過去【1】〜【10】我が野中和夫
【1】平成19年6月1日(金曜)
 モンスター・野中和夫は、現日本モータボート選手会の会長だ。実戦の場には戻ることもないだろうが、業界の発展のためにトークショーやサイン会などで全国を行脚している。いまもって注目度も人気度もスターだ。横断歩道を渡る信号のところでも握手を求められたり、携帯の写メに収まったり、サインをしたりと、積極的に“競艇”をPRしている。まだ売り上げ増にはつながらなくても、野中会長の意志は選手に伝わっている。だから選手もファンへのサービスに怠りがない。こんな努力は、近い将来、また競艇が若いファンに支えられて急伸するはずだ。
 そんな野中が私のスクラップに登場したのは昭和47年7月12日の住之江競艇場で行われた「高松宮杯争奪特別レース」(電化完成記念=施設改善記念)の優勝戦の結果だった。デビューから2年4ヶ月が経っていた。
 インの立山一馬が1艇身半のフライング、2コース貴田宏一、5コース金谷英男がもフライング。レース前の展示航走で佐々木貞男が転覆して欠場するなど異変が相次いだ。そんなレースで優勝したのは4番手を走っていた平田光治が繰り上がり、5番手の野中に大差をつけて、ボート界初の“高松宮杯”を獲得したのだ。平田の談話で「野中君はずっと後ろをのんびり走っていたから、このまま走れば1着なんだなぁ、と思った。夢のまた夢が現実になったようで幸せな男です」と、謙虚なヒーロー談話が載っていた。
 2着をのんびり走ったわけではないが、野中はすでに45年8月の唐津で初優勝を記録し、46年3月には蒲郡で鳳凰賞(現総理杯)も経験、そして48年8月の徳山で周年記念をデビュー4年6ヶ月で優勝するなど、モンスターの卵が殻を破って、49年の飛躍へつなげるため着実に前進していた。

【2】平成19年6月2日(土曜)
 よくよく“高松宮杯”とは縁があるのだろう。昭和48年11月27日は住之江競艇場での「高松宮杯争奪・第19回全国地区対抗競走」優勝戦だった。49年から「笹川賞」に変わるため、最後の「地区対抗」に“高松宮杯”の冠がついた。野中和夫もベスト6に名を連ね、宿命のライバル彦坂郁雄と初めてビッグな舞台で顔を合わせた。ただ、この優勝戦は悲運のドラマとなった。当時の兵庫のスター脇辰雄が4コースから一気のまくりを決めて先頭を走りながら、3周ホームでエンジンの凍結予防装置のパイプ故障で失速、2番手の井上弘に逆転を許して2着に甘んじた。脇は千載一遇のチャンスをのがし、結局、無冠のままで引退した。逆に野中は大ブレークした49年、夏のMB記念(丸亀)で“高松宮杯”を手にするのだから、相性のいい冠となった。
もちろん野中の彦坂に対するアタックは、すさまじかった。メンバーは@井上弘A脇辰雄B金子安雄C南(井上)利明D彦坂郁雄E野中和夫の6人。野中、脇、南は“打倒・彦坂”を合い言葉に、ピットアウトと同時に野中が彦坂とのイン奪取戦に火花。脇も彦坂に襲いかかる。さらに南も彦坂を深インにするため誘い込んで、1分前に大外へ。インは彦坂が死守したが、深みにはまってスタートで後手を踏み、4コースの脇に絶好の展開になっていた。2コースの野中もコンマ16で、コンマ12の脇に叩かれてしまった。
 このころ、彦坂は昇竜の野中に、警戒の念を抱きだしていた。そして49年には、野中の恐ろしさを実感することになる。ちなみに、優勝戦には約4万人がスタンドに詰めかけ、1日の売り上げは場外も電話投票も無い時代に9億481万200円、このうち優勝戦は2億5244万6600円と、住之江は競艇人気で盛り上がるばかりだった。この時の団体戦は近畿が優勝、以下、関東ー東海ー四国ー中国ー九州の順だった。

【3】平成19年6月3日(日曜)
 昭和44年3月のデビューから、常に闘争心を全面に押し出して戦ってきた。その頃は10年の経験で、やっと一人前の選手として扱われていた。25歳の野中和夫にとっては10年も待てない。「人の半分で一人前になる」と心に決め、精進した。1年6ヶ月で初優勝、2年で特別競走・鳳凰賞(現総理杯)に出場、45年11月30日から12月8日にかけて11連勝で表彰(当時は10連勝で連合会表彰)も受けた。48年には正月の住之江「王将戦」(府内ダービー)で初優勝、夏には徳山で周年初優勝、そして二度目の“高松宮杯”の優勝戦進出の実績を積み上げた。49年にブレークするための下地は十分すぎるほど整っていた。
 5年目に入った49年。手始めは正月恒例の住之江「王将戦」だ。順調に優出したが、あろうことか展示航走中に引き波にあおられ落水しかけた。無理な体勢で落水を防いだため右大腿部をしこたま痛め、走れるような状態ではなかった。「欠場はせん。右足が動かんでも左足と両腕がある」と痛みを精神力でカバー。そして2年連続の優勝を勝ち取り、“モンスター伝説”の幕を開けた。
【4】平成19年6月4日(月)
 昭和49年の年頭にたてた目標は3月の常滑「鳳凰賞」の優勝だった。減量もした。痛めた右足(膝裏)も快方に向かっていた。勇んで常滑へ向かったのは当然だ。ただ、ただ…無事完走なら予選を突破できる成績を残しながら、予選最終戦で不運の“出遅れ”事故に泣いた。彦坂郁雄と戦わずして脱落だ。
 その彦坂は優勝戦で金谷英男がフライングで戦列を離脱して、棚ぼたの優勝が転がり込んだ。1112L31着と好成績を収めながら、明と暗がくっきりと分かれた。それでも「鳳凰賞に照準を当てていてガックリした。そやけど、せっかく減量したんやから、次の笹川賞まで継続や」と、新たなターゲットを地元開催で、第1回「笹川賞」に絞った。4月初めの尼崎一般戦の前検日に「足の痛みは治らんなぁ。そやけど、そんなこと言ってられん。今回はパーフェクトをねらう」ときっぱり。言葉通りに初めて7連勝完全Vを決め、気力を高めた。さらに三国周年で優勝すると「笹川賞の前々検(以前は前検が2日間あった)に裸で45sを割ってたら優勝や思って」と、4ヶ月に渡る減量の締めくくりは“地獄の減量”と取り組む決意を固めたのだ。
 
【5】平成19年6月5日(火曜) 
 いよいよモンスター・野中和夫の雄叫びだ。特別競走(今のSG)には昭和46年の「鳳凰賞」(蒲郡)に初めて登場。412521541着で3勝をマーク。同年の「地区対抗」(下関)は533F42453着。翌48年は「ダービー」(住之江)で13321311着、同年の「地区対抗」(住之江)は1221222E着で初の優勝戦に進出。そして49年3月の「鳳凰賞」(常滑)で112L31着。実績を積んで49年5月、「第1回笹川賞」に全力アタックだ。前々日の4月30日、野中は公約通りに45sを割って住之江に入った。米粒は口にせずミルクや野菜ジュースの流動食ばかり。あとはサウナでびっしり絞るなど、人間の限界に挑戦していた。それでも年頭からの計画的な減量で、肉体的にも気力にも、不安な面はなかった。目は落ちくぼんでいても、眼光は鋭い。とにかく「笹川賞」の優勝しか頭にはなかった。
 2151621着で優勝戦にコマを進めた。メンバーは@貴田宏一A彦坂郁雄B野中和夫C鈴木文雄D加藤元三E瀬戸康孝の6人。3月の「鳳凰賞」を制した宿敵・彦坂もいる。野中は何が何でも負けるわけにはいかない。幕開けは壮絶なイン争奪戦。加藤、鈴木、彦坂、野中が2マークブイへ殺到すると、瀬戸、貴田は裏側からの“コンニチハ”でインを目指す。が、“インの鬼”鈴木はグイと艇首をスタートラインに向けた。この強引さに他艇はしりごみ。「無理なイン進入は避けてセンターから勝負」と決めていた王者・彦坂だが、手違いが起こった。瀬戸ー貴田が鈴木に歩調を合わせていたが、貴田がスーッと内ふところを開けたため、彦坂は吸い込まれるようにインと同じ3コースへ。これが野中に幸いした。
 野中はインの動静を確かめ、小回りに一度エンジンを噴かせて5コースからのダッシュ戦に備えた。流れは絶好。勝手知ったる地元プール、野中の仕掛けに狂いない。スタートと同時にインの4艇は置き去り。アッという間まもなく1マークを先取り。彦坂を鉈で切り裂くように4着に沈め、大阪勢では11年ぶりのタイトルホルダーが誕生した。豪快な勝ちっぷりに浪速のファンは酔いしれた。翌日の新聞には「ホーム・野中が獲得」「鮮やかなまくり」「2着瀬戸に大きく“水”」のでっかい見出しが載っていた。選手になって5年1ヶ月、野中は半分の期間で“超一流”へのし上がった。減量も報われ、最後は最高の美酒で締めくくった。

【6】平成19年6月6日(水曜)
 もう減量はほどほど。ちょうど50sで戦うのが最適だ。「笹川賞」を制したあと、5月・丸亀、6月・蒲郡でもパーフェクト優勝を飾るなど、勢いは止まらない。そして夏の丸亀「高松宮杯・第24回モーターボート記念」で、さらに大輪の花が咲いた。昭和49年8月13日の優勝戦には@松本進A安岐真人B瀬戸康孝C松尾泰宏D横山候祝E野中和夫の6人が名を連ねた。「MBは取れるとは思ってなかった。自分で攻める展開とは違ったからね」と、すべては快速仕立ての松本に命運を託した。
 地元の安岐はインを譲らない。松尾、瀬戸が並びかけ、深くなった横山は回り直して4コース。5、6コースは松本ー野中の“盟友コンビ”。MB連覇をねらった瀬戸がコンマ09のトップスタートだったが、松本もコンマ10で吹っ飛んで行った。まくる瀬戸、インで踏ん張る安岐、さらに松本の強烈なツケマイ。3人のつば競り合いを、一気に抜き去ったのが1マークのブイ際を差した野中だ。バック過ぎには先頭へ躍り出し、2マークを先取りしてビッグ2連覇を達成した。それも2年連続6着だった“高松宮杯”のカップもがっちり手に入れた。「初めから差し一本に絞っていた。松本さんのモーターが出過ぎていたし、自分ではまくり切れないと思っていた。だから差しにはもってこいの展開でした」と、冷静な判断が幸運をもたらしたのだ。松本はプロペラの師匠。いつも野中は側で“勉強”だ。
 デビュー時は“彦坂・岡本時代”だったが、今は“彦坂・野中時代”へ。それでも新聞には“野中専制時代”へ突き進もうとしている、と書いた。それほど鮮烈な笹川賞からMB記念への勢いだ。この後、野中は「選手はいつ終わるかも知れない。生活設計をたてる必要がある」と、大阪・ミナミに「ブッチー」というスナックをオープン。白いグランドピアノが心をなごます憩いの場となった。芸能人にプロ野球選手、競輪選手らが集い、自然と輪が広がった。競輪の世界チャンプ・中野浩一も昭和51年の暮れに野中と会って“王道”を叩き込まれた。

【7】平成19年6月27日(水曜)
 笹川賞、MB記念とくれば、今度は史上初のビッグ3連覇の期待がかかる。場所は住之江。タイトルは日本一にふさわしい「第21回全日本モーターボート選手権大会」、いわゆるダービーだ。「3連覇は意識せんけど、住之江やからなぁ」と全力を注ぐ覚悟は決めていた。夏の住之江・太閤賞で彦坂郁雄が優勝。準優勝戦で敗れた野中には、おもしろくない。ファン投票も彦坂が1位だった。宿敵・彦坂は悲願のダービーで“4冠制覇”をねらって参戦だ。もちろん野中も名実ともにbPの座を射止めるには3連覇が条件でもあった。昭和49年10月8日の優勝戦には彦坂(F521211着)の名前が無い。初日のフライングで早々と姿を消していたのだ。121221着のオール連絡みで優勝戦にコマを進めた野中。地元の声援も熱狂的だ。メンバーは@北原友次A野中和夫B横山候祝C安岐真人D松尾泰宏E筒井昭の6人。相手はイン巧者・北原だけだ。
 1分前に艇首を大時計に向けた北原。松尾ー安岐が並びかけ、横山がバックステップしてダッシュ戦へ。インに見向きもしない野中は5コース。そして筒井が大外。スタートはコンマ04の北原が他を圧倒。野中はコンマ19。どう転んでも北原の優勝で仕方のない体系だった。それが、どうだ。スリット後から伸びる野中。が、気負いはない。逆に北原は野中の影におびえていた。「野中を警戒しすぎた。来んナ、来んナと思ってたらターンマークに近づきすぎていた」と北原。あろうことか1マークを大きく行き過ぎた。松尾、安岐も差しに変化したが、野中の判断力は抜群。ツケマイどころか、アッという間もなく最内を一気に差して、特別3連覇を達成していた。倉田栄一や長瀬忠義が挑んで挫折した3連覇の偉業を、デビューからわずか5年半の野中が、いともあっさりと達成した。
【8】平成19年6月28日(木曜)
 昭和49年10月9日の紙面には『競艇日本一に野中・史上初・特別を3連覇』『見事“全速差し”』の見出し。野中和夫の快挙が、びっしりと紙面を飾った。なぜ野中は強いのか。ヒーロー原稿の中に、その一端がうかがえる。 「作戦はまくり一本にしぼっていた。1マークで北原さんが旋回の態勢になっていたので差しに切り替えた。安岐さん、松尾さんが北原さんの内へ突っ込む形になったので、ひと呼吸おいて差しに回れただけ有利だった」。勝負どころでの瞬間的な作戦の切り替え。鋭い読みと自信のたまものだが、持って生まれた強運も見逃せない。宿敵・彦坂郁雄に脇辰雄がフライング、笹川賞、MB記念で優勝2着に瀬戸康孝も準優勝戦で姿を消すなど、ライバルが北原ひとりになったのも幸いした。
 そして野中流の全速ターン。1マークへ轟音を発して襲いかかる。その迫力に内側艇は圧倒され、強烈なまくりに水しぶきをどっぷり浴びる。ある若手は「野中さんの内に入ると怖くてレースにならない」と言い、ベテランは「野中君を意識しすぎるとダメ」と言わせるほどだった。それなら威圧する秘訣はどこに…。「今までの強い人はみなイン選手。優勝を意識すると堅くなる。1分前に艇首の向きを変えると、やはり不安。だから一般戦でも僕は6コース。ガツガツした勝ち方はしたくない。あくまでも自分の持ち味を出す戦い方をする」ということだった。そんな野中も、ダービー優勝戦の朝には「インに入ることも考えたが、朝の雨でインをあきらめた。整備員の清水さんから“伸びは抜群だから4コースからのツケマイがいい”とアドバイス受けた。これで心の踏ん切りがついた」と、心の迷いも吐露していた。それでも他人のアドバイスを素直に受け入れ、冷静に分析する判断力が理詰めの“野中型”だった。第1前検日のモーター抽選で43番目に引き当てた『11号機』は野中の戦法に合った伸び型モーター。素性を熟知した整備員の眼力に、野中も敬意を表していたのは当然だった。

【9】平成19年6月29日(金曜)
 史上初のビッグ3連覇。王者の称号は勝ち取ったが、まだモンスターとは呼ばれていない。昭和49年、野中は“我が時代”の土台を築いたに過ぎない。まずは不滅のビッグ4連覇への挑戦だ。問題は選考期間中のフライング。常にスタートで勝負をかける野中には、1期に1回のフライングは仕方のないこと。50年3月の「鳳凰賞」(下関)で勝てば同一年度のタイトル総ナメ、全冠制覇の偉業だ。そんな期待を抱いて昭和50年の幕を開けた。
 正月は住之江の「第17回ゴールデンサンケイスポーツ旗争奪戦(近畿3地区対抗戦)」。順調に9日の優勝戦に進出したが、準優勝後の控え室で、野中が「6コースからまくって行くからトコまっちゃん(常松)が飛ばしに来るやろ」と言えば、常松拓支は「当然や、行くでぇ」と“ダンプ”を宣言だ。そんなやりとりのなかで立山一馬が「そうか、俺がセンターから差して優勝や」とニタリ。事実、3人の言葉通りのレースになった。6コースから弾丸まくりを放つ野中。イン・常松は1マークで野中艇の横腹をめがけて突進。水しぶきが舞う中を3コースの立山が絵に描いたような差し。飛ばされた野中だが、追い上げもすさまじい。2周2マークで3位へ、そして3周1マークでは2位に浮上。優勝は逸したが「さすが野中ー」とスタンドがワーッときた。
 このシリーズ、6日間の売り上げは73億7890万6500円と前年正月開催の王将戦(61億7154万3800円)を大幅に上回るレコード。“3冠男”の登場で大にぎわいだったのだ。順風に滑り出した野中だが、この後、「鳳凰賞」の開催場所、下関周年で無念のフライング、4連覇は夢と消えた。この時点で過去、タイトルを4回取った選手はいない。倉田栄一、金藤一二三、長瀬忠義、岡本義則、金子安雄、北原友次、彦坂郁雄と野中の8人しか3冠選手はいない。
【10】平成19年6月30日(土曜)
 下関周年のフライングで「鳳凰賞」の出場権利を失った野中和夫。この昭和50年、前年の快進撃と打って変わって、少しずつ野中の歯車が狂ってくる。まあ、すんだことを振り返らず、常に前を向くのが野中。3月のフライング休みを利用して、京都府・亀岡の断食道場へ、同僚の佃信雄、益田訓夫と修行に出かけた。近くに湯の花温泉もあるが、道場は生やさしいものではない。西式健康法を取り入れていて、体操と断食と併用したものだった。
 前年の過酷な減量をした野中が心身ともに、体を整えるための断食でもあった。普通は2週間がワンセットだが、競艇選手は減量慣れしているということで4日間は免除。それでも10日間は1日、一升瓶の水だけの生活で、宿便が出ると全身が浄化された証といわれていた。野中は毎日、毎日、テレビの料理番組を観て、部屋に置いてある料理本を読んでいた。「料理以外のものは何もない。一番、苦しいわなぁ。食べられないのに、料理ばっかり」。人間の欲の中で、断ちきれないのが食欲。生きていくうえで、命の糧でもある。野中は音をあげない。常に明日をにらんでの“肥やし”だ。5月の「笹川賞」の連覇へ、照準を当てての修行だ。同行の佃は我慢できず、近くの店でアンパンを買って食したとか。「ワシと野中は、ここが違う」と笑わせたが、例え空腹に耐えられず食しても、挑戦することがプロ魂。とにかく野中は「そんなに体重は落ちんかったけど、まあ、ええ体験や」と、健康そうな顔つきで断食を終えた。年間4連覇がダメなら、3連覇のダブルをねらって、水のシーズンを迎える。