◆92〜101◆ちょっとした思い出
【92】平成20年4月11日(金曜)
 “キングに挑戦”は地元の伊藤浩だ。岸和田競輪の「開設33周年記念・岸和田キング争覇戦」後節(57年11月7〜9日)は、スーパースター中野浩一が一枚看板。抜群のスタート力でA1班の座を手に入れた地元の伊藤は、当然、中野マークを主張して戦う。
 パワータイプのそろった45期軍団。すでに馬場圭一、斉藤哲也、金谷和貞、藤本達也の4人が記念優勝の美酒を味わっている。ところが45期の評判は「力があるのにレースが下手。あまりにもロスが多すぎる」と、キメの細かい“仕事”ができない。言い換えれば作戦が“単純”すぎるのだ。
 伊藤にしても“スタートの取れない伊藤は問題外”のレッテルがつきかけている。事実、スタートで遅れをとったときの伊藤は、無惨な結果に終わることが多い。といって、これでは“大阪のホープ”の名が泣く。打開策を考えなくてはならない。
 「悪かったのはフレームを変えたのが原因でした。スタートも切れなかったし…。だけど元のフレームに戻したんです」
 練習量の豊富さでは、大阪のなかでも一、二を争うもの。平野区の自宅から和歌山、そして奈良へ抜ける街道をみっちり乗り込んでいる。最近は午前五時からの早朝練習も復活させた。向井賢一(48期)が単車で伊藤を引っ張り、1b66の小さな体にムチ打っている。
 「向井君と二人で練習しているが、感じはよくなってきた。ここらで巻き返さないと。ボクも正念場です。スタートを取って、さばきたい。やりますよ。見ていてください」
 今年前半はダービーTR戦で大活躍。本番の“特選シード権”を手に入れた。そして3641着。伊藤は全国区の顔になっていた。宮杯7422着、オールスター4718着で準決勝へ進めなかったが、着順以上に内容の悪さが目立った。近況2走の凡走(高知記念613着、一宮52C着)も練習量を増やす刺激となった。
 「新人戦(小倉競輪祭、18日から)も近づいているし、岸和田はまず優出を目標にします。自分を試します」
 45期でA級入り(10連勝)をトップで果たした伊藤。今では追い抜かれた格好になっているが、そろそろ巻き返しを図る番だ。もう一段階上の地位を目指すためには、今回のメンバーで優出は絶対の条件だ。
 残念ながら準決勝で中野マークから突っ込めず5着(中野は不利な展開で2着)に敗れた伊藤だが、競輪祭・新人王では決勝4着と健闘した。

【93】平成20年4月18日(金曜)
 岡山から初の新人王が誕生、45期の峰重竜一が「第24回競輪祭・第20回新人王決定戦」(57年11月21日)で松枝義幸のHSカマシ、佐古雅俊のBSまくりに乗って優勝を飾った。2着に佐古、3着にも馬場圭一が入り、瀬戸内勢で上位を独占した。峰重は“浜田賞”と賞金359万円を獲得した。
 「みんなのお陰です。ラインで勝てた」と峰重は、前で“犠打”を打ってくれた松枝、そして佐古に感謝した。去年は参加しておらず、峰重にとっては最初で最後の勝負だった。そこへ松枝、佐古という強い味方がいた。自分で戦わなければならなかった馬場との差がでたわけだ。だから道中も前二人に任せっきり。最後尾をがっちり決めるだけでよかった。
 先輩達のアドバイスもあったが、こんなに楽に勝てたのも峰重の人柄かもしれない。日ごろはおとなしく、言うことはズバリと切り込む。兄貴風なところがある。それが大一番で伏線となって出たのかもしれない。
 「これからは先輩と一緒に乗ったら前で引けるような選手になりたい。そしてマーク屋として行くなら国松利全さんのような選手になりたい」
 岡山からは初めての新人王。中国地区では54年の木村一利に次ぐニュースターの誕生になる。ようやく喜びがこみ上げてきたのか、最後は「師匠(峰重和夫)に早く伝えたい
」と結んだ。
 この頃、ビッグレースの決勝戦ともなると、同じ地区の選手が集まって“作戦会議”を開いたものだ。「新人王」の前には木村に国松、西谷康彦らが、あれこれ流れを考え、松枝―佐古―峰重で運ばせたのだ。人気を集めた馬場は「中国勢のカマシは分かっていたから…」と広田淳一―野田正の九州勢を前に入れてライン強化を図った。
 それでも、司令塔・木村の作戦はバッチリ。松枝の強烈なカマシによって、馬場の野望は霧散となったのだ。

【94】平成20年4月20日(日曜)
 衝撃的な引退だった。小倉競輪の「第24回競輪祭」の4日目、新人王決定戦が行われたその日、かつて“3強時代”という輪界に一時代を築いた福島正幸(34歳)が、17年間にわたる選手生活にピリオドを打ち、A1班のまま引退を表明した。
 同選手は競輪祭に参加していたが、初戦の一次予選で8着し「力の限界を感じた」。そして敗者戦の3日目に後方からのまくりを打って2着。勝てなかったことで「ここが引け時だと思った」と決心、この日(57年11月21日)の発表となった。
 引退会見は、この日、午後1時10分から同競輪場選手会館2階インタビュー室で行われた。師匠である鈴木保己氏も同席し「私も昨日、相談された。かねてから引き際が大事と言っており、福島の顔を見たとき決心がわかった」と涙ぐんでいた。
 福島選手は「小倉は新人王と競輪王を3回優勝したところで、最後の競走ができたことがうれしい。連にからまなくなったら選手じゃない。いつもパーフェクトなレースを心がけてきた。競輪祭で2走したが、自分の体力の限界を感じたので引退を決めた。かねてから35歳で辞めようと思っていたから、17年間、私は悔いのない競輪選手生活を送りました。今後の身の振り方は白紙状態で何も考えていない」と語った。
 「私が自慢できるのは最後まで追い込みに変わろうとせず、あくまでも自分で動く(自力)ように心がけてきたことです。それと競輪のこと以外、他のことは何も考えなかった。暇さえあればレースや練習方法を考えていた」
 9R発売締め切り後、福島選手は引退を決めた当日の黄色のユニホームを身にまとい、思い出のバンクでファンに挨拶。「長い間、声援を送って下さってありがとうございました」と、声をつまらせながらファン、そしてバンクと別れを告げた。
 【福島選手の略歴】 41年1月1日、22期生として前橋競輪場でデビュー。12連勝でB級を切り抜け、A級でいきなり6連勝をマーク、脚光を浴びた。45年の第5回秩父宮妃杯で初のタイトルを奪い、その後、第12、15、16回の競輪王、第23回高松宮杯、第16回オールスターを勝ち取った。優勝場所は全国49場(甲子園だけ不参加)で、実質的には“全国制覇”だ。1着533回、2着172回、3着101回、着外274回、落車13回、失格16回。1着率48・1%、入着率63・6%。総取得賞金3億8065万9200円。

【95】平成20年4月23日(水曜)
 同期は頼りになる。58年2月8日の和歌山競輪「サンスポ杯・紀州てまり賞」前節・決勝戦で、藤本浩が46期同士の久浩二を前に入れると、久は突っ張り先行で、藤本に優勝をもたらした。兵庫と福岡でも、同期の絆は強かった。藤本追走の本命、地元の中村郁彦は中を割ったが2分の1輪届かなかった。
 「いやぁ、めぐまれました。同期(46期)の久君が突っ張ってくれましたからね」と藤本は余裕の“好位攻め”に笑顔がこぼれる。特選は逃げて中村に差され、準優はBSまくりで勝ったものの末の粘りを欠いていた。それだけに「自分が動いてもよかったが、できればさばきたい」と、慎重な運びになった。
 スタートは藤本が決め、以下、中村―山本克典―丸山哲也―倉橋欣也―大淵一弘―瀬口孝一郎―久―平田英嗣とすんなり並んだ。
 「藤本君にすべてをまかせていた」の中村。藤本が特選同様に突っ張って逃げれば中村に地元初Vが転がり込んでいた。ところが、藤本は4周目ホームで早くも久を迎え入れた。
 横(競り)にも強い久は倉橋―大淵―瀬口を突っ張り、さらに叩いてきた平田にも主導権を譲らない。大淵は平田に乗り換えたが、倉橋の抵抗にあって後退。倉橋は中村の外で競りに持ち込んだ。
 久は2角先行。藤本は単独2番手と絶好の展開だ。中村はバック手前で倉橋をはねのけて久―藤本を追った。
 「外へ踏めば抜けていたかな」の中村。藤本はゴール前で内をぴったりと締めたため、中へ突っ込んだ中村は伸びきれなかった。
 A級で3度目の優勝を飾った藤本。今回は「後ろを中村君が固めてくれ、前は久君が突っ張ってくれた。本当に皆のお陰で優勝できた」のだが、ひと回り大きく成長するには課題も残した。それは「やっぱり自分で行っても勝てる脚をつくらないと。人に頼らなくてもいいように、もっと練習して鍛えます」と“末の粘り”を強化することだ。2着の中村も「先行力がほしい」と、自分自身にムチを打っていた。
 藤本も中村も、ビッグレースや記念で頑張っていた。今では無惨な成績を残しているが、藤本はすんなりの流れで、たまにキラッと光るものを見せている。ランクは下がったが、いつまでも“穴党”ファンには楽しみな選手だ。

【96】平成20年4月27日(日曜)
 競輪51回生のチャンピオンに野原哲也(福井)が輝いた。日本競輪学校(剣持克昌校長)の51回生卒業記念レースは、58年3月9日、静岡県・修善寺町の同校400ピストで行われ、最終バック2番手の野原が強烈な“BSまくり”を決め快勝。福井では初めて、近畿地区では45期の斉藤哲也についで2人目。
 アマチュア界のエリート坂本典男は2角からまくって出たが野原に続いた塚本裕之と3コーナーで接触、前輪破損(4着)のため涙を飲んだ。また、渡辺幹男は準優戦で6着に敗れ去っていた。この51回生は11日の卒業式を終え、4月中旬に“新人リーグ”でデビューする。
 準優で2着惜敗。ゴール後の野原は「チクショー」と舌打ち。悔しさをむき出しにしていた。負けん気が強く、カーッと燃えるタイプ。優勝戦の1号車に組み込まれたのを知ってから「ヨシ、前で勝負。逃げて3着に残ればいい」と積極策を肝に銘じていた。
 それが、逃げるどころか、最後は2番手キープ。絶好の展開を生かし切った。「まさか優勝できるとは…。いい思い出ができました。これからもスタートを生かす、先行、まくりで戦っていきたい」と顔をくしゃくしゃにして、喜びを表した。
 スタートは122走中、111回を奪い、競輪学校の記録を作った。51、52期生の文化祭では腕相撲大会で優勝。この腕力がスタンディングを決める秘訣だった。
 福井県立春江工業高校ではバスケットで活躍、2年間のサラリーマン生活(自動車整備)のあと輪界入り。51回生では第5位にランクされた。
 「まず、ひとつひとつ勝って上に行きたい。そして最後はS級1班(130人)になれば…」
 両親(勇さん、はつ子さん)や友人の見守るスタンドに向かって誇らしげに優勝メダル、トロフィーを高々と掲げた。福井では鷲田善一、桑野治行、上山豊秋に次ぐスター。近畿地区にとっても“金のタマゴ”の誕生だ。
 競輪祭・新人王では2年連続決勝9着に敗れたが、ビッグレースでは気迫あふれるレースぶりで活躍した。オールスター競輪では60年・一宮G着、61年・平H着、63年・岸和田H着で決勝に乗り、平成5年の立川ダービーでは海田和裕→遠沢健二に次いで3着、表彰台に上った。現在は福井の支部長として、競輪界の浮揚策と取り組んでいる。

【97】平成20年5月1日(木曜)
 52期のチャンピオンに田中祥之(大阪=現奈良)―。競輪52期生の卒業記念レース最終日は58年7月27日、静岡県修善寺の野本競輪学校(剣持克昌校長)、南400ピストで続開。決勝戦は在校成績1位の山本剛は打鐘で接触、前輪破損(8着)のため無念の涙を飲んだ。2の田中は最終バックを2番手で回る絶好展開に持ち込み“3角まくり”を決めて第27代チャンピオンの座についた。大阪では初の卒業レース優勝者で、近畿では45期・斉藤哲也、51期・野原哲也に次いで3人目。
 冷静だった。田中はゴールを駆け抜けても、今様のハデなガッツポーズを見せない。退避席へ帰ってきて、「夢中でした。展開はどうなったのか覚えていない」。喜びをグッと噛み殺す静かなヒーローだ。
 スタンドには田中喜代一さん(B級2班)、好子さんの両親が、成長した息子を見つめていた。病弱な息子をボーイスカウトに入れるなど、健康に留意しながら育てた末っ子(姉二人)。生野工業高校ではバスケットボールで体を鍛えた。そしてレーサーの道へ。
 4月から始まった新制度の得点制限にひっかかりかけて、引退の声も聞かれ出した喜代一さん。「お父さんが走っている間に選手になりたい」と田中が胸の内を打ち明け、父親の反対を押し切って競輪選手を志望した。
 「中学の時から自転車に乗りたかった。だけど言い出せなくて…。受験は3回目でパス。やっと選手になれました」
 いとこの尾池孝介(39期・A1班)が事実上の師匠。阪奈街道の練習では尾池も及ばないほどのパワーを見せつける。このすばらしい“地足”が、優勝を奪う原動力となった。
 「52期のなかでも地足には自信があった。外を回っていても戦えると思った。それに前田君(義秋)を前に出さないように考えていた」
 在校成績代2位。トップの山本剛はレースの運びの巧妙さで勝ち上がっていたが、田中は自力の攻めで2の地位を築いた。
 「学校の教育でダッシュ力とスピードがついた。ボクにはプラスでした。まず尾池さんに追いつくことを目標にします」
 阪奈グループは大阪の中でもハードな練習をこなす。デビューまでの約1ヶ月、将来の“S1”へ、チャンピオンの肩書きをつけてプロの荒波の中へ一歩踏み込んだ。
 現在は田中も野原哲也と同じく、奈良支部の支部長として頑張っている。

【98】平成20年5月10日(土曜)
 和歌山競輪の「準記念・紀の国賞」レースは58年9月11日から3日間の開催。デビュー7年目で念願のトップレーサーにのし上がった菊谷修一が、秘かにV盗りを目論んでいた。
 阪奈街道、奈良競輪場で脚を鍛えるグループは、血気盛んなヤングが目白押し。S1の肩書きをつけているのは大井栄治、西村暢一と菊谷の3人だけだが、唐津信一郎、安福洋一、尾池孝介、島岡兼治ら有望株がズラリ。ハードな練習とガッツあふれるプレーで、輪界に旋風を巻き起こす集団だ。
 「周りの刺激を受けるし、ボク自身も後れをとらないように必死です。長いことかかってS1になったし、もう二度と落ちたくない。だから、練習、練習です」
 38期生は山口健治、吉井秀仁で代表され、bRに柳井譲二。4人目のS1に昇格した菊谷は、劣等生(競輪学校時代は7勝)からたたき上げたスジ金入りだ。
 「超一流と名の付く人のところまで手が届きそうな気がしてきた。差しにこだわらず、いつもハバのある競走を心がけている」
 4月〜8月の中期。初めて味わう記念、準記念の連続戦だ。「気力では誰にも負けない」をセールスポイントに、強豪と五分に渡り合った。優出3回、落車3回、失格1回。向日町準記念では左肩胛骨を亀裂骨折。こんな痛い目にあっても、有形無形の自信が五体にしみこんだ。
 「顔を合わすのは上位の人ばかり。そこで戦えたのだから、プラスになった。S1の点数もとれたし、自信ができました」
 夏場に安福と連れだって信州へ一週間の合宿。その後も尾池らと早朝練習。3人が交代しながら自動車誘導だ。午後はそろって奈良バンク入り。唐津も一緒だ。結果はびわこの準記念を続けて走り71A着、72D着の好成績につながった。
 S1の目標を成就、次は準記念、そして記念Vへー地道に一歩、一歩と頂上へ登るガッツマン。1b66、66`の小兵だが、ユニホームをまとう姿は、ひとまわり大きく見えだした。一粒種の真由子ちゃん(7ヶ月)の成長とともに、パパ菊谷もさらにジャンプ。“紀の国賞”は格好の舞台だ。
 初日は特選で唐津信一郎を差し切って1着を手にしたが準決勝で脱落。レースの厳しさを味わった。それでも直後の平・オールスター競輪で7165着、生涯のビッグで初勝利をマークした。

【99】平成20年5月16日(金曜)
 和歌山競輪の準記念「紀の国賞」決勝戦(58年9月13日)は、大和孝義(山口)が頭脳プレーで優勝を手に入れた。
 目標の無い大和は準決勝戦で11秒10のバンクレコードを出した伊藤孝久にマトを当てた。この作戦が、まんまと成功した。
 スタートを決めた徳丸佳克に伊藤―大和―千田剛―森義弘が続き、岡本新吾―唐津信一郎―松江竜起―八倉伊佐夫が並んだ。この後、八倉が唐津の前に入り、42期コンビが成立。人気を集めた唐津だが、岡本も伊藤も“八倉つぶし”に燃えていた。
 「思い切りが悪かった」と唐津はジャンで追い上げたが、伊藤が徳丸の後ろで唐津を牽制しながら、誘導員を交わして出て行った。ここで徳丸が松江を捌いて、唐津を迎え入れた。伊藤の早駆けは唐津の誤算だった。
 唐津は動く機会を逸して、伊藤に襲いかかったのは八倉だ。3角手前から猛スピードでまくった八倉をブロックしたのは大和ではなくて、逃げた伊藤。4角で八倉を大きく外へ振ると、内がぽっかりと空いた。こんなスキを大和が見逃さない。
 4角から一気に内へ自転車を向けて突っ込んだ大和。そのまま鋭くゴールを駆け抜けた。「ボクはマーク屋。徳丸君が伊藤君を入れなかったので、ボクが伊藤君を目標にした。後は内を締める事だけを考えていた」と、ベテランの読みがズバリ的中。沈み込む唐津とは対照的に、大和はニンマリだった。
 唐津は直前の青森記念で井上茂徳、尾崎雅彦を相手に逃げ切り優勝を飾っての参戦。先行パワーは一番でも、そんな好調さを、一瞬の戸惑いで生かせなかった。逆に、大和は“空き家”の伊藤後位が手にはいるなど、ラッキーな一戦だった。
 このシリーズはバンクレコードのオンパレード。初日に予選で鵜沼正樹が強烈なまくりで11秒27を叩き出すと、準決勝で伊藤が11秒10をマークして更新。さらに最終日は8Rで初日特選1着だった斎藤修が本領発揮の11秒04で新記録を樹立した。気候がよかったのか、3選手のデキが素晴らしかったのか、3日続きの記録更新とは、珍しい。

【100】平成20年7月3日(木曜)
 競輪祭の「第21代新人王」(58年11月21日)に輝いたのは小磯伸一(福島47期)だった。宮本万裕―松枝義幸の後ろにつけた小磯。宮本は逃げる伊藤孝久の後位を手に入れ、番手まくりを放ったが、3番手の小磯が外を猛スピードで駆け抜け、2着の宮本に2車身半の差をつけて圧勝した。福島県では第7代の斑目秀雄以来の快挙だ。
 ゴール後は思わず両手を突き上げて全身で喜びを表した。が、その後はうつむいたままグラウンドを回った。まるで敗者のような雰囲気だった。
 表彰式の後、菅田順和が「地味なヤツだなぁ。アイツはほんとうに地味だ」と、ハデなアクションもせずに淡々とセレモニーをこなす小磯を見て言った。レースぶりは豪快でも、自転車を降りると、どこに居るかわからないほどの物静かな青年。友達の輪のなかにいても無口らしい。
 「もっとハデにふるまえと言われても恥ずかしくて…」
 いかにも東北人らしいヒーローだ。
 56年、競輪学校を8位で卒業。ところがB級は真っ先に10連勝してA級特進を果たし、57年には6月・函館記念を制覇。9月には松枝とともにA級1班入りと、47期のトップを走り続けた。ところが秋の終わり頃から座骨神経痛に見舞われ、思うように動けなくなった。
 「治療に専念するだけ」
 じっと耐えて治療する小磯に付いたあだ名が“おしんレーサー”だった。それでも治療の甲斐があって、見事に生き返った。初日から2、5着でも、決勝戦での人気は3番目だ。「5着で上(決勝)へ進出できたんだから、死んだつもりでやりますよ。印が重くて、そのプレッシャーもあったけど、最後は思い切って戦う」
 その言葉通りに、ひと踏みで新人王を奪取した。
  「賞金は貯金している。新人王の約400万円も全部、母に渡します」
 酒もタバコもやらない小磯の一番の楽しみは車に乗ること。愛車はポルシェ911SCSだ。そのスピード感は、実戦で放つ猛烈なスピードとも類似しているのかも。それほど小磯のまくりは切れ味抜群だった。

【101】平成20年7月16日(水曜)
 岸和田競輪の「第3回スターカップ争奪戦」を前に、右鎖骨骨折から3ヶ月半ぶりに実戦復帰する中里光典(兵庫42期)を取り上げていた。
 滝沢正光の優勝で幕を閉じた37回ダービー。思えば2年前の第35回大会で、中央の表彰台に立っていたのは中里だった。テレながら、そして誇らしげに胸を張って喜びを表していた。それから2年、病気(腎臓結石)、落車に悩まされ“S1”に定着できないまま。
 「ダービーを取って、よし! と思っていたときに病気でしょう。フロックだとか、病気はウソだとか、いろいろ言われました。だけど、病気を治して、絶対にダービー優勝がフロックではないことを証明したかった」
 歯車の狂いは、なかなか軌道修正ができない。調子が戻れば落車、それも鎖骨骨折と、神も仏も存在しなかった。
 「つらいことばかりですわ。そやけど、いつも前を向いて進んでいきます。そのうち、ええことがあるでしょう」
 昨年の宮杯で1走目に落車。2ヶ月休んで8月の平塚準記念(827着)から職場復帰。ところが暮れの防府記念初日にゴール前で落車。宮杯で折った右鎖骨を、また折ってしまった。
 「あと2、3ヶ月あれば完全にひっつくところだった。だから、まだ骨の柔らかいうちに折ったでしょう。2ヶ月ほど入院生活を送ったのも、そのためです」
 苦しみ抜いたが、2月中旬から自転車に乗りだした。パワー養成のためタイヤ引きから始動。自宅近辺(三木市)のロード、東条湖への遠乗り。姉婿の加古徳三さんが運転する乗用車につけての誘導練習。これが少しずつだが、感覚を取り戻してきた。
 「病院ではローラーも踏んでいた。いま、やっとモガキができるようになった。街道で力をつけんとバンクだけでは回転力がつかない。岸和田までの一週間はバンクで思い切り踏みます」
 ヤングがそろう今回のスターカップ戦。気合だけは負けていない。
 「位置もないし、前へ、前へ攻めていく。逃げて、まくって、積極策ですよ」
 S1の上位者でも中里のパワーに一目を置く。調整途上で印(◎や○…)をつけにくいが、軽視すると痛い目にあうかも。いずれにしても“リキちゃんパワー”復活を祈るばかりだ。
 井上薫も引退したが、中里はA2班で頑張り、兵庫の選手会支部長代理として、競輪界の盛り上げや若手の育成にも精力を注いでいる。