【56】〜【70】我が野中和夫
【56】平成19年8月28日(火曜)
 審査対象が新期といっても、看板は“B級”の野中和夫。配分は月に2場所だけ。一戦、一戦は大事だ。昭和54年4月30日に5月2日からの福岡戦へ向けて空路博多入り。住之江競艇では「第6回笹川賞」(5月3〜8日)が行われる。いわゆる裏番組に出演の野中、やはり屈辱だ。「これはしゃぁない。事故(フライングなど)をした者が悪いんや。B級では特別を走られへんのやから、7月からを楽しみしてるんや」。あえて「笹川賞」を無視して、福岡の一般戦に手中した。
 前検日の試運転、スタート練習は、やはりきつかった。「やっぱり腹筋や。力が不足しとるわ。気持ちで走らなあかん」と術後の不安を口にした。野中は逆境に強い。痛いとか、苦しいとか、そんなハンデがあるほど燃えて、気力でカバーする。昭和49年正月の住之江「王将戦」で、展示航走中に転覆しかけて右足大腿部を痛打。それでも「右足が動かんでも左足と両腕がある」と痛みを精神力で跳ね返し優勝した。この福岡でも、苦戦を強いられながらも優勝戦に進出。モンスターは、どこまでも弱音を吐かずに、次のターゲットへ挑む。

【57】平成19年8月29日(水曜)
 小さい胃を大きくするには「ビールや!」と野中和夫は手術後、3分の1に減った胃を復活させるのにビール療法を取り入れた。普通は食事を4度や5度に分けて、すこしづつ胃をふくらませていくのだが、競艇選手は食べて太ることはできない。それでも栄養素は必要だ。「ビールをすこしずつ飲むんや。そしたら、炭酸でふくらむよ」。誰もマネをしないが、野中は何が起こっても、すべては“野中流”なのだ。ただ、この荒療治で精力的に動く野中には、胃の方が悲鳴をあげた。
 「なかなかシャキッとせんわ。胃も大きならんし、食べられへんし」。それでも7月のA級へ向け、勢いはついてきた。が、勢い余って、またまたフライングだ。
 昭和54年6月26日の丸亀競艇「開設27周年記念」優勝戦で、スリット間際まで頭を上げて、時計をにらみ続けたが、1bもオーバーしてしまった。10月の福岡・ダービーへの出場権を棒に振る高価な代償となった。
 「しもたなぁ。すべてパーや。速いとは感じたけど、まさか出て(F)るとは…。勝ちたかったから勝負をかけたが、迷惑をかけてしもた」。エンジンは抜群。だからこそ1年7ヶ月ぶりの記念優勝をかけ、万全の態勢で臨んだのだった。3艇がフライングとはいえ、舟券は80%以上も返還となった。

【58】平成19年8月31日(金曜)
 3月の施設改善記念は準決勝で敗れたが最終日に2勝。6月の周年記念はフライングで散ったが“超抜”のエンジンに仕上げていた。野中和夫がモンスター復活を告げるのは昭和54年8月3日から始まる丸亀競艇「第25回MB記念」の舞台だ。晴れてA級の看板を背負って、久々に彦坂郁雄、北原友次と相まみえる。もちろん地元で仁王立ちの安岐真人もいる。フライングで走れない福岡ダービーの分まで、野中が形相を変えてタイトル奪取をねらうのは必至だ。
 「3月の施設改善記念のときに、周年とMB記念で戦えるメドがたってたんや。周年は手応えも抜群やった。(エンジンには)あるていどの自信があるんや」。野中の言葉を裏付けるように、周年記念の優勝戦前に安岐真人や北原友次は「野中のはオバケ。インに入ったらつぶされるだけ」とイン屋のプライドを捨てて、折れ合いをつけて対処した。このすんなりのイン隊形が、スタート勝負に出た野中のタイミングに微妙な影響を及ぼしたのだ。それほど、モンスターは破壊力を取り戻してきた。昨年の5月・笹川賞以来、1年5ヶ月ぶりのビッグイベントが間近に迫ってきた。

【59】平成19年9月2日(日曜)
 1年5ヶ月ぶりにめぐってきたビッグ、丸亀競艇「第25回MB記念」の第一前検日を迎えた。昭和54年8月1日、野中和夫の引き当てたエンジンは上位級の代物。それでも体調不十分で試運転もせずに控え室で寝たまま。「えろうて、ずっと寝てた。エンジン? 周年の時にナンちゃん(井上利明)が動いとった。レースは気力や、気力一本や」と語気を強めたが、顔は土色にくもり冴えなかった。
 野中が周年で仕上げたエンジンは地元・安岐真人が手にして「選手班長手当と違うかな」と笑わせながら、野中の後は筒井昭、平尾修二が連続優勝した“超抜機”にニンマリだ。
第2前検日になると、丸一日寝た野中にも生気がよみがえってきた。スタート練習を終えると「出足は物足りんけど、ワシのは出とるでぇ。心配いらん。周年の時ぐらいの足にはする」と、自信に満ちあふれていた。
 足合わせをした選手からも「野中さんのが一番とちがう?」の声。エンジンはともかく、1年ぶりにA級へ戻ったものの、すでにフライングを1本抱え、V奪取への条件は厳しい。逆境をはねのけて、モンスターが6つめのビッグVを力ずくでもぎとるか。

【60】平成19年9月4日(火曜)
 2日間の前検業務を終えて「第25回MB記念」(丸亀競艇)の幕が開いた。初日に1回走りの野中和夫は「(エンジンを)つぶしてしもた。2艇身はようするつもりやったのに…」と、レース前に浮かぬ顔。ペラとピストンを換えたのがウラ目に出て「危ないでぇ」と苦戦を予言。1マークで新田宣夫に差されtが、2マークで新田がふくれたところを差し返して、やっとの思いで“勝ち”を拾った。
 「ついてたなぁ。イチから整備のし直しや」とレース後に全バラ。整備士とパワーアップの相談を終えると「あした(2日目)は“オバケ”になってるで。見とってや」と“超抜機”への変身を約束した。言葉通りに、2日目は横一線のスタートからインの酒井忠義を一気のツケマイで沈めた。酒井は「もったと思ったのに…まいった、まいった」と野中に脱帽。野中も「完調やなぁ。あと、スローの効きがようなれば万全や」と、2日目でOKサインが出た。
 3、4日目は5コースからまくって残り2着、4コースから豪快にまくって1着、3コースから強烈まくりと、猛威をふるった。初日の1走目以外、1コースに見向きもしない野中はエンジンに自信満々なのだ。それに“アウト屋・野中”はボートの醍醐味を、たっぷりと満喫させてくれる。いよいよ正念場の準優勝戦だ。

【61】平成19年9月5日(水曜)
 快調に予選をクリアした野中和夫。破壊力も満点だ。「第25回MB記念」(丸亀競艇)の準優勝戦は、イン側に北原友次、井上利明、新田宣夫、中村男也が入り、野中は同期・渡辺義則を連れて5コースに陣取った。コンマ23の野中。北原がインでコンマ21で抗戦したが、野中のダッシュ力はケタが違う。勝負どころの1マークは北原を豪快に叩いて回った。渡辺も付いて回って2着と思われたが2マークでブイに乗り上げ、その後、新田、井上との競り合いをついて2着に浮上した。
 「初日に比べて3艇身はようなった。もうひとつ出るように調整してみる。久しぶりのチャンスやし、取りたいもんや。コースはダッシュを生かせるところ(5コースか)。気合も乗ってる」
 昭和52年10月の福岡・ダービー以来のビッグ優出。すでに10月の福岡・ダービーへの出場は丸亀周年の優勝戦Fで失った。この54年、最後のビッグな舞台で、モンスターが爆発しないわけがない。「オレの(エンジン)が野中より強めだよ」と豪語していた彦坂郁雄は準優勝戦で脱落。地元のエース安岐真人はイン取りに不利な1号艇を引いた。復活・岡本義則がインへ意欲なら、安岐も苦しい。同期の渡辺が野中にマーク戦。5コースに構える野中がビッグV6奪取へ、流れは向いてきた。

【62】平成19年9月6日(木曜)
 「ありゃあ、オバケじゃぁ」ーモンスター野中和夫は一撃のもとに特別6つ目のタイトルを奪取した。昭和54年8月8日、丸亀競艇場で「第25回MB記念」優勝戦が行われた。優出メンバーは@安岐真人A野中和夫B中道善博C江原正義D岡本義則E渡辺義則の6人。不利な枠を引いた地元の安岐が「インこだわらなくてもレースになる。伸びが強いから野中と同じやな」と、柔軟な考えだ。
 ピット離れは岡本が一番。安岐も勢いをつけたが、岡本はさらに2マーク裏側へ艇を寄せ、イン死守の気構え。結局、インから岡本ー安岐ー中道ー江原でスロー水域。野中ー渡辺の“27期仲良しコンビ”が予定通りにダッシュ戦だ。
 「5、6コースは初めから決まっていた。エンジンも抜群に仕上がった」と野中は自信満々だ。
 スタートはインの岡本がコンマ14で先手を取ったが、1マークで安岐の差しを封じるために小回りをねらった。その時だ。コンマ16の野中が猛スピードでスリットを通過後、落としてレバーを握ろうとする岡本の右舷を一瞬のうちに駆け抜けた。グラッと傾く岡本の内を安岐が差し、野中を追っかけたが、すでに決着はついていた。観戦した村上一行が「あれ(野中)はやっぱり怪物。オレなんて1艇身出てもまくれないのに、横一線でまくってしまうんやから」と感嘆の声。岡本も「野中君は見えなかったんだけど…」とガックリ。
 野中はコース新の2分27秒8で4周を駆け抜け、北原友次と並ぶ4大レースV6を達成した。

【63】平成19年9月7日(金曜)
 心底から喜びがわいてきた。1年ぶりにA級へ戻り、この年、唯一のビッグレース出場で、タイトルを獲得した野中和夫。4月に持病の十二指腸潰瘍手術で入院したが、胃を3分の2も切り取った。体調万全を期すためだったが、術後の養生をできないのが競艇選手。抜糸もしないまま走った。無理は承知でも、野中の体に負担となった。
 「小さな胃を大きくせんと、スタミナができん。体に栄養を与えて、初めてしっかりとした体ができあがるんや」。ビールで胃袋をふくらます荒療治も、肝機能を痛め、体調を崩す一因になった。昭和54年8月、丸亀競艇での「第25回MB記念」には決して好ムードで乗り込んだのではなかった。
 「けだるいというのか、立っているのもつらかった。丸亀に入ってから、ゆっくり体を休めることができたんが良かったよ。レースは気力に機力やから、エンジンさえしっかり仕上げれば問題ないんや」
 シリーズ中はソウメンを流し込む程度で、空腹を満たした。そして大一番で、“超抜機”がうなりを上げて、51年10月の蒲郡・ダービー以来、2年10ヶ月ぶりに6つ目のタイトルを運んできた。「B級に落ちとったから、長い空白があったような気分や。苦しいときに優勝できると、気分も、体もスカッとするわ。胃も、もう大丈夫や」。丸亀では49年に続いてのMB記念を連取。6月のフライングで迷惑をかけたファンに、準パーフェクトの会心の勝利で恩返しをした。

【64】平成19年9月8日(土曜)
 丸亀・MB記念の優勝で、前途の開けたモンスター野中和夫だが、まだまだ苦難の道は続く。54年8月13日からの住之江競艇「第13回太閤賞」で、大阪勢が“ホーム5連覇”を合い言葉に臨んだが、野中を始め枕を並べて討ち死に。笹川賞→蒲郡24周年に続いて住之江「太閤賞」も優勝した中道善博の勢いの前に屈したのだ。
 「レースは時の運。勝つパターンには持ち込んでも、エンジンの力や、展開が必要や。気力でカバーできるのも限りがあるんや」。住之江の後、戸田で不本意な反則失格のペナルティ。なんと、またも事故率オーバーで、来期(55年1月から)はB級落ち。彦坂郁雄も笹川賞、常滑26周年でフライングに泣き、野中と同様にB級落ち。両雄がそろって特別の舞台から遠ざかるとは、寂しい限り。競艇界は「戦国時代」に突入したのだ。
 この54年後期は、野中が102走、1着50回、2着18回、3着9回、4着10回、6着5回、6着8回、優出7回V1の成績で勝率8・14を残して第1位だった。それでも事故点55点で事故率0.53となってB級。ちなみに国光秀雄が8.03で2位だったが、野中と同じ事故B級のため、第1位には7.69(51走、1着28回、2着8回)を残してC級から這い上がってきた長嶺豊に輝いた。野中にとっては悔やみきれない“幻の1位”となった。

【65】平成19年10月1日(月曜)
 新たな年を迎えても、事故B級では気勢も上がらない。静かに昭和55年の幕が開いた。当面の目標は1000勝への到達だ。それも最速を目指しての記録だ。ビッグ路線へのカムバックも夏のMB記念までお預け。2年続けて、苦難が待ち受けていた。これも神が与えた試練なのかも。
 まず向かったのが唐津競艇「26周年記念」。同じ事故B級の彦坂郁雄もいる。2人とも一般戦と、施行者が希望した場合の記念が働く舞台。といっても、ファンは野中、彦坂の対決に興味を示す。どちらが勝つか、どちらが強いか、関心事はこの二つ。
 当時、競輪が主な仕事場となっていた私だが、野中のことになると放ってはおけない。ちょうど和歌山記念の仕事を終えた日に、野中が唐津競艇の準優勝戦を前に998勝に達したと連絡を受けた。社に戻ると、デスクから「唐津へ飛んでくれ」との指令。ちょっと、ちょっと、待って下さいよ、と言いかけたが、「朝の一番、飛行機で博多に出て、唐津には昼前には入れる」と手回しよく旅程まで調べられては、「はい」と頷くしかなかった。
 「じゃあ、出張旅費を」と手を出すと、「今から歩いても間に合うやろ」とつれない返事。なんのことはない立て替え出張だったのだ。

【66】平成19年10月2日(火曜)
 大阪から唐津は遠い。新幹線を使えば5時間。空路で博多からタクシーで博多駅へ向かい、国鉄の唐津線に乗って行くと、スムーズに運んでも3時間はかかる(今は博多空港から直行できる)。伊丹空港発が午前7時30分。それなら、朝まで飲んで、と考えたが、2泊3日の出張だと着替えも必要。自宅を5時30分の出発でタクシーに迎えの予約を入れて、ひと寝入りした。冬場は阪神高速が凍結することもしばしば。余裕をもっての時間設定が必要だった。
 頭の中は野中和夫が1000勝達成した場合の記事のことばかり。準優勝戦を勝って「あと1」がとりあえずの原稿。優勝なら、スピード達成に両手に花とか、いろんなことが浮かぶ。デスクへの紙面スペース確保の売り込みにはインパクトも必要。あれこれ考えながら、何度か取材に訪れている唐津競艇場に到着。大阪からの取材記者は私だけ。
 予想の記事もないので、気楽なもの。地元のスポーツ紙記者と一緒にピット取材へ。野中が準優勝戦で予定通りに1着でクリア。顔を見るなり「なんや、何しに来たんや」と、分かっていながら、冷たい言葉。まあ、いつものことだから、慣れっこ、慣れっこ。「1000勝は1面で行きますか」とこっちも負けていない。「いや、こればっかりは、わからん。ヒコさん(彦坂郁雄)のが出とるからなぁ」と、意外にも慎重な返事が返ってきた。

【67】平成19年10月3日(水曜)
 「浩一(中野)はどうやったかなぁ」ー野中和夫は競輪の中野浩一を気にしていた。ちょうど、準優勝戦の日(1月21日)は佐世保記念の決勝戦。2連勝の中野がグリグリの本命人気を背負っていた。「優勝したら唐津へ迎えに来るようなことを言うとったけどなぁ」。ピットでも、ほとんどが競艇以外の話しばかり。そんな時は、エンジンの調子も快調ということだ。
 中野は藤巻清志ー荒川秀之助に叩かれたものの、3番手をキープ。絶好の流れに持ち込んでいたが、荒川の巧みな牽制にあってまくれず、3着に敗れてしまった。それでも、翌日は愛車のベンツで唐津へやってきた。久留米からは、それほど遠い距離でもない。練習も競走の直後はオフ。気分転換も兼ねての“舟券”にアタックだ。
 「ボクは負けたけど、野中さんには勝ってもらって、夜の中洲はお任せしますよ。野中さんの1着で2点ですね。でも、彦坂さんから野中さんへは押さえますけどね」
 選手として常に1着を目指すのは野中も中野も同じ。違うのは張り手に回った時。野中は中野を信じて1着固定。それも1点張りが多い。中野は野中だけでなく他の選手の1着も考えるなど多点張り。このあたりの“妙”がおもしろい。
 結果は野中が彦坂郁雄に敗れた。999勝で2月の尼崎競艇へ持ち越しとなった。「負けたヤツ(中野)に応援されたら、足を引っ張られてもうた。しゃあないわ、ヒコさんやからなぁ」と、納得の2着だった。

【68】平成19年10月4日(木曜)
 999勝で「あと1」なら、原稿も数行。「持ち越しとなった」だけなら、仕事も時間がかからない。当時は電話を片手に、原稿も書かずに窓を見ながらスラスラとしゃべるだけ。内勤のアルバイト君が受稿して、それでお役ご免だった。だから、モンスター野中和夫と世界チャンピオン中野浩一にくっついて、私もベンツに同乗させてもらった。
 「浩一、悪かったなぁ。2着で。ちょっとヒコさん(彦坂郁雄)の方が強かったわ」と野中。運転中の中野は、「そうですね。勝てたかなと思ったんですけど、ね」と口の中でもごもご。そして「いや、ボクは別にどっちでもよかったんですけど。元返しはしてますから」と舟券的中を吐露。「そうか、浩一はそんなヤツや」と苦笑いの野中だった。その夜は博多の中洲で、敗戦を忘れて、歌って、飲んで、しゃべって、楽しんだ。
 この頃、野中の1000勝へ向けて、記念パーティーの企画が持ち上がっていた。無二の親友、漫才師の横山やすしや落語家の林家小染らが、野中をさらに盛り立てようと、飲んだ席で
話題にのぼったのだ。昭和49年の“3冠”に始まって、51年の勝率9.53、年間V16、獲得賞金6千万円の華々しさに比べると、53、54年はB級に落ちなど、友人、知人らは野中に物足りなさを感じていたのだ。だから「はっぱをかける会」、いわゆる内輪だけの飲んで、しゃべり、歌いまくる“飲み会”を考えていた。

【69】平成19年10月5日(金曜)
 私の手元には、野中和夫の1000勝目の記事は無い。尼崎競艇へ戻れば担当記者がいる。取材の場が違えば、追っていけない。翌日の原稿も読むだけで、スクラップもしていない。まさか、当時は定年後にホームページで“野中もの”を書くとは思ってもいない。いくら、1000勝後に会っても「おめでとう」「ありがとう」「カンパーイ」の世界だ。
 ただ、2200走目での1000勝スピード達成はモンスターの面目躍如。唐津では彦坂郁雄に「ヒコさん、パーティーをするときは、是非とも出席してください。家族で大阪へ来てください」とお願いしていた。
 2月13日は「昭和54年優秀選手表彰式典」が東京・三田の「笹川記念会館」で行われた。野中和夫は年間最高勝率8.26と敢闘選手賞(丸亀・MB記念優勝)の2部門で表彰を受けた。苦しい54年でも、野中はファンのために、きっちりと勝率を残し、期待に応えていたのだ。
 「新人賞以外は、第1回の大賞からすべての賞をいただきました。これからも、今回の賞以上の、一番大きな賞から順にもらえるように、走る限りは頑張っていきたい」
 55年は54年と同じくB級からの出発だが、1000勝達成に2つの表彰と、野中も改めて気を引き締め直していた。

【70】平成19年10月6日(土曜)
 「第15回鳳凰賞」は蒲郡競艇場で開催していたが、尼崎競艇「施設改善記念」では野中和夫と彦坂郁雄が対決が話題のマトだった。ともに“B級”で、「鳳凰賞」には無念ながら出場できなかったのだ。地元の雄・榊原照彦も初日のドリーム戦で野中、彦坂を破り、復活を告げる頑張りだ。
 優勝戦に乗ってきたのは@小林嗣政A吉田重義B貴田宏一C野中和夫D彦坂郁雄E榊原照彦の6人。準優勝戦で8Rの野中が3コースから豪快にまくると、9Rでは彦坂が2コースからトップスタートで飛び出し圧勝。そして榊原が10Rで2コースからインの脇辰雄を差して1着。この1着トリオが人気を集めたが、野中は「伸び型やし、ダッシュをつけて行く」のに対し、彦坂は「4日目のゼロ(オンラインスタート)からスタートが決まりだした。5号艇だけどインにこだわらない。2,3コースなら」とエンジンには自信のコメント。一方、榊原は「インから目イチの勝負。インを取れなかったら? そんなこと考えない」と気合充満だ。
 昭和55年3月7日の優勝戦。唐津で彦坂に敗れた野中の雪辱も、イン死守から地元Vをねらった榊原も、強力エンジンの彦坂の前に、圧倒されて敗れ去った。野中は「あかん、ヒコさんによう負けるわ」と、12日のパーティーに花を添えられず、ガックリ。逆に彦坂はノリノリの進撃だった。