◆13〜27◆楽しき取材日記
◆13◆平成19年7月4日(水曜)
 昭和48年9月19日付けには高橋健二の優勝を取り上げていた。1周300bの板張りバンク、西宮競輪は“ルーレットバンク”とも呼ばれていた。A級3班の高橋がA 級1班の菅谷勇、須田知光、佐野正晴をまくりで封じ、A級3度目の優勝を飾った。それも二度、三度と外へ振られながらもパワーでねじ伏せたのだ。「最終の3コーナーで振られたときも、別にあわてななっかった。それより、ここで負けたら先行選手のながすたると思った。だから優勝よりも、まくりきれたことに満足です」。前年の10月にデビューした30期生。無キズの10連勝に挑戦した豊橋ではラフプレーにスポーク5本を折って2着に敗れた。「あれほどくやしかったことはない。この次は絶対に10連勝」と気を取り直し2月に“特進”を決めた。「勝つことよりも先行したい。これからは持久力をつけたい。阿部良二さんのような先行選手になりたい」と、マーク屋に頼ってもらう先行選手に目標を置いていた。もちろん、高橋はスパースターへまっしぐらに突き進んだ。

◆14◆平成19年7月5日(木曜)
 “ミスター競輪”は強さも断トツだ。昭和48年11月13日(14日付け)の岸和田競輪「開設24周年記念・岸和田キング」後節の決勝戦で、この年の「高松宮杯競輪」で猛威をふるった太田義夫(優勝)ー山口国男のフラワーコンビを3〜4コーナーで振られながら、強烈なまくりで仕留めた。3月のダービーを含め、1月から通算18回目の優勝を飾ったのだ。「いい気持ちだねぇ。やっぱり優勝はいいもんだ」。激闘なんて無関係。勝って当たり前の阿部は涼しい顔。そして「振られたけど負ける気はしなかった。調子を崩さないように、常にベストをつくす心がけでいます。勝ちが続くと練習も楽しくできます。後は12月の競輪祭まで配分がありません。2、3日休養してタイトルをねらいます」と、意気揚々と引き上げた。当時はレースが終わると仙台までたどりつかない。だから北日本の選手は伊丹空港近くのホテルで1泊するのが常だった。この夜、阿部は私ら記者数人と大阪ミナミで大いに飲んで、遊んだ。酒豪で飲むほどに陽気になる阿部。楽しい夜を過ごしたものだ。以後、阿部の縁で宮城の選手とは、開催後の“宴会”が恒例となった。

◆15◆平成19年7月6日(金曜)
法政大学を3年生で1年休学して競輪選手になったのが平原康広。そうパワフル先行でスターダムにのしあがった康多の父親だ。まだ、このころは当然、独身。スクラップの昭和48年10月10日付けにはマーク屋の平原が西宮競輪「サンスポ杯争奪戦」でA級3度目の優勝を逃げ切りで飾っている。当時は、関東のマーク屋が西宮にやってくると、1周300bのバンクでよく先行で戦っていた。理由は「小さなバンクだから、地脚のあるマーク屋には打ってつけ。コーナーだけを踏めば楽に運べるんだ」と言っていたもの。
 平原も同じ手をつかったのだ。28期でデビュー、定期昇級でA5班から3班、そして2班へ上がった平原。法政大学へ復学して、仕事と学業を両立させ、この3月に“学士レーサー”となったばかり。「大学を卒業したことで、精神的に楽になりました。自転車一本に打ち込めるようになりましたから。こんな大きなカップは初めて。いい記念になります」と大喜びだった。この記事をコピーして康多に渡したところ「父親の選手時代が分かってうれしいです」と感激していた。
◆16◆平成19年7月7日(土曜)
 昭和48年12月3日(4日付け)の小倉競輪「第15回競輪祭」の決勝戦で、壮絶な戦いの末に、1着失格、繰り上がり優勝と明と暗がくっきり。福島正幸、田中博、阿部道の“3強”に荒川秀之助、谷津田陽一もいた。最終的にホームでカマした谷津田がぶっちぎってゴールを目指す。仲の悪い? 群馬コンビも福島ー田中で並び、阿部は分断の手に出た。ところが田中はホームで阿部を強引に内へ押し込む(これで失格)。福島は谷津田を追っかけ、田中も鋭い回転力で福島を交わした。
 ダービーで阿部に、オールスターで福島に、この年は2度もビッグ決勝で2着に甘んじた田中が、思いの丈を一気に晴らすように右手を突き上げてガッツポーズ。「失格かどうかは五分五分」と言って引き上げてきた田中。失格の判定に「うーん、僕は阿部に福島の後ろは意地でも引かないぞと言ったんだ。それなのに…」と唇を悔しそうに噛みしめた。福島が「どうも」と田中にペコリと頭を下げて表彰式向かったが、田中は「仕方ないよ」と笑って福島を送り出したが、内心は…。競輪学校のEMG診断(筋力測定)を取り入れた福島が、繰り上がりとはいえビッグ連覇。「レースの展開は僕の考え通り。でも競ってた田中さんに差し切られたのは、田中さんの力が上回っていたということですが、連覇は素直にうれしい。今は最高の状態だし、あとはダービー」と、悲願のダービーVで“全冠制覇”に色気たっぷりだった。それにしても“犬猿の仲”といわれた群馬同士がタッグを組んで、それで明暗が分かれるとは、勝利の女神はいたずらが好きなのかも。

◆17◆平成19年7月9日(月曜)
 やっと、田中博に笑顔が戻った。昨年はダービーで阿部道、オールスターで福島正幸の決勝2着に敗れ、挙げ句の果てに競輪祭で1着失格。そんな不運から、一転したのが昭和49年2月19日(20日付)の西武園競輪場で行われた「第27回日本選手権(ダービー)」だ。もちろん悲願のダービー制覇で“5冠(全冠)”をねらう福島、ミスター競輪・阿部、高松宮杯優勝の太田義夫もいる。田中は「阿部君を目標の方がいい」の作戦だったが、太田が同期で阿部マークを主張。しかたなく福島マークに切り替えた。この作戦変更が田中に吉と出た。阿部は伏兵・大坂和夫のホームカマシにつぶされ、ギアを3・69から勝負ギア3・85に上げた福島が「レースの流れも思い通り。後はギアを上げた分だけ粘る」と強烈な3角まくりで“5冠”へ向かった。まさに理詰めの福島の運び。それでも競輪祭で福島を差している田中は「福島君がまくった時点で勝てる自信ができた」と“豪脚”をうならせゴールを駆け抜けた。「第21回高松宮杯」「第14回オールスター」に次いで3回目のビッグタイトルを手中にした。福島は引退するまで“ダービー”を制することはなかった。内に詰まったままの阿部が力を出せず、宮城勢のダービー4連覇も阻まれた。このダービーも不思議な“縁”が織りなす一戦だった。


◆18◆平成19年7月10日(火曜)
 心温まる話が第33回生卒業記念レースであった。昭和49年3月28日(29日付)の決勝戦は荒天で1日順延されたが、この日も小雨がバンクを濡らす悪コンディション。そんななかでトリオを組んだのが山本哲三ー葛西新蔵ー樋口和夫の仲良し組。千葉ー青森ー愛知と出身県が違うのに、なぜ…。そんな疑問がすぐにわいたが、山本が「葛西さんは自転車歴のない僕に、手取り足取り教えてくれて、いつも練習につきあってくれました。決勝に乗れたのも葛西さんのおかげ。だから先行することしか考えてなかった」と話していた。アマ歴豊富な葛西は“33期3強”のひとり。山本にとっては“師”とあおぐ存在だった。もちろん逃げる山本の番手は葛西。鷲田善一の3コーナーでの追い上げにも、葛西はしっかり対応。直線で踏み込み、樋口とワンツーで決着をつけた。山本も4着に粘り、進境の一端を披露した。「勝因は山本君が主導権を握ってくれたことにつきます。プロでは2年間は先行で戦いたい。そして徐々に自在型に転向したい。3人でスクラムを組んだかいがありました」と、めんどうみのいい葛西は満足そうに笑っていた。学校時代の同期、同班、同室は、いつまでたっても仲がいいのは当たり前。まして葛西に一人前にしてもらった山本は、受けた“恩”を生涯忘れることはない。この33期から10ヶ月教育が1年間に延び、葛西はその第1回優勝者。訓練期間の延長でレベルの高くなった33期、しばらく話題を連続してとりあげたい。
◆19◆平成19年7月11日(水曜)
 33期生は72人が卒業した。そのうち42人が東日本と、まさしく輪界の流れと同様に“東高西低”だ。現在も北日本が王国を築いているように、昭和49年前後は宮城、群馬を軸にした東日本が強力だった。そんななかの沼田弥一、耳塚喜門、葛西新蔵の3人を東日本「上・3強」として4月1日付で取り上げた。葛西は卒業チャンピオンで1年間の苦労が実を結んだが、沼田は11落1着、耳塚1151着と準決勝で崩れた。それでもともに3勝をマークと、抜群の素材を実証した。沼田は白川農工高を卒業後、某自転車メーカーに就職。3年間のサラリーマン生活を経験。その間、アマチュアとしてミュンヘン五輪出場など輝かしい戦歴を残した。そして「関係者の人にも顔がたった。今度は競輪選手として自分を試す」と輪界入りを決意。耳塚と葛西は日大の自転車部で切磋琢磨しあった親友同士。耳塚は“ダッシュの耳塚”と異名を持つスプリンター。沼田との対戦も5勝4敗と勝ち越していたが「僕の方が沼田君の後ろを回ったから有利だっただけ」と謙遜。「荒川秀之助さんみたいにバネを生かしたい」と話していた。葛西は「持久力は自信を持っている。だから身上は先行と思っている」と果敢に攻めるタイプ。ただ、3人とも、プロの荒波を受けて、トップクラスに育たなかったのが残念。

◆20◆平成19年7月12日(木曜)
 33期・東日本の「下」のトップは、卒業記念で葛西新蔵を引っ張った山本哲三。競輪学校の教官からも「卒業間近になってメキメキ地力をつけてきた。楽しみな選手」と期待されていた。葛西との猛練習に明け暮れるなかで、山本はバリカンとハサミを持って、同期生の頭を刈ることもしばしばだった。頼まれると年齢の上下は関係なく、気安く頭を丸めたとか。こんな話題の載ったスクラップを長男の健也(S級・89期)に見せたところ、「競走でベテランの人から父のことを聞いたりしてましたが、こうやって卒業記念とかの記事をみると感激ですね。母も喜びますよ。僕も父のように先行で頑張りたいです」と喜んでいた。健也は将来が楽しみな大型先行選手。性格も父親同様におおらか。頑張ってほしいもの。デビュー後に福島から宮城に移籍した関根好雄は白川農工高の出身。沼田弥一の後輩で、日韓対抗1万b速度競走1位、国体千bタイムトライアル1位と抜群のアマ実績。ただ卒業記念は準決勝のスタート直後に落車、再乗してはるかかなたの一団を追っかけ、2周バックで追いついたが余力は残ってなかった。こんな負けじ魂がプロ向きだ。「気合不足が落車につながった。一から出直しです」と無念の唇をかみしめ、プロでの飛躍を誓った。ビッグレースでも一発屋として活躍。私を含め関西の記者3人が、関根の結婚式にも出席するなど、今でも親交の深い選手だ。

◆21◆平成19年7月13日(金曜)
 中部地区の33期は競輪一家に育った高橋美行が出世頭だ。元競輪選手の父親の故・義一さん(高橋が4歳の時に死亡)、兄の昭二(25期)、健二(30期)がいた。「幼い頃、父の走っているのを見て競輪にあこがれていた。兄の影響もありました」と、自然と選手へ。学校卒業後は黒須修典の門下生として鍛え抜かれた。黒須が「1週間ほど休ませた。競輪学校では科学的に仕上げられているので、今後は競輪競走にあった指導をしていく。高橋は二人の兄に負けないぐらいのがんばり屋です。鍛えがいがあります」と手ぐすねをひいていた。タイトルこそ手にできなかったが、159pの小柄な体で、常にトップクラスに位置していたのは、このデビュー当時の猛練習のおかげだった。
 近畿地区では鷲田善一だ。“33期3強”の沼田弥一や耳塚喜門、葛西新三から「一番怖い相手」と恐れられていた。自転車の盛んな福井工業高の出身。「好きな自転車でメシを食えるのだから、競輪選手になる」と単純明快に輪界入り。期待通りに近畿の大砲としてビッグ路線でも活躍した。息子は2人(88期・佳史、92期・幸司)とも選手の道を選んだ。佳史はS級へ特進を果たし「親父も“福井の鷲田”で全国に知られていたから、僕も同じように呼ばれるように頑張る」と、活躍を誓っている。親子、兄弟、こんな絆が競輪界を支えているのだ。
◆22◆平成19年7月14日(土曜)
 33期の「西日本」は中国、四国、九州を合わせて15人の寂しさ。中野浩一が昭和54年に岸和田で「第22回オールスター競輪」を制したとき、中野マークで3着に食い込んだのが七竹茂。広島広陵高では硬式野球部に籍を置いていたが、短気な性格が災いして先輩といさかいを起こして退部。「野球でダメなら競輪選手で」と転向して、ビッグの表彰台にも登った。苦労が実った一瞬だった。
 全国区は服部良一だ。卒業レースでスタート直後にスリップ落車。慰められても「全力を出し切って敗れていたのなら…」と、なかなかあきらめきれなかった。大型先行の大坂和夫の指導で、着々と地力アップ。ビッグ路線で長らく活躍した。今は息子の克久(90期)がS級へ上がり、将来を嘱望されている。「自分のことよりも、気になりますね」と息子の成長を楽しみにしている。この服部は関根好雄と大の仲良し。熊本と宮城と離れていても、常に電話で連絡をとりあっているそうだ。競輪学校での“仲間”はいつまでたっても心のよりどころなんだ。四国で大利幸男が強引先行で期待されたが、デビューしてからは取材することもなく若くして輪界から去った。

◆23◆平成19年7月16日(月曜)
 競艇にしろ競輪にしろ、デビュー前の選手取材ほど楽しいものはない。スターを夢見て、活気あふれているからだ。昭和49年10月、わずか18人の競艇の38期生を3連載で紹介したなかでも、目を引くものばかり。38期は743人の応募から第一次試験を突破したのが44人、二次試験を合格したのは22人。晴れてプロへ飛び立ったのが18人の少なさだった。
 「関東の巻」では終了記念レースの優勝者・高津茂は「僕は面倒くさがり屋だから、戦法はまくりの方が好き。スカッとしたタイプになりたい」と抱負を語った。7人兄弟の末っ子で、自動車整備士を3年やってボートの世界へ。戸田競艇場へ通ううちにボートの虜になったそうだ。「近畿の巻」では個性派がそろう。終了記念レースで先頭を走りながら高津茂に逆転された山野陽一は「負けて逆に励みになった」と悔やまない。堺工業高では37期・津田富士男、沖口幸栄の3年先輩。「プロでは僕が後輩。良きライバルとして努力します」。本栖ではフライングが7本と同期のトップ。だからペナルティーの本栖湖1周走(約10`)を、20回以上も走ったとか。「数えきれないほど職を転々とした。でもボートレースは飽きがこない」と言う。
 木村周三は国鉄立花駅に勤務していたとき、西影喜春の兄が同駅に勤めていてボートレースの素晴らしさを知った。「毎日が掃除ばかり。そんな時に西影さんを知った」とサラリーマン生活から脱出。9人兄姉の末っ子だが、選手になったころには両親は他界していた。「母に迷惑をかけたので…」と親孝行は、一人前の選手に、と誓った。梅木敏昭は空手2段、剣道初段の武闘家。「僕はインは性格的に合わない。内に3艇ぐらいを入れて、包んで勝つのが好き。それでないとボートレースの醍醐味がない」と豪快さを売り物にする鹿児島出身の快男児だ。山川満は終了記念で最インでべったり座り込んだ。「負けてもいい。インとはどんなものか試してみた。一度はインで座り込むのをやってみたかった」とチャレンジャー精神も旺盛だった。

◆24◆平成19年7月17日(火曜)
 競艇の38期「西部の巻」は九州5人と徳島1人。川島和敏は37期・俊昭の弟。それも一卵性双生児の兄弟。仲は良くても「兄と同等に扱われたくない。僕は僕。すぐにでもA級へ上がりたいぐらいです」とライバル意識は異常なほど。特技の柔道(初段)でも大技を好んだそうだ。松尾繁明は期bPの呼び声が高い。38期18人のなかで最年少で20歳になったばかり。勝率6・14、複勝率50・0はトップ。遠縁に脇山久夫がいた関係で、唐津工業高を卒業と同時に本栖を受験した。「思い切りがない。もっと勉強しないと」と、気の弱さがネックだった。
太田学は寿司屋の板前から転職した。腕前は「店を出せるぐらい」の年季が入っていた。なぜ生存競争の激しいプロの道を選んだのか。「自分の実力を試したかった。そう思ってるときに選手募集のポスターを見て」決心した。三根恵助は政治の実弟。「軽くないと勝てない」と、終了記念では55sから53sに減量して、予選で1勝をマークするなど、勝負への執着心はすさまじい。そして「兄に習うところはない。特徴のある選手になりたい」と言い切っていた。

◆25◆平成19年7月18日(水曜)
 ちょっと古くなるが昭和48年3月10日から初めて玉野競輪へ「サンケイスポーツ楯争奪戦」の取材にでかけた。スタンドからは瀬戸内海の小さな島々が目に飛び込む。春の陽気につられてか、青い海には釣り船浮かんでいる…といった書き出しで、なんというのんびりした、空気の美味しい競輪場と思ったことか。以後、何度も訪れるが、夏は競輪場近くの日の出海岸で、朝から甲羅干しをして仕事に入るなど、昔は、ほんと命の洗濯ができたものだ。
 そんなかで、「サンスポ楯」で優勝したのが地元の出宮政幸だった。逃げる清水茂の後ろで競り合いになって、出宮は隊列の短くなった2角、渾身のまくりを放ってA級で初優勝を飾った。2着に粘った清水を3車身ぶっちぎる圧勝だった。「初優勝が地元でできるなんて、いい思い出になります。これからも常に決勝戦に乗れるように、そして目標のA級1班に早く上がりたい」と、阿部道と同期の23期・出宮は希望に胸をふくらませていた。控えめな性格が災いして、この優勝が最初で最後の美酒となった。後にスクラップをコピーして出宮にプレゼントしたところ、たいへん喜ばれたのを思い出す。

◆26◆平成19年7月19日(木曜)
 昭和50年6月12日付けに《高橋健、再起へ着々》の見出し。この年、3月の千葉競輪「第28回全日本選手権競輪(ダービー)」で優勝した高橋健二が、5月26日の高松競輪・開設記念の決勝戦で、落車、第二腰椎圧迫骨折、左鎖骨骨折、全身打撲で高松市民病院に運ばれ入院していた。再起不能説を吹き飛ばす回復力を見せ、フィアンセの曽根原洋子さんのつきっきりの看病で、再起のメドがたっていた。
 その日、私が病院へ訪れたのは松山から鳴門への出張の合間で、取材ではなく個人的に高橋選手を見舞いにいったのだ。ところが話しをするうちに、記者魂がメラメラ。だれも洋子さんがフィアンセとも知らない。「よし、特ダネや」と、さっそく高橋に了解を求めると「いいですよ。名古屋のスポーツ紙に遠慮をしなくても。書いてください」と快くオーケーの返事。またまた一眼レフのカメラで二人のショットを撮って、高松支局から原稿と写真を電送した。
 翌日、他社の担当者に恨まれたが、バッチリと紙面を飾っていた。内容は「じっくりと体力を戻したい。現に左の握力は35sまで下がってしまった。足も思うように動かなかったが、4、5日前から許可が出て、軽く運動をするようにしています」。ベッドの上では病院が用意した2つで10sの砂袋を両足首に乗せて上げ下ろしや、体力増強を第一に考えた復帰案だった。洋子さんは高橋のダービー優勝後のアクシデントに「(競輪は)すばらしくよかった。これが、こんな大きな事故につながるなんて想像もできなかった」と話す。
 高橋は「タイトルは無かったものと考えます。幸い人生の伴侶もできたし、二人三脚で新しく出直します」と、再飛躍を誓っていた。担当の佐藤和之医師は「神経症状も出ていないし、ギプスをはめたまま歩行練習させる予定です。とにかく圧迫骨折の腰を安定させることで、復帰は早くて来年の春ぐらいでしょう」と、復帰へ太鼓判を押していた。高橋と洋子さんの努力で、高橋は再び世界へも羽ばたき、中野浩一をして「日本一の先行選手は高橋さん」と言わしめるほど活躍した。

◆27◆平成19年7月22日(日曜)
 選手生活25年、年齢も45歳に達した松本勝明が、49年12月30日付けの紙面で復活をアピール。この年の8月、松阪記念と久留米記念で落車。左鎖骨骨折、頭部を強打と選手生活で初めて味わう身体事故だった。7月には西宮で阿部良二や山口国男のトップレーサーを破って優勝と、老いてますます…の元気さだった。再起したのが10月末。大垣88欠、向日町記念834着、別府86欠、甲子園83G着、競輪祭898着と凡走が続いた。それでも12月の奈良記念では決勝に進出するまでに立ち直った。選手紹介ではオールスター、競輪祭を連覇した福島正幸や太田三郎よりも、「勝明、見せ場だけでもつくれよ〜」と松本への拍手が一番多かった。「ジーンとしました。優勝戦に乗っただけで良かったのに、新たな闘志をかきたてられました。このまま終われない。5月から2班に落ちるが、1期だけですぐに1班に戻る」と、ファンの後押しで復活を決意。そして「競輪に歳の差なんてない。やはり練習しているものが強い。練習するしか立ち直るきっかけをつかめない」と“努力の人”松本は、練習の重要さを語っていた。今の選手が聞けば頭が痛い話しか。この時点で1215勝だから、昭和56年の引退までに136勝を上積みした。まさに選手の鑑、鉄人そのものだった。