【212】〜【221】我が中野浩一
【212】平成20年7月15日(火曜)
 宮杯で敗れたとはいえ、中野浩一は“脚応え”を感じ取っていた。後はリズムの問題だ。取手記念72D着は未勝利に終わったものの弥彦記念31@着→松阪記念31@着を連覇。続く前橋記念11E着も好走した。
 そして60年から始まった「第4回全日本選抜競輪」(青森競輪=63年7月29日〜8月3日)を迎えた。“ロスの超特急”と言われた坂本勉が故郷に錦を飾る大会だ。ロス五輪でスプリントの銅メダルに輝いた坂本は、中野にとっても大事に育てたい選手だった。世界選でも何度も顔を合わせ、将来の競輪界を背負って立つ逸材だと感じていたのだ。
 「勉(坂本)を盛り上げる大会だから、ボクは脇役みたいなもん。大きく育ってほしいね」
 九州と北日本と地区は違っても、中野の競走スタイルは、地区にこだわらない。勝つための最良の作戦を考えるからだ。だから、最終的に逃げる坂本の番手に飛び付くのも、当然の作戦だ。
 マスコミに坂本が注目されると、坂本に対する中野のコメントも必要になってくる。だから、中野を取り囲む取材陣が増えた。ということは、久々に、中野がルンルン気分で、気持ちよくレースに臨めているのだ。
 坂本はスタールビー賞を勝ち、211着で決勝入り。中野は132着で、坂本のパワーの前に屈し、成績面からも地元では坂本の特別初Vへの期待が高かった。
 しかし、だ。最後の最後にきっちり決めたのは中野だ。坂本マークで戦い、佐古雅俊のまくりも許さずに、余裕のタイトル奪取だった。
 「勉の人気はすごかったよ。なんとか2着に残したかったけど、ね」
 番手を単独で回った時の中野の鋭さは、さすが世界の“V10男”だ。直線で一気に抜け出し、全日本選抜競輪を初優勝した。
 暑い夏も、昨年からは国内の競輪一本。世界選の季節は、もう中野とは無関係になっていた。好調を持続しながら、また“賞金稼ぎ”に徹した。8月は小田原記念21@着を優勝、直後の久留米記念11@着はパーフェクト優勝だ。続く向日町記念11C着は決勝でつまずいたものの、勢いに翳りはない。それよりも、またスーパースターの称号を取り戻すような進撃だ。

【213】平成20年7月19日(土曜)
 ファン投票1位の中野浩一。オールスター競輪では、常にファンを引きつけてきた。63年9月、岸和田競輪の「第31回オールスター競輪」でも、人気は中野が一番だった。
 ただ、怪物・滝沢正光とロスの超特急・坂本勉の対決が話題のマトだ。青森の全日本選抜競輪で坂本の前に、滝沢は何もできずに終わった。だから、先行選手の意地をぶつける大会となった。
 中野は滝沢の強さを認め、また坂本が中野の後継者として、輪界を盛り上げてほしいと願っていた。もちろん中野は坂本とのタッグだ。
 決勝戦の63年9月27日には中野を始め滝沢も坂本も順当に進出してきた。中野は坂本マークを宣言。ここしばらくは坂本―中野が鉄壁ラインだ。闘志を燃やして挑むというのか、若い坂本に胸を貸すのは滝沢だ。
 滝沢が全日本選抜競輪の屈辱を晴らすのか、坂本が“日本一の先行屋”の看板を背負うのか、とにかく激しいバトルが繰り広げられた。
 赤板前あたりから坂本が上昇すると滝沢は突っ張る構え。当然、ジャンが鳴ると同時に二人は一歩も引き下がらない。最終ホームからバック、さらに2センター(3〜4角)まで高速の先陣争いが続いた。滝沢の後ろは二人のパワー比べに離れ気味。坂本には中野がぴったり続く。そして4コーナー手前で坂本が力尽きると、中野は滝沢後位へ切り替えた。
 丸1周以上を、それも坂本と死力をふりしぼった滝沢だが、直線に入っても強じんな粘りだ。とても常人とは思えないパワー。まさに怪物の名にふさわしい逃げっぷりだ。
 それでも中野は坂本の頑張りに報いるためにも、ゴール前で“世界の脚”をフル回転。なんとか滝沢を差し切った。平の23回大会以来、8年ぶりにオールスター競輪のタイトルを奪還した。
 「いやぁ、滝沢も強いけど、坂本も飛ばずに挑んでいったからね。優勝できたのは、ほんと、ラッキーということでしょうね。歳を感じましたね」
 青森の全日本選抜競輪に続いて手に入れた岸和田・オールスター競輪のタイトル。この後は静岡記念2失(準決勝3着)欠→平塚ルビーカップ(伊藤豊明が優勝、滝沢2着)を終え、10月末の観音寺記念21@着で、記念競輪の通算100Vを達成した。区切りとはいっても、中野にとっては競輪選手としての単なる通過点だった。

【214】平成20年7月28日(月曜)
 63年4月の西武園記念でバンクレーコードを樹立以来、本来のスピードと回転力を蘇った中野浩一。高松宮杯競輪こそ2着に甘んじたが、青森・全日本選抜競輪を制し、岸和田・オールスター競輪も勝ち取った。そして観音寺で記念競輪通算100Vだ。
勢いに乗ると止まらないのが従来の中野。まして11月初めの一宮記念21@着も優勝とくれば、小倉競輪「第30回競輪祭」の連覇に加えて、ビッグタイトル3連覇の期待を抱いて当然だった。
ところが、だ。1走目こそ1着を手にしたが、2走目は7着の大敗。勝ち上がりに失敗した。好事魔多しーとはこのことか。地元での屈辱、中野は以後を欠場した。
ショックは一瞬だけ。暮れの岐阜記念21@着は優勝で締めくくった。最後の大一番、KEIRINグランプリ1988(立川)は5着に敗れたが、この年は5年ぶりに1億円レーサーに返り咲き、改めて存在感を知らしめたものだ。
“世界の中野”から“国内の中野”になって丸2年。しかし、1990年に世界選の日本開催が決まっている。関係者の中では、すでに“中野参戦”で一致していたが、世界選にチャレンジできなくなったいきさつを考えれば、中野が素直に「オーケー」の返事をするわけでもなかった。時間の経つのを業界は待つだけだった。
 そんな、こんなで64年の幕が明けた。
 しかし、日本の昭和が終わった。1月7日、昭和天皇崩御で、年号は「平成」と改まった。
 昭和58年の園遊会で、昭和天皇が中野浩一に親しく話されていたのを思い出す。陛下の「最近競輪の方はどうですか」のお言葉に、ミスター競輪も「一生懸命やってるんですが、年のためかなかなか勝たせてもらえません」と緊張しながら答えていたのが印象的だった。
 念頭に建てた目標は、やはり高松宮杯競輪の優勝。全冠制覇を成し遂げたい気持ちが強くなっていた。それと通算600勝を飾ること。あと32勝だが、この2年間は42→44勝だからそれほど心配のない数字。ただ、競輪はアクシデントがつきもの、その点が気がかりだ。

【215】平成20年8月7日(木曜)
 例年なら約1ヶ月の“正月休み”を過ごすのだが、この年は5年ぶりにダービーTR前に大宮記念を“事始め”とした。昭和が終わって、中野浩一も、また新たな気持ちで平成に臨んだのだ。ところが、だ。
 いきなり大宮記念57欠でつまずいた。5年前の初走も立川記念で2落欠とリズムを狂わせていた。しかし、不安感をTR戦に入ると一掃した。川崎TR31C着→久留米TR21F着を終え、ダービー前も門司記念11C着→西宮記念61@着と、ムラはあっても6勝、V1と上々の成績を残した。
 3月はダービー月間。西宮記念の優勝で、花月園競輪「第42回競輪ダービー」に臨む気持ちも、高まっていた。第37回から第41回まで滝沢正光3回、清嶋彰一2回と、西日本は勝てないまま。中野も滝沢には“力負け”ばかり。
 そんな西日本勢は工正信(広島55期)や郡山久二(大阪55期)が暴れ回り、小川博美(福岡43期)とともに決勝入り。しかし、中野も井上茂徳も佐々木昭彦も、誰も“優勝候補”は名を連ねていない。
 中野にいたっては初走が5着、2走目は失格。肝心の準決勝で戦わずして帰郷の屈辱を味わっていた。
 滝沢正光と坂本勉が決勝に進出していたが、とにかくレースはもつれた。前年から滝沢と坂本は“日本一の先行屋”の意地をぶつけて叩き合ってきた。どちらに軍配が上がるか、そんな注目のなかで工と郡山の新人がガッツとパワーをミックスして二人、いや全員とバトルを繰り広げた。工と郡山、番手を含め、前、前に攻めて、波乱を演出した。
 最後にニッコリ笑ったのは小川博美だった。バックで強烈なまくりを放つと、鮮やかに決まった。6番車の緑のユニホームが、6年ぶりに西日本へ“競輪ダービー”のタイトルを持ち帰った。
 中野は同じ久留米の小川がダービーを獲得したことで、溜飲を下げていた。その影響でもないが、ダービー後は、また快調に歩み出した。4月の四日市記念12B着から高知記念11A着→大垣記念→41B着→前橋・国際グランプリA着と、期待通りの活躍だった。

 【216】平成20年8月8日(金曜)
 またまた宮杯の季節だ。デビュー2年目からアタックを続けながら、その都度、はね返されてきた宮杯のタイトル。びわこには魔物が住むとか、びわこの女神は中野浩一を嫌いとか、“ミスター競輪”を悩ませ続けてきた。
 前年の「第39回高松宮杯競輪」では井上茂徳に抜かれ、“全冠制覇レース”にも後れをとった。だから、今年こそ…と思って、また冷水を浴びた。
 1走目は5着でも、2走目に落車。3月・花月園ダービーと同じく、アクシデントに、戦わずして、びわこを去った。その背中には悔しさが、ありありとにじみ出ていた。
 調子が悪いわけではない。ダービー後の成績も、この宮杯の後も富山記念12C着→函館記念61A着→久留米記念31@着→福井記念11@着と、好調なのだ。
 1990年は日本で、アジアで初めての「世界自転車競技大会」(通称・世界選)が群馬県・前橋市で開催される。「グリーンドーム前橋」も建築中で、前橋競輪場では最後のビッグ「第5回全日本選抜競輪」が行われた。
 数々の熱戦を繰り広げてきた前橋。中野も勝ったレースよりも、負けた苦い思い出が詰まったバンクだ。それもダービーで二度も…。
 「第33回競輪ダービー」(昭和55年)では後輩・江嶋康光の先行を目標にしながら、中途半端な気持ちで、最後は吉井秀仁に番手を奪われる情けなさ。吉井の番手まくりに3着と敗れ去った。
「第36回競輪ダービー」では石川浩史―竹内久人の打鐘カマシに4分の1周遅れながら、サーカスのようにバンクを駆け抜けてまくり切ったが、井上茂徳に差されて2着。ファンには拍手喝采で讃えられても、勝者ではなかった。
 こんな恵まれないバンクはびわこと同じなのか。そういえば、世界選に初めて行った51年、オールスター競輪が開催されたのも前橋。ファン投票でドリームに選ばれ意気込んでいたが、落車の憂き目にあった。菅田順和の活躍をしり目に、中野は再乗の9着だった。翌日から欠場、帰郷後は入院生活を送った。
 後々に「再乗せんかったら、記録(デビュー11年7ヶ月目に小倉競輪祭・決勝で実質初めての9着を経験)として9着は無かったのに…」と悔やんだものだった。それでも、記念競輪では27周年(52年)、28周年(53年)、33周年(58年)には優勝していた。

【217】平成20年8月10日(日曜)
 「第1回全日本選抜競輪」もそうだった。必殺のまくりを放ちながら、マークの佐々木昭彦に差されていた。ビッグでは相性の悪い? 前橋だが、この年の「第5回全日本選抜競輪」は違った。
工正信が花月園・ダービー、びわこ・高松宮杯競輪に続いて3連続してビッグの決勝入り。勢いも、レースの運びも、中野浩一よりも上の評価を受けていた。
 しかし、中野は、不思議と気負いもなく、冷静に決勝戦を迎えていた。241着の成績もそうだが、前年に青森で「全日本選抜競輪」を勝っている余裕だ。
 中野は牽制しながら工よりも前に位置を取る頭脳プレーだ。最終的にバックから一気にスパート。ぴったり続く井上茂徳を封じて、連覇を飾った。最後の前橋で、中野がやっと笑ったのだ。
 不思議なもので、前橋が「グリーンドーム前橋」に移り変わっても、中野は相性の悪さがつきまとった。世界選手権大会の開催を記念した「寛仁親王牌」とも縁がなかった。
 世界と日本を、圧倒的なパワーで駆けてきた中野。この「第5回全日本選抜競輪」が最後のビッグV、タイトルだった。
 息を吹き返したミスター競輪・中野は青森記念25欠→千葉記念31F着の後、静岡競輪「第32回オールスター競輪」で、歴史を変えた。“ロスの超特急”坂本勉(青森57期)と初めて表彰台で胸を張ったのだ。
 「ツトム(坂本勉)がビッグを取ってほしいね。若い人は取る時期に取らないと、二度と勝てないことが多いからね」
 中野と同じ“ナガサワ号”を乗る坂本。親近感もあるが、それ以上に、中野には無い強じんな粘り足を秘めている坂本がうらやましかった。ダッシュ力は世界一でも、中野は末の甘さが弱点だった。
 完全優勝へ王手をかけた坂本。中野が「坂本マーク」を名乗り出た時点で、坂本の先行1車だ。坂本と同じくロス五輪に出場した佐藤仁(青森)や山口健治(東京)らも居たが、坂本のスピードと中野のダッシュ力が、うまくマッチングした。

【218】平成20年8月16日(土曜)
 初のタイトル奪取へ、坂本勉には絶好のメンバー構成だった。中野浩一が坂本のデビュー当時から援護役を買って出ていたからだ。
 インを切って徐々に踏む中野浩一を、坂本勉がスピード豊に仕掛けて行くと、中野は持ち前のダッシュ力で巧みに1センター(1角〜2角)で外へ張りながら坂本マークを果たした。こんな芸当は、中野の最も得意とする戦法だ。もちろん井上茂徳も続く。
 最終3角過ぎから坂本との車間を切って、直線で一気に踏み込む中野の作戦だが、坂本の粘り腰は違った。2分の1輪まで詰まったところがゴールだった。中を割った井上も中野に際どく迫ったが、坂本には届かなかった。
 グラウンドで坂本が誇らしげにガッツポーズ。日ごろ、物静かな男も、顔をちょっぴり紅潮させていた。表彰式へ臨む前の控室で、中野も井上も坂本に「おめでとう」と祝福。「ありがとうございます」と頭を下げる坂本。そんななごやかなムードの中で、井上が「中野さん、(坂本を)抜けてたでしょうが」とすごい剣幕で中野に迫った。
 中野は「いやぁ、ツトムが強かった。車間を切って、踏んだけど、また踏み直された。ツトムが強すぎた」と、坂本の粘りのすごさを称賛するばかりだった。
 この言葉で、井上も納得した。スプリントの“世界V10男”が、坂本とのスプリント戦に負けたのだから、仕方のないことだった。
 43期以降では、初めてのタイトルホルダーとなった57期・坂本。表彰式でも中野は、坂本の手を持ち上げ、満足そうに“2位”を楽しんでいた。
 競輪祭までは名古屋記念11A着→観音寺記念11C着→岸和田記念81@着→一宮記念11@着と軽快なリズムで進んだ。
 一宮記念の優勝は、通算600勝のメモリアル勝利だった。この年、最大の目標を達成して気が緩んだわけでもないが、競輪祭は75着で期待を裏切り、途中欠場。以後も広島ふるさとダービーを欠場、平記念41A着で、平成元年を終えた。通算勝利は601勝で止まった。

【219】平成20年9月27日(土曜)
 昭和から平成の時代へ。競輪界でも中野浩一が不世出のスーパーヒーローとして、平成へ橋渡しの役目を果たした。そう、ロス五輪で銅メダルを獲得した坂本勉が中野のサポートで静岡・オールスター競輪を優勝、新しい時代へ流れは変わった。
そんな折り、5回目の立川競輪「1989年KEIRINグランプリ」が選手会のストで、中止になったのは残念だった。中野や滝沢正光、井上茂徳の時代から坂本らヤングへ、正式にバトンの受け継ぎができなかったのだ。
 ちなみにグランプリ出場メンバーは坂本勉(青森57期)井上茂徳(佐賀41期)中野浩一(福岡35期)佐々木昭彦(佐賀43期)郡山久二(大阪55期)小川博美(福岡43期)滝沢正光(千葉43期)工正信(広島55期)波潟和男(東京57期)だった。2年連続の坂本に次いで郡山、工、波潟らが“新たな顔”だった。
 平成2年の正月。中野は久々に日本で過ごした。例年はグランプリが終わると同時にハワイでバカンスを過ごしてきたが、世界選のメンバーからはずれて以来、国内でのスケジュールに合わせて生活リズムを変えていた。
 ただ、この年は、アジアで初めての世界選手権が、群馬県の「グリーンドーム前橋」で開催されるため、中野も万全の態勢で出番を待つ必要性があった。正式メンバーは発表されなくても、V10男・中野は“日本の顔”だ。
 年頭の出走は和歌山記念からだった。昭和52年以来、実に13年ぶりの和歌山だ。当時は新田計三(徳島)、国持一洋(静岡)が中野を巡ってマーク合戦を匂わしたが、結局、中野―新田―国持で折れ合い、3番手の国持が中を割って優勝した。そんな思い出が詰まっていても、中野には“全場制覇”の目標があった。
 この頃、残っていたのは取手、大垣、四日市、びわこ、和歌山の5場だ。決勝に限って勝てないだけで、決して悪い成績ではなかった。もちろん、びわこだけは特別競輪「高松宮杯競輪」の開催地で、他の一般戦を走る機会がない。タイトルを取らない限り無理な話しだった。だから引退の最後の舞台を“びわこ”に決めていたのだ。

【220】平成20年10月2日(木曜)
  和歌山競輪場へは昭和50年11月、デビューから12場所目にやってきた。大垣(51C着)で連勝が途切れて以来、この和歌山までに優勝したのは大垣直後の武雄(21@着)だけ。以後は別府31E着→松山11G着→静岡31D着とプロの洗礼を浴びていた。その和歌山も21A着。優勝できなかった。記念に初めて登場したのは52年で、11B着だった。
 「大垣はデビューから続けていた連勝記録がストップ(18連勝)したところで、その後も決勝に乗ってもダメでしたね。取手は取れそうで勝てなかったし、四日市も1着と思ったとたんに差されてたり、やっぱり相性が悪かったんでしょうね。和歌山は、そんなイメージもありませんでしたよ」
 準決勝で2着に敗れた後、久留米の後輩・平田崇昭(福岡55期)が失格で“お帰り”になった。平田は2カ所で失格行為をしたため、自主的に欠場する必然性があった。当時は失格しても翌日は走れたのだが、そのまま平田が走るとなれば“悪質失格”にとられかねなかった。
 「平田の面倒をみてやって下さい。今晩中に久留米へたどり着かないんで、お願いします」
 中野から管理を通して記者席へ連絡が入った。最終日に二人で呑む予定が、別々になってしまったが、中野が売り出し中の平田に、気遣いをしたのだ。その夜、平田は悔しそうにビールをあおった。
「倒れるまで呑んでやる」とガブガブ。小さな体はガッツの塊。呑んでも、呑んでも酔わず、ブランデーにウイスキーも混ざって、日付が変わるころに、グッタリ。ホテルへ送り届けて、グッスリ寝込んで、悪夢を忘れて久留米へ帰った。
そして、中野は和歌山での決勝戦に臨んだ。ちょうど、競艇のモンスター野中和夫が応援に来ていた。無様なレースはできない。そんなプレッシャーをはねのけ、12@着で見事に優勝を飾った。夜は大阪ミナミで祝杯をあげたのは自然の流れだった。

【221】平成20年10月7日(火曜)
 和歌山記念を制して、中野浩一は気分良くダービーTRへ臨んだ。ダービーへの出場権と、特選シード権を目指すシステムで、昭和52年に始まって以来、13年連続、ベスト27に入っていた。26開催で優勝数は13回、優勝2着6回のすごさだった。
 1回戦の松阪11B着、2回戦の平塚11@着と人気に応えた。平塚競輪場のダービーまで、中野は西宮記念に呼ばれていた。近畿地区では中野に寄せるファンの期待は絶大だった。勝っても、負けても、中野が来場すれば売り上げが1日1億円は違ったと言われていた。
 ところが、この西宮記念・決勝戦(41B着)で、とんでもないことが起こった。ジャン前の2コーナーでバンクの内に押し込まれ、人工芝(西宮球場は人工芝が敷き詰められていた)を駆け抜けて2センターで戦列に復帰、3着でゴールインする離れ業をやってのけた。
 「たぶん、今まで誰もやったことがないでしょう。人工芝はランニングをしていてもフワフワ負担がかかり、ある年なんか足を取られて捻挫したこともあった」
 そんな人工芝を自転車で走るんだから、中野の踏み込みは選手のなかでも群を抜いていた。この話題は選手間にアッという間に広まった。その後、前検日など、選手が“体験走行”を試みたが、誰も中野のようには走り抜けなかった。
 強いばかりの伝説でなくても、ありえないような伝説も、中野は西宮競輪場に残していた。
 平塚ダービーが始まった。アマチュア界のエリート、神山雄一郎(栃木61期)が話題を集めた。ファンの目は坂本勉(青森57期)との対決に釘付けだった。そう、二人が初めてビッグな舞台、決勝戦で顔を合わせた。
 本来なら中野も坂本マークを主張するのだが、中野は神山マークを選択。坂本には北日本ラインで俵信之(北海道53期)、佐藤正人(岩手44期)が付いた。
 「神山の強さは見て知っているけど、付くのは初めて。緊張しなければいいけどね」
 中野の心配は的中した。「責任重大です」と神山は緊張気味。仕掛けるところで踏めず、結局、中野を引き出せずに終わった。優勝したのは坂本に乗った俵、中野は182D着だった。