◆70〜81◆ちょっとした思い出
◆70◆平成19年11月12日(月曜)
 地元で開催を迎える前は、かなり気合を込めて乗り込むものだ。56年7月12日に甲子園競輪「甲子園カップ」に臨む坂本敏博もそうだった。しばらくの不振から立ち直り気味で、鼻の下とあごにヒゲを蓄えてきた。「調子が良くなると伸ばすんや。今まで2回ほどあるけど、2回とも優勝。なんとかツキを取り戻したい」とゲンを担いでの登場。もちろん練習は、いつも以上だ。
 前検日の前日(11日)には兵庫県吉川(よかわ)町方面で片道7`の道のりを往復3回の自動車誘導、踏み込みに関する不安はない。幸い得意の地元戦、、デビュー以来、優出をはずしたことのない自信のバンクだ。「地元はあまり意識せんようにする。位置もこだわらないし、最悪の場合は逃げも考えている」と臨機応変の立ち回りを強調していた。
 初日の特選はS決めの中矢政信に前を任されたため、ジャンの鳴る3角からの突っ張り先行で逃げた。坂本は「カマスつもりだったが、せっかく入れてくれたので突っ張り先行」に作戦を変更。練習に裏付けされた自信もあったのだろうが、地元ファンの前ではハッスルぶりを見せたくなるのも選手の気持ちだ。
 勝ったのは脚をため1角まくりを放ったベテラン昌山勝利だが、坂本は「ホーム手前の先行なら昌山さんのまくりも許さなかった。早駆けは覚悟だったんだが…」の気概で戦いながら、ジャン前から突っかかる菅谷勇を張って落車させた。そして失格のペナルティーを課せられる苦い一戦だった。
 この坂本は26期で仲のいい高知出身の松本州平と一緒に、坂東利則ら甲子園グループを引き連れて高知県・甲浦で合宿を張るようになった。今でも沢田義和らが合宿に行くのは坂本の流れだ。

◆71◆平成19年11月15日(木曜)
 以前は周年記念が前、後節と2回に分かれていた。両方とも好メンバーが揃う競輪場もあったが、どっちかが混戦ムードの漂う、いわば若手の“登竜門”のようなシリーズだった。56年の岸和田競輪「開設32周年記念」前節もそうだった。だから前打ち記事もヤングを取り上げた。タイトルも“オレも主役”だ。1回目は40期・西谷康彦。記念初優勝へ向けて意欲満々だった。
 「スタートを決めなかったら、一つ、二つと不利な位置になってしまう。アウト競りは苦にせんけど、自分で位置をとればそれだけ楽になる。マーク屋の宿命やな」
 スタンディングが明暗を分ける時代。人の良さだけではA1班と2班をエレベーターするしかない。そんな甘い顔を見せるとつけ込まれるのがオチ。西谷もそんな好人物だが、この岸和田戦に限っては別。記念初Vへ、選手生活(4年)のすべてを投入する気構えだ。
 「勝負やと思ってる。メンバーを見渡しても、遠慮する人もおれへん。江崎(広重)に取られたら(江崎ー矢村正の)3番手になってしまう。スタート負けはでけへん」
 立川・オールスター競輪(3365着)の後半2走は、スタートを決めながら藤巻昇、渡辺孝夫に位置を譲った。2走とも肝心の阿部良二が動けず惨敗。「チェッ」と舌打ちしただけで、責任を転嫁することはなかった。それより「みんな力は変わらへん」と戦える自信をふくらませた。
 年頭の玉野記念は僚友・片岡克巳が優勝。西谷は準決勝で敗れたが、最終日はバックまくりの柳井譲二を1車近く抜き去った。「あの時とデキに変わりはない。番手でなくても3番手以内なら勝負になる」と“弱メン記念”に勝算ありの口ぶりだった。結果は決勝戦の4着でも、気合通りの戦いを披露していた。

◆72◆平成19年11月17日(土曜)
 “オレも主役”のもう一人は44期・安江俊樹だ。岸和田競輪の番組マンは「開設32周年記念」前節の特選メンバーに、安江をシードする考えをもっていた。A1班は17人。メンバーを見渡すと先行選手がいない。だから、あと“1”は先行・安江が不可欠だった。
 前走の名古屋記念13F着で、初日の選抜をジャン4角から逃げて、4番手の佐野裕志のまくりを封じて押し切った。半周11秒6の好ラップだ。「アウト併走から思い切って行ったのが良かった。タイムも満足です」と手応えもバッチリ。その勢いで準決勝の厚い壁もカマシ先行で初めて打ち破った。
 「初体験のオールスター競輪(立川48738着)で無様なレースをしてしまったが、勉強になることばかりでした。とくに気迫です。ボクには、この気迫が足りなかった」
 兄貴分の竹内久人は努力で“超一流”の仲間入り。安江もまた練習、練習に明け暮れる毎日を送っている。疲れが残り、体調を崩すこともあった。それも母・葉子さんの助言でベッドから畳の生活に変え、グッスリと睡眠をとれるようになった。体重も65`から72`に増え、好成績につながった。
 「後ろに付けてくれる人が勝ってくれればいい。逃げて、逃げまくるだけです。長距離も乗ってきたし名古屋以上の成績を残したい」と“44期一番槍”へ、発進準備完了だ。結果は62G着。準決勝は強引にハナを切って粘ったが、残り2走は“気迫不足”の中途半端さが災いした。

◆73◆平成19年11月19日(月曜)
 混戦ムードの岸和田競輪「開設32周年記念」前節の決勝戦(56年11月3日)は、3番手をキープした中野孝が逃げ粘る尾池孝介を4分の3輪抜き去って、デビュー10年目で初の“記念”を手に入れた。「こんなことは二度とないかも知れませんね。最終的に桑木(和夫)さんの後ろについていればなんとかなると思っていた。ヨミ通りのレースでした」と喜ぶ中野の側で、尾池が悔しがっていた。
 安江俊樹を叩いて主導権を握った尾池。マーク巧者の桑木は安江から、尾池の後位へスイッチ。この時点で中野は桑木後位へ。安江は内で粘りかけたが後退。こうなれば尾池のペース。地元のホープは全力で4コーナーを回った。後ろではガシャンと落車の音。まくってきた向坂益男を桑木がブロックできずにバランスを崩して落車。逃げる尾池は「やった。優勝や」と心の中で叫んだ。ゴールまで、あとわずか。ところが落車を避けて内から抜け出した中野が尾池を捕らえた。大量落車にならずに難を避けた中野にツキがあって、有利な展開の尾池にはツキがなかったのだ。
 「悔しい。早く喜びすぎた」と尾池。勝利の右手をあげ、喜びを全身で表す中野を見ながら、4分の3輪差をうらめしく思った。準決勝で逃げて11秒6の好ラップをマークした尾池。決勝戦の12秒3では、いくら落車があったとはいえ、抜かれて当然のタイムだった。

◆74◆平成19年11月28日(水曜)
 岸和田競輪「開設32周年記念」後節は“挑戦”というタイトルで金田隆博・桑野治行をで佐古雅俊をで取り上げた。この後節は山口健治や吉井秀仁、高橋健二、竹内久人らスーパー軍団が揃っていた。45期の金田、佐古、46期の桑野のヤングが、どんなアピールを見せるか注目を集めていた。
 まずの金田と桑野。金田はB級でもたついたが、A級に上がると初戦の富山11A着から13場所連続優出、このうち優勝6回を記録。7月の大垣ではバンクレコードの11秒3を樹立するパワーの持ち主だ。「B級で10連勝特進を目指したが、いつも後一歩でダメでした。でもB級でもまれたのが結果的に良かったと思う。いま、自分の目標は先行で名を売ること」と主導権奪取を決めていた。練習は岐阜に住み込み、竹内久人や安江俊樹らと汗を流し、岐阜が開催中は一宮、名古屋へも“出稽古”するほどの熱心さだった。
 桑野は3年6ヶ月のアマ歴を誇るが実績はゼロに等しかった。それが大津訓練所から競輪学校に入ってメキメキ力をつけた。学校教育がピッタリマッチして、野田正に次ぐ2でプロ入りした。「競輪学校では自主訓練もしなかったし、決められた課程を消化しただけです。だけど学校で力がついたのは確かです」。順調な実戦舞台も4場所目のびわこ・新人戦で左腕骨折で2ヶ月の欠場。この間に野田はA級特進、来年1月にはA1班へ昇格とトントン拍子の出世。桑野はA級の壁を破るのに苦労していたが、この頃にはA1班相手にも通用するようになってきた。
 こんな2人は予選を突破した桑野は準決勝で敗れ、金田は予選で3着に沈んだが、以後は特別戦線でも注目を集めた。

◆75◆平成19年11月29日(木曜)
 “挑戦”のでは佐古雅俊が「記念は来年ねらいます。今回は思い切ってぶつかります」と息巻いていた。1月に昇級後は9月のA2班に昇格。そして、すぐの川崎記念712着でA1班の太田雅士をまくりで仕留める“金星”をマーク。「いま、調子は最高です。今回はスタートで前を取って、突っ張り先行で戦う気持ちなんです。前には誰も出させません。いつまでも相手を強く思っていては永久に勝てないかも知れません。ここらでボクの“強さ”を知らせますよ」と気合がほとばしるばかり。
 夏場に自在への変身を試みたが玉野32D着で失敗。本来の自力戦に磨きをかけるようになった。
 「今岡さん(敏彦)らと刺激し合って練習している。レースは気迫ですね。これが一番大事です。岸和田では気迫で負けたくない。先輩の木村さん(一利)もいるし、目いっぱいがんばります。先行してもカマされないように合わせて出ます。ウデ試しですよ」
 優勝数6回は広島でbPのV数。現在の持ち点は105点ぎりぎり。もう一段階上へステップするためには岸和田競輪「開設32周年記念」後節は格好の舞台だ。
 佐古の気迫駆けが実って、初日選抜を番手奪取から2着に入り、準決勝はBSまくりで粘り込んで、決勝戦に進出した。結果は果敢に立ち回ったものの、竹内久人の強烈なまくりを浴びて沈んだ。こんな佐古の“気迫走”はビッグな舞台でも脅威のマトだった。

◆76◆平成19年12月10日(月曜)
岸和田競輪「開設32周年記念」(決勝戦=56年11月10日)で竹内久人が初めて記念競輪の完全優勝を手にした。豪華な決勝戦メンバー(@竹内A吉井秀仁B山口健治C阿部良二D国松利全E佐古雅俊F新井正昭G吉岡隆伸H高橋健二)で、竹内は連勝で進出してきた。圧巻だったのは初日特選。バックから一気にまくって11秒0の自己新記録をマークしたのだ。
「高橋さんに任せるようになると思うけど、ごちゃつくようなら初日のように自分でまくって行く。本番(競輪祭)へ向けて、いまから気合を入れて、そのまま突入したいんですよ」
展開は前団が競りでもつれ、竹内は高橋から離れて併走の4番手に控えた。そして2角まくりの阿部に合わせてバックまくりで初の記念完全Vを飾った。
「完全優勝は初めて。意識して挑戦しました。スタートは取れなかったが、自分で動く気持ちがあったので苦にはならなかった。まくって勝ったので、よけいにうれしいです」
 グラウンド内の表彰式でヘルメットをスタンドへ投げ入れ、胸を張って引き上げてきた。3月の西宮、8月の豊橋に続いての記念勝ち。「オールスター競輪のあと、ちょっと悪かったが、これで波に乗れます。競輪祭も、まず優出をねらいます」と、初タイトル奪取への野望もちらりとのぞかせていた。競輪祭は残念ながら仕掛ける機会を逸して8着に散るなど、ビッグレースでは甘さが災いして、持ち味を発揮できなかった。

◆77◆平成19年12月12日(水曜)
近畿地区の年明けは和歌山競輪「開設記念・和歌山グランプリ」。寒風吹きすさぶ中で熱闘を展開する。57年の「32周年」前節では、斎藤哲也をスーパー級への“真価を問う”としてピックアップした。45期のチャンピオン斎藤はデビュー前から脚光を浴びた。
 努力家・坂東利則の秘蔵っ子で「モノになる子がおるんや。A1班はもちろん、それ以上の素質がある」と、いつも取材陣に売り込んでいた。
 B級は4ヶ月後の川崎で“10連勝・特進”を決め、A級は7戦目の甲子園で初優勝を飾った。順調に歩み出し、56年9月には45期のトップを切ってA1班の肩書きをつけた。ところがA1班初戦の川崎で“事故”が起こった。バンクに叩きつけられ左鎖骨の複雑骨折でリズムが狂った。復帰まで2ヶ月もかかった。豊橋3落欠、競輪祭・新人戦89欠、岐阜記念464とふるわず、暮れの奈良記念で井上茂徳を引っ張り優勝させて、やっと“らしさ”を取り戻した。
 「A1班でいいことは一つもなかった。だけど得るモノはたくさんあった。今は同期に追いつかれ、追い越されたけど、これからはボクが追いかけます。もう一度、スケールのでっかい競走ができるように、脚を鍛え直します」
 56年の7月、福井記念で国持一洋に「いい先行をするねぇ。次に合ったときは目標にさせてもらうよ」と肩を叩かれた。斎藤は「国持さんに声をかけられた」と目を輝かせていた。再び豪快な先行、まくりで…と猛練習に明け暮れた。
 斎藤は和歌山記念の前節で巻き返しを期したが、準決勝で落車。なかなかレースに熱い思いが伝わらなかった。

◆78◆平成19年12月14日(金曜)
 “初笑い”は国松利全だった。和歌山競輪の年頭を飾る「開設32周年記念・和歌山グランプリ」前節決勝戦(57年1月12日)は、最終バック5番手の国松が俊敏に内へ切り込み、直線で鋭く抜け出し優勝を飾った。
 11月末の小倉競輪「競輪祭」で右足を負傷、1ヶ月半ぶりに実戦の場を踏んだ国松の頭の中は「練習は満足のできるものでした。あとはレースの勘を取り戻すだけ」と、いわば“無欲”のシリーズだった。それでも初日特選で巧みなスイッチ走法で4着、準決勝はまくり気味の追い込みと、ブランクを感じさせない動きだった。
だから決勝戦へ向けて「最終バックを3番手以内で通過したい」と願うほど“欲”も出ていた。が、展開は5番手の不利な位置。ただ「緒方さんの後ろで様子を見ることにした」の冷静さが、好結果につながった。
 ジャンから飛び出した唐津信一郎を中田毅彦が番手まくり。さらに福田豊が3段駆け。緒方浩一が関東勢の巻き返しをブロックしながら外、外へ踏むと、国松にインを突く“Vロード”が開けていた。
 「唐津君に付けようかとも思ったが、最後は自分で行かなければならないし、緒方さんの後ろにつけて正解でした」と、西日本勢で呼吸を合わせた作戦が“的中”して、したり顔だった。ガッツが売り物の国松、ビッグな舞台でも常に“ニラミ”を効かせる存在だった。

◆79◆平成19年12月18日(火曜)
 ちょっとした思い出どころか、とんでもないことが起こった。和歌山競輪の「開設32周年記念・和歌山グランプリ」後節が、従事員の職場放棄のため、打ち切りになったのだ。
 14日からの開催当日、午前10時ごろから同競輪場従事員の組合である和歌山県公営競技労働組合の代表4人と全国競走労働組合の役員6人の計10人が競輪場内の開催本部を訪れ、要求書▽事故金による出勤停止という不当な処分を直ちに撤回されたい▽長年に渡る従来の慣行を尊重されたい(勤務時間)▽正常な労使間のルールを確認されたいーを提出し、団交を迫った。と同時に従事員約千人が紀ノ川堤防で集会を行った。施行者側は、就業時間が迫ったため、要求を突っぱね、職場に戻るよう呼びかけた。
 これに対して団交が先と主張する従事員が職場を放棄したため、開催不能とみた施行者側は、同11時に、この日の開催を中止することを決定。午後2時に、17日からの紀三井寺競馬が始まり、同競輪場従事員の2分の1が同競馬場に勤めており、競輪開催が不可能とみて、この開催の打ち切りを決め、発表した。
 この労使問題は昨年9月初旬に約2万円の“誤払い事件”があり、施行者側が当事者6人に3ヶ月の出勤停止を言い渡し、この2月から実施することになっていた。また、この記念の前節3日目(12日)に一人の穴場従業員が休んだため、組合側から窓口を占めてほしいという要求が出され、ひと悶着あった。そして同日、施行者側から労使協約に従い14日から午前10時に職場につくよう言い渡された。これまでは午前10時から30分間は休憩時間とされ、職場には午前10時半までに従事すればよかった。こんな問題が“引き金”となって、この日の団交要求となったようだ。
 中止を決め、入場門が閉められた午前11時には約150人が場内におり、また正午までに約千人のファンが正門前に群がった。施行者側は迷惑料として1人3千円(交通費、予想紙代、新聞代などを含む)を支払ったが、不満とする約3千人のファンは午後4時半ごろまでもめた。
 なお出場選手90人には出場約款に従い、一人62万2700円が支払われ、全員この日帰郷した。
 この頃、待遇改善など労使問題でもめることが多く、ファン無視の団交などで、ギャンブル界全体が世間の非難をあびることもしばしばだった。

◆80◆平成20年1月6日(日曜)
 中野浩一が62場所連続優出で記録を断たれた西宮競輪「開設33周年記念・阪急ダイヤモンド賞争奪戦」後節決勝戦(57年3月9日)は、本命不在の大混戦だったが、地元のエース亀川修一が初めて地元記念を制して男を上げた。暮れの奈良記念も優勝と、一流の座へ大きく前進した。
地元勢が亀川、斎藤哲也、佐野裕志の応援に大挙つめかけていた。ところが井上茂徳の巧みな割り込みと、梨野英人の気迫に、トリオでまとまれなかった。最終ホームで逃げる梨野に斎藤―井上―亀川―佐野―西地孝介―吉井秀仁―国持一洋―阿部良二の並びになっていた。
 斎藤の2角まくりを梨野が許さない。そこで井上は内へスイッチすると、亀川が後方からまくり上げてきた吉井よりも一歩早く踏みあげた。井上は斎藤を飛ばせず、その横を亀川が“3半まくり”で一気に駆け抜けていった。佐野は吉井を張って伸びず、2着に井上、3着に梨野が粘り込んだ。
 盛んな拍手を受けた亀川。ちょっぴりテレながら「これで、ひとつ肩の荷がおりた。最近、もたついていたのも、これでふっきれた。朝から自分に“勝つ”とプレッシャーをかけたのもよかった。ダービー(大垣)もこの調子で…」と、暗雲を取り除く快走に、ダービーでの活躍まで誓った。そして斎藤、佐野、西地の援軍に対し「みんなが助けてくれた。他の地区やったら、内をすくわれていたかもしれない」と感謝することも忘れなかった。
 この日、中野が初めて体験した最終日負け戦の7R。この時点でスタンドは2万人を超すファンでふくれあがっていた。中野が準決勝戦で1着失格、これで亀川がヤル気を見せたのも当然。中野への声援は、亀川へ変わり、期待通りに優勝を勝ち取った。嬉しさ百倍の記念Vだった。

◆81◆平成20年1月8日(火曜)
 従事員の職場放棄から2ヶ月半、和歌山競輪は「第8回紀の川賞」(57年4月4〜6日=前節)から再開した。一枚看板の伊藤浩が初日に落車失格、2日目の朝になって欠場して、混戦ムードの漂う決勝戦となった。そんななかでパワーを思う存分に発揮した山森雅昌が優勝を飾った。
 「思い切って行ったのが良かった。佐野(健次)さんに入れてもらって、いい位置につけられた」と、山森は勝因を“佐野のおかげ”と言った。初日は動かずにどん尻、パワーを出し惜しんで敗れた。だから「これからは2日間とも、優勝戦と同じような競走をします」と反省材料を胸に、果敢駆けで戦うことを誓った。前走の奈良でもジャン先行で優勝、今回も同じスタイルでV2をもぎ取った。それにしてもツボにはまった時の強さを、改めて見せつけた一戦だった。
 スタートで前を取った山下文男。目標を巧者・小松孝志に置いた。3番手の佐野は山森を迎え入れると、神戸範夫が小松の前へ入った。赤板前から牧野晴一―井上和樹が追い上げると神戸が突っ張り、つばぜり合いとなった。こんな流れで山森―佐野が豪快なカマシを放つと、そのまま山森は押し切った。
 同期の伊藤浩は大垣ダービーで大活躍。最終日の順位決定戦で1着を奪い、持ち前のスタンディングをいかしてトップレーサーへのし上がった。前検日から主役の伊藤に対し、山森は「(伊藤の)前引きはしたくない」とライバル意識をむき出し。そんな伊藤のいない決勝戦なら、山森も楽な戦いだったのだ。仕掛け遅れさえなければ、山森は“全国区”の仲間入りを果たせるパワーの持ち主だった。