◆42〜55◆ちょっとした思い出
◆42◆平成19年8月15日(水曜)
 日本の競輪が世界選手権の正式種目に採用されたのが、中野浩一がプロ・スクラッチV4を達成したフランス・ブザンソン大会。その2年前の昭和53年5月14日に、UCI(国際プロ自転車競技連盟)のJ・エッシュ会長が、宇都宮競輪「第25回全日本プロ自転車競技大会」で“世界の競輪”になることを明らかにした。それもこれも中野がベネズエラで金メダルを獲得したことで、各国の承認ムードが加速していった。そして、この年、中野がV2を飾った西独・ミュンヘン大会でデモンストレーションが行われた。
 エッシュは「1980年にモスクワ五輪があるためプロの世界選は別の国で行うことになる。公式ではないが、その大会で競輪競走を番組に取り入れる考えがある。そのためにも西独(ミュンヘン大会)での“デモ”は成功して欲しい」と述べていた。今でこそシドニー五輪から正式種目に採用され、世界選やワールドカップ、さらに国内のアマ大会でも「ケイリン」がメーンの扱いをされている。
 ただ、日本人では世界選で唯一、本田晴美が金メダルを獲得しただけで、外国人選手が圧倒の連続。パワーはテクニックを上回っているのが現状だ。中野浩一のV10は、中野のパワーが世界のワザを制したもので、中野だからこそ勝てたのだ。何を言いたいか、日本の自転車界は、メカニック以外のすべての分野において大きく遅れをとっているのに、誰も認めようとしないこと。寂しいものだ。

◆43◆平成19年8月21日(火曜)
 「まだ夢を見ているみたい」ーこんなフレーズで記念初優出、初優勝を飾ったのが石野美好だ。昭和53年8月18日の住之江競艇「第12回太閤賞」で、石野は5号艇にもかかわらず抜群のピット離れでインを奪い、そのまま逃げ切った。あまりにもあっけなく優勝して、石野も感激まで時間がかかったのだ。
 「朝に5号艇と知って、インしか考えてなかった。Fを1本持っていたし、まくられたら小回りすればいい」。気負いもなく、作戦にも迷わない。いわば“無欲”だったのだ。宿舎では先輩にコーヒーを入れたり、部屋の掃除、後片付けと、からだを休める暇もない。モーター「75号機」は前節に前嶋大が超抜に仕上げていた代物だから、あれこれ悩まないのも当然だ。
 一枚看板の野中和夫が2日目にL失格(出遅れ返還)で優勝戦線から早々に姿を消し、興味半減のシリーズを盛り上げたのはキャリア7年の石野だった。日本MB選手会の副会長・堀金文夫が手塩にかけて育てた石野。「この優勝は堀金さんが喜んでくれます」と、真っ先に恩師の名をあげたのも、うなずける。2年連続してファン選出で笹川賞に出場、この記念Vで鳳凰賞(浜名湖)への出場も決まり、前途が洋々と開けた。「太閤賞」の大阪勢の連続優勝も「4」と伸びた。
◆44◆平成19年8月23日(木曜)
 「水半分さえなければ…」と、悔やんでも悔やみきれなかったのが昭和53年8月24日の唐津競艇「第24回MB記念」優勝戦での島也茂だ。本番前のスタート練習から、激しいイン争奪戦が繰り広げられた。メンバーは@中村男也A村上一行B中道善博C松田慎司D吉田雅寿E島也茂の6人。村上以外はインへ色気をもっており、とにかく“ねじ込み合戦”の様相だった。
 本番で島也がトップでピットを離れても“優先権”はない。中村が、松田が、そして中道も島也に水しぶきを上げながら襲いかかった。この時、島也のボートには水がたっぷり入った。スタートまでスポンジで水を吸い出しても、半分が残った。おまけにインを中道ー中村ー松田が押さえ、島也は村上の外、5コース。大外は吉田。展開的にはイン争いをスタートで決着をつける村上向きだった。
 案の定、村上がコンマ10で一気に飛び出し、“瀬戸の若大将”が初のビッグウイナーに輝いた。が、島也はコンマ22ながら、村上のまくりを差した角度は抜群。2マークでも村上を脅かしたが、落ち着いて回った村上を捕らえられなかった。あと一歩の伸びが足りずに「もし水半分が残っていなかったら、村上君を差し切れていた」と、悔し涙を流した島也の顔が、今も思い浮かぶ。

◆45◆平成19年8月28日(火曜)
 「顔を見るのもイヤ」と中野浩一に言わしめた吉井秀仁が“人物もの”で初めて紙面に登場したのが昭和53年9月10日の西宮「第21回オールスター競輪」の連載記事。「売り出せヤング」のタイトルで、ちょうど青森記念を初優勝した直後だった。自宅へ取材の電話を入れると、お父さんに「青森から夜行で帰ってくるから朝に電話してほしい」と、4日の早朝7時に約束。吉井は帰宅しており、タイミングもばっちり。朝まで飲んでた甲斐? があった。「勝つ時って不思議ですね。記念の優勝戦で番手回りですよ。いつもなら逃げて使われるのがオチなのにね」。そう、青森の優勝は逃げる宮本孝雄の番手にすっぽり入り、余裕の記念初Vだったのだ。
 同期でライバルの山口健治の兄・国男が「おめでとう。健治に報告しとかなくっちゃ」と祝福された。すでに健治はビッグの決勝に進出するなど全国区。一歩遅れた吉井は、A1班返り咲きと同時に記念初V。1b68のからだはガッツのかたまり。窮地に立たされてもはねのける強い精神力。叩かれても巻き返し、逃げても簡単に崩れない。このカゲにはデビュー前から和夫さんと二人三脚の自動車誘導があった。オールスター競輪前もで和夫さんと一緒にパワーをアップ。「第1走目に全力投球です。着順は走ってみてからのこと」と“千葉の暴れん坊”は注目を集めた。結果は2443着の未勝利でも、闘志は十分伝わった。

◆46◆平成19年8月29日(水曜)
 39期でただ一人西宮競輪「第21回オールスター競輪」に出場したのが江嶋康光だ。尾崎雅彦、木村一利が同期のビッグ2。江嶋は第6位で卒業した。それでも西日本地区でのアピール度は江嶋が上回っていた。この昭和53年3月の松山記念(11H着)で優勝した中野浩一を引き出し、7月の小松島記念でも先陣を切って突っ走った。中、四国に九州地区のファンは、こんな江嶋に未知の魅力を感じ一票を投じた。
 「選ばれてとまどっています。右を見ても、左を見ても先輩ばかりでしょう。福岡が多い? でも、僕が一番下。話しの仲間に入れないですよ。負けてもともとだから、僕のすべてを出し尽くします」。堤昌彦に立石栄愛、良富は従兄弟、永田種昭は又従兄弟、池田森男は叔父と、競輪一族の一員だった。中野は練習仲間。強くなる環境は整いすぎていた。このオールスター(41落)では1勝をマーク。ファンの期待に応えた。
 「僕は中野さんと走って楽しかった。他の人は番手まくりをされて嫌がったけど、僕は世界の中野さんが目標にしてくれたのがうれしかった。番手まくりをされないように自分が力をつければいいんだから。弱いから番手まくりなんですよ」。江嶋は常々、中野の前で戦ったことを誇らしげに話していた。そう、雑草の強さが、大病や大怪我を乗り越えて不死鳥のように復活する江嶋の支柱だったのだ。
◆47◆平成19年9月1日(土曜)
 300走路から333走路へー西宮競輪は西宮球場内に特別に組み立てられた走路で開催していた。ルーレットバンクと呼ばれ、目まぐるしく周回を重ねるためにつけられた呼称だが、1周で33b延びたといっても特徴が変わるわけでもない。ただ、特別競走を開催するには8車立てでは面白くない。400や500のように、9車なら車券の妙味も増すというものだ。そこで、西宮も昭和53年に1周333bに変更され、スタンドからレースを見る角度も違うようになった。
 300走路では昭和41年に全国都道府県大会が行われ、高原永伍が正攻法から、そのまま3周以上も逃げて優勝を飾った逸話も残った。とにかく“逃げ屋天国”の走路だった。先行選手→マーク選手での1、2着を占める確率が高く、本命党のファンは大口投票で懐を暖かくしていたものだ。スタンドからは「よっしゃー、アメリカまで行って(逃げて)も交わらん(抜けん)」と、穴党ファンにはガックリなレースが多かった。
 そんな西宮で「第21回オールスター競輪」を開催だ。中野浩一を始め菅田順和、高橋健二、阿部良二、福島正幸、阿部道、藤巻昇、清志兄弟らスターが勢揃い。“逃げ屋天国”どころか、予想に反して“先行不利”な毎日だった。優勝したのも福島正幸のまくりに乗った天野康博だったし、逃げた中野浩一は3着に敗れていた。それでも、このオールスター競輪は1開催=78億2482万7700円、1日=24億8542億4500円、決勝戦1R=9億4970万4300円と売り上げの記録ずくめだった。決勝戦には3万4382人のファンがスタンドを埋めるなど、大賑わいだった。甲子園とともに廃止になったのは残念だ。 

◆48◆平成19年9月3日(月曜)
 風邪気味で参加して、欠場を申し入れながら優勝を飾ったのが古川朝男。昭和53年10月30〜11月1日の西宮競輪「サンスポ杯」争奪戦だった。初日に管理へ「体調が不十分です」と欠場を申し出たが却下。それが初日特選を2着、準決勝を3着で決勝入り。帰郷どころか「ここまで頑張ったんだから、もう一日、頑張る」と“欠場”を回避して臨んだ。同期・29期の山下文男が2連勝で本命を背負ったが、最終バックを3番手で回った古川が山下のまくりに併せてBSまくりを放って優勝を奪った。
 レース後に管理委員が「よう、帰らんでよかったなぁ」と声をかけると、古川は「迷惑をかけました」とペコリと頭を下げた。「今年は3回目の優勝です。これから巻き返します。今期はダメですが、もう一度、A級1班を目指します」と、風邪を忘れて元気に抱負を語った。選手は優勝が何よりの“良薬”なんだ、ね。逆に勢いに乗っていた山下は4着に敗れ「前を取れなかったのでアウト競りでとことん行くつもりやった。でも…。切り替えるべきやたかな…」と反省ばかりだった。
 この決勝戦の東日本勢の並びが、前受けの大木博(栃木)に古川(千葉)が付け、続いて庭野博文(新潟)ー鈴木操(神奈川)だった。関東や南関同士ではなく、勝負をする大木が前で、強い古川にラインができたのだった。今では考えられない“選手道”だ。

◆49◆平成19年9月6日(木曜)
 天野康博が優勝した西宮競輪「第21回オールスター競輪」(昭和53年9月21〜26日)で、開催期間中にサンスポでは落語家の桂春蝶さんと放送作家の池田幾三さんに紙面参加をしていただいた。春蝶さんは思い入れタイプで、池田さんは本命党でした。決勝戦の観戦記を春蝶さんにお願いした。落語と競輪の接点など、含蓄のあるものでした。その一部を抜粋してみます。
 「今まで競輪は脚力が80%を占めると思うてましたけど、こんな(天野の)優勝戦をみると頭と根性が必要やいうことがわかった。それにしても福島(正幸)はうまかったですなぁ。ここという勝負どころで自分の力を出し尽くせるんやから…。ほんまにベテランの味ですなぁ。キャリアの豊富さはどんな世界においても貴重なもんやとつくづく考えさせられました」
 「私らがお客さんを前にして、本ネタに入る段階が競輪では位置取りですな。いかに笑わせるような雰囲気をつくるかが落語の基本です。今までゴールだけが競輪やと決めつけていたのを改めなあきまへんわ」
 「中野(浩一)は負けたとはいえ、若いんやからなんぼでもチャンスはある。気を取り直して頑張ってほしいですわ。勝負の世界の厳しさをどんどん吸収して偉大なチャンピオンになってほしいです。無印の天野がタイトルを取ったことで、わずかでも救いになるんと違いますか」
 こんな具合に、春蝶さんはまとめていました。私が感じた答えは、選手が練習、経験を積んで個々の“味”を持つこと。それが魅力となってファンを引きつける。
◆50◆平成19年9月8日(土曜)
 世界の中野浩一に説教をした男がいる。中田毅彦だ。普段はラインを分けて戦うが、この日は“仲間”だった。昭和53年12月1日に日本競輪選手会主催の「歌謡フェスティバル」が大阪・中之島公会堂で行われた。東京では毎年開催されていたが、大阪では初めて。もちろん中野も中田も出演。自慢の喉をファンに披露した。終了後に中田は中野と連れだってミナミの繁華街へ出かけた。その道中のタクシーの中で、中野が「中田さん、競輪祭(初優勝)を取ってホッとした。からだ中から力が抜けて行くようですわ」と初タイトルの余韻を口にした。
 中田は「何を言うてるんや。そんな言葉を吐いたらあかん。僕だけならまだしも、他の選手の前で“ホッとした”なんて言葉をだしたらダメやで。弱みを作ったら負けや」と中野を諫めた。王者たるもの王者の誇りを持てーと中田は言いたかったのだ。
 実は、中田は中野が初優勝した競輪祭初日に、中野と同じレースで迷いながらマーク策を選択。山口国男と競りを挑んで、結果は共倒れの落車。この時「今、考えると逃げるのが一番やった。例え相手が中野でも、逃げれば中野にまくらせない自信もある。今まで中野の“幻影”に怯えていた」との反省があったのだ。だから、王者・中野に弱音や安堵の言葉は不要だ。中田は強い王者・中野に常に挑戦したくて“説教”した。その原稿は広島記念の特集記事の中で紹介した。

◆51◆平成19年9月14日(金曜)
 競艇の44期生を「飛び出せ若アユ」のタイトルで昭和54年4月2日から3連載した。この期は若人のボート熱が高まり、応募総数は1034人。ふるいにかけられて合格したのが25人の“狭き門”だ。エリート揃いのはずが、担当教官は「今期生は、もうひとつ“ヤル気”に欠けるように思う」と厳しい評価だった。
 終了レースで優勝したのが勝率7.77の佐々木輝雄。bPの評価を得た。優勝戦は2艇身も立ち遅れながら、俊敏なイン変わりで切り抜け、栄光のゴールをトップで通過した。「優勝はねらっていたからうれしい。今後は本栖の訓練を実戦の舞台でいかしたい。1着を取りたいが、それよりもファンに“アイツは何かする”といわえるようなレーサーになりたい」。丸3年のサラリーマン生活で、社会人の心構えを身につけた好青年だ。
 柾田敏行は異色レーサー。中央大学文学部哲学科を卒業後、中央競馬会の騎手を目指して見上厩舎に所属。ところが調教中に落馬、背骨を折って騎手生活を断念。目標をボートに切り替えた。「からだが硬くて騎手に向いてなかった。だけどスポーツで身をたてたかったのでボートレーサーを選んだ」と158a、51`の恵まれたからだをボートの世界にまかせたのだ。

◆52◆平成19年9月15日(土曜)
 競艇の44期生「飛び出せ若アユ」の2回目は各地区の主な選手の意気込み。そのなかで中部の土性弘行が勝率7.40を残し有望視されていた。「機械や電気をいじるのが好き。体重も落とせば44`になる。持ち味のまくりで戦いたい」と速攻型を夢見ていた。
 九州には優勝した佐々木輝雄を始め、木村栄二郎、田中博、正木勇輔、山崎毅、池田聡と好素材の選手が揃っていた。とくに修了レースでインからコンマ04のスタートで飛び出した木村は、佐々木のイン変わりに屈したが、果敢さは抜群だった。コック、タクシーの運転手を経験してプロ入り。「人生は意気である。熱情である。顧みての微笑みである」の名文句が信条だった。
 予選で5勝をマークした山崎は、アウトからの素早いスタートが武器。「僕からスタートを取ると何も残らない。ターンを勉強して、スタート勝負をかけます」。母親の反対を押し切って入ったプロの道。年が若い(19歳)が魅力だ。池田は「200回無事故完走と3年以内にA級」を心に決め「訓練中は一番になれなかったけど、日本一の選手になります」と力強くいった。田中博は「早くA級になること」、正木は「必ずA級になってみせる」と意気込んでいた。
◆53◆平成19年9月17日(月曜)
 競艇の44期生「飛び出せ若アユ」の最終回は大阪、中国、四国の選手を取り上げた。大阪は勝率5位の夏山博史と橋元等の2人。夏山は交野高校をを卒業後家事手伝いをしていたが、収入面の多さにあこがれて選手を志望。「大きな目標は持っていないが、常に努力を忘れないようにしたい」と目先の1勝より、地力強化をのぞんでいた。橋元は勝率2.24で最下位でも「今は悪いが、いつかは、きっとA級になってみせる。そして記念で走れる選手になりたい」。修了レースの予選最終戦で、アウトからまくりを決めたが惜しくも2着。それでも優勝したbP佐々木輝雄を4着に沈めるなど、思い切りのいいレースが印象に残った。「大どんでん返し」が好きな言葉だった。
 広島の中西照彦は瓦葺き職人を5年経験してからのプロ入り。「A級選手に一日も早くなること」と希望を抱いていた。田中寛、平子茂、義藤満則らはサラリーマン生活を経験した。平子は「本栖で養った根性を、これからの人生でいかしていきたい。目標は記念制覇です」と活躍を誓った。小林昌敏は徳山大学を4年で中退。「デビュー戦は、やっぱり勝ちたい」と話した。四国も“脱サラ”組ばかり。このなかで「鳳凰賞制覇が目標です。勝つことに最善を尽くす」とでっかい目標を掲げていたのが増田一豊だった。
 希望と夢がふくらむ“タマゴ”の取材は、いつも我々も初心に戻れたものだった。

◆54◆平成19年9月19日(水曜)
 “金一封”の賭けに発奮したのが上船俊一だ。「飛びフネ」とか「上シュン」とか呼ばれて、ファンに親しまれた選手。47`の軽量をいかしたスピード戦が魅力だった。昭和54年5月の「第6回笹川賞」に出場する上船が、54年前期の滑り出しにフライングを抱え、勝率も5.62で記念A級としては不本意な成績を残していた。その時、フライングの“臨訓”(愛知県・碧南訓練所)で一緒になった野中和夫と林通から「ウエさん、今期は5点を残せんのと違うか。6点アップやったら金一封や」と冷やかされた。これで、上船はハッと気がついた。
 「12秒針に変わったところでスタート勘もつかんでいなかった。ただ、ここで負けたら元も子もなくなると、必死にレースに臨んだのが良かった」。結果は勝率6.40まで伸ばし、大幅にアップ。「いまは“よう頑張れた”と思う。2人との賭けにも勝ったし、気分良く笹川賞を走れる」。第4回大会で優出、本命に支持されながらスタート遅れで大漁を逸した。この原稿は期待をこめて連載の4番目に取り上げた。
 エンジンは超の字がつくほど出ていても、上船の難点はスタートのバラツキだった。晩年に目の手術を受けて、大時計を見たときに「秒針の先は真っ直ぐと違って尖ってたんやなぁ」と気がついたらしい。それなら、スタートの勘が悪いのも納得? した次第。

◆55◆平成19年9月26日(水曜)
 “博多男”が面目躍如の初タイトル奪取! 昭和54年11月5日の福岡競艇「第26回競艇ダービー」優勝戦で、4コースに構えた八尋信夫が強烈なまくりを決めて、初めてタイトルを手に入れた。メンバーは@安岐真人A柴垣勲男B橋本博治C八尋信夫D岡本義則E北原友次の6人。悲願のダービー制覇へ、“ターンの魔術師”の異名を持つ岡本が1番人気を背負ったが、「福岡のコースは知り尽くしている。インでも、センターでも」の八尋は自信にあふれて水面に飛び出した。
 北原と安岐が激しいイン争い。3コースの岡本は「八尋君とは差がありすぎた」と劣勢。4コースの八尋は柴垣ー橋本を引き連れて、一気にスパート。北原をまくろうとする安岐を、さらに抑え込んで“ツケマイ”を敢行。これが鮮やかに決まった。
 視力不足で登録消除(一時的に選手登録の抹消)になったのが4月。更新したのは3度目の検査だった。3ヶ月のブランクから実戦復帰した7月。こんどは父親の死と、悲劇が続いた。が、このダービーには「弔い合戦のつもりで走った。福岡だけがチャンスですから」と気力を充実させて臨んでいたのだった。過去、福岡周年を3回優勝、ダービー優出も福岡ばかり2回と、八尋は、まさに“内弁慶”の典型だった。最後に「こんなうれしい優勝はない。選手になって本当によかった」としみじみ語った。