◆69〜82◆楽しき取材日記
◆69◆平成19年11月1日(木曜)
 練習はウソをつかない! 失格過多で75日の自粛欠場明けで岸和田競輪「サンスポ杯」前節(昭和56年5月19日決勝戦)に乗り込んできた山崎昇。力はあっても、ムラ駆けの傾向が強かった。加えて、レース面での荒っぽい競走が“出世”を遅らせていた。昨年も3班ー2班ー3班とエレベーター。それが今年はA2班に定着。すっかりたくましくなった。
 「2月の広島が終わって75日の自粛欠場。くやしくて、くやしくて、毎日毎日、練習に打ち込んだ。今は欠場が良かったと思っている。自分を見つめ直すことができましたから」
 オーバーワーク気味で乗り込んだ今回。初日、2日目は疲れが残ったまま。それが優勝当日になって「からだが軽く感じた。ええ、朝起きたときから、なにかやれそうな気がしていた」と最高の状態で決勝戦にのぞめることができた。
 「スタート勝負は決めていた。戦法も幅広くなる」。前受けからの戦いだったが、坂本敏博のかく乱で仕方なく坂本の後ろへ。その時、桝井京介ー牧野晴彦ー堀一男がカマした。坂本は踏み遅れ、山崎も最悪のバック5番手。それでも山崎は直線に入ると大外を一気に伸びて優勝を飾った。A級初優勝をめざして番手まくりを放った牧野だが、練習量豊富な山崎の前に“金星”を逸した。山崎は昨夏の岸和田でも優勝(51@着)と、相性の良さもVにつながった一因だった。

◆70◆平成19年11月7日(水曜)
 ビッグレースの前検日には、いろいろとおもしろい“ネタ”が落ちているものだ。56年6月3日のびわこ競輪「第32回高松宮杯競輪」の前検日。「村松さん、今回は注文をとりにきたの? 」と盛んに冷やかされていたのが、静岡の村松清一(27期)だ。何でも今年1月から自転車(レーサー)の製造を始めた。商品名も「ジオラマ」という立派なもので、現在プロ仲間の70人ほどが乗り出したそうだ。 セールスポイントは“頑丈で壊れない、丈夫さ”ときている。それにプロにはつきものの“落車”にも遭わないとか。村松が3度ほど転倒しそうになったが、すべて無事だったそうだ。プロだけでなくアマ用もあるとかで、注文は富士宮市の上条製作所(現在は牧田工房)まで…と。自分のことより“自転車”の売り込みに余念がなかったが、さて、これで大丈夫かな。
 こんな原稿が“雑感記事”として紙面に彩りを添えていた。村松は闘志満々の競走ぶりで、得点も110点を稼ぐトップレーサー。直前の小倉33@着で優勝してくるなど、自転車の効用も抜群だったが、この大会では大敗の連続でしょげかえっていた。現在でも「ジオラマ」は競輪選手が愛用している。落車事故で選手生命を絶たれた仲間を見てきた村松には、ありえない話しでも「転倒しない自転車作り」の気持ちだったのだろう。その思いが伝わってくる“雑感”だった。

◆71◆平成19年11月8日(木曜)
 500バンクの日本記録ーびわこ競輪「第32回高松宮杯競輪」(56年4日〜9日)の4日目、尾崎雅彦が菅田順和の先行をバック6番手から豪快にまくって13秒5のバンクレコードを樹立した。第30回大会で服部雅春で記録した13秒6、今大会の3日目にタイ記録をマークした中野浩一を0秒01縮める日本新記録だ。服部、中野は追い込みだが、尾崎は自力での記録に価値がある。
 逃げた菅田が「かかっていた先行を…」と絶句すると、尾崎は「バックで行けると思っていた。道中、脚力を使っていないし。まくりはねらっていた。いい記録が出せて、ますますリズムに乗れそうですよ」と涼しい顔。しかし、話しが準決勝に飛ぶと大きな目をギョロリ。「なんでもする。逃げてもいいよ、今の調子なら」とかなりの自信を持ったようだ。
 言葉通り、東の準決勝では落車を避けて、2番手の菅田ー吉井秀仁を追うと、直線で鋭く抜け出し、中野とともに4連勝で決勝入り。昨年はブザンソンで中野のV4に貢献したが、尾崎も堂々の銀メダルを獲得。初の戴冠へ、好ムードが漂っていた。
 しかし、だ。中野に全冠制覇をさせたくない思いが強く、吉井と2人で“中野封じ”に徹した。まず尾崎が中野に並びかけ内へ押し込み、最終ホームでは選手交代で吉井がパーフェクトに中野を封じた。そんな流れで菅田ー久保千代志(優勝)がホームカマシを放って、中野の全冠はお預けになった。もちろん力勝負をしなかった尾崎も7着に敗れ、タイトルへの道がまた遠のいた。

◆72◆平成19年11月9日(金曜)
 10年目で大輪の花を咲かせたのが久保千代志だ。びわこ競輪「第32回高松宮杯競輪」(56年4日〜9日)の決勝戦、久保は準決勝を終えた時点で「前を取れるのは気合が入っているせいでしょう。中野マークが99%で、あとの1%が別の作戦。カレ(中野)と心中するつもりでいきます。競りは覚悟です」と、中野浩一マークを決めていた。計算が狂ったのは村岡和久がスタート勝負に賭けていたこと。村岡ー中野ー井上茂徳と並んだが、久保は2度、3度と井上と中野後位をめぐって争うが、最後の最後に下がってきた菅田順和を迎え入れて“正解”を勝ち取った。
 「最後の1%に賭けた」ー久保は勝因をこう言った。そして菅田を入れた時点で「菅田さんは必ず行ってくれるーと信じてました」と、1%の作戦が99%の勝機をつかんでいた。レース中の切り替えの早さは10年のキャリアのたまもの。昨年は記念V9を達成して、スーパースタートして脚光を浴びてきた。出身地の北海道から愛知のトヨタ自工を経て競輪界に飛び込んだ久保。苦労人が“親父さん”と甘え、信頼しきっている師匠・黒須修典(B1)の顔を見つけると、涙が堰を切ったようにあふれ、流れ落ちた。
 「おめでとう、やったじゃないか」と師匠が祝福すると、久保は「すべて親父さんのおかげです」と深々と頭を下げた。そんな久保を黒須は両手で抱きかかえて喜びをわかちあった。
 決勝の日の朝、兄貴と慕う藤巻昇から「あせるな。500走路は長い。バックを4番手以内で回れ」の“電報”が入った。4番手どころか、久保は2番手を回る完璧な取り口で栄光の座についた。


◆73◆平成19年11月13日(火曜)
 援護が優勝につながるなんて…井上茂徳が初めてタイトルを手にしたのは立川競輪「第24回オールスター競輪」(56年10月1日〜6日)だった。中野浩一が史上初のオールスター3連覇に話題が集めていた。九州は北村徹を含め3人。北村は「行けるところまで中野さんと井上さんを引っ張る」と、赤板過ぎに動き打鐘では前団をひと飲みする快速ぶり。
 そして中野は2角まくりで北村の後を受け継いだ。この時点で中野の3連覇は確率が高くなっていたが、井上の切れは鋭い。ほぼ同時にゴールへ入ったが、見た目のスピードは明らかに井上の方が上回っていた。タイヤ差でビッグ初Vだ。“中野が負けた”一瞬の静寂の後、夕暮れのスタンドはニュースターを祝う歓声に包まれた。
 「もう、うれしくて、ほんとうに優勝したんだな。右に中野さん、左に高橋さん(健二=3着)、最高の気分です」。表彰台で井上は会心の笑顔だ。
 「徹(北村)が中野さんのために逃げたし、ボクも中野さんの後ろで競ることを決めていた。V3への援護が優勝につながるなんて…。でも、良かったぁ」
 41期では“親分”的な存在。デビュー間もない頃、競輪学校のアフタケア(53年)で飲酒。規則違反で全員が自粛欠場。この時も、井上が中心人物だった。
 「パーッと騒ぐのが好きなんですね。今夜も豪勢にいきますか」
 特別出場6回、優出3回目で手にしたビッグタイトル。先行から自在差しへ、戦法転換とともにたくましく成長した。中野を倒すにはー「先行では通じない。やはり後ろ」と決めたのは3月のダービー以後だった。日本一のマーク屋へ、初タイトルでさらに地盤は固まった。

◆74◆平成19年11月21日(水曜)
 58年4月から「新番組制度」が始まるが、その以前にも実力接近番組、いわゆる「企画開催」が行われていた。56年10月29日から31日までの西宮競輪は「2、3班戦」と「4、5班戦」のオールA級開催だ。A1班を除くことで、得点の似かよった選手が集まり、激戦が展開されると考えられていた。その反面、レースの面白さは別にして、車券で本命勝負をするファンにとっては大きな迷惑だった。
 決勝戦のメンバーを紹介しよう。
 【2、3班戦】@飯野謙一43期A石田真二42期B飯沼朗43期C田辺進44期D山内弘佳43期E黒川常男40期F関本吉志44期G山下勝42期H長谷井浩二45期
 3班は黒川だけで、やはり2班の選手が勝ち上がり、飯沼や飯野、石田はA1班の得点をキープする実力者。それでも1、1着を奪ったのは果敢なカマシ先行で戦う関本だった。誰が優勝したか、結果は残していないが、当時はメンバーを見るだけでワクワクしたのを思い出す。
 【4、5班戦】@細川忠行46期A白崎正剛46期B金田隆博45期C渡辺敏明45期D平嶋昇46期E壁谷沢康雄46期F古林昭二46期G内村文彦46期H榊原千顕46期
 ヤングが揃ったが、金田は得点が105点と群を抜いていた。こんなメンバー構成になると、ファンも金田から“勝負”をかけられるのだが…。
 いずれにしても、一度にヤングの名前を覚えられたのは、今後への役に立ったのは確かだ。

◆75◆平成19年11月28日(水曜)
 「おい、笑えよ」と中野浩一や井上茂徳に声をかけられても、涙が止まらずにいたのが小倉競輪「第23回競輪祭・新人王(浜田賞)」(56年11月21日)で優勝した北村徹だった。逃げた岸本元也、スタートを決めて迎え入れてくれた佐々木昭彦、そして援護役に回った礒野実、野田正ら九州のヤングに、北村は涙、涙、涙で喜びを表すしかなかった。
 「うれしかった。新人王は絶対に取りたかった。だって、45期が強いと言われていたし、意地にかけても負けられなかった。わかるでしょ、この気持ち」
 43期のチャンプ北村。立川・オールスター競輪では中野ー井上を引き連れて爆走。超一流への道を歩む者にとって、45期、46期に勝たせるわけにはいかなかったのだ。
 「次は特別のタイトルです。この優勝を心の支えに精進します。逃げた岸本、後ろについてくれた佐々木君、そして九州の先輩、ボクの優勝はみんなのおかげです」
 準決勝が終わった後、北村は5人進出した九州勢の並びについて「九州の先輩のアドバイスを求めます。九州同士でつぶし合いたくありません」と一意団結を望んでいた。もちろん中野や井上が“一丸”へ奔走した。とりわけスタートの早い佐々木を洗脳した。野田とタッグを組めば岸本ー北村ー礒野で叩き合う可能性もあった。だから井上は佐々木を説得して、九州勢が一つにまとまれたのだった。こんな人間くさい並びこそ、競輪なのだが…。北村はその後も九州の先頭で突っ走ったが、ビッグVとは縁がなかった。

◆76◆平成19年11月30日(金曜)
 審判の判定には、ビッグレースでのたびに選手間で問題が起こった。小倉競輪「第23回競輪祭」(56年11月19日〜24日)でもそうだった。初日からくすぶり続けていた関東勢の不満が3日目に爆発したのだ。@失格審議が遠征勢に対して厳しいA誘導員のピッチが九州勢に有利に早くなったり遅くなったりする、の2点について猛烈に抗議。
 選手代表の伊藤繁、斑目秀雄が新人の準優戦7Rが終わった時点で、選手管理を控室に呼び、さらに9R終了後は審判長に「九州の選手が先行したレースの総タイムは関東勢の先行の時より5秒も早い。われわれは距離にして約50bのハンデを背負わされている」と怒りをぶちまけ釈明を求めた。
 それでもおさまらず話し合いは夜まで続けられた。これを見る西日本勢の反応は冷ややか。「俺たちが関東に行けば反対の立場」とか「関東勢は人数が多いから…」などと話していた。しかし、初日に菅田順和と壮絶な先行争いをした亀川修一の失格のことになると全選手が同情的で、審判も苦しそうな表情を浮かべていた。
 こんな光景を目の当たりにできたのも、当時の取材範囲の規制が緩やかだったからだ。選手の生の声を読者に伝えられたのは、取材記者にとってよき時代だったのだ。

◆77◆平成19年12月11日(火曜)
 近畿地区の掉尾を飾るのは奈良競輪の「開設記念」と決まっていた。「31周年」も56年12月13日から3日間が前節の開催だ。例によって前打ち記事はヤング《挑戦》で、八倉伊佐夫と唐津信一郎を取り上げた。二人とも果敢な先行で売り出し中。ところが共通しているのが優しいところ。レースでは優しさがネックとなるのもしばしばだった。
 まず八倉。いつもニコニコ笑顔が絶えない。京都育ちでおっとりと口を開く。言葉は甘く、女性ファンならコロッとまいりそうなムードを持っている。が、発走台に立つとキリッと引き締まり、豪快な先行、まくりで相手を切り捨てる。
 「このごろあきませんわ。調子はええのに、どうもガッツが足りませんね。消極的になってるんですわ」
 広島で佐古雅俊を破って51@着で優勝をした後、地元地区の甲子園21C着、向日町41C着で期待を裏切ったのが、弱気な言葉になっていた。この年はV4を飾りながら波に乗れない歯がゆさを感じていたのだ。それでも「奈良では闘志を見せます。出しぶらんよう、思い切って逃げます」と、八倉は爆走を誓っていた。
 唐津は「ボクの作戦は一つ(先行)やし、どんくさいことだけはしたくない。まくられても差されても出ていくしかありません」と、強引先行しか頭に描いていない。A1班を倒すには早逃げ覚悟の気持ちだ。
 11月の岸和田記念の準決勝では1周半逃げて3着に粘り、2年ぶりに記念の優出を決めた。それも、この年初めての記念戦で思いの丈をぶっつけたのだ。その後、地元奈良で、年頭から6回目の優勝を手にした。「ファンの人に怒られんよう、自分の力を出し尽くします」と、先手奪取を決め込んでいた。
 二人とも準決勝で散ったが、果敢なアタックがファンの注目を集めた。

◆78◆平成19年12月12日(水曜)
 奈良競輪の「開設31周年記念・春日賞争奪戦」の前節は、亀川修一が“主役”の一人だった。この年、近畿の選手が記念を優勝したのは5月の宇都宮で逃げ切った亀川だけ。その後、世界選手権(チェコ大会)で中野浩一や菅田順和、高橋健二、久保千代志らと寝食を共にするなど、大きく羽ばたきだしていた。
 「いろんな意味でボクにはプラスやった。厳しさもわかった。奈良は優勝のチャンスやと思う」
 競輪祭で亀川は失格に泣いた。打鐘前から菅田に突っ張られ、併走、そしてモガキ合いながら、最終バックで菅田を叩き込んだ。これが失格となったのだが、観戦中の選手には強さを印象づけた。
 「調子は良かったのに…。なんで失格になったかわからへん。(先行して)失格やから納得がいかんかった」
 積極さを取り戻した55年の競輪祭・新人王。こんな失格ぐらいでは崩れない。奈良記念の決勝戦も、原田則夫や緒方浩一、木庭賢也らを相手に、最終的に逃げる同期・原田の番手をキープして差し切り、近畿地区の記念を初めて優勝した。
 「今年、二つめの記念を取れて、良かった。来年(57年)は特別レースで優勝候補のなかに入れるよう努力していく」
 タイトルには手が届かなかったが、翌年の世界選にも出場するなど、国内でも“優勝候補”に名を連ねる活躍を残した。

◆79◆平成19年12月14日(金曜)
  笑いが止まらない井上茂徳に対して、控室では「ちくしょう」「クソッ!」と悔しさをむき出しにする選手が大半を占めた。奈良競輪の「開設31周年記念・春日賞」後節の決勝戦(56年12月26日)は、初日特選で吉井秀仁に競り負けた井上は人気薄だった。ところがスタートで尾崎雅彦が前を取ったため、番手勝負を決めていた木村一利が竹内久人に目標を置いた。木村が前攻めなら、井上は最終的に競りのケースだった。
 目標にした斎藤哲也とは7月の福井記念でもタッグを組んだ仲。斎藤が上昇すると、尾崎―吉井秀仁は3番手へ下げ、斎藤を叩かなかった竹内―木村と競りに。この流れで、井上は願ってもない2番手レースとなったのだ。
 「木村さんが前を取っていれば苦しかった。(尾崎が取って)迷うことなく斎藤君に付けられた」と、スタートの時点で“勝つ”手応えを感じ取っていた。4コーナー手前でスパートすると、2着の吉井に1車身の差をつけていた。
 レース後は「結局、井上に勝って下さいというレースになった」と竹内。木村の「抑えて行けば勝てたのに」の声も、竹内には慰めにすぎなかった。その側で、井上は斎藤に「ありがとう」とねぎらいの挨拶。これで獲得賞金も史上2人目の8千万円台に乗せた。この年は9月に初めてのビッグ・オールスター(立川)を手に入れ、通算優勝は10回(記念V8回)。有終の美を飾って、井上は最後まで笑顔、笑顔だった。

◆80◆平成19年12月19日(水曜)
 岸和田競輪の「ダービーTR1回戦」(第35回競輪ダービーは大垣)を前に、片岡克巳が中野浩一に挑戦状を叩きつけていた。地元記念で悔しい思いをしたことで、さらに闘志をかきたてられた。“倒せ!中野”とばかりに、前打ち記事でピックアップした。
 「やるんじゃ。人の後ろを走っていて2,3着なら、自分で行って負けた方が悔いも残らん。人に使われる? それは仕方がない。人のミスを待つより自分で行くんじゃ。それでないと上には上がれん」
 勝ちたい一心で、まくるために“中団待機策”を考えたが、いつも攻撃目標にされ、仕掛けどころは悪くなった。そして勝てない…。先行一本で戦っていたころに“甘い汁”を吸わせた相手に、位置を奪われたりもした。“味方”がすぐに“敵”と化すプロの世界。片岡には腹立たしさしか残らなかった。
 「地元(1月の玉野記念)なんよ。ちょうどいい位置におったのに、フタをされてしまった。準優(事故棄権)もそうやった。ボクも悪いかも知れんけど、地元なら“位置”があって当然。それが位置もないのやから。これで心の踏ん切りがついた。また元の先行に戻す。力で勝負です」
 昨年(56年)の1月は、玉野記念を逃げ切って初の記念を手に入れた。ダービー、競輪祭でも決勝にコマを進め、片岡は西日本屈指の先行屋の看板を背負った。
 「ボクはやっぱり先行で戦わなければ持ち味がでない。中野さんと走るときも、ボクが逃げて、中野さんをまくらす展開に持ちこまないと。前で戦えば勝つ機会もあるが、中野さんを前に置くと、うまくさばかれますから」
 暮れの久留米記念で中野に初めて勝った。その時「カツミ(片岡)に自信をつけさせてしもた」と、片岡の力を高く評価していた。
 岸和田の決勝戦は、片岡の思い描いた通りに逃げたが、中野の3半まくりを浴びて3着に終わった。それでも片岡は満足感を漂わせていた。

◆81◆平成20年1月7日(月曜)
 快挙だ。中里光典が“日本一”に輝いた。大垣競輪の「第35回競輪ダービー(日本選手権競輪)」決勝戦で、中野浩一や高橋健二、菅田順和ら強豪を相手に、中里は高橋の豪快まくりに乗って抜け出し、29年の第10回ダービー実用車の部で優勝した河内正一以来、兵庫県にビッグVをもたらした。
 「ゴールしたとき“勝ったかな”と思ったぐらいで、感動などありませんでした。それよりゴール後、後ろのワッパ(車輪)をハウスされ、落車しないかと思った」
 賞金2500万円と乗用車がかかった決勝戦。中里は意外とクールにレースの流れに乗って行った。敗者復活戦から勝ち上がり、準決勝では井上茂徳、吉井秀仁らが落車し3着を拾った。こんな幸運が、大きなタイトルを呼び込んだ。
 「自分で行かなきゃぁ、と思っていた瞬間に高橋さんが動いて、付いて行っただけですから。優勝したことで、次の防府記念(4月2日から)が心配ですよ」
 ヒーローらしくない謙虚な中里。42期では片岡克巳に次いでA1班の座を勝ち取った逸材だが、気が優しく、純情なのが勝負の世界ではネックとなった。パワーは抜群でも、この後は、タイトルとは無縁。それでも、常に全力投球の姿勢は崩さなかった。
 大垣ダービーには坂東利則が初めてダービーに出場。自らも2走目に逃げ切り勝ちを収め、兵庫勢は連日の6号車という弱い? ユニホームにもかかわらず大健闘。そして最後も中里が幸運の『6』で金星。決勝戦には佐野裕志も進出していたが、中野浩一―竹内久人の3番手で本線を形成しながら、中野の仕掛け遅れで6着。ツキのあった中里とは兵庫コンビでも明暗が分かれた。

◆82◆平成20年1月12日(土曜)
 九州に、また一人すごいやつが出現したーこんな書き出しで取り上げたのが広田淳二だ。岸和田競輪の“サンスポ杯”前節(57年4月11日〜)に出走する広田は、もちろん“主役”だ。
 近況は高松11@着、松戸11A着、別府21@着と、着外ゼロのすばらしさ。別府では丹波秀次、渋谷晃一、村松清一のA1班をパワーで圧倒した。
 「A級に上がったときはレースになじめなかったが、3戦目の大垣(33G着)あたりで戦える自信がついた。今はどんどん逃げるだけです」
 母親の知子さんは、かつて女子競輪で活躍した花岡知子。広田の生まれた年(36年)に引退したが、幼少のころから競輪場に足を踏み入れるなど、競輪選手になり下地は整っていた。高校は自転車の名門、九州学院。宮崎国体では1000b第2位の記録もある。
 「ボクはダッシュ力がないので、早め、早めに出て行くタイプ。たまたま番手に入っても、やはり差すのは難しいですね。逃げる方が性に合っている」
 師匠は青木宏親。初めて弟子をとったのが、この広田だ。一から十まで、すべて青木の指導に任せている。車で誘導、阿蘇山への遠出も一緒だ。今回は師弟ともどもの参加、心強いかぎりだ。
 「将来は何でもできる自在型になりたい。いまは中途半端にならないように心がけている。着は考えないでボクの持ち味である粘りをだしきります」
 意気込み通りに、初日特選はホーム手前で発進して、2角では全速先行の内村文彦―滝井雅弘を難なく叩き切り、そのまま押し切った。この豪快なカマシに、青木は「A級で(広田の)レースを見るのは初めてでドキドキしました。強いです。粘りも申し分ありません」と、愛弟子の強さを再認識していた。
 残念ながら準決勝で接触落車、ほろ苦い岸和田戦だった。