも迫っていた。
 「選考委員会で推薦されるって? イヤだね。自分で権利を勝ち取らないと。ええ、走りますよ」
 負けず嫌いの性格を、そのまま報道陣にぶっつけた。お情け無用。実力の世界に生きる者は、ウデ一本が頼りなのだ。1回戦の平は、1走目が滝沢正光と共倒れの6着、2走目にすべてをかけた。「もう必死だった。肩のことなんて考えてなかった。とにかく1着だけを目標に走った」の気迫が実って1着で決勝入り。ところが右肩に悪影響を及ぼし、鈍痛が走って戦える状態ではなかった。周囲は敵ばかり。痛い顔もできない。目標もなく苦しいメンバーだったが、なんとか5着にまとめて第一関門を持ち前の闘志でカバーした。
 そんな国持を3月の西宮競輪「開設32周年記念」の特集記事で後節の“主役”として紹介した。2回戦の広島は見事に優勝で飾り、弟の晴彦とともに千葉ダービーでの特選シード権を獲得した。国持は“日本一のマーク屋”の看板を長い間、背負って戦ったが、“無冠”を返上できずじまいだった。