56〜69ちょっとした思い出
◆56◆平成19年9月28日(金曜)
 競輪祭で初のタイトルを手にした吉井秀仁が、明けて昭和55年も快進撃だ。正月の千葉11B着は内に包まれたところを佐藤秀信にカマされる不本意な展開で敗れたが、続く1月12日の和歌山競輪・開設30周年記念「和歌山グランプリ」前節決勝戦で4番手から強烈な2角まくりを放って“初笑い”。
 前攻めに出た吉井ー山口健治ー荒川秀之助ー渋谷晃一に対して、記念初優出で燃える尾池孝介が赤板前から抑えて行くと、打鐘前からの早駆け先行でアタック。吉井は慌てず車を下げて4番手をキープすると、渡辺孝夫の番手まくりをさらにまくりきる豪快さ。2,3着にも山口(3着)、荒川(2着)を連れ込んだ。
 「いやぁ、めぐまれちゃったなぁ。4番手だからね」と笑いながら、「今回はスカッとした。記念だもんね。このあとトライアルに備えてみっちり踏み込みますよ」と、新たな目標に向かって猛練習を約束した。現在、20場所続けて優出中。この間、競輪王を含め7回の優勝。中野浩一も連続優出を続けているが、吉井もひけをとらない。3月のダービー(前橋)では“日本一盗り”への楽しみを抱かす和歌山シリーズだった。この吉井の勢いは止まらず、逃げる江嶋康光の番手を中野浩一から奪って、前橋ダービーをも制した。勢いは恐ろしい。

◆57◆平成19年10月1日(月曜)
 温暖化の影響で福井の選手も冬季移動をしなくなったが、昭和54年〜55年の冬には鷲田善一らが奈良・西大寺にある「奈良県簡易保険療養所」で“冬季合宿”を張った。自転車が大好きな鷲田は、明けても暮れても自転車にまたがっていた。そんな折、55年1月15日の和歌山競輪・開設30周年記念「和歌山グランプリ」決勝戦で、ゴール前から鷲田に「がんばれよ、西大寺で待ってるからな」とファンの激励が飛んだ。「地元(西大寺)の人だな。よーし、やってやるぞ」と、さらに気合を込めてスタート台を離れた。
 鷲田の後位を竹内久人と佐野裕志で4周目ホームまで併走。佐野の番手で落ち着くと、鷲田は原田則夫や清嶋彰一の動きを巧みに操り、最終的には清嶋ー原田の3番手をキープ。原田がバックでまくると、鷲田は直線に入って楽に抜け出し、昭和52年暮れの奈良記念以来、2年ぶりに2つ目に記念を手に入れた。
 「みなさんの声援のお陰です」と謙遜した鷲田。正月の向日町の完全優勝に続いての美酒は、奈良での“特訓”のたまもの。兵庫の佐野裕志と堂本淳夫も加わり、阪奈街道での合宿が好調の裏付けだった。堂本が「あの人について行くのが大変。とにかく練習、練習、また練習ですから」と、鷲田のタフネスさに目を白黒させていたものだ。努力の人・鷲田は福井の自転車熱を大いに高めた。
◆58◆平成19年10月3日(水曜)
 昭和55年4月7日からの和歌山競輪「第4回紀ノ川賞」前節を前にした尾池孝介は、競輪祭・新人王決勝2着、正月の和歌山で記念初優出と破竹の勢いだった。それが、前橋・ダービーで9694着で、せっかくの特選シードをいかしきれなかった。それどころか、あまりにもみじめな敗戦に、悔いばかりが残った。
 「気合は入っていたんですが、脚の方まで気合が伝わらなかった。先行もさせてくれないし、先行しても、それまでにムリ脚を使わされていた。力不足を痛感しました」
 5月1日に晴れてA級1班に昇級するが、ダービーの舞台で評価を落としたのは、不安がつきまとう。こうした反省材料のなかから、ひとつの光を見いだせた。それは先輩・大津初雄のアドバイスだった。
 “努力の人”、“練習の虫”で鳴る大津は、後輩の伸び悩みに歯がゆくなった。そこで「練習が足りん。トップになろうと思えば、今の3倍は練習せなあかん」と、尾池に全盛時のスケジュールを教えた。尾池は目を白黒させた。過酷で豊富な練習量。A1班の偉大さを改めて知らされた。
 「今まで考えていたこととは、まるで違った。大津さんが初めて胸の内を開いて激励してくれた。ボクにとって、すばらしいアドバイスです。これだけでもダービーを走った価値がありました」
 大津が与えた“3倍”の練習計画。尾池は“超一流”へ向かって実行に移す。その前に、ダービーで沈んだ気持ちを、仲良しの平川善一郎との2泊3日のスキー旅行でぬぐい去った。以後、尾池は“強い先行屋”の看板を背負ったが、不器用さが災いした。

◆59◆平成19年10月4日(木曜)
 尾池孝介の番手まくりを浴びて5着(初日特選)に沈められた石川浩史が、準決勝で尾池が脱落したため和歌山競輪「第4回紀ノ川賞」前節決勝戦(昭和55年4月8日)の“本命”を背負った。1月の和歌山記念でバンクに叩きつけられ、右鎖骨とろっ骨を折り、45日間の入院加療を余儀なくされた。練習では11秒台の後半は出ていても、実戦での不安感はぬぐい去れないままだった。それが復帰戦の福井で須田一二三のまくりに乗って優勝。「須田さんのお陰で精神的にすごく楽になりました」と、ベテランの須田に感謝しきりだった。
 石川に“味方”が多かった。兵庫の森川敬幸がスタートで前を取ると、石川ー大鹿隆史ー須田一二三ー山本博章を入れて5番手を固めた。この森川には「優勝できたのは森川さんのお陰」と、またまたベテラン森川に頭を下げた。
 九州は谷口俊介ー岩元幸明ー服部良一と並んだのを見て、石川は「突っ張り先行を考えたが、谷口君の後ろが岩元さんなので、粘れば何とかなる」と内粘りの作戦を用いた。作戦通りに分断して、BSまくりで福井に続き連続優勝を手にした。
 「今回は本当にうれしい優勝です。皆がボクを盛り上げてくれた。なんとかA1班の点数にも手が届いた」。誰にも好かれる石川だからこそ、地区を越えて“仲間”ができた。なんともいえない競輪の“味”だった。

◆60◆平成19年10月6日(土曜)
 叔父と兄の影響で都立忠生高校を2年で中退して輪界入りした杉井英雄。叔父は杉井則之、義久でともに輪界屈指のマーク屋。兄・利行(A2・33期)は中堅選手。「競輪選手は素晴らしい職業だなぁ」と英雄少年の心を捕らえたのは第一線でスターとして活躍する叔父2人の姿だった。
 「兄が選手になっていたから、ボクも(競輪学校を)受験できる年齢まで待った」と、勇んでプロの道に飛び込んだ。12勝、2着19回で卒業後は叔父と兄の厳しい指導でメキメキ地力アップ。「富士の方へ2泊3日や3泊4日で合宿を張ります。学校時代とは比較にならないほど力がつきました」。
 ハロン12秒1だったのが11秒5、6に、1000bでは東京地区選手権で清嶋彰一や大川稔を抑えて優勝するほど力をつけていた。そんな杉井が昭和55年4月19〜21日の和歌山競輪「第4回紀ノ川賞」後節にA級初優勝を目指してやってきた。そして、初日選抜を豪快なまくりで決め、準決勝は“突っ張り先行”で押し切った。決勝は2番手を奪い“3半まくり”で圧勝、A級8戦目で初の優勝を飾った。
「うれしい。B級でも3連勝はなかった。次は平塚の記念です。初めての記念です。この優勝をきっかけに、もっと練習します。“5社杯”のカップは大事にします」。爽やかな好青年の杉井。その後、取材先で顔を合わすと、いつも真っ先に飛んできてくれた。

◆61◆平成19年10月11日(木曜)
 ファンにも「コーやん」と呼ばれて親しまれた大阪の重鎮・西村公佑。ビッグVこそなかったが、特別競輪の決勝戦には数多く進み、卓越したマークテクニックと鋭い差し足で人気があった。唯一の勲章は昭和36年8月2〜7日の「全国都道府県選抜競輪」(岸和田)の2000bの部での優勝だ。
 それよりも、特筆できるのが昭和55年5月29日からのびわこ競輪「第31回高松宮杯競輪」に25回連続出場を果たことだ。45歳の大ベテランは初日4Rで新田計三マークから3着と健闘した。翌30日の6R出走前には、25年連続出場を称えて表彰を受けた。西軍のユニホームに身にまとって場内を1周すると、ファンも「ええぞ、2回戦もがんばれよ」と温かい声援を送った。
 「20回の表彰を受けたとき、25回までは…と目標を決めていた。いまは若い人の時代だし、もう来年は出場できないかも知れない」と、数々の熱戦が脳裏をよぎったのか、声をつまらせた。そして「宮杯では山本清治さんの2着に敗れたのが、いまでも悔しい思い出です。これからは若い人と一緒になって、私のすべてを“指導”に役立てたい」と抱負を語った。
 渡辺孝夫や尾池孝介、井上薫らが「25年なんて…。ボクらには、とてもとても」と息の長い西村をせん望のまなざしで見つめていた。2走目は残念ながら7着に敗れて準決勝にはすすめなかったが、残りの2走も7,5着と善戦した。いわゆる雑感記事でも、なんともいえず気持ちが和んだ一文だった。

◆62◆平成19年10月18日(木曜)
 記念初Vは幻! 昭和55年11月1日の岸和田競輪「開設31周年記念・岸和田キング争覇戦」前節決勝戦は、木村茂が追い上げ先行の久保千代志の番手死守から抜け出してゴールを1着で通過した。ところが、6周目バックで高下堅至が転んだ原因が木村の押し込みだったため失格となった。「勝った!」と木村はゴール後に思わず右手を挙げかけた。「(高下に対し)ボクは失格じゃない。久保さんに差し勝ったんだ」と自信に満ちあふれていたのだが…。
 繰り上がって記念V7を手にした久保は「かわいそうだけど、これが競輪なんだ。ボクも初めて記念優勝を取ったと思った時は失格で棒に振った。今回は以前の貸しが返ってきたみたいなもの。ボクとしてはこのツキを大事にしたい」と、後輩の不運に複雑な表情を浮かべていた。とにかく久保はV7を飾った。競輪祭へ向けてファンから飛んだ声援も「次は競輪王を取れよ」だ。絶好調の久保、やっと初タイトル奪取への下地ができあがってきた。
 先輩・久保の後位を選択した木村は「初めから競り」の覚悟だった。だから、高下も木村の気迫に押された格好で落車。逃げる久保を差し切る強さを見せた木村だが、審判には「失格じゃない」の声は届かなかった。

◆63◆平成19年10月22日(月曜)
 岸和田競輪「開設31周年記念・岸和田キング争覇戦」後節決勝戦は昭和55年11月4日に行われ、ウルフの異名を持つ木村一利が最終バック4番手の位置から前団をゴボウ抜き、完全優勝で目標のV3を達成した。スタートの早い村岡和久と人気を2分していたが、木村は頭脳をフル回転させた。朝練習の時、岩崎誠一がギア交換をしているのを目にした。
 「他の人が関東勢はカマシと言っていたけど、岩崎さんの先行もあるとボクは考えていた。だから村岡君が前にいても落ち着いて走れた」
 木村は二通りの作戦を頭に描いた。村岡ー緒方浩一の3番手に控え、高橋由一が抑えてくると村岡はイン粘り。ここで岩崎ー荒川秀之助ー高村敦が叩くと、村岡は3番手の高村と競り。緒方は車を下げ、木村は4番手を確保していた。「バックでまくってもよかった」の木村だが、焦りは禁物と直線勝負へ。荒川が踏み込むと、木村はインから村岡をハネのけ、荒川の内へ鋭く突っ込んだ。「あれっ、木村は生きていたのか」と悔しがった時は、木村のV3が決まっていた。
 「本命を考えると胃が痛んで仕方なかった。3番手に控えたのが結果的によかった。ツキのあるときはこんなふうに勝てるんですね。この後は競輪祭の優出と12月の地元記念を取ること。そして年収(現在4千万円)で山本浩二さん(プロ野球)を上回ることを目標にします」
 この夜は「大阪で飲んで、明日は住之江競艇に行く」と、記者仲間と朝まで飲み明かした。激しい闘争心を秘め、天下の中野浩一に牙を剥き、フラワー軍団と一体化して戦ったが、無冠に終わった。平成3年2月5日に引退後は体調を崩し他界した。
◆64◆平成19年10月24日(水曜)
 “怪物クン”滝沢正光が誕生したのは昭和56年1月20日の和歌山競輪「開設31周年記念・和歌山グランプリ」決勝戦だった。メンバーは菅田順和に井上茂徳、高橋健二、佐野裕志らスターばかり。そんななかで「“滝沢は絶対に先行するんだ”というイメージをつくりたい」と、滝沢は“先行”にグッと力を入れた。準決勝ではジャン過ぎに飛び出し、後続を5車以上も引き離す圧勝だ。菅田が「滝沢君とは初めてですが、強いねぇ。叩き合いは避けたい」と滝沢マーク策をほのめかす。高橋も「中団に構えて」なら、滝沢は先行1車と同じ。井上や佐野も最終的に滝沢後位へ照準を当てていた。
 最終ホームは強風が吹く向かい風。8番手に置かれた滝沢だが、そんな風は苦にしない。「1コーナーからは追い風。そこで息を整えればいい。イチかバチかの競走だったけど、あれで楽になった」。打鐘前にピッチが上がったが、滝沢には風も敵ではない。猛然と踏み込むと、若いエネルギッシュな脚は違った。計算通りに1コーナー手前でハナに立つと、井上が滝沢後位へ飛び付くなど、後続のもつれを尻目に、記念初優勝を逃げ切りで飾っていた。
 55年は関東地区プロ選手権で千b1分7秒37の日本新をマーク。まる1周の逃げを辞さない滝沢。A1班の上位にとってもイヤな相手だ。
 「親父(増夫さん)と師匠(長岡弘臣さん)が初優勝を喜んでくれます。ほんとはこんな強い人ばかりだから、次に期待してたんですが…」。記念初Vの勲章と、“日本一のカマシ屋”の看板をかかげた滝沢。その後の猛威も、この優勝が弾みとなった。

◆65◆平成19年10月26日(金曜)
 書き物のなかにダービーTRというのが良く出てくるが、昔は「競輪ダービー」(全日本選手権競輪)への出場選手を決めるトライアルレースだった。昭和49に始まったころは選考委員会で選定された135人が1次予選特別選抜競走に出場の27人を決める大会だったが、51年からは1、2回戦の上位から全出場選手が選出されるようになった。その上位27人が「特選」へのシード権を獲得するシステム。ただ、1回戦で得点を稼ぐと2回戦を欠場したり、無気力レースなどがあって平成7年で廃止された。
 当時のシステムは1場所に27人がトライアル選手として配分され、初日、2日目は予選を各3個レースを行い、成績順に優勝ー特選ー選抜に組み入れられた。得点は優勝戦の1着が54点で、以下は着順によって2点ずつの減点方式。特選の1着は36点、選抜は18点という具合になる。落車棄権は、そのクラスの最下位点で失格はマイナス2点の減点だった。
 決勝に乗って3着以内なら、まずダービーへの出場権利を獲得。低いときは合計46点でも出場できたものだ。正選手は125人がトライアルで選ばれ、残りの10人は世界選手権の優勝者、特別競輪での優勝者などで、スター選手の落ちこぼれを防ぐ推薦制度もあった。
 レースは1月31日から2月の中旬までに行われ、出場選手も自力で特別競輪へ出場できるとあって、目の色が違ったものだ。中には親しい選手のために“犠打”があったり、車券的には結構、面白いダービーTR戦だった。

◆66◆平成19年10月30日(火曜)
 風疹で前検不合格! 昭和56年4月18日の和歌山競輪「第5回紀の川賞争奪戦」前節の前検日。高橋由一が医務検査で、医者から「風疹」の診断を受けて、前検不合格で欠場。「今回でA1班の点数を取り戻そうと思っていたのに…。医者の診断だから仕方がない」と戦わずして無念の帰郷となった。初日特選シードから高橋と落車事故で欠場した梶山祐司が抜けて“2席”が空いた。番組マンは知恵をしぼった。当時は現在のように得点順ではなくて、あるていど得点も考えながら若手の有望株とか地元の選手がシードされたのだ。
 本来はA1班を優遇したが、この日は、A2班でも準地元の西村暢一と44期のホープ橋本彰文を抜擢した。橋本は強引な先行選手。「バックは絶対に取る。後ろにつけてくれる人がいれば、どこからでも飛んで行く」と“暴走覚悟”の気持ちだ。逆に西村は尾池孝介と同郷でも、鷲田善一と折れ合いをつけて「3番手でもかまわない」と冷静だった。
 橋本は初日にジャンからカマしてまくられ9着。西村はS決めから鷲田に任せて7着。準決勝は橋本がバックまくりで3着、西村は鷲田(1着失格)マークから1着繰り上がりで、ともに決勝入り。特選にシードした番組マンの期待にこたえて頑張った。味気ない得点順よりも、見る側も走る側も、ワクワクしたのが番組マン主導の“取り組み”だった。そんなレースの“味”が懐かしい。
◆67◆平成19年10月31日(水曜)
 2年ぶりのVにガッツポーズー和歌山競輪の「第5回紀の川賞争奪戦」前節決勝戦は、56年4月21日に行われ、石川浩史の打鐘先行を目標にした竹田恵一が優勝を飾った。メンバーを見ていると、6番車の馬場正がトップを引いていた。今ではオール先頭固定だが、以前は選手からの申し入れがあればトップ引き(誘導員代わり)のレース(普通競走)だった。42歳のベテラン・馬場の決勝入りのコメントは「いやー、ついてましたね。まさか落車に恵まれて優勝戦に乗れるなんて…。久しぶりだしトップ引きをつとめます」だった。馬場はA級5班制の4班で、2、3場所に1回は一発を決めて予選をクリアしても、準決勝では通用しなかった。
 それはともかく、決勝戦には尾池孝介、大和孝義に橋本彰文、西村暢一、安福洋一ら実力派もそろっていた。第4回の優勝者・石川は「まくるか、カマシ。優勝は二の次」と近畿勢を真っ向から叩きつぶすつもり。だから、打鐘で中村邦彦に突っ張られると、そのまま強引に叩いて逃げた。近畿勢が中団でもつれ、大和のまくりも不発。2番手を回った竹田がラッキーな勝利をつかんだ。
 「勝てるとは思わんかった。石川君は強いし、まさか差せるなんて…。優勝はすべて石川君のおかげ」。ゴール後にサーッと右手をあげたのは「自然に出てしもうた。長いこと優勝してなかったし、うれしさ余ってのポーズやな」と“無欲”が生んだ副産物だった。28期の竹田は今でもしぶとさを身上に頑張っている。

◆68◆平成19年11月5日(月曜)
 スタンディングbPはどっち? スタート全盛のころは、この話題で持ちきりだった。スタートを決めると、目標選びが最優先され、レースを“オレ流”で運べるからだ。56年5月24日からの岸和田競輪にスタート日本一の恩田康司が登場。この3月、千葉・ダービーでスタートを決めて中野浩一の“指定席”を確保、そして2着に食い下がった実績を持つ。挑むのは地元の売り出し中・伊藤浩だ。自力も含め、前で捌くのが身上だ。
 前検日に報道陣がスタート合戦の取材に伊藤を取り囲んだ。「日本一の人に挑戦します。ボクが売り出すためにも、恩田さんとの出走は楽しみです」とチャレンジャー精神おう盛。受けて立つ恩田は「カレが新人のころ(昨年11月の川崎)に会っている。ボクとどちらが早いかって? そうですねぇ。フッフッフッ…」と含み笑い。そして今回、帯同の練習仲間の小杉幸伸を指して「小杉君も早いですよ」と伊藤を無視の面持ちだった。
 今回は伊藤が2号車、恩田が9号車。川崎では恩田がAで伊藤がGだった。伊藤の感触では「ボクが内なら勝っていた」だ。ダービー優勝2着の恩田は直前の函館を風邪で欠場。「40度ぐらいの熱が出て10日間ぐらい休んだ。調子は走ってみないと分からない。小杉君と二人で戦う。どっちが前でもかまわない」と病み上がりの不安があった。
 24日の初日特選。ファンの注目を集めたスターと合戦。号砲の鳴るのと同時に伊藤、恩田がスタート台を離れたが、あっという間に恩田が伊藤を引き離して、スタンディング1が決まってしまった。「もう一度、決勝で…」と伊藤が悔しがったが、恩田は「小杉君に前を任せるから(スタートは)もういいです」と決着がついたと言いたげだった。

◆69◆平成19年11月6日(火曜)
 スタンディングだけでなく、この岸和田競輪の決勝戦(56年5月26日)はマーク合戦も華々しかった。打鐘過ぎに主導権を握ったのが地元の伊藤浩。前受けの恩田康司ー小杉幸伸が伊藤に続く西村暢一ー西谷康彦と火花を散らしたのだ。
 インの恩田とアウトの西村が肩に頭をくっつけあったピラミッド型の競り。「オレはA1班。ダービーの優勝2着。競りは負けられない」と恩田は、体を張ってもたれかかる西村を1角で競り落とした。次は西谷に小杉がアタック。“マーク屋”の西谷は一発で小杉を内へ押し込んだ。この4人が演じた激しい競りのアクションに、“ファン無視”の競りと見なされ4人とも喧嘩両成敗で失格となった。
 こんな流れでニッコリ笑ったのが佐久間重光。後ろの競りをしり目に伊藤が逃げたが、丸1周以上の先行では持ちこたえる余力を残していない。6番手に構えていた佐久間が“3角まくり”で優勝を飾った。
 「前で競り合っていたし、あわてずに待った。ヨミ通りで会心の勝利です。A1の点数は大丈夫と思うので、今年は優勝数に目標を置いている。今回で3回目の優勝、二ケタに近い優勝を取りたい」
 11秒2に好ラップで優勝の佐久間は希望に胸がふくらんでも、失格が4人では意地を見せたマーク屋には辛いレースとなった。本格的な競りも競輪の醍醐味のひとつなのなだが、いつも失格対する審判の判定には納得のいかないところが多い。