【46】〜【60】我が中野浩一
【46】平成19年8月11日(土曜)
 1980年世界選手権のフランス・ブザンソン大会で中野浩一はプロ・スクラッチで戦後タイの4連覇を達成した。事実上の決勝戦と地元紙も盛り上げた準決勝では、ダニエル・モレロンと激闘を展開した。1本目はモレロンのワザを寄せ付けずに、パワー先行で逃げ切った(11秒42)。この会心の勝利に「やったぜ!」の言葉が飛び出した。「モレロンは神様みたいな人。3本目まで持ち込んでも…」と心に余裕が生まれた。2本目はモレロンを誘い込むように緩急を混ぜながら、機を逸せずに逃げて11秒69であっけなくストレート勝ち。
 スタンドからの歓声は中野への称賛だ。モレロンも握手をもとめた。「ありがとうございました」と中野は日本語で応えた。モレロンが教えたスクラッチのワザに、中野は前、前と踏むパワーをミックスさせて“中野型”を完成させたのだ。モレロンは「中野は実に素晴らしい選手だ。テクニックもある。あと4、5年はチャンピオンとして君臨するだろう」と絶賛した。この言葉を聞いた中野は「師匠にそう言われてやっと一人前になったと思う」とモレロンに頭を下げた。
 決勝は尾崎雅彦がG・トリニーを2−0で破り、ベネズエラ大会以来の、日本人同士で金・銀を争うことになった。尾崎が果敢にアタックしたが、中野が2本とも追い込み勝ちで圧勝。V4を飾った。

【47】平成19年8月13日(月曜)
 初めての海外取材。感動の一瞬は「やったぜ!」の書き出しで始まった。選手団が中野浩一の祝勝会で大騒ぎしている時、静かにホテルの自室で中野のヒーロー原稿を仕上げていた。時差は夏時間で6時間、まだ現地では夕刻。日本での締め切り時間には間に合った。
 そのなかで、どうしても欠かせなかったのが「自分の力がある限りスクラッチを走る。競輪ファンだけでなく、一般の人も競輪の中野を知ってくれるでしょう」の言葉と、「これからは王さんやモレロンのように、いつまでも慕われる選手になりたい」だった。競輪のイメージアップには、“世界の中野”が、どうしても必要なのだ。約4万人の観衆に屈託のない笑顔をふりまいた中野の華やかさ。茶の間に似合う笑顔だった。
 祝勝会は延々と続いていた。ホテルのワインの樽が次から次とカラになっていく。中野と同じくメカニシャンの長沢義明さんも喜びにひたっていた。私も加わり、帰路につく荷物もまとめずに飲み明かした。翌日はブザンソンからパリまでの6時間ほど、3人ともワインの飲み過ぎから二日酔いでバスの中で眠ったままだった。それでもパリに着くとシャキッとして夜の街へ。V4の中野の顔は、サインを求められるなど一夜で知れ渡っていた。

【48】平成19年8月14日(火曜)
 GパンにTシャツ姿でパリの街を歩く中野浩一。パリでの2泊3日の“休暇”。一見しても、世界のプロ・スクラッチV4チャンピオンだとは分からないはずだが、昼のパリでは行きかう人から握手を求められた。「いやぁ、びっくりしましたね。パリの街の真ん中ですよ。すごくうれしい」。パンと張った腰、太い脚、いくら異国でも、メジャーな自転車競技なら「ナカノ」を知っていて当然か。シャンゼリゼ通りでショッピングを楽しみながら、ゆったりした気分で歩く中野は、久々の開放感にひたっていた。昼食もマクドナルドでハンバーガーとコーラ。「日本の方が美味いや」といいながらも、パクリ、パクリ。日本に帰ってからの“大事”を前に、たっぷりと心身をリフレッシュさせた。
 ベネズエラ大会でモレロンに教わったスクラッチのノウハウ。「走路を2周するスクラッチ競技のなかには、自転車競技のエッセンスがすべて含まれている。相手に対する観察眼、動きに際しての瞬間的な判断力に反射神経、駆け引きのなかでの狡猾(こうかつ)さ、そしてマシーンとの一体感に技術も重大だ」。モレロンのスクラッチ哲学を、ただ聞いても、解釈するのは中野自身。自転車に乗って2年目でも、モレロンの教えは少しずつ身についていった。だから競輪でも苦しみながら、練習と実績を積み、この昭和55年、大輪の花を咲かせるのだ。

【49】平成19年8月16日(木曜)
 V4の凱旋帰国には、成田空港でもフラッシュの放列が止まない。明らかに過去3年とは違った。報道陣だけではない。ファンも多く、送迎の一般の人も、時の人・中野浩一を見ようと集まっていた。昭和55年9月12日は、目立ちたがり屋の中野が、大いに光り輝いた。
 翌日は午前7時からNHKテレビのニュースワイドに出演、翌14日は西宮競輪場で10R終了後に尾崎雅彦とエキジビションマッチ。15日は小川宏モーニングショーに出演と、故郷の久留米に戻ったのは15日だった。
 「帰ってからも忙しいけど、けっこう手際よくこなしましたね。練習を終えてから飛行機で東京に行って取材を1、2社こなして、翌日は朝から3〜4社を駆け足ですませて、夕方には久留米へもどって、練習をしているとか、ね」。
 東奔西走でも、中野は苦にならないタイプ。筋肉にしても、ちょっとした運動ですぐによみがえるのだ。高校時代に陸上競技で培ったジョギングや片足跳びなどが、効果的なのを知っていた。忙しくても、中野には練習不足はハンデとはならないのだ。25日からの平競輪「第23回オールスター競輪」へ向けて、世界選モードから競輪モードへ、切り替えも万全だ。

【50】平成19年8月17日(金曜)
 夢の1億円へグッと近づいたのが昭和55年9月30日の平競輪「第23回オールスター競輪」の決勝戦。世界選V4で、全国的に中野浩一の名前は知れ渡った。こうなると、中野は調子の波に乗っていく。決勝戦には@中野浩一A高橋健二B谷津田陽一C増子政明D大和孝義E高橋美行F菅田順和G井上馨H井上茂徳の9人が乗った。
 初めてビッグの決勝を経験する井上茂が「任せてください」と中野の牽引車役を買って出た。後にも先にも、ライン競走以外では、中野が井上茂に前を任せたのは、このレースが一度だけだと記憶している。ところが前受けの井上茂が増子を入れると、今度は菅田ー谷津田が鐘の4角カマシで増子を叩き切ると井上茂は内で対処できない。そこを井上馨がまくり上げ、さらに高橋権ー美行が2角まくりを放つ。ここで中野がプロ・スクラッチV4の切れを披露。高橋兄弟を分断して健二を追っかけ、ゴール前で鋭く抜いた。昨年の岸和田に続いてオールスター競輪を連覇だ。
 「どこで抜け出そうかと余裕はあった。美行君をどかしたときは2着かな、と思ったけど自分でもびっくりすぎるぐらい伸びた」。明らかにモレロンに教わったスクラッチの応用だ。井上茂に任せながらも、どう対処するか、中野はしっかりと流れを把握していたのだ。これで賞金も7364万4900円に達した。後は競輪祭を勝って、プロで初めての“1億円レーサー”にチャレンジだ。

【51】平成19年8月20日(月曜)
 オールスター競輪の後も京王閣記念42A着、熊本記念12@着、豊橋記念11@着、花月園記念41A着と快走の中野浩一。“1億円”へのアタックを決定づけるには「第22回競輪祭」の優勝が不可欠だが、コンスタントに賞金を上積みしていた。例え競輪祭で2着に敗れても、可能性を残すためだ。
 ところが競輪祭を目前にして、アクシデントが起こった。昭和55年11月18日の練習中に落車、救急車で病院に運ばれたのだ。頭、肩や脚などの打撲、擦過傷だけだったのが、不幸中の幸いだ。それでも「夜中に痛み出したけど、母さんが徹夜で看病してくれて、良くなった」と、前検日(19日)には、包帯姿の痛々しさだ。しかし、初日の「ダイヤモンドレース」で11秒5の必殺パンチで快勝だ。観戦中の選手から「ケガは三味線だよ」と恐怖心を与えたのは、中野にプラスだった。
 決勝戦は江嶋康光を全面信頼。前橋ダービーで吉井に与えた江嶋の番手、今度は離さない。2角から菅田順和がまくってくると、合わせるように番手まくり。「江嶋がねぇ、ジャンから行ってくれたんだもの。菅田さんが見えるまで行けないですよ」。それも菅田がわずかに前へ出かけると、中野は右ヒジで菅田をブロック、あとはスクラッチのテクニックで、4つ目の特別タイトルを獲得。総賞金も9833万8600円となって、12月6日からの松戸記念で“夢の1億円”に挑戦だ。

【52】平成19年8月21日(火曜)
 「第22回競輪祭」で優勝した中野浩一はヒーローインタビューでも多弁だった。「いつも世界選と同時に調子が上がってくる。だからオールスター競輪と競輪祭は成績がいい。でも、来年はダービーか高松宮杯のどちらかに照準をあてる。それより、まだ大きな仕事(1億円達成)が残っています。松戸で決勝に乗れば届きますよ。この点の計算は(落車で)頭を打っていても早いですよ」。あと166万1400円となって、東京のスポーツ紙は中野の特集記事に紙面を割いた。
 松戸競輪場でのメモリアルレースに向けて、ありとあらゆる角度から中野を分析。その中には愛車は西ドイツ製BMWとか腕時計は200万円のローレックスとか、さらに「お金持ってても仕方ないし、将来のために稼ぎの大半は不動産にしているよ」と昭和53年に久留米市内に5千万円をかけてマイホームを建て、54年には同市内に7、8千万円で土地を購入、そこに5階建てのマンションを建設中とか。とにかく中野は“丸裸”になっていた。
 「1億円達成は、やってみたかった。でも札束を積まれるわけではないので、ピンとこない。数字が並んでるだけですよ。賞金を目当てに走っているわけではないし、一生懸命に戦った結果がお金につながるんです」。いよいよ競輪の歴史が変わる。

【53】平成19年8月22日(水曜)
 昭和55年12月8日、松戸競輪「開設30周年記念」の決勝戦は空前の盛り上がりだ。準決勝の日は2万3千余人、決勝戦には3万を超すファンが押し寄せた。準決勝では3コーナーの落車に巻き込まれそうになったが、金網の側まで自転車を持ち出し、そのまま軽業師のように大外を駆け抜けた。スタンドの熱狂ぶりに「落車を避けて拍手をもらったのは初めて。テクニックじゃなくて、運があったんです。決勝はまっすぐに走りたい」と、ホッとしていた。
 決勝戦前から、報道陣はテレビだけでなく、雑誌も含め増え続けるばかり。女性週刊誌までもが取材申し込みだ。報道関係者は120人。カメラマンは40人と、まさしく“1億円フィーバー”の決勝だ。ウオーミングアップの最中から「(報道陣の多さに)ギョッとしましたよ。でも緊張感はなかったけど、2着や3着では格好がつかないので、優勝はしたかった」と周囲の“狂想曲”を楽しんでいる風だった。それでも朝はいつもよりも早く7時に起きるし、朝食も味噌汁にちょっと箸をつけただけで、昼も小さな茶わん1杯と、やはり普段とは違った。
 メンバーは関東8人で、中野はひとり。誰も味方がいない。いくら強い中野でも、単独で逃げるわけにもいかない。あれや、これやと勝つための作戦に悩んでいたのだ。1対8のスクラッチと思えば、世界選V4の中野には死角はないのだが… 

【54】平成19年8月24日(金曜)
 “1億円”への号砲が鳴った。敵は8人でも、中野浩一には人脈があった。期が近い鈴木正彦や服部雅春、塚本昭司らは結婚式nに招待されるなど、親交があった。それに実力者・谷津田陽一は中野マークを決め込んでいた。
 中野は「考えた結果、スタート勝負」と決めた。ポンと飛び出し、前受けにパターンを整えた。最終的に逃げたのが鈴木。マークの山口国男に対し、中野はイン粘りで軽くあしらい、3角から番手まくりで“1億”のゴールを駆け抜けた。昭和55年12月8日、公営競技史上初めて“1億円レーサー”の誕生だ。
 右手を挙げる独特のガッツポーズ。スタンドから3万人のファンから「よくやった、いいぞ、中野!」と大合唱だ。優勝賞金335万1200円を含めて1億263万3400円になった。
 「ホッとしたというのが、今の実感です。自分では1億円を稼いだ気はしないのだけど、これはひとつ、ひとつの積み重ねですからね」と、いたってクールに答えた。表彰式でも鳴りやまない拍手。ゴールの瞬間に金網を乗り越えて飛び出したファンが「オレ、うれしいよ。夢だよ。中野、オレの夢だよ」と、スーパースターに涙声で熱い言葉をなげかけていた。
 「これからもよけいに負けられなくなった。勝てばそれだけ責任が重くなる。だけど業界の発展には全力を尽くすし、勝つことも使命と考えている。早くプロスポーツとしての競輪を認めてほしい」と“競輪界の看板”に徹する覚悟を決めた。

【55】平成19年8月27日(月曜)
 中野浩一の“1億円”は他のプロ競技にも大きな影響を与えた。とりわけ少年に夢を与えるプロ野球だ。このオフ、昭和56年の年俸が決まったが、トップは山本浩二(広島)の推定5200万円。ゴルフの青木功は6053万円、大相撲の北の湖は2543万円だった。
 プロ野球で1億円に到達したのは中野に遅れること7年、昭和62年にロッテから中日へ移籍した落合博満、西武・東尾修が手にした。以後はプロ野球がFAとか複数年契約に年俸も高騰、逆に競輪界は売り上げが下降線をたどり平均所得は減少していった。
 「お金で競輪が注目されるのもいいでしょう。世界選でも頑張って、両方で競輪を覚えてもらいたいものです。これが僕に課された役割ですよ」
 一夜明けた昭和55年12月9日は午前7時半からNHKテレビで録画撮り、8時からフジ=関西テレビの「小川宏ショー」に生出演のほか、雑誌などの取材で大忙し。「今はゆっくり休みたいけど、年内の仕事が残ってますから。ファンも期待してくれてるだろうし、練習もできる範囲でしっかりします」。13日からは地元・久留米での凱旋レース、25日からは奈良と、2つの記念を残しているが、最後まで全力投球の気構えだ。

【56】平成19年8月28日(火曜)
 世界選V4に1億円ー中野浩一はスーパースターの仲間入りだ。昭和55年12月、松戸での“1億円フィーバー”の後は、地元・久留米での記念競輪。いくら取材とかで忙しくても、負けるわけにはいかない。ファンに対する答えは“勝つ”ことなのだ。
 「世界選の後も満足な練習はできていないけど、世界選へ行く前の合宿で脚に“貯金”は残ってます」。ダッシュ力は天性のもの。まくりに回れば、アクシデントがないかぎり、スピードの違いで抜け出せるのだ。久留米は連日の大入り。中野の勢いも止まらない。3連勝で、しっかりと人気に応えた。
 そして奈良記念(25〜27日)の決勝も阿部良二の先行を最終2角、3番手からまくって完全Vで締めくくった。この年の優勝は15回(特別2、記念12、TR1)、獲得賞金1億1141万600円となった。奈良の決勝戦の売り上げ1億3976万1000円は新記録だった。
 「数字を見ると1着ばかりだけど、僕にとっては苦しかったんですよ。練習の裏付けがなかったからね。今は、もう休みたい。最後も優勝だし満足のいく1年でした。これで不満足と言えば笑われますよ」。歴史に残る1年は、中野の高笑いで終わった。

【57】平成19年8月29日(水曜)
 初めて“オフ”を経験した。昭和56年の1月、中野浩一は正月をゆったりと過ごした。といっても、いきなり“広告塔”の仕事は1月2日に入っていた。立川競輪場で歌手の西城秀樹と“脚比べ”のテレビ企画。中野はすでに“芸能人”の扱いだ。久留米→東京→大阪、また、その逆と、オフでも活動状況はたっぷり。そんななかで、一年の計も立てた。
 「できれば昨年以上の成績を残すこと。それとダービー(3月千葉)か高松宮杯(6月びわこ)を取りたい。通算300勝(現時点で272勝)も早めに達成したい。賞金は、その後からついてくるでしょう」。もちろん、世界選のV5達成は当然のノルマだ。
 まだある。昭和55年は6月以降の15場所で、すべての特別、記念戦の決勝戦に進出して、成績は優勝12回、2着3回とオール連絡み。こんな選手は過去にいただろうか。さらに連続決勝入りも約1年半、37場所も続いている。どこまで続くか、中野は常に目立つ舞台(決勝戦)への出場を肝に銘じて戦っており、アクシデントが無い限り、夢をつなぐはずだ。
 「いつも1着を目指して走っているし、結果が2着でも悔しい。でも、まず決勝に乗らないことには、認めてもらえないでしょう」。“完全オフ”は12日まで。13日からは本業へ向けてペダルを踏む。矢村正のいる熊本へも休養を兼ねて練習にでかけ、2月の再始動に備えた。

【58】平成19年8月31日(金曜)
 昭和56年の“走り初め”は西宮競輪のダービーTR1回戦。事前の電話取材では「すっかり自転車のことは忘れてた」と、とぼけていたが、そんな不安は走ると一掃だ。1走目は弘光勝也を迎え入れて番手まくり。2走目は3番手から2角一気まくり。決勝も亀川修一、片岡克己のヤングをあしらって優勝、暮れからの連勝を「11」とした。続く千葉競輪のダービーTR2回戦は11B着。決勝戦は前輪のスポークが折損するなど不運な事故入着だった。
 2月19日にはテレビのドラマ「小さな追跡者」に出演(録画撮り)。そして3月21日に発売する「花が散る前に」のレコーディングなど、相変わらずの“オイソガ氏”ぶりだ。レコードは意味深なタイトルだが、千葉で連勝が途切れたあとも松山記念11@着、佐世保記念11@着と6連勝で記念連取。まず第一の目標、「第34回ダービー」(千葉競輪)の制覇へ向けて順調に歩んできた。
 「成績の通り悪いです。普通なら1着は“優勝にとっておく”と言うのですが…。とにかく前、前に攻める」と、千葉ダービーの決勝戦に進出したものの、252着と未勝利のまま。やはり急ごしらえの練習で、疲れが残っていたのか。オールスター競輪→競輪祭に続いて特別3連覇へのチャレンジ権は手にした。

【59】平成19年9月2日(日曜)
 ダービーに5度目のチャレンジで、中野浩一は念願の“日本一”に輝いた。昭和56年3月24日、千葉競輪「第34回競輪ダービー」の決勝戦が行われた。初日から未勝利の中野を全面的に信頼した恩田康司が影の功労者だ。準決勝を終えて、山口健治が「中野さんマーク」を表明していたが、恩田も「山口さん? いや、中野さんに…」ときっぱり中野マークへ名乗り。
本来なら恩田は山口の後ろだが、恩田は山口に「一生に一度の勝負をさせてください。中野さんの後ろで勝負をしたいんです」と訴えた。この熱意に、山口は「がんばれよ」とエールを送った。だから、中野が後方になっても恩田は裏切らなかった。
 スタートで飛び出した恩田が中野を迎え入れ、山口が3番手。高橋健二ー久保千代志を中野が前に入れ、菅田順和ー岩崎誠一との先陣争いを演出。打鐘で先手奪った菅田の後で岩崎が高橋健を妨害(高橋健は落車再乗、岩崎失格)。この後ろへ切り替えた山口と久保で競り中野は理想の4番手をキープ。そしてバックから豪快にまくって、恩田とワンツーを決めた。中野は昭和27年の高倉登以来、史上二人目の特別3連覇をあっさり達成した。

【60】平成19年9月4日(火曜)
 ベネズエラでプロ・スクラッチの世界チャンピオンになって、凱旋レースが千葉でのオールスター競輪だった。“世界一の脚”は金色に輝かず、中野浩一は5675着で悔し涙を流した。そんな屈辱から3年半、同じ千葉競輪場で「第34回ダービー」を手にして、溜飲を下げた。
 「今回の調子は、もうひと息だった。(優勝が)取れると思わなかった。作戦は何も考えず、成り行き任せでした。こんなに、うまく行くなんて、できすぎですよ。最後まで恩田君(康司)が信頼して付いてくれてたのも勝因です」
 ダービーの優勝で特別Vはオールスター競輪、競輪祭の各2回を含め5つ。当面の目標は昭和56年6月4日からの「高松宮杯」(びわこ)で、史上3人目(過去、石田雄彦と平間正記が達成)の4大特別制覇にチャレンジだ。それも4連覇は史上初のこと
 「一戦、一戦、全力投球をして、ファンのみなさんに喜んでもらえるようにしたいです」。昭和51年に初挑戦した「高松宮杯」から相性が悪いびわこ競輪場。苦手な千葉でダービー制覇なら、勢いに乗って、びわこも攻略できるのか。