【61】〜【75】我が中野浩一
【61】平成19年9月5日(水曜)
 「高松宮杯」が近づくと世界選のムードも高まってくる。昭和56年5月9、10日は岸和田競輪場で第18回全日本プロ自転車競技大会が行われた。世界選V5をねらう中野浩一は2日間ともスクラッチ、ケイリン、交歓試合など走りっぱなし。ケイリンは決勝で1着失格だったが、スクラッチではフランス大会で決勝を争った尾崎雅彦を2−0で破り、国内V5を達成した。2本目は10秒97のまくりで尾崎にパワーの差を見せつけた。「まあ、国内では負けられないでしょう。岸和田は走りやすいバンクだし、ファンの人も多かったから、気合も入っていましたよ」と、早朝から詰めかけた1万2千人のファンに笑顔をふりまいた。次はチェコスロバキア大会での世界選プロ・スクラッチV5だ。
 翌日、中野は千b独走で滝沢正光の持つ日本記録を0秒09上回る1分07秒92で優勝した高橋健二や木村一利らと和歌山競輪場での「国際親善競技」に出場。M・バルタン、M・カッポンチェリーを相手にスクラッチで1着を奪い、ケイリンでも高橋の先行に付けて差し切り、未公認ながら和歌山のバンクレコード11秒10をマーク。「ファンの人が楽しみにしてくれてたし、普段の競輪と違ってスクラッチを知ってもらえたのもうれしいですね」。交通の便が悪い和歌山でも、“世界の中野”は競輪界の底上げ企画には常に参加。ファンへの感謝を忘れなかった。

【62】平成19年9月6日(木曜)
 史上初の特別4連覇へむけて中野浩一はキラッと光っていた。昭和56年6月4日から始まったびわこ競輪「第32回高松宮杯競輪」は、予選トーナメントが3日間。中野は初日に失格まがいの走行で1着。2日目は中休みで、3日目には13秒6の好タイムで1着を奪い、2次予選も3番手から鋭く追い込み1着。順調に「西王座」へ進出した。
 「九州が5人いるんだけど、最終的に決勝戦へ乗ることだけを考えて走る。石にかじりついても権利を取る」
 結果は中野が佐久間重光ー井上茂徳の3番手から4角早めのスパートで1着。中野マークを奪った久保千代志が2着で井上は3半まくりで3着だった。まだ、中野の後ろは井上の指定席ではなかったのが懐かしい。なんと中野は4連勝で、特別4連覇に王手をかけたのだ。おまけに特別戦は12回連続しての決勝入りのすごさ。
 「グランドスラムよりも、3年間、12回連続で決勝へ進出したことの方が、僕自身は価値のあることだと思います。決勝に連続出場するのは絶好調を長期間続けているという実力の証明ですよ」
 にっくき吉井秀仁もいる。昨年の“世界選・金銀コンビ”の尾崎雅彦も4連勝で中野に立ちはだかる。2次予選は13秒5の500走路での日本新を出す快速ぶり。絶好調・久保千代志に村岡和久ー井上茂徳の佐賀41期コンビもいる。わくわくする決勝の舞台となった。

【63】平成19年9月7日(金曜)
 「第32回高松宮杯競輪」の決勝戦は昭和56年6月8日に行われた。おもしろいのが決勝に乗った9人の談話。ちょっと列記してみると。@村岡和久「前を取って勝負したい。逃げてもいいつもり」A尾崎雅彦「中野さんにグランドスラムはさせたくないし、させません」B中野浩一「関東勢もしばらくとってないし、誰かが取りたいんじゃない。僕自身は、まあ、取れたら…」C井上茂徳「スタートで前を取ったら中野さんマーク。ダメなら村岡君と二人で」D菅田順和「フラワーラインとの連係は考えていない。自分の競走」E森人志「最終バックをとりたい。関東の誰かに優勝してもらいたい」F久保千代志「中野マークが99%で1%が別の作戦」G中田毅彦「前、前に出て競走をする。久保君? 別々になると思う」H吉井秀仁「尾崎がまだタイトルを取っていないので取らせてあげたい。二人で連係」。
 本命の中野に対して味方は久保だけ。それも1%は分からないのだから、いかに中野への対抗心の強い選手が揃ったことか。とくに吉井と尾崎の“中野つぶし”の露骨なこと。だから、当時の競輪は面白かった。
 結果は尾崎、吉井に競り込まれた中野が敗れ、井上との競りを回避して菅田のHSカマシに1%の夢を託した久保が初のタイトルに輝いた。中野のBSまくりも届かなかった。

【64】平成19年9月8日(土曜)
 「千代志(久保)さんが優勝して俺が2着ならいうことはなかった。ま、シゲ(井上)が2着なら、ヨシとすべきか。残念なのは(吉井、尾崎が)力の勝負をしてくれなかったこと」。史上初の特別4連覇に挑んだ「第32回高松宮杯競輪」決勝戦の中野浩一は、憤まんやるかたない気持ちだった。「俺は戦った。自分でも行った。結果はともかく全力は出し切った」。
 “人間はマシーンをしのげるか!”ー超人・中野をもじった今大会のキャッチフレーズ。尾崎雅彦、吉井秀仁が中野を目の敵にして競りを挑んだ。打鐘で尾崎が、最終ホームでは選手交代で吉井が競り、中野をパーフェクトに封じた。内で耐え忍んだ中野は、最後にBSまくりを放った。まさに“人間ロケット”の勢いだった。
 「一番人気だったから、ファンの人に申し訳ない。これからも特別の決勝戦には乗り続けたい。これが“強い選手”です」
 千葉とは違って、びわこ競輪場には魔物が住むのか、相性が悪すぎる。まして中野マークを果たした井上茂徳が、BSまくりの中野を追い込んでの2着に、今後の“主役交代”すら予感させる大会だった。

【65】平成19年9月10日(月曜)
 またまた、世界選の季節がやってきた。「高松宮杯競輪」の後も松阪記念11@着、門司記念失2@着、前橋記念31B(ゴール後落車)着、向日町記念負傷欠場、松戸記念21B着と順調な歩み。前橋での落車も向日町を欠場するだけで助かった。昭和56年8月21日に世界選V5を目指して開催国のチェコスロバキアへ旅立った。国内の競走では51場所連続して決勝入りと、まだまだ“崩れない中野”だ。
 「V4まできたんだから、ここまでくるとV7までいきたいですね。連続優勝の記録ですから。でも、ね、世界の情勢が伝わってこないし、未知の選手は怖いもんですよ」
 プロ・スクラッチでV4を飾ると、ヨーロッパでは「東洋からやってきた魔神」と恐れられるようになった。あまりにも中野が強すぎて、エントリーしてきたのは日本人を含めて9人の少なさ。選手団も“V5確定”ムード。ところが、中野を破ってリッチな生活を夢見るゴードン・シングルトン(カナダ)が挑戦してきた。データは何もない。練習とか、大会に入って実戦の動きで判断するしかなかった。
 シングルトンは準々決勝で菅田順和との1本目をまくりで破った。2本目は菅田が先手を奪ったがシングルトンのタイヤがパンク。再発走では菅田がインへ切り込んで先着したが、3コーナーでシングルトンの後輪を振ったため失格。そして準決勝では高橋健二を1本目はまくり、2本目は逃げ切りと完勝。タイムも10秒台を計時。中野のV5には手強い相手となった。

【66】平成19年9月11日(火曜)
 チェコ入り後、中野浩一は仕上がりに不安を抱いていた。そのうえに菅田順和が敗れ、高橋健二もあっさりとシングルトンに屈した。「僕は準決勝でも11秒05が最高。決勝は10秒台を出さないと勝てない。調整にとまどったし、菅田さんも、高橋さんも負けるし、余計にプレッシャーを感じた」。日本を発つ前のテレビ出演、CM撮影、新聞、雑誌の取材。合宿の合間をぬってこなしたが、やはり“1億円男”の周辺は騒がしすぎた。チェコへの約30時間の長旅も堪えた。
 そんな不安を一掃させたのが決勝の1本目。中野が先行。シングルトンが2コーナーからまくりにかかったが、中野は3〜4コーナーで持ちこたえ、そして振り切った。上がりは10秒88。これで初めて余裕がでた。
 「相手の勢いを止めるには、相手以上のタイムを出すことですよ。10秒88なら、大丈夫ですね」
 2本目は、もう中野に死角はない。シングルトンが2コーナーから山おろしの作戦に出たが、中野は“世界一”のダッシュ力で一気に決着をつけた。若さで挑んだシングルトンを、ヨミとパワーをミックスさせてねじ伏せ、プロ・スクラッチで5つ目の金メダルを獲得したのだ。
 「勝てば、もうV6のことを考えるんだから…。みんなに胴上げされたのがうれしかった」
 チェコは共産圏で夜景のネオンも少ない。遊び好き? の中野には辛い日々だったが、晴れてV5で日本に凱旋だ。

【67】平成19年9月14日(金曜)
 2年連続の1億円へ向かって、帰国第1戦は昭和56年10月1日からの立川競輪「第24回オールスター競輪」。世界選V5の中野浩一はオールスター史上初の“3連覇”を目指す。ところが立川の開催で異常に燃えたのが山口健治、吉井秀仁、尾崎雅彦らの“フラワー軍団”だ。総帥の山口国男が「俺の方が気負っちゃうよ。奴らの心臓はコケがはえてるよ」と、弟・健治や吉井、尾崎の気迫に、押され気味だった。
 健治が「中野さんは二度と同じ失敗をしない。一度、勝ったからといっても…。でも、今回は俺たちが本線」と言えば、吉井も「先行一本。中野さんをまくらせない」と息巻く。尾崎も「強気で攻めます。仕上がりは最高」と気合が入る。
 結束力の固いフラワー軍団に対して、黒縁のメガネを新調、頭髪もちょっぴりカールをきかせイメージチェンジで前検日に現れた中野。報道陣のインタビュー攻勢を巧みにかわしてぐっすり昼寝をむさぼるなどリラックスムード。「3連覇のチャンスが出てきたのだから挑戦します。1位に選んでくれたファンのためにも1位らしい競走をしますよ。フラワーライン? 相手は、みな一緒です」と表面上は“無視”を決め込んでいた。まず2日目の「ドリーム」で激闘開始だ。

【68】平成19年9月15日(土曜)
 競輪は“人脈”がものを言うドラマだ。立川競輪「第24回オールスター競輪」(昭和56年10月2日)の2日目、ドリームレースは、中野浩一VSフラワー軍団の様相だったが、第3勢力の高橋健二ー久保千代志の愛知コンビを忘れてはならなかった。前を占めた吉井秀仁ー尾崎雅彦ー山口健治。中団に高橋ー久保ー藤巻昇、そして中野に国持一洋ー国松利全で控えた。
 「僕が動かないと向こう(フラワー軍団)の思うツボだった。3番手飛び付きも考え通り」。中野は赤板前で追い上げ、ジャンの4角で吉井をインへ押し込み、後ろの国持もダメ押しで吉井で叩き込んだ。ここで高橋ー久保がカマシを放つと、切り替えた国松に中野が飛び付き3番手を奪う。内から尾崎が中野をすくいあげかけたが、中野は微動だにしない。展開有利に久保が勝ち、中野は2着だった。
 「展開は考え通り。千代志さんに負けたけど、僕も2着だからファン投票1位の人気には応えたね」。世界選仲間で、仕掛けの分かる高橋ー久保は、中野には縁の深い“人脈”だ。フラワー軍団の結束力が堅固でも、レースの流れを“中野向き”に作る中野の頭脳プレーが冴え渡った一戦だった。この日、ヤング井上茂徳が3着失格で1着権利の敗者復活戦に命運をかける。これが決勝戦で大逆転ヒーローの誕生につながる。

【69】平成19年9月16日(日曜)
 史上初のオールスター3連覇へ、中野浩一は順調に決勝入り。立川競輪の「第24回オールスター競輪」の決勝戦(昭和56年10月6日)は中野が有利に運ぶメンバー構成だった。@中野A井上茂徳B山口健治C山口国男D菅田順和E北村徹F高橋健二G竹内久人H木村一利の9人が揃った。井上は敗者復活から生き返った。北村は準決勝で中野と別線で、イン粘りから3着でクリア。この九州トリオは一番の結束力だ。
 フラワー軍団は山口兄弟だけで、不利な状況。木村に前を任せるか、菅田を頼るか、どちらにしても北村ー中野ー井上には太刀打ちできない。「特別戦はこれで13回連続の優出。初期の目的は果たした。九州3人でなんとかしたい」。中野は北村に前を任せて、2段駆けでオールスター3連覇をねらう。後ろは井上ががっちり。
 菅田は「タイトルが欲しい」なら仕掛けは遅い。高橋も末の粘りが疑問。やはり優勝の最右翼は中野。逆転するなら井上の切れ味。中野も「井上はタイトルを取ってもいいころ」と、いつも話していた。井上も「宮杯(決勝2着)より軽い。レースもよく見える。中野さんマークしか考えていない」と中野を全面信頼。パンチ力抜群の北村がハナを切ってしまえば中野ー井上の一騎打ちなのだが…。ウルフと呼ばれた木村は「中野さんの後ろなら競りも覚悟。優勝をねらう」と気合を入れているのが不気味だ。

【70】平成19年9月17日(月曜)
 タイヤ差の明暗ー立川競輪の「第24回オールスター競輪」決勝戦は昭和56年10月6日に行われ、北村徹の強引先行に乗った中野浩一ー井上茂徳が2角番手まくりでゴールを目指し、中野は井上にタイヤ差抜かれて3連覇を逸した。前受けの木村も飛びつけず、すべては北村の“捨て身”が井上に初のビッグVをもたらした。
 中野はゴール後に井上の手を挙げて祝福。「いいや、井上が勝ったんなら…」と顔で笑って、心で泣いて…。さらにタイヤ差と知って「8分の1輪ぐらい差されたと思ったけど…。もう一度(ハンドルを)投げればよかったぁ」と悔しがった。このタイヤ差が、後には1車半も抜かれるようになるとは、中野は思いも寄らなかっただろう。
 表彰式が終わって、井上と北村がJR立川駅でファンに囲まれた。優勝した井上には言葉で「おめでとう」と祝福しても、立役者の北村は胴上げだ。誰にも飛び付かせずに猛スピードで逃げた北村は、ファンにとっては車券(裏目の2番人気)に貢献した一番のヒーローだったのだ。
 “BIGを追え・BIGを狙え・PART2”のキャッチフレーズ通り、井上は中野に勝った。特別13連続優出に52場所連続優出の記録を残した中野は、祭りが終われば、またファンの夢を乗せて「BIG」のまま突っ走る。

【71】平成19年9月18日(火曜)
 2年連続の“1億円”へ、中野浩一は加速をつけた。立川・オールスターの後、熊本記念21@着、一宮記念31@着を連取して迎えたのが昭和56年11月、小倉競輪「第23回競輪祭・全日本競輪王決定戦」だ。井上茂徳に差されたオールスターを教訓に、競輪祭では“秘策”で対応した。さらに、フラワー軍団が菅田順和と“協調”するなど、輪界の勢力図が2分されるようになってきた。
 中野は前受けから、俊敏さを前面に押し出して3連勝で決勝入り。メンバーは@中野A山口健治B荒川秀之助C尾崎雅彦D井上茂徳E服部良一F高橋健二G片岡克巳H菅田順和の9人。準決勝が終わった時点では菅田ー荒川、尾崎ー山口に分かれ、中野ー井上ー服部が一枚岩。高橋、片岡は一発の構えだった。ところが、「菅田に優勝させたい」の荒川、「尾崎に勝たせたい」の山口が、一夜明けると荒川の“橋渡し”が実を結んで菅田ー尾崎ー山口ー荒川の並びに変わっていた。
 「正攻法を取るにこしたことはないが、取れなければそれなりの競走をする。最終的には全員が敵です」。中野は特別の決勝戦へ14場所連続して出場。キャリアは豊富。勝負度胸も満点。後ろの井上も、オールスターの“お礼”にガード役に徹する。中野は関東連合軍を、力でねじ伏せるのか。

【72】平成19年9月19日(水曜)
 タイヤ差の負けは、末の粘りを強化することで解消だ。昭和56年11月24日、小倉競輪「第23回競輪祭・全日本競輪王決定戦」決勝が行われ、スタートに勝負をかけた“関東連合”が前受けで始まった。菅田順和ー尾崎雅彦ー山口健治ー荒川秀之助が並び、高橋健二が5番手。そして片岡克巳ー中野ー井上茂徳ー服部良一が結束。赤板前から片岡が上昇すると菅田が突っ張って先制。高橋がまくり上げると、中野は併走の最終1角、片岡後位からスーパーダッシュ。あっという間に菅田をまくりきった。高橋が追い、切り替えた尾崎も続く。井上は山口を押し込んで失格。
 ギアを3・54から3・69に上げていた中野はゴール前の粘りも盤石だ。必死に追い込む高橋を4分の1輪抑えて、6つめの特別優勝を飾った。宮城と東京の共同戦線も、中野のパワーの前には惨めさを味わうだけだった。
 「ゴールは自信がなかった。フラフラだったもん。オレ、自分のハンドルを蹴とばして転びそうだった」。立川では井上の手を挙げるのに時間がかかったが、今度は井上が中野の手を挙げかえると、中野は控え気味。「ほんと、ゴールはわからなかったよ」。それでも、オールスターの後、「競輪祭では後ろの人に抜かれることはない」と、ギアの効用を早くから考えていたのだ。年間の獲得賞金も9千575万1710円に達し、2年連続“1億円”に王手をかけた。

【73】平成19年9月20日(木曜)
 「第23回競輪祭」で優勝した後も、12月は岐阜、広島、久留米と3場所の記念配分。ゆっくり落ち着く間もない。岐阜は11B着で追え、広島記念で2年連続の“1億円”へ王手をかけて臨んだ。初日、準決勝ともまくって2着。決勝戦は滝沢正光の先行につけて、直線一気に抜け出して優勝。これで1億310万311円となり、大台を突破した。
 昨年(昭和55年)の12月8日より6日ほど遅れたが、出走場所は20場所目で4場所も早い。ビッグタイトルは同じ2つでも、今年は千葉・ダービーの賞金がモノをいった。
 「優勝で飾れて本当にうれしい。1億円はあくまでも一戦、一戦の積み重ねによるもの。それだけに今年一年を無事に走れたことが1億円につながったと思います。来年もビッグタイトルと1億円、そして世界選V6をぜひ達成できるようがんばりたい」
 晴れやかな表所の中にも、ホッとした表情を浮かべた中野。最終戦の久留米記念も51@着で、しっかり締めくくった。ビッグV2、記念V10、TRV1と優勝は13回を数えるスーパースターぶりだった。連続優出も58場所に伸びた。7月6日には松阪記念Vで通算300勝(463走目)も記録していた。

【74】平成19年9月21日(金曜)
 昭和56年のきわめつけは「プロスポーツ大賞」の受賞だ。中野浩一がデビューからの悲願だったスポーツとしての競輪が、やっと認められたのだ。
 「非常にうれしかった。世界選のV5が認められての受賞だと思うけど、競輪選手が他のプロスポーツと同格にあつかわれるようになったこと自体、大変意義深いことだと思う。ボク自身、これまで懸命に走ってきたことが、間違っていなかったのだーと確信できたもの。他の選手の励みになればそれにこしたことはないですから」
 2年連続の総獲得賞金“1億円”突破も「大賞」に選ばれた要因のひとつだ。中野は賞金の話しになると無口になるが、賞金が高いからこそ野球選手やスケートランナー、サッカーなどの有望株が競輪の門戸を叩きだしてきた。好きなスポーツをして、お金が稼げるのは魅力いっぱいの職業だ。
 「賞金は1年間、無事に走り終えての結果ですから。ねらって果たせるものでもない。とにかく世界で勝って、お茶の間でも競輪が話題にのぼるように、これからも頑張っていくだけですね」
 世界の中野は55、56年の2年間で、プロスポーツ界全体をさらにグレードアップさせたのではないだろうか。1億円の賞金獲得も、競輪に抜かれたプロ野球選手が年俸闘争に入り、米大リーグを目標にしてフリーエージェントや複数年契約などで高騰していくのだから。そんな周囲の雑踏には関係なく中野の56年は終わった。


 【75】平成19年9月22日(土曜)
  昭和57年に入る前に、56年の1月7日から11日まで5回連載で、ラジオ番組のパーソナリティ・中村鋭一さんの「日本のパーソナリティ」というタイトルで、「競輪界不動の4番打者」として中野浩一を取り上げた(私も同席・取材)。全文を掲載するわけにも行かないので、中村さんが感じたことや、中野選手の談話など、初対面同士のやりとりを数回にわたって抜粋したいと思う。新たな“中野像”が見えるかも。
 ☆第1回☆  いや、いや、大変な人気ものである。昨年(55年)暮れから中野さんの顔をテレビで何回も見た。新聞や雑誌でも読んだ。…これも1億円のおかげだろう。
 「ボクはデビューから実力より先に名前が売れた。予想では必ず◎がつきますしね。だから、期待に応えようと一生懸命走った結果、1億円につながったのです。名前に追いつこうとしても、名前が先に行ってしまうんです」
 いわば、絶えず勝つことを宿命づけられてるわけや。
 「たとえば、ボクとライバルの選手がいっしょに走って、ボクが7着でライバルが8着だったーこれじゃ、ファンは納得してくれません。たとえライバルは何着であろうとも、ボクは1着でないとね」。これぞ、まさしくスターですな。山口百恵ですな。王ですな。王はホームランを打たないと、ファンに納得してもらえんかった。
 中野さんは暮れにNHKを通じて恵まれない人のために地元久留米の養護施設にも、それぞれ百万円を寄付した。1億円は無駄には使われとらん。