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【11】〜【25】我が野中和夫 |
【11】平成19年7月2日(月曜)
さあ、「笹川賞」の連覇へチャレンジだ。50年5月1日、愛知県・常滑競艇場で「第2回笹川賞」が始まった。下関・鳳凰賞をフライングで出場できなかった野中和夫にとって、意欲も、気合も十二分に入っていた。ただ、“断食道場”で精神、肉体ともに鍛え直して、実戦に復帰したが、結果は逆の目ばかり。先頭を走ればターンマークに接触、1着のケースがめぐってくると前の艇に衝突と、踏んだり蹴ったりのどん底状態が続いていた。勢いの後の反動と思いたくないが、野中は“焦り”も感じていた。いつもの攻めを控えて堅実に、と思ったのが、またも空転した。順当に予選をクリアして、準決勝に進出した舞台で悪夢が待っていた。インか、2コースか、ダッシュか、迷いながらピットを離れた。小沢成吉がインを目指して突進すると、野中は控えた。さらにスタートでも迷って、いつもの切れが無い。小沢と合わすようにレバーを握ったのが失敗。レバーさえ握っていれば、小沢を一気に引き離し、ぶっちぎりの圧勝の進入スタイルだったのに…。「最インさえ譲らなかったら…」と悔やんでも後の祭りだった。イン戦を手の内にいれていなかったのが、戦法の幅を縮めていた。アウト、センターからのダッシュ戦では無敵でも、肝心のところで墓穴を掘るのは情けない。真の王者は“自在の運び”が要求されるのだ。この時点で、野中は「イン屋」を決意した。さらなる進化を目指すためには、「笹川賞」での敗戦も貴重な良薬となった。
【12】平成19年7月3日(火曜)
いよいよイン屋・野中和夫の登場だ。従来は新人のうちはアウトを覚え、そしてインへ。この両極端な攻めを手の内に入れることによって、戦法も幅広くなる。いわば“一人前”への修行のひとつだ。昭和50年7月の蒲郡周年。「いままでのことはすっかり忘れる。一から出直しのつもりで、7月から攻勢をかける」と心に決め、大阪を出発した。気合が乗り移ったのか、連日、スムーズに運んだ。優勝戦は、もちろんイン奪取。しっかりと逃げ切り、8ヶ月半ぶりの優勝を手に入れた。「(優勝を飾るまで)難産やったけど、優勝できてほんとにうにうれしい。1コースの優勝は初めてやからね。これからもインで戦うメドがたった」と、好調時の生気がよみがえっていた。続く浜名湖周年は3番手から一気に浮上して記念を連取。徳山周年は優勝戦5着に敗れたものの、復活への道は開けた。勢いも戻って、真夏の祭典、住之江周年「太閤賞」で“インの鬼”を披露する。「太閤賞はインで戦う。絶対に1コースは渡せない。べったり座り込んで逃げ切りや。スタートの勘はつかんでるし、ここらで地元の記念を勝っておかんとね」と、イン一本の攻めを宣言したもの。野中の“イン仁王立ち”は8月の「太閤賞」で実現だ。
【13】平成19年7月4日(水曜)
「太閤賞」への前うち連載で野中和夫と彦坂郁雄を2日間、紹介した。野中の「イン宣言」に対して、彦坂は「私はインに固執するタイプではない。そのときのモーターの調子、具合によって戦法を変える。長い間走ってきて身についた私の走り方です。野中君もカベに突き当たって、ひとつの打開策としてイン戦に転換したのでしょう。カベというものは何回もやってくる。これで最高なんて満足感にひたれることはない。アウト、インをマスターして、それから自分の型ができてくる。いろんな意味も含めて、野中君の戦いぶりを注目したい」と、野中との対決を楽しみにしていた。
こうと決めればテコでも引かない野中。「オールイン」なんてありえないと言われれば、イン、それも1コースを占めるのが野中という男だ。有言実行。昭和50年8月16日に開幕した住之江周年「第9回太閤賞」。初日はドリーム戦。インにどっかりと腰をすえて、彦坂のスタート攻撃をがっちり受け止め、そのまま逃げ切った。スタンドは大いにわいた。下馬評の人気は彦坂だったが、私は迷わず野中に本命の印を打った。差してきた加藤峻二が2着に入り◎→×で的中。野中以上に、どうだと言わんばかりに胸を張ったものだ。インタビュー室で「これからもインを通すんですか」の質問が飛び出すと「サンスポさんに“イン宣言”と書いてるやないか。当然のこっちゃ」と、改めて強い口調で“インの鬼”を宣言した。ところが、このあと4日目に高価な勇み足が…。
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【14】平成19年7月5日(木曜)
デビューから198走目、野中和夫は初めてホームプール・住之江でフライングを犯した。昭和50年8月19日(20日付け)の住之江「太閤賞」4日目。準優勝戦への出場も決まっていた野中が6Rで、2コースの佃信雄とともにフライング。佃の仕掛けに負けじと握り込んだのが69pの勇み足につながった。過去、住之江での事故は44年3月25日と同年4月12日のエンスト、47年8月16日の反則失格の3回だけ。まして、この23日に決まる「第22回ダービー」の最終選考から除外される高価な代償だった。青ざめて戦列を離れる野中。ボートの中にからだをうずめ、二度、三度、四度…とファンに頭を下げた。しばしの放心状態から脱して、この日、2走目の10Rでは柴田稔の切り返しを封じ逃げ切った。そのとき、ファンから励ましの温かい声援が拍手となって野中の耳に、目に届いた。「申し訳ないことをした。選手になってから、こんなにガックリしたのは初めて。地元やし、気合をいれすぎた。10Rも住之江での出走だから、勝てたのかもしれない。ほんとうに迷惑をかけてしまった」。49年のビッグ3連覇から一転して味わう苦難の道。野中は「太閤賞」のあと、手負いのまま28日から下関の「モーターボート記念」で連覇に執念を結集する。
【15】平成19年7月6日(金曜)
野球の世界じゃあるまいし、2年目のジンクスなんて…。そう、野中和夫の昭和50年は、まさしく踏んだり蹴ったり。3冠奪取から一転して、無冠で終わろうとしている。ダービーはフライング欠場期間で、この夏の下関「第21回モーターボート記念」が連覇のラストチャンス。F持ちの手負いでも、きっちりベスト6に名を連ねた。メンバーは@八尋信夫A福永達夫B松田慎司C瀬戸康孝D野中和夫E北原友次。準決勝が終わって枠番抽選の行われる前に、地元記者から「下関の5号艇は優勝できないジンクスがあるんです」と聞かされていた。その直後に野中がガラガラを回すと黄色の玉がポロリ。「よっしゃ、ワシがジンクスを破ったる」と“執念V”を約束した。枠有利な北原だが、野中のピット離れは抜群。補助ブイを回ってスローダウンすると、北原がさらに前へ進んでデッドスロー。1分前にフトコロを開けた北原のワキに野中ー福永が割り込む。これで野中の逃げ切り態勢は整った。が、予測外のアクシデントが起こった。6コースからまくって出た八尋が、レース前の水上スキーで荒らされた海面のうねりに足をとられてキヤビッた。そこへ野中が接触してプロペラが折れ曲がり無念のエンスト。差した福永を、さらに2マークで差した北原が気持ちよさそうに周回を重ねる側で、野中はポツンと取り残されていた。「俺は寂しかった。スタートも目いっぱい張り込んだ。2本目(F)も覚悟やった。それなのに…」と、野中は勝負の世界の無情さをイヤと言うほど味わった。下関のジンクスにも打ちのめされ、50年の無冠が決まった。
【16】平成19年7月7日(土曜)
住之江で開催の「第22回ダービー」。夏の「太閤賞」で犯したフライングのため、野中和夫は出場権を失った。昭和49年の「笹川賞」「MB記念」「ダービー」の史上初のビッグ3連覇を飾り、この50年はダブル3連覇を目標に掲げていた。「笹川賞」は準優勝戦で敗れ、「MB記念」は1マークで無念のエンスト。そして「ダービー」は陸の上からの観戦だ。我が社の企画で、6日間とも「評論」をお願いしたところ、業界のお偉いさんから「ダメ」と却下された。今では当たり前の「評論」も、当時は頭がカチコチの業界だった。仕方なく、優勝戦の観戦記だけの登場となった。メンバーは@松尾泰宏A日吉昭博B林通C瀬戸康孝D大石泰久E常松拓支の6人。優勝したのはインを奪った林。「80で伏せて、もう握ったまま」の林が深インをものともせず、力強く逃げ切った。大会前に、林と村上一行、戸田千秋の3人が野中宅に泊まった。優勝戦の朝、和子夫人が「家に泊まった人が優勝しそう」と予言した。野中は「トオルはしんどいで」と家を出たそうだが、予言は的中だった。「トコまっちゃんは大阪が1人しか参加してなかったから辛かったと思う。だから是非とも優勝してほしかった。トオルはインがすべてやった。6号艇のトコまっちゃんはインに有利な枠やのにピット離れが悪すぎた。スタート練習で1コースやし、その時の出足も抜群やった。イン屋ばかりの戦いやから、やっぱり執念の差やったかな。そやけど、ボート選手は陸にいたらあかん。プロレーサーは戦うもので、見るもんではない」と、締めくくった。野中は「評論」という貴重な体験のなかから、昭和51年の巻き返しを誓っていた。
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【17】平成19年7月9日(月曜)
モンスターの誕生する記念の年だ。昭和51年、野中和夫のマグマが5月以降に大爆発する。元旦付けの紙面は「無冠はご免だ!」というタイトルで着物姿の一家を扱った。応接間、日本間にはトロフィーがズラリと並んでいた。3冠から無冠へ、天国と地獄を味わった49、50年。アウトの野中からインの野中への転身も果たした。51年の戦い方は「昨年の後半戦をイン一本で押し通した。いちおう満足のいく型はつくったと思う。ことしはエンジンの性能に合わせて戦える自在性を身につけることが先決。これがボートレースの理想の型やろね。インに変わってターンのスピードも落ちた。これも取り戻さんと」と、まずは自在の運びに重点を置いて“王道”を突き進む決意を固めた。そして「住之江で鳳凰賞(3月)、笹川賞(5月)と続くし、気持ちを引き締めてかかりたい。過酷な減量もしないし、常に50s前後を保持するようにつとめたい」と1年の計をたてて、「今年は特別を取る」と断言した。
【18】平成19年7月10日(火曜)
昭和51年の正月開催は住之江の「王将戦」。野中和夫は優勝こそ奪えなかったが112123113B着と順調に滑り出した。続く津で優勝するなど、3月21日からの住之江「第11回鳳凰賞」まで好リズムだった。“4冠(全冠)制覇”へ、野中は“鬼神”の勢いだ。「鳳凰賞」の初日から1着を並べ、6連勝で優勝戦に進出。特別レースでの完全優勝へ王手をかけた。出場メンバーは@井上利明A北原友次B常松拓支C渡辺義則D野中和夫E矢尾一豊の6人。ピット離れからスタンドがざわめいた。常松が遅れ、野中が補助ブイの手前でスローに落とすと北原がふところへ。さらに常松がインに踏み込むと北原が内へもぐりこむ。常松は30秒前に2コースを嫌って回り直す。予想外の進入は北原ー野中ー渡辺ー常松ー矢尾ー井上となった。大外を決めていた井上はタイトル奪取へ気合満々。持ち前のカミソリダッシュで栄冠を目指す。もちろん野中はスタートで先手を奪って“タイトルパーフェクト”の夢にアタックだ。壮絶なスタート合戦。アウトの井上が一気にまくると、野中も北原をまくる。が、野中がコンマ+01、井上がコンマ+10のフライング、冷静に立ち回った常松が2周BSで“棚ぼた”のビッグタイトル”を手にした。昨夏の「太閤賞」から、またもフライングに散った野中。やるせない気持ちでいっぱいだった。この優勝戦の売り上げ3億3千万円のうち約88%の2億7千万円が返還された。「残念ながらフライングで4つ目は取れなかったが、一生懸命やったのだから悔いはない。次の笹川賞(5月)で借りを返す」と悔しさを胸に秘め、「笹川賞」でのタイトル奪還へ気合を込めた。
【19】平成19年7月11日(水曜)
笹川賞男はどっち? 第1回の野中和夫、第2回の北原友次。ともに“2度目”をねらっての登場だ。前うちの特集記事は、当然、2人で埋め尽くされた。野中は「第1回は死にものぐるいで戦った。続けて地元でフライングをしたが、慎重にはならん。スタートを控えてころころ負けるわけにはいかん。今でもスタートには自信がある」と先手必勝の意気込み。さらに「ボートのフィンの位置が変わったけど、イン、センターどっちでもいける」と、3日間、39期の新人に混じって常松拓支らとの特訓で不安も抱いていない。一方、北原は「鳳凰賞で2人(野中和夫、井上利明)のフライングが分かっていたら、もっと手堅く走ったのに…。今度は鳳凰賞以上に頑張る。笹川賞の連覇がかかっているし、ぶざまなことはできない。タイトルは取れる時に取っておかないと疎遠になる」と野中に負けず強気だった。「鳳凰賞」で北原の強引なイン取りに、野中もペースを狂わせた。そのあげく、フライングと踏んだり蹴ったりだった。何度もビッグ舞台で対戦する北原は、野中にとってはイヤーな相手だ。果たして、優勝戦は両雄の対決となるのかー。
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【20】平成19年7月12日(木曜)
きっちりと野中和夫は住之江競艇「第3回笹川賞」の優勝戦(昭和51年5月6日)に乗ってきた。北原友次はエンスト失格に泣き、連覇の夢は潰えていた。準決勝で松尾泰宏の機敏な差しに敗れた野中だが、インタビューでは「おそらく、いままで手にしたモーターのなかでこれだけの足はなかった。取る自信を持って走る。自在にね」と“優勝宣言”まで飛び出した。こんな強気な発言は初めて。初日から111112着の成績。逃げ、まくり、抜きと、運びも自在。エンジンの威力も申し分ない。メンバーは@林通A横山候祝B野中和夫C野村素弘D松尾泰宏E花田稔の6人。選手生活18年の花田が「インしか考えていない」と、林や横山を制してイン奪取の構え。4コースに松尾、野中は5コースからの発進。スタートの遅れた野中。まず先手はまくり差しの松尾。野中もエンジンに任せて2番差しで松尾を追っかけ、2マークは野村を先に回らせて差し。「ここのさばきが勝因。モーターに力があったから冷静に回れた」と野中。松尾は「野中はツケマイで来る」と予測して大きくターンしたが、差しにチェンジしていた野中が誤算だった。野中の敵は松尾だけ。松尾も百戦錬磨の巧者だが、“鬼足”野中は2周1マークで松尾の内へ切り込み、BSでは一気に抜き去った。「優勝すると公言して、その通りになって、これ以上、うれしいことはない。コース取りは初めからアウトに決めていた」と有言実行のVに、詰めかけたファンともども満足感を味わった。昨夏のMB記念優勝戦でエンスト、3月鳳凰賞優勝戦でフライング、不運に泣いた50年度だが、51年度は49年と同じく「笹川賞」を手に入れ、再スパークの予感が漂った。モンスター誕生の第一歩だった。
【21】平成19年7月13日(金曜)
「笹川賞」を取って、気づくことがあった。この年、昭和51年に入って、野中和夫はファンが期待すれば期待するほど、勝ちにこだわっていた。1月から4月30日までの4ヶ月間で、10場所、78走1着51回、2着8回、3着6回、4着4回、5着5回、6着3回、F1回のすごさ。1着率は65%に達していた。新期第1戦の「笹川賞」を優勝の後、大村周年でも55311111@着で優勝を手に入れてきた。序盤の不調を、後半戦はピン(1着)ラッシュで終えた。
そして気分良く3月「鳳凰賞」で犯したフライング休みに入った。「ちょうど休みになって良かった。一息、入れられて、気分も変わったから」と、久々にゆったりと過ごす日々が続いた。といっても、家にじっとしているわけではない。ゴルフにサウナ、大阪・ミナミで開いた「ブッチー」にも顔をだす。それが、また凝っている。店員よりも早く店に出て、付きだしを用意するのだ。家で作ってくることもあれば、思いつく限り、あれこれ料理をする。カウンターの中でうっとうしがられても、我が店なら大きな顔だ。そのころ乗っていた愛車は真っ白のリンカーンコンチネンタル。ゆったりとした車内に、揺れのすくない乗り心地。店にある白のグランドピアノといい、野中は“白星”が大好きだった。この1ヶ月の休みが、とてつもない大記録へ挑戦するための予兆、そう英気を養っていたのだ。
【22】平成19年7月14日(土曜)
野中和夫がハッスルする材料は、こんなところにもあった。昭和50年に東京・三田の「笹川記念会館」が開館され、この年に「優秀選手表彰規定」ができて、選手の表彰制度が始まった。もちろん対象は「51年度」だ。新設の「笹川賞」からブレークした野中にとっては、新たな歴史の1ページを飾りたかったのだ。50年が対象なら、無冠の野中はトップにはなれなかった。
1ヶ月のF休みが明けると、まず宮島(6月19〜22日)の一般戦を5連勝のパーフェクトV。この宮島はデビュー間もない頃、パーフェクト優勝をねらいながら転覆失格に泣いた苦い経験もあった。続く蒲郡周年(7月1〜6日)を1415111@着でもぎとり、大村の4走目から数えて“12連勝”もマーク。さらに住之江(7月8〜13日)の一般戦を1113211111@着で、笹川賞、大村周年を含め5連続Vを達成した。5走目の2着はランナバウト(軽ラン競走)のレース。住之江ではハイドロの他に1日に2レース、ランナ競走が組まれていた。本来は軽量の選手は苦手とされていたが、野中は「入着率は100%や」と自信も持っていた。彦坂郁雄の6連続Vに並ぶシリーズはびわこ(7月15〜17日)だった。一時は石黒広行に先手を奪われながら、強烈なターンワークで逆転、なんと5連勝のパーフェクトVで6連続Vに花を添えた。復帰後は走り詰めの野中だが「選手は走ってなんぼ。やり甲斐があるがな」と戦い続けた。
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【23】平成19年7月16日(月曜)
史上初の“7連続優勝”を目指して、野中和夫は浜名湖周年(7月21〜26日)に向かった。住之江の後半から続いている連勝記録もかかっていた。成績は1121131A着で、優勝を逸したが、それでも“13連勝”をマークした。休む間もなく徳山周年(7月29〜8月3日)に転戦だ。なんと7月は5場所走ったことになる。徳山は得意なコース、1311211@着であっさり優勝を飾った。浜名湖も1マークできっちりターンをすれば勝機も十分だった。
とてつもない連続Vの記録も達成できていたが、野中はこだわらなかった。勝ち負けは時の運。勝ち続けるというのはありえない話し。連続優勝が途絶えても、常に新たな挑戦が野中の身上だ。直後の、徳山を制して、この期は7V。すべての優勝戦に名を連ねるなど、快走、快走の連続だ。49年と同様にビッグ3連覇の可能性も高くなってきた。
8月は桐生の「第22回モーターボート記念(MB記念)」に出場した。結果は142122B着で、優勝は同期の友・渡辺義則が奪った。この時点でも、まだモンスターと騒がれることはなかったが、徐々に野中の“怪物ぶり”が選手間でも驚異の的になり始めていた。野中も桐生・MB記念の後、考えが“記録への挑戦”に変わってきた。それもプロスポーツ界を視野にいれての、でっかい記録に向かって、だ。
【24】平成19年7月17日(火曜)
勢いに加速がついた。昭和51年の夏、野中和夫はジンクスさえ蹴散らす“力”が身についた。桐生「MB記念」を終わって10日後、下関競艇の「施設改善記念」に乗り込んだ。昨夏の「MB記念」で「5号艇の優勝は無い」のジンクスに挑んだが、1マークで無念のエンスト。それも野中自身は、過去を含め下関・優勝戦でF、F、Eと完走できないジンクスまで作られてしまった。
常に全力投球の野中、口では「関係ない」と強がっていても、相性の悪いところはきっちりと頭の中にインプットしている。初日から11131513着で優勝戦に臨み、がっちりと優勝を奪取した。モンスターの前に、ジンクスさえ吹っ飛んでしまったのだ。
続く児島一般戦を211@着、常滑周年3112111@着、福岡周年1131313@着と、優勝のオンパレード。もう手が付けられないほど猛威をふるった。モンスターどころかインベーダーとさえ呼ばれるようになっていた。ここまで期間Vは11回、勝率も限りなく10点に近い。それに賞金も4千万円に手が届いた。ボート界の記録ラッシュはもちろんだが、プロスポーツ界のトップ稼ぎだった巨人軍・王貞治(現ソフトバンク監督)の年俸5600万円を抜くことも可能になってきた。ボート界のイメージアップのためにも、野中は“挑戦”を肝に銘じた。残された「ダービー」(蒲郡)で勝つことが、絶対不可欠となった。
【25】平成19年7月18日(水曜)
モンスター伝説が始まる。昭和51年10月12日、蒲郡競艇場で開催の「第23回全日本モーターボート選手権競走(ダービー)」は優勝戦の舞台を迎えた。野中和夫は一本かぶりの本命人気を背負った。初日から121111着の内容なら、当然、ファンも「勝つのは野中」と決めてかかっていた。
メンバーは@岡本義則A一色肇B野中和夫C岩口昭三D松野寛E北原友次の6人。インが有利な蒲郡。ピット離れから2マークブイへ先着した岡本をこえて北原、さらに松野も続く、激しいイン争奪戦。20秒前に野中ー岩口がアウトへ逃げた。北原ー松野ー岡本は補助ブイを通り過ぎる位置。とてもダッシュがつかない。4コースに一色。
無風の水面を、“イン激化”を素早く読んだ野中がコンマ13のトップSで豪快に発進。内の4艇は止まっているような隊形だ。1マークでは1艇身以上も抜け出し、勝利を確信した。常識破りの好きな野中、インに見向きもせず、胸のすく“まくり”で制した。だからファンもスカッと爽やかレースの野中信者が激増したのだ。通算5度目の特別タイトル、期間12Vで、この年通算14回目の優勝。うち特別を含めた記念優勝は8回。獲得賞金も初めて大台を突破して5千84万3450円に達した。「スタート練習でコースはアウト回りと作戦は立てた。スタートと同時に勝ったと思った。フライングは無いと信じていた」と勝利インタビューでも、落ち着いたもの。3周目のスタンド前では得意のローリングで勝利の雄叫びをあげ、ゴール手前では右手を二度、三度と突き上げる余裕もあった。まずは勝利の報告だが、まだまだ“蒲郡伝説”は続く。
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