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【121】〜【135】我が中野浩一 |
【121】平成19年11月23日(金曜)
「やっぱり中野は怪物や。あんなレースは誰もでけん」と観戦中の選手から、中野浩一の“世界の脚”を改めて思い知った(「第36回競輪ダービー」)。「体調も自分自身のデキも、最高の状態だったのに…。どうしても勝ちたかった」と悔しそうに唇を噛んだ。ファンも中野のレースぶりに酔いしれたが、結果は競輪競走に勝って、勝負に負けた。
勝った井上茂徳は、3つめのタイトルを手に入れ、中野と同様に「高松宮杯競輪」に全冠制覇をかけることになった。「全冠は中野さんが先でしょう。ボクは…。いつも中野さんに世話をかけてばかりですから」と中野を立てながら、ことごとく抜き去ってきた井上。「エヘヘヘ、中野さん、すみませんでした」と目尻を下げ、眉毛を八の字にして中野へぺこり。「あの笑いに、またやられてしまった」と中野も、納得するしかなかった。
とにかく58年最初のビッグレースは終わった。依然としてオール連絡みの快走を続けているが、中野にはでっかい仕事が残っている。世界選の新記録、V7への挑戦だ。昨年のように落車の連続で不安な状態にはならないように、常に自己管理が求められるのだ。
4月からは、競輪界も新時代に入る。S、A、Bの3階級に分かれ、S級は430人。このうち1班は130人。実力接近の「新番組制度」は低配当をなくして、売り上げの増加をはかろうというものだ。中野もS級1班として、輪界を盛り上げて行く。
【122】平成19年11月26日(月曜)
オール連絡みはS級1班緒戦の川崎競輪「開設33周年記念」41B着で途切れたが、決勝戦には進出。デキに関しては好調を持続させている。続く4月16日からの高知競輪「開設33周年記念」でメモリアルVを飾った。初日、準決勝と53着で不安感を抱かせたが、決勝は十八番のまくりを決めて、デビュー以来通算100回目の優勝を飾った。
「ほんとは去年の内に達成したかったが、長引きましたね。落車が多すぎたから仕方がないでしょう。これで一つの区切りがついたし、次は高松宮杯競輪の優勝と通算400勝です」
西武園競輪「開設33周年記念」3落欠で落車したが、幸いにも軽傷。続く別府記念故1@着で優勝を飾り、5月14日からの「第30回全日本プロ選手権自転車競技大会」(函館競輪場)へ臨んだ。初夏とはいえ函館は肌寒いコンディション。昨年は落車で欠場しており、2年ぶりの“復帰”だ。この大会にはアマのトップレーサー、坂本勉(日大)と中武克雄(シマノ)が招待されていた。後年、二人はロス五輪に出場して、坂本はスプリントで銅メダルに輝いた逸材。
世界選V7をねらう中野にとっては格好の“練習相手”だった。まして坂本は昨年のアジア大会でスプリント優勝を飾っていた。スタンドのファンも2人の対決に注視した。坂本が2コーナーから中野のスキをついて3車身ほど差をつけて逃げたが、中野は3コーナーで迫ると、一気に抜き去って貫禄を示した。
「坂本君は踏み出しがいいから、ちょっと焦りましたね。直線勝負では届かないだろうから、早めに踏み込んだ。勝ててホッとした」
坂本の強さを認めながら、健在ぶりを披露した。
【123】平成19年11月27日(火曜)
翌15日はプロスプリントの決勝戦。相手は準決勝で尾崎雅彦を破った地元の堂田将治だ。44期の実力1だが、スプリントにおいては“素人”と同じ。キャリアでは中野浩一にかなわないのは当然だ。ただ、堂田のパワーには警戒が必要だった。
1本目は中野が10秒94のタイムで逃げ切って先勝したが、2本目にスタンドがドッと沸いた。1コーナーから堂田が中野の意表をついてカマシ逃げを打った。中野はタイミングが狂い、堂田は10秒98で逃げ切っていた。国内では7年前、第23回大会の熊本で阿部良二に敗れて以来のスプリント黒星だ。日曜日でファンも8000人を超していた。まして地元の堂田が勝ったことで、大いに盛り上がった。それでも、3本目は2コーナーから飛び出した堂田をバックでスパートすると一気に決着をつけ、6回目の優勝に輝いた。
「来る前から本職(競輪)で調子が悪かったんで、不安だったんですよ。でも、走ってみると、なんとかなるもんですね。久しぶりに、もがいたと言う感じですよ」
世界選のプロ・スプリントで新記録のV7、7連覇をねらう中野。「高松宮杯競輪」が終わると、もう世界選モードに突入する。6月10日からの第二次選考合宿で鍛え直し、8月23日からのスイス・チューリヒ大会で世界に金字塔を打ち立てるのだ。
その前に、まだ仕事がある。「高松宮杯競輪」で全冠制覇へのチャレンジだ。
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【124】平成19年11月28日(水曜)
実は函館の全プロが始まる前に、中野浩一宅へ悲報が届いていた。5月11日に、スポーツニッポン新聞社大阪本社のレース部副部長の穐原悠二さんが満41歳の短い生涯に幕を降ろしたのだ。取材を通じて、中野といわず、競輪選手のほとんどに親しまれ、愛され、筆者自身も含め、強いショックを受けた。この中野と穐原さんのことは、今は廃刊になった「自転車競技マガジン」に、私が連載の中で書いていた。その文をしばらく紹介したいと思う
◆親愛なるアキさんの突然の死◆
私自身が中野に電話を入れると、受話器を通して聞こえる中野の声も震えがちだった。
「アキさん(穐原さんの通称)が亡くなった」「なぜ、どうして…。今年は世界選へ行くといってたのに…」「浩一、アキさんの最後の言葉は“函館(全プロ)へ行きたい”ということやった。奥さんがそういってた」「ボクも一緒に世界選へ行くのを楽しみにしていた。取材を離れて、いろいろ人生について教えてもらったのに…。もう会えないなんて…」「“函館へ行きたい”の気持ちは、中野君が優勝する瞬間を見に行きたかったんだよ。お見舞いに行っても、話はいつも中野君のV7のことばかりだった」「気にかけてもらってありがたいことです。V7はあたえられたチャンスですし、ボク自身、精いっぱい戦うつもりです。葬儀に出れませんが、ボクの代わりに“勝ってきます”と霊前に報告しておいて下さい」「わかった。函館でもがんばって、アキさんが見守ってくれるよ」「…ハイ」
(続く)
【125】平成19年11月29日(木曜)
ここで私事で失礼だが、穐原さんは筆者にとっても“兄貴”として一番身近に感じていた人。母一人、子一人で育った私に、肉親以上の情をこめて接してくれた。私だけでなく、競輪選手、自転車への情熱も人一倍だった。
中野と3人で、よく大阪の街で食事をした。そんな時も、穐原さんは取材を離れ、一個人として、食べ、歌い、話したものです。デビュー間もないころから、中野と語り合い、親身になってアドバイスしていた。
「浩一、オレの方が歌はうまいなぁ」「そんなことはないですよ。優勝といっても、いつも来てる店だから袖の下を出したんでしょう」「バカいえ。練習の成果や」「アキさんが優勝なら、ボクは“プロ歌手”として失格じゃないですか」
ある年の暮れ、大阪ミナミのスナックで歌謡大会があった。音痴で評判の穐原さんが“カスマプゲ”を歌って、あろうことか優勝に輝いた。賞品のホワイトホースを手に、したり顔だった。
こんな公私のなかで穐原さんが口にしていたのが“ヒーロー中野”の原稿を書くことだった。ところが、初めてビッグタイトルを勝ち取った競輪王のときも、“1億円”を決めた松戸競輪戦も、取材にあたって執筆することはなかった。
それでも、社内にいて関係者の談話をとったり、中野のプロフィールを手際よく書いた。
(続く)
【126】平成19年11月30日(金曜)
「中野は競輪界のために生まれてきた宝や。マスコミでつぶしては、競輪の発展にストップをかける。ファンが中野を通じて、競輪の世界を知ってくれたらいい。そのためにも中野という人間をよく知らせることだ」
生前の穐原さんは、常に競輪界のことを考えていた。自転車の雑誌もすみずみまで読み、外人選手の動向もよく勉強した。1月18日に再入院する前に、愛車のロードレーサーを組み立て、体力増強のトレーニングに備えていた。“中野カラー”のワインレッドのロードレーサーは、自宅の2階で帰らない主を、いまも待ち続けている。
光子夫人はいう。「一昨年の12月、手術の前日に医師から癌を宣告されました。目の前が真っ暗になりましたけど、最後まで主人には知らせませんでした。その日から私は二重人格の生活をしましたが、死ぬ日の朝、意識のない主人に“嘘をついていてゴメンなさい”と謝りました。競輪の担当になって以来、家の生活も競輪が中心でした。私も日刊プロスポーツ(競輪専門紙)を見て、各選手の成績をノートに記帳していました。中野さんをはじめ、多くの選手の人の名を覚えました。入院中に主人が“オレはついてないなぁ。世界選に行けそうもない”といったとき、私は目頭が熱くなりました。私はいま、主人に代わって、中野さんのV7を祈ってやみません」
(続く)
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【127】平成19年12月1日(土曜)
3月8日、西宮記念競輪が終わった日、中野や久保千代志選手(愛知)、藤巻昇選手(北海道)、渡辺孝夫選手(大阪)ら8人が、穐原さんの病床を見舞った。陽気にふるまう光子夫人、うれしさで涙ぐむ穐原さん。各選手の激励が穐原さんに“勇気”を与えた。
私が後日、病院を訪れたとき「この前、中野や昇さん、千代志らがきてくれた。みんな元気やった。夏までには良くなって、仕事せんとな。やりたいことがいっぱいあるんや」と、笑顔ものぞかせ、頭から抜けきらない“仕事”への意欲を話していた。その日から数日たって、医師は穐原さんの命を保証しなくなった。
5月11日、午後6時4分、心音が止まるまで、穐原さんは死と必死に戦った。胃の手術から1年5ヶ月、ついに不帰の人となった。
「穐原さんはボクを理解してくれた。競走内容のことなどで反発をしたときもあったけど、いつも適切なアドバイスをしてくれた。新聞記者は全国にたくさんいるけど、穐原さんには何でも話せた。悩みごとがあれば相談もした。成績の悪いときは励ましてくれたし、レース場で穐原さんの顔を見たときはホッとしたものです。もう会えないのかと思うと残念でなりません」
(続く)
【128】平成19年12月2日(日曜)
取材記者と選手、取材される側は胸襟を開きたくないものだ。ポロッともらしたひと言が、とてつもないほど大きく広がり、本人の意志と違った原稿になることもしばしばだ。スーパーヒーロー中野のコメントなら、なおオーバーに書かれることにもなる。書く側は根掘り葉掘り突っ込んで取材するが、シークレットの部分は目をつぶってボツにする場合もある。
何でも書くのが良い記者か、ファンの要求する点だけを書くのが良い記者か、私も穐原さんと議論を戦わせたものだ。2人で出した結論は「選手に迷惑をかけない」ということだった。合掌。(終わり)
私は穐原さんと世界選に一緒に行くと約束をしていた。社が行かせてくれなくても、休暇をとってでも中野のV7を見ないことには、穐原さんに申し訳が立たなかった。幸いなことに、レース部長が「広告を取ってこい」という上司を説得して、私を“特派員”として取材にあたらせてくれた。毎日が“特ダネ”原稿に、部長も溜飲を下げていた。この原稿はV7の時に掲載します。
話は元に戻って、中野浩一は6月2日からびわこ競輪「第34回高松宮杯競輪」で井上茂徳とともに“全冠制覇”を目指す。函館競輪場での“全プロ”で国内V6を達成した後、平塚記念を41@着で優勝、好リズムの波に乗った。
【129】平成19年12月5日(水曜)
3月の前橋・ダービーが終わってから、中野浩一は新車に乗り始めた。ナガサワ号の“V7マシーン”だ。「すごく踏み出しがいい」と感触もバッチりだった。さらに、昨年と違って踏み込み量が多い。午前中のロード、午後のバンクと、汗をたっぷりと流す。少しぐらい変調しても、すぐに好調時の脚勢に蘇るのだ。「全プロで調子に乗ったかな」と中野も認め、8回目の“宮杯”に希望がふくらんだ。
58年6月1日、びわこ競輪場での「第34回高松宮杯競輪」の前検日を迎えた。中野が先か、井上茂徳が先か、報道陣も“全冠制覇”を目指す2人を追っかけた。午前10時10分過ぎに2人は伊丹空港からのキャラバンタクシーで到着した。
「井上君も同じ立場になった。後輩に先に“全冠”は取られたくないですね」と中野。それでも「井上君が優勝するのもいい。九州だからね。よく井上君の後ろについたら…って言われるけど、もう一人“中野浩一”がいれば、いろいろ試せるが、中野はボク一人ですから。いつも通り全力でぶつかって、いいレースをすること」と、競走スタールを変るつもりもない。要するに、井上は中野のようなファンの目を引きつける自力屋ではないということ。それでないとファンの信頼を勝ち取れないからだ。
井上は「ボクも優勝したいけど、中野さんが優勝してくれたら、自分が優勝したのと同じぐらいうれしい」と優等生の答え。3つのタイトルはすべて中野マークから手に入れたもの。ちょっぴり遠慮気味でも“黄金タッグ”は結束強固だ。
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【130】平成19年12月6日(木曜)
いきなり“全冠制覇”の競演に明暗が分かれた。「第34回高松宮杯競輪」初日は、中野浩一がバック4番手の位置から豪快な“3角まくり”で圧勝。それも14秒0の好タイムだった。ただ、レース前は不安感に襲われていた。昨年の大会で中野が1落欠、井上茂徳が8失欠と、2人ともアクシデントに泣いた。9Rに出場の中野よりも先に、井上は7Rに登場した。
最終バックで井上は梨野英人に競り負けた松枝義幸が下がってきたところへ、まくりあげてきた中里光典との間に挟まれて落車。しばらくして立ち上がったが自転車破損で棄権となった。中野にすれば、レース前に井上が2年連続の途中欠場が決まるなど、イヤーな気持ちになったのも当然だった。
「走っていて横にひっつかれると気持ちが悪いんよ」と、中野はヒヤヒヤしながら、最後に放ったまくりも、だれにもブロックされないように中バンクよりも上を駆け抜けるなど、安全走行だった。
レース後、井上が荷物をまとめて帰途につくころ、中野は汗をふきながら“落車見舞い”に行った。快勝のためか、ライバルが早々に消えたためか、中野の顔はちょっと笑いすぎだった。井上は「また来年ですね」と寂しく競輪場を後にした。
ともかく無事に第1戦を終えた中野は、鬼門の“宮杯”を攻略へ、その後も連勝街道を突っ走った。
【131】平成19年12月10日(月曜)
全国ネットのテレビ中継の主役は中野浩一だった。びわこ競輪「第34回高松宮杯競輪」決勝戦は58年6月7日に行われた。西の王座決定戦で最終ホーム7番手の位置におかれながら、1角で仕掛け、バックで3番手に入り、4角一気に抜け出した。これで4連勝。史上初の“全冠”へ視界は大きく広がった。
「あかん、あかん。オレが4連勝で勝ち上がった宮杯は最高が4着やもん」
煙幕をはりながらも、中野は井上茂徳のいないうちに“全冠”を先取りしたいのは当然だった。ただ、決勝戦のメンバーにはフラワー軍団の中核が勢揃い。イヤーな相手だ。メンバーは@藤巻昇A尾崎雅彦B中野C竹内久人D菅田順和E佐古雅俊F吉井秀仁G梨野英人H山口健治の9人。
中野が梨野につけて上昇すると、吉井がイン粘り。中野は吉井との小競り合いを克服して単独2番手をキープ。万全の流れに持ち込んでいたが、4コーナーで悪い“クセ”が出た。3コーナーから山口が中野をめがけてスパートすると中野は牽制気味に踏む。その時、内ふところが開いた。中野マークを藤巻から奪っていた尾崎は、このスキを鋭く突いた。
「2番手に入れば慌てることもないでしょう。仕掛けは遅れますよ。山口君が来たとき思い切って出るべきだった。負けても早めに行けば…」
悔いの残る決勝戦。「夢みてぇだ」とゴールに飛び込んだ尾崎は、初タイトルに酔った。ガクッと首をうなだれた中野は3着だった。
【132】平成19年12月11日(火曜)
なぜ中野浩一は「第34回高松宮杯競輪」で優勝できなかったのか。答えは世界一強い中野を研究しつくした尾崎雅彦や山口健治、吉井秀仁らフラワー軍団の“記憶の勝利”だった。尾崎が「一昨年の競輪王戦で中野さんに4コーナーで外へ振られた。その後も、中野さんを見ていると、いつも4コーナーで内を開けていたんです」と言った。だから吉井がイン粘りで苦しめ、山口が誘い水のまくりを放ち、尾崎へ“栄光の道”を敷いたのだ。
藤巻昇が「バックでまくれば良かったんだ。せこく立ち回るからやられたんだ」と我がことのように悔しがったように、山口をブロックせずに思い切って行ってれば…。
「だけどねぇ。脚が重くて…。朝からどうもおかしかった。出ていれば尾崎じゃなく菅田さんが優勝していたねぇ。結果的には3着でも、自分としては精いっぱい戦った」
表彰式でスタンドから「中野、はよう宮杯を取らんと歳だけとってしまうぞ!」と冷やかされた。
「若いと思っていたのに、そんな声が出るんですからねぇ。(全冠に)あと何年、今の力があるかわからないが、課題が残って、また挑戦できます」
相性の悪い“宮杯”のタイトル。中野が引退の最後のレースに「高松宮杯競輪」を選んだのも、やり残した“挑戦”があったからだ。勝っても、負けても、挑戦せずに引退などできるわけはなかったのだ。それほど“宮杯”への思い入れは強かった。
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【133】平成19年12月13日(木曜)
“宮杯”が終われば、中野浩一の双肩には世界選の新記録、7連覇の十字架が重くのしかかってくる。例年通り、中野はV7の話題を極力避けて、動き回った。その初めが“宮杯”の決勝が終わった夜、中央競馬の京都馬主協会の企画で武邦彦騎手との“対談”の仕事が入った。京都の都ホテルで馬主の谷水雄三氏、高田久成氏、内田恵司氏らを交えて約4時間、みっちりと懇談した。
この時、内田氏は「武さんにオークスを取らして“全冠”を達成させたいのですが、中野さんと同じで、あと一つが…」と話していた。そして武騎手から「私と歳は離れていますが、今回の縁をきっかけにどちらが先に“全冠”を達成するか競走したいですね」と、中野と接して新たな闘志を燃やしていたものだ。
中野は決勝3着の悔しさや、6日間レースの疲れも感じさせず、よく食べ、よく飲み、よく話した。谷水氏からは経営する西日本カントリークラブの“永久会員権”をプレゼントされるなど、思わずニッコリ。
「こうなったら毎日ゴルフをして、プロを目指しますか」と冗談も飛び出すなど、終始、なごやかな雰囲気に、中野の気分もすっきりした。
翌日からゴルフに高橋美行の結婚式(10日)、ゴルフ、そして12日には西宮競輪場に入り、13日の「国際競輪」に出場(2着)して、また名古屋へ。世界選の選考合宿にも不参加で、6月17日からの函館競輪「開設周年記念」へ臨んだ。こんな忙しさのなかでも、きっちりと優勝(51@着)の答えを出すのだから、まさに中野はスーパースターだった。
【134】平成19年12月14日(金曜)
世界選まで中野浩一は稼ぎまくった。2年ぶり3度目の“1億円レーサー”へ、函館記念の優勝後も取手記念21B着、久留米記念11@着、前橋記念11@着、門司記念41C着と好走の連続。練習不足になりがちな過密スケジュールだが、中野はもう慣れっこ。世界選モードに入る前のレースは8月7日からの向日町競輪「開設33周年記念・平安賞」だ。
2連勝で決勝戦(9日)に勝ち上がり、宮本万裕―岸本元也の熊本ヤングコンビに前を任せて、最後は竹内久人のまくりに合わせて3角まくりを放つと、なんと11秒0のバンクレコードで圧勝だ。2着の竹内を2車も引き離していた。
「上がりタイムの記録はねらうつもりもなかった。前の二人を、できるだけ残したかった」と、強引にハナを奪った宮本―岸本に気をつかいながらの猛スピードだった。
賞金も7710万4600円に達し、優勝回数も10回を記録。過去、7回の世界選前と比べると、すべての面で自己最高のすごさ。ダービー(決勝2着)、高松宮杯競輪(決勝3着)でタイトルを手にできなかったが、国内では猛威をふるった。この向日町も「体が重く、調子が悪い」と、連日ぼやきまくりながら、それでいて完全優勝だから、恐れいった。
翌10日から世界選へ向けて強化合宿が明石競輪場で行われた。亀川修一、堂田将治のスプリント組に山口健治、滝沢正光のケイリン組、中川聡志・庭野博文のドミフォン組とともに17日の旅立ち直前の15日まで、みっちりと黄金の脚を鍛え抜いた。
【135】平成19年12月15日(土曜)
強化合宿でも中野浩一は、一人だけ目立った。午前中のロード練習では山道をノラリ、クラリとマイペースの踏み込み。それが午後からバンクに移るとスイ、スイと飛ばす。ハロン10秒5、6は常時マーク。迫力満点のペダリングでゴールを駆け抜けた。
「うん、合宿で強めに踏んだし、現時点ではうまく調整できた。あとは疲れをとって、現地へ入ってから最終調整ですね。相手? 誰でもおなじですよ。タイム的には負けないし、あとは運を天に託すだけ。期待に応えられるように頑張ってきますよ」
一昨年、昨年とゴードン・シングルトン(カナダ)と死闘を展開。そのシングルトンが引退を表明しながら、また世界の魅力にとりつかれてエントリーしそうな情報も飛び交っていた。さらにモスクワ五輪・銀メダリストのヤーベ・カール(フランス)もスプリントで中野に挑戦してくる。シングルトンのように“失格覚悟”のラフプレーをされては困りものだが、真っ向対決なら中野には負けない自信があふれていた。
1983年度の世界プロ自転車競技大会は8月23日から28日まで、スイス・チューリヒ市のアリコン競技場で開催。中野は前人未到のV7へ挑む。16日午前10時からの壮行会では約300人が選手団13人を激励した。
「合宿の疲れも取れたし、現地でバッチリ仕上げますよ。V7? やらなきゃダメでしょう。こんな盛大な壮行会をやってもらったんだからね」と“V7”への決意を新たにしていた。
壮行会の後、午後9時30分発のスカンジナビア航空980便で成田を旅立った。
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