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【192】〜【201】我が中野浩一 |
【192】平成20年4月4日(金曜)
プロ・スプリントの連勝記録を伸ばし続ける中野浩一。V9の相手はダザンを準決勝で倒した松枝義幸。47期の新進気鋭だ。決勝戦で日本人対決となったのは、ベネズエラでV1を飾った時の菅田順和、フランスでV4を手にした時の尾崎雅彦以来3度目。金銀独占が決まっていても、中野に必要なのは9連覇の金字塔だ。
といって、中野にプレッシャーはない。国内の競輪でも何度となく対戦している松枝。いくらパワーを秘めていても、スプリントのテクニックは中野が数段上。だからカールやシングルトンと戦ったような、不安感も一切なかった。
1本目、2本目とも、松枝がハナを切って逃げた。作戦としては先行しか考えていない。力で中野に逃げ切れば、それだけ価値も上がる。小細工しては、世界王者に申し訳ない気持ちだ。こんな活きのいい若手は、中野も安心して付いていける。競輪競走と違って、松枝を巡ってのマーク合戦もない。すんなりマークなら勝って当然だ。
直線だけで踏み込んだ中野。2本とも同じような流れで、軽く抜き去った。チャンピオンジャージを着るのも9度目。前人未到の9連覇は燦然と輝く記録だ。
宿舎のホテルに帰って、すぐに祝勝会となった。その席上で冷やかされていたのが松枝。「松枝、中野に遠慮して、手抜きしたのと違うか」「中野を逃げさせて、抜けばよかったのに」とか、外野席はうるさい。ちょっぴり恐縮しながら松枝は「そんなことないですよ。目いっぱい踏みましたから。中野さんのスピードが違いますよ」と苦笑い。そんな光景をみながら、中野はニタニタ。V9の余韻に浸っていた。
「もうスプリントはV10でいいでしょう。勝っても負けても、来年のチャレンジで最後にします。勝ち続けたままで、スプリントを終えるのもいいでしょう。負けて引退するのは腹が立つんで、V10 の区切りをつけて、退きますよ」
なんと、中野はイタリア・バッサノでV10を宣言。そしてスプリントとは無敗での引退を決意した。
【193】平成20年4月6日(日曜)
V9を達成して帰国した中野浩一。例年通りにオールスター競輪(一宮競輪場)から“競輪選手”に戻る。V1の直後は、千葉のオールスター競輪で情けない思いをした。「世界チャンピオンはかっこよく勝たないと」と挑んで、まくり不発が4連発。そんな悔しさから、脱皮できたのはV3後の岸和田・オールスター競輪だった。
ものの見事に「スカッと勝てた」のだ。そして翌年に連覇と、世界選の疲れも感じさせず、ファン投票1位の期待に応えてきた。一宮も未勝利ながら832着で決勝入り。高橋健二、美行の兄弟、アニイと尊敬する藤巻昇も同乗だ。
中野マークは健二―美行で藤巻も4番手を固めた。世界選に初めて行ったころから、中野を支え続けた健二。心強く、頼りになる存在だった。世界チャンピオンになっても、中野・健二に久保千代志を含め、スプリントをひろめるため、競輪熱を高めるために、3人で全国を行脚したものだ。
決勝戦は売り出し中の前田義秋がハナを切って逃げたが、中野のスーパーダッシュにはかなわない。一気にまくってしまうと、ゴール前は健二が差して、全日本選抜の佐々木昭彦に続き後位の選手にビッグVをプレゼントだ。高橋健二は昭和50年の千葉ダービー以来、10年ぶりのタイトルに輝いた。ガッツポーズでファンの拍手に応えるうれしそうな健二を見て、中野も晴れ晴れとした表情だった。3位に美行が入り、中野は“役目”を果たした。
10月に静岡記念11@着で完全優勝を果たし、続く観音寺記念落1C着で落車したが、川崎記念12@着で優勝。あいにくの風邪で得意な岸和田記念を欠場して、小倉競輪祭に臨んだ。58年の競輪祭以来、久々のタイトル奪取へ燃えていたが、またも井上茂徳に差されて、2着に敗れた。苦笑いを浮かべても、現実の“脚”は正直だった。
ビッグレースで3連続2着。いずれも、まくりを放ちながら後続の選手に交わされたものだが、晴れやかな舞台でファンを魅了し続けたのは“世界の中野”だ。
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【194】平成20年4月10日(木曜)
暮れの大一番は「第1回KEIRINグランプリ」(60年12月30日=立川競輪場)だ。国内、海外を通じて活躍したベスト9が集う一戦。それなら中野浩一が初代チャンピオンにふさわしい存在なのだ。
ところが、スター・中野は競輪祭後に、テレビの録画撮りで「プロ野球オールスター大運動会」にゲストで招かれて競技に参加。そこで左大腿部を肉離れするアクシデントに見舞われた。一時はグランプリへの出場も危ぶまれたが、幾度となくケガを克服してきた男は、本番前にきっちりと蘇っていた。
栄えある第1回の出場者は@中野浩一A尾崎雅彦B滝沢正光C佐々木昭彦D山口健治E伊藤豊明F井上茂徳G高橋健二H清嶋彰一の9人。井上は競輪祭、佐々木は全日本選抜、高橋はオールスターと、いずれも中野のまくりに乗って優勝した。それなら、3人が中野のために、優勝への絵を描いても不思議ではなかった。
並びは清嶋―尾崎―山口の東京トリオに佐々木―井上―中野、そして滝沢―伊藤―高橋だった。佐々木が行って、井上が番手まくり、そして中野の優勝…こんな想定をしたくなる並びだった。ジャン前に中野が動くと尾崎が強烈にブロック。この時、佐々木が外に浮いた中野を東京勢の後ろ、4番手に迎え入れた。最終1角から滝沢がまくって出ると、井上が牽制しながらブロック。中野にとって九州二人は心強い“味方”だ。バックでまくって出ると、4コーナーでは先頭に躍り出ていた。
佐々木が続き、井上も中を割ってくるが、絶好のポジションからまくった中野は、ゴールを真っ先に駆け抜けた。2着に井上、3着に佐々木、九州トリオが上位を独占して、第1回の“王冠”は中野に輝いた。
場内には約4万人のファンが詰めかけていた。スタンドはゴーッとうなるような歓声に包まれ、表彰式で中野は優勝賞金1000万円のボードを高々と持ち上げた。晴れやかな顔で、世界選V9の年を締めくくった。その夜は朝まで祝杯をあげ、翌早朝、ハワイへ休息に旅立った。
【195】平成20年4月25日(金曜)
V10イヤーは、中野浩一にとって、複雑な一年となった。ケガでの挑戦は過去にも幾度となくあったが、今度のケガはロマンスが芽生えたのだから、幸せな風が吹いたのだ。
初めてのグランプリを制して、有終の美を飾った60年。ハワイで休暇を過ごしても、脚には、しっかりと“財産”が蓄積されていた。
まずダービーTRは別府12@着、平塚12A着で、本番(平塚ダービー)での特選シード権を獲得。続く門司記念13@着、松山記念31@着を連取。順調な歩みで、平塚ダービーへ臨んだ。が、結果は266着で、途中欠場の情けない結果に終わった。
ダービーが終われば、次のターゲットは高松宮杯(びわこ)。武雄記念23A着→川崎記念23@着→大垣記念16欠→宇都宮記念32@着と、戦績としては上々だった。ただ、大垣は、どうも相性がよろしくない。50年5月にデビュー以後、連戦連勝、18連勝で大垣へ乗り込んだ。ところが、初日に5着に敗れ、準決勝は1着でも、決勝戦はまたも4着の大敗。よほど大垣の水が合わないのか57年のダービーでも721C着。決勝に乗ったものの、初日は落車再乗の7着だった。
「大垣は、ほんと、相性が悪かったね。勝てる展開でも勝てんかった。そう、びわこも同じ。苦手ではないのに、なんか分からないけど、勝てない」
引退するまで、中野は全場制覇を目標に置いていたが、この大垣を含めびわこ、四日市、取手の4場で優勝ができなかった。どの場も勝てそうで勝てなかったのだ。
さて、高松宮杯競輪を前に、アクシデントに見舞われた。宇都宮記念を優勝した後の5月21日、練習中に落車、肋骨を5本も折る重傷を負った。そのうちの1本が肺に突き刺さり、気胸(肺に穴が開く)になった。
「すごくショックでした。自分でも肺がパンクするんじゃないかと、心配でした」
退院したのは6月19日。全日本選抜競輪へ向けて練習を再開した。ところが、7月にまたも落車、再び骨折箇所を痛めた。高松宮杯競輪に続き全日本選抜も欠場。それよりも世界選V10へ、暗雲が立ちこめた。
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【196】平成20年4月28日(月曜)
61年頃の競輪界は、中野浩一のV10奪取へ、どのセクションも協力的だった。とりわけ日本自転車振興会は“宝”を大事に扱った。当時、同業務部に勤務していた故・平塚昭八郎さん(昭和62年2月9日死去、享年45歳)の発案で「V10プロジェクト」ができあがった。平塚さんは中野を励まし、いつも勇気づけていた。コロラドへも自費で中野の応援に出かけた。V10達成を脳裏に焼き付けたかったのだ。
「V10プロジェクト」は世界選前に、競輪学校で“特殊練習”をするためだ。寺門敬夫医師と山本忠雄トレーナーで調整メニューを作成して、中野の心・技・体のバランスを整えながら、鍛えることになった。急ごしらえでも、パワー・スピードをよみがえらす練習方法だ。
「ボクの意思より、とにかくメニュー重視でした。体さえ出来上がって、肺に支障がなくなれば、脚の方は、そう心配することもなかった」
もう一人、中野を支えたのが小久保尚美さんだった。初めはグループ交際だったが、中野が落車で入院すると、尚美さんは遠路はるばる久留米まで何度も足を運んだ。元歌手で、明るい尚美さんの“看病”に世界チャンプもイチコロだった。
仲のいい選手が次々と身を固めても、中野は結婚と無縁だった。見合いもしたが実らず、週刊誌には芸能人と根も葉もない浮いた話しが載るていど。「芸能人とは結婚しないと」と決めていたが、尚美さんの積極的なアプローチに、中野も自然と愛を深めていった。気持ちはV10奪取で、婚約→結婚の図式だ。
ハードな練習をこなし、精神的にも、中野はタフになった。5本折れた肋骨は、まだ1カ所、完全につながっていないが、脚の方は万全の仕上がりだった。
米国・コロラドスプリングスへ出発するころには、もう余裕ができていた。8月16日の国際記録会で10秒58の世界記録をマークしたヤーベ・カール(フランス)が、練習中の落車で、世界選の欠場情報が伝わってきた。戦わずして中野の前から強敵が去ったのだ。
さらにプラスとなったのは、この年から採用の対戦相手を決めるタイムトライアルだ。200bフライングタイムなら“浩一ダッシュ”にかなう者はいない。セブン・イレブン競技場での感触もバッチリつかんでいた。
【197】平成20年4月30日(水曜)
米国・コロラドで「1986年世界自転車選手権大会」が始まった。スプリントには13選手がエントリー。日本からは中野浩一と松井英幸、俵信之が出場。タイムトライアルでは、13番目のトリに登場した中野が、なんと10秒57のプロ世界新記録をマークした。群を抜くタイムに、他の選手は先制パンチを浴びたのと同じだ。
「“チャンピオン・ナカノ”と紹介されたときに、すごい声援があったでしょう。あのワーッという声で力が入りましたよ。タイムも納得だし、スプリントは絶対に勝ちます」
区切りのV10で“スプリント引退”を決める大会に、中野は初めて両親(父・光仁さん、母・美江さん)を招待した。最後の舞台を、世話をかけた両親の前で終えたかったのだ。
また、仲のいい競艇のモンスター野中和夫も応援に駆けつけた。フライング休みをハワイで過ごしていたのだが、中野の“最後”を見届けたかった。
「10連覇やからね。日本一でも巨人がV9、柔道の山下泰裕君が9連覇やし、浩一の10連覇は偉大な記録や。しっかり見届けたいよ」
野中は同じギャンブルスポーツでも、世界へ羽ばたく機会のある競輪界がうらやましかった。だから、異種競技でも私生活を含め中野の相談にものり、王道を歩く厳しさも教えた。
そんな応援団の前で、中野はストレートで勝ち続け、準決勝はディター・ギープケン(西ドイツ)をあっさり退けて決勝進出。相手は俵信之を破った松井英幸だ。
V10へ安心しきった中野に、山本忠雄トレーナーが「松井は完調だから油断するとやられるぞ」と釘をさした。それでも中野は「チャンピオンの意地にかけて新記録を作りたかった。条件がよければ10秒3か4はでるバンク」と、スピード決着を自らに課した。
1本目は逃げる松井を追い込んでV10に王手をかけた。2本目は2コーナーから一気にスパート、10秒67で逃げ切った。新記録を樹立できなかったが、2−0で松井を倒し、不滅のプロ・スプリントV10を飾った。
応援団は、そろってホッとした。
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【198】平成20年5月2日(金曜)
V10の快挙に喜びに沸く選手団、応援団の前で、中野浩一は感極まっていた。世界選の舞台に立ってから11度目。その間、一度も涙を流したことがなかった。それが、この日ばかりは目に涙が浮かんでいた。
落車から肋骨を5本骨折。そんな中野を献身的に面倒を見てくれた寺門敬夫医師、山本トレーナーへの感謝、そして両親の目の前で達成したV10の金字塔。中野は涙が止まらなかった。
「みんなに助けてもらった。感謝してもしきれないぐらいの気持ちです。松井君との対戦では緊張したし、最後は上がりタイムの世界記録を更新するつもりでした。でも、最後の大会で両親に来てもらって、勝てたのがうれしい。これでスプリントは引退です」
3位決定戦で俵信之がギープケンを破り、日本勢で初めて金・銀・銅を独占した。中野の10連覇は終わったが、後継者は銀・松井英幸と銅・俵信之と決まった。とくに「次は金メダルをねらう。俺が中野さんの後に続く」と“ポスト中野”を宣言した(翌年は俵が金メダルを獲得)。
「できればチャンピオンのうちに日本で世界選を開催してほしかった。今後はケイリンで世界に挑戦したいと思っている。まだ金メダルを取ってないから、ぜひとも挑戦したいです」
新たな目標を決めて帰国した中野。マスコミには引っ張りだこ。“時の人”はテレビにも出っぱなしだ。中曽根康弘首相からは「内閣総理大臣顕彰」を授与された。小久保尚美さんとの婚約も発表した。新たな人生へ向かって、61年の国内後半戦へ挑む。
帰国初戦の平・オールスターは231E着。決勝戦は中野に井上茂徳―佐々木昭彦が付けて本線を形成したが、売り出し中の本田晴美を目標にした伊藤豊明が、中野がまくりかける前に“番手まくり”を放って優勝。中野には計算外のレースだったが、ドリーム戦2着、準決勝1着で、V10男の面目は保った。
【199】平成20年5月4日(日曜)
10月以降は京王閣記念31A着→門司記念11D着→一宮記念13@着を終えて小倉・競輪祭に臨んだ。3年ぶりのビッグVを目指して211着で決勝入り。ところが、まくれずに、外に浮き、ゴールには9着で到達した。
この9着。中野にとって、デビュー以来11年7ヶ月目に、実質的には初めての9着(51年9月の前橋オールスターはドリームで落車再乗の9着)だった。
「自分で9着と分かったとき、なんかすごく残念でした。前橋のときは、後で再乗しなかったら良かったと思ったけど、こんな長いこと9着をとらないとは分からなかったからね。でも寂しかった」
そんなショックの後も広島記念51F着→岐阜記念41B着→立川GPB着をこなして、V10 イヤーの幕を閉じた。
しかし、だ。騒ぎは収まらない。「1996年KEIRINグランプリ」の後、例年通りにハワイへ行ったのだが、婚約者の小久保尚美さんと一緒だったのが災難? だった。
昨年までは、ひっそりとハワイの休日を楽しんでいたが、プロ・スプリントV10 の威光に加え、婚前旅行ではマスコミも関心度は高く、放っておいてくれない。テレビ局の現地ルポの取材で追っかけ回された。
「去年は落車で、世界選用の練習しかできなかった。体作りもそうでした。今年はケガを少なくして、1年間を通じて体力を維持したい。世界選のケイリンにも挑戦したいし、家庭も持つんですから、しっかりと戦い抜きたい」
披露宴は62年1月30日、東京都港区高輪の新高輪プリンスホテルでの「飛天の間」で行われた。招待客は政財界、芸能界、プロスポーツ界、友人、知人ら約700人。衆議院議員、渡辺美智雄夫妻の媒酌で結婚式を挙げ、中野は一家の大黒柱となった。
「尚美は一緒にいても疲れないんですよね。ボクはワガママだから、気持ちをすごく考えてくれるんです。結婚して弱くなったといわれないように頑張りますよ」
この日は尚美夫人の23歳の誕生日。前日の29日には「1986年プロスポーツ大賞」を受賞と、二重三重の喜びにわき、新しい人生の第一歩を踏み出した。
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【200】平成20年5月23日(金曜)
新婚生活にどっぷり浸っているわけにはいかない。昭和62年の競輪界は、もう始まっていた。暮れから1ヶ月の休みでも、中野浩一には忙しすぎる“休暇”だった。練習も思う存分できていない。それでも、スケジュールは容赦なく追ってくる。
まず、千葉ダービーへの出場権を決めるダービーTR戦だ。練習不足でも、ファンには関係ない。勝つか、負けるか、調子がいいのか、悪いのか、あくまでも車券の対象だ。まず1回戦の取手は13G着で終えた。悪いなりに決勝戦には進出した。
2回戦は地元の久留米(2月7〜9日)。終われば11日に九州地区での“結婚披露宴”が待ち受けている。無様な成績で披露宴に出るわけにもいかない。そんな状況でも、中野は気力で乗り切った。31A着で、千葉ダービーでの特選シード権を辛うじて手に入れ、なんとか面目を保った。
この決勝の日、中野の新居に悲報が届いた。世話になった日本自転車振興会業務部の平塚昭八郎さん(享年45歳)が白血病で他界した。
「ボクの兄貴みたいな人でした。いつも“強くなれ、負けるな”と言われました。久留米へ来る前に病院へお見舞いに行ったときは笑顔を見せられてたんですが…。もう会えないと思うと寂しいです。ご冥福をお祈りします」
世界選のV10前には、「V10プロジェクト」を発案して、中野を“特殊練習”で蘇らせた平塚さん。“日本の宝・中野”を大事に扱い、常に競輪界の発展を願っていたのだ。
11日の披露宴、そして12日には新婚旅行と、中野は葬儀に参列できなかったが、その分「しっかり練習を積んで、ダービーでいいところを見せます。平塚さんも天国から元気な姿を見てくれるでしょう」と千葉ダービーでの活躍を誓った。だから、新婚旅行先のハワイへ、自転車を持参していったのだ。
“ナガサワ号”をハワイへ、以前から中野は長沢義明氏に持って行く方法を相談していた。家庭を持って、落ち着いて競輪と取り組む気持ちになったのか。長沢氏は「ちょっとはヤル気になっているんだろう」と、“ハワイトレ”を歓迎していた。
【201】平成20年5月25日(日曜)
スプリントはV10で引退した中野浩一だが、この年の目標には、世界選での「ケイリン挑戦」も含まれていた。パワーに任せて世界チャンピオンの座を10年間も守ってきた中野は、まだまだパワーに自信満々だった。コロラドでは10秒台を連発させたことが、裏付けだ。それでも、ケイリンの金メダル奪取には疑問も抱いていた。
「瞬発力はボクが上ですけど、スピードの持続力は外国人の方が上でしょうね。ハナに立ってしまえばスプリントに持ち込めるけど、位置が不利になると、ボクのダッシュ力でも通用しませんよ」
世界選のデルニモーター誘導では初速35`、終速45`ぐらい。かなりのスピードの持久力が要求される。外国人は11秒3前後をコンスタントに何周でも計時するが、日本人は10秒8か9を一、二回マークしても、続かない。こんな差が、ケイリンで金メダルに手が届かない原因なのだ。
あえて、中野は挑戦する。もちろん“全プロ”で代表権を手にすることが挑戦の条件だ。だから、新婚旅行先のハワイまで“ナガサワ号”を持って行ったのだ。
帰国後は松山記念11B着、西宮記念41@着と“らしさ”を取り戻した。ダービーの特選シードも27人中の26番目では、先行きに不安があって当然だった。
「ダービートライアルの頃は最悪でしたね。2番手にいても、ゴールで後ろから抜かれるしね。まあ、調子もボチボチ上がってきてますよ」
上向きの状態で臨んだ千葉競輪の「第40回日本選手権競輪」(競輪ダービー)だったが、相性の悪いバンクでは“世界の中野”も精彩を欠くばかり。1走目こそ2着に踏ん張ったものの、以後は564着と、準決勝も6着で敗退。それもパワー不足の、平凡な内容で敗れ去ったのだ。
直後の川崎記念では初日7着、準決勝では9着に沈み、最終日は欠場。続く武雄記念41A着はなんとか格好をつけたが、予想紙やスポーツ紙の予想も、中野の印(◎○△×など)は低くなった。車券のかかった競輪競走では、隆盛を誇った大本命・中野も一番人気に支持される度合いが減ってきた。
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