【81】〜【93】我が野中和夫
【81】平成19年10月25日(木曜)
 警察の調べは続く。暴力団との付き合いが無かった事実がはっきりするように、野中和夫は何度も大阪府警西署へ出向いた。「絶対にボクを信じてほしい」の言葉が、むなしく響くことはなかった。野中の周囲には「ノミ屋」とのつながりを、誰も信じてはいなかった。「ブッチー」を閉店する前に、友人が数人集まった。「復帰させる」ための、署名運動を始める段取りを整えた。嘆願書を添えて、全国モーターボート競走会・笹川良一会長に提出するためだ。
 野中和夫は家族のことを考え、堺の自宅を出た。身の潔白を証明するまで、大阪ミナミにマンションを借りて移りすんだ。老いた母親が、いつもと違う、遠い市場まで買い物に行く姿を、目の当たりにはできなかった。近所でも肩身の狭い思いをしているのは分かった。
 「悪いことは何もしとらん。復帰できるように、身の潔白だけは証明したい。日が経つにつれて、おぼろげながら事件の中身が分かってきた。事実無根として、名誉回復のために訴訟もする。真実は一つやから、きっと復帰できる」
 家族と離れて、野中は一人で暮らした。今まですり寄ってきた人も、来なくなった。電話もかからない。野中を信じて、復帰を願う友人だけが訪ねてきた。誰も慰めない。「どや、ゴルフに行こか」とか「パーッと飲みに行こうや」と遊ぶ誘いばかり。それでも野中はうれしかった。くよくよしても始まらないのは、誰もが知っていた。

【82】平成19年10月26日(金曜)
 時はゆっくりとしか流れない。新聞社の訴訟などは弁護士に任せてある。自らも考える。東京から知人がやってきた。「大丈夫ですよ。復帰できますから。しっかり身の潔白だけは証明してください」。野中和夫は、その言葉を信じ、光が見えるまで、がまんするしかなかった。
 「どこで、どうなったんか、未だにわからん。なんでか、雲をつかむような話しや。わかっとんのは、疑惑がかかったという事実だけや。何もしとらんのに、ね」
 商品代の振り込み=ノミ行為では、野中もたまったものではない。子どもたちは夏休みに入る。例年なら親しい岡山の選手家族と一緒に、瀬戸内の海でバカンスを楽しむのに、何もしてやれない。一日も早く疑惑を晴らすため、野中は自宅とは“縁切り”だった。
 「なんで新聞は、オレが事情聴取されるまえに作られてたんや。情報が入ったとしても、あの日(6月27日)、用事があって西署へ行かなんだら、新聞は誤報やろ。解せんわ」
 たどりつくところは、いつも同じ。なんでや…そんな疑問ばかり。悶々と過ごす頃、知人が新たな弁護士を紹介してくれた。さっそく新聞社に対し「名誉回復」のための訴訟を起こした。
 “ノミ口座”に振り込まれた金は、野中が経営するスナック「ブッチー」のマネジャーが、暴力団員の妻が経営する洋品店から買った記念品代で、野中夫人に支払いを頼んで振り込まれたもので、野中本人が知らなかった事実を、警察の裏付け捜査でも証明されていた。

【83】平成19年10月27日(土曜)
 一時的にでも「選手登録」を返上した野中和夫は、無職になった。1月から6月27日までに優勝は丸亀周年を含め5回、獲得賞金は2536万6000円に達し、51年の6千万円を軽く突破する勢いだった。この年のランクは23位、他の選手の1年分以上を半年で稼いでいたのだ。さらに55年後期の適用勝率8・37は1位、さすがにモンスターだった。
 そんな生活は一転して無職。ということは無収入だ。野中は考えた。選手になる前はサラリーマンも経験、果物屋に板金塗装業など、いろいろと稼ぐ手段を経験していた。「使う金は自分で稼ぐ。家族を養うのも自分で働いて稼ぐんや」。まず、考えついたのが「呉服商」だ。水商売のホステスが着る和服の「貸衣装屋」。高価な和服は、若いホステスには手が届かない。そんなところに目をつけて、選手仲間のツテで京都の呉服屋と交渉して、ミナミのホテルで「呉服即売会」も開いた。
 「ミナミに住んどるんやから、ホステスさんにも便利やろ。出勤前に着替えて、仕事帰りか、翌日に持ってくればええんや。そんな商売は無いからね」
 馴染みのクラブから連絡も受けて、けっこう浸透していった。ただ、肝心の「復帰運動」は遅々として進まない。

【84】平成19年10月29日(月曜)
 夏の真っ盛りに、中野浩一が戦後タイの世界選4連覇を目指して渡欧した。野中和夫も東京へ出向き、東京の知人と会い、復帰への可能性が高いことを知った。野中は「浩一、絶対に勝ってこいよ。帰ってくるころには復帰も決まっとるやろ」と中野を激励した。“野中事件”が起こった後、私が競輪取材に出向くと「野中さんはどう?」と親しい選手から聞かれ、「大丈夫ですよ」と返事していた。確証はなくても、野中が“無実”ということを、私が確信していたからだ。中野も激励に応えてV4を達成して帰国したが、野中は祝勝会にも、あえて公の場には姿を出さなかった。
 大阪府警西署の取り調べでは、野中の“ノミ行為”による競馬法違反の事実も存在せず、逮捕された暴力団員との交際のなかったことも確認されていた。立件もされていない。結果は“白”だ。それなのに、復帰への道は閉ざされたまま。全国モーターボート競走会連合会や選手会からも何の連絡もない。引退した元選手として扱われており、どこからも救いの手は出されなかった。どうすればいいのか。時間はかかる。
 「呉服屋」に続いて、堺市内に「うどん屋」をオープンさせた。閉店した「ブッチー」の従業員や家族が生活するためには、働く場を作るしかない。マネジャーや店長は香川県へ出向き、讃岐うどんの本場で修行を積んできた。もちろん、野中も店でうどんを打ち、調理もした。堺の魚市場には店が終わった後に仕入れに出向く。寒い冬の朝、食堂で食べる天ぷらが美味かった。

【85】平成19年10月30日(火曜)
 関東方面での競輪取材を終えて、新幹線に乗り込むと、食堂車で野中和夫の盟友・松本進選手とばったり出会った。名古屋までの2時間、江戸川競艇でのレースを終えた松本は赤ワインを飲み続けた。「赤ワインがからだにええんよ。野中にも赤ワインを飲むように言ってください。私らは何もできないけど、野中を宜しくお願いします。力になってやってください。復帰できるように…」と、野中の復帰を願ってやまなかった。私ごときが復帰させられるわけもないが、「感触はいいようですよ」と言うしかなかった。
 その夜、堺に戻って野中に松本の言葉を伝えると、「そうか。心配をかけるなぁ。まっちゃんが赤ワインがええてか? これからは赤にするかな」とうれしそうに話していた。仲の良かった選手にも連絡はとらず、ひたすら“孤独”を貫いた。足を運んでくる選手は2〜3人。競艇界とは無縁になりかけていた。
 半年が過ぎ、新たな年を迎えた。野中家に新年の喜びなどない。モンスターが再び雄叫びを上げるまで、我慢だ。
 そんな矢先、今度は「ヤミ金融」で大阪府警西署から家宅捜索を受けた。昭和56年1月27日、「無届貸金業経営」の疑いだ。「うどん屋」から自宅へ戻った野中。またも「なんでや」の疑問を抱いた。翌朝の新聞各紙は、また大きな扱いになった。これで復帰の道は完全に塞がれたも同然だった。

【86】平成19年11月1日(木曜)
 誰もが野中和夫の復帰は無い! と考えた。違うのは本人だけ。「オレが何をした? 何もしとらんやないか。友達や知人にに融資しただけや。利益を追求したこともないし、銀行から借りても、オレが利子を払ってるんや。そんなん、銀行で調べてもらったらわかることや。わかってもらえるまで、なんべんでも警察に行く」と、世間のうわさなどはシャットアウト。復帰へ向けて、自らの潔白を証明することに時間を費やした。
 「無届貸金業経営」の疑いで昭和56年5月9日に大阪地方検察庁へ書類送検された。この一件で、逆に野中の身辺に光が差してきた。「黒い交際」については、立件もされていない。が、確かな証しを知らせる術がない。全国モーターボート競走会連合会へ「復帰願い」を提出するにも、決め手がない。書類送検されれば、裁判の結審がでる。野中にとっては、悔しいが、好都合だった。
 「うどん屋」に戻った野中は、いつもと変わらない。朝の9時から午後の4時まで、うどん粉をこねた。店は昼前から開いている。夜は午前2時まで。客が居れば、延長もしばしば。自慢は「天ぷらうどん」。大きなエビがどんぶりに入りきらないぐらいの大きさ。それと、たっぷりうどんを味わう「うどんすき」だ。「カツ丼」もヒレのでっかい豚カツが乗っていた。野中は今でも家にいると、牛丼やオムそばなどを、いとも簡単につくってしまうほどの腕前だ。

【87】平成19年11月2日(金曜)
 余談はともかく、「うどん屋」でも食べる側にたって、おいしく、満足して、帰ってもらうことに精を出した。選手の時も「ファンのために」と頑張ってきた。野中和夫は決して自分本位な男ではない。だから、借金で苦しんでいる知人に頼まれればイヤと断れない。「ヤミ金融」の疑惑も、情けが招いたものだった。
 「試練は避けることがでけへん。今がそうや。きっと、分かってもらえる。避けたら、自分をつぶしてしまう」
 野中の気持ちとは裏腹に、マスコミ関係者で「復帰」を信ずるものは、ごく一握りだった。誰もが「引退」と受け取っていた。ただ、退職金も支払われず、選手会からの連絡も無かった。「引退」に関しては、業界内部でも口をつぐむばかりだった。
 私の上司である当時の編集局長は「新聞では書けんかも知れないが、この顛末をしっかり見届けておいてほしい。何か腑に落ちない」と“野中事件”にきな臭さを感じていた。社からの帰宅途中に、「うどん屋」で野中の手作りうどんも食したことがあった。野中との会話でも「うどん、おいしいですなぁ」ぐらい。事件にも触れず、心根の優しい人だった。
 裁判所に何度も足を運んだ。弁護士もしっかりと野中を弁護。そして6月20日の結審で不起訴処分に附されて解決した。不起訴理由は弁護士がすべてを「無実」と確認した。合わせて「黒い交際」についても新聞社と和解。ということは「誤報」と受け止めてよかった。

【88】平成19年11月5日(月曜)
 身の潔白(不起訴)が証明され、野中和夫は「名誉回復」のために選手資格を収得するための活動が始まる。昨年6月27日に、選手登録を一時的にも返上したときに、担当者とは「身の潔白が証明できれば復帰させる」と、口頭でも「復帰の確約」をとっていた。この1年間、全国モーターボート競走会連合会や選手会からの“事情聴取”は一度もなかった。やっと、晴れて野中が胸を張って「選手」への道を目指して歩めるのだ。
 苦しみ、悩んでいる時に、知人を通じて笹川良一会長との面談を求めた。そして京都の仁和寺で笹川会長から「潔白であると自信をもっているなら、じっとして時期を待ちなさい」という有り難く、温かい言葉をかけられたのだ。
 「会長の言葉はすごく励ましになった。どんな事が起きようと、身の潔白を証明して復帰するまでは耐えられると思った。それにオレは引退やない。一時的に身柄を預けただけなんや」
 不起訴となった時点で全国モーターボート競走会連合会や選手会にも事情を説明するため、文書で「再登録の意志がある」と申し入れた。その後、急展開を見せたのはファンの後押しだった。
 「ファンあっての競艇です」ー笹川会長は、常々、ファンへの感謝の気持ちを忘れない。野中和夫が復帰するにも、最高責任者の「決裁」が必要だ。弁護士と東京の知人からは、不起訴の事実を笹川会長に届けていた。だから、ファンが望むなら…。

【89】平成19年11月6日(火曜)
 復帰運動はファンの間で始まった。友人、知人らが募った嘆願書もある。「なぜ野中を走らせないのか」との声が広まった。ちょうど、平和島競艇場で「第27回モーターボート記念」(7月31日〜8月5日)が開催されており、笹川良一会長の耳へも届いた。この「ファンの声」は野中和夫にとっては、最高の支援となった。「競艇も選手もファンの皆様のものです」の基本理念で、笹川会長が復帰への道を開いてくれた。
 真夏の住之江競艇場。「第17回太閤賞」が行われていた。ファンも多く、にぎわいをみせた。昭和56年8月17日の住之江競艇場・5階ロイヤルルームで笹川良一会長がびっくり仰天の記者会見を開いた。そして“野中事件”に触れて、「暴力団との交際問題は不起訴処分になった。本人に艇界復帰の意志があり、選手登録を申し出れば連合会としては受け入れる」と“野中復帰”を明らかにした。55年6月27日に選手登録を返上していたが、これで復帰への道が1年2ヶ月ぶりについた。
 この後の手続きは8月25日までに再登録申請書を提出し、9月9日の身体検査に合格すると、早ければ12月中旬には再起第1戦の舞台を踏むことになる。記者会見には松岡賛城大阪府モーターボート競走会副会長や蔭山幸夫同会専務らが列席し、笹川会長は「競艇も選手もファンの皆様のものです。実は先日の平和島(MB記念開催中)で、ファンの多くから“なぜ野中を走らせないのか”の声を聞かされた。はっきりと野中君の潔白が不起訴で証明されており、ましてファンの強い要望があれば、連合会としてもこばむ理由はない」と語った。

【90】平成19年11月7日(水曜)
 根強いファンのいる野中和夫、やはり競艇界の“宝”だった。記者会見の後、野中に笹川良一会長から電話がかかってきた。ファンのために、ボート界のために、野中は二度と疑惑を持たれるようなふるまいをしないと、この時に誓った。
 「この1年2ヶ月は実に長い日時でした。不起訴になった段階で連合会へ復帰するための上申書出していました。いま、会長から電話を頂き、温かい言葉で励まされ、ますますボートへの愛情がふくらんでいます。青春をボートにかけましたし、いつもボートのことは頭から離れることはありませんでした。体調面も気をつけてきました。今でも54`は維持させています。1年間のブランクも気になりません。これからトレーニングをして鍛え直し、何をするにも“命がけ”でやります。そして今までと違う野中をファンの皆様にみせたいと思います」
 共同発表の野中コメントだが、野中は笹川会長の電話連絡を受けた後、さっそく和子夫人同伴で、茨木市の笹川会長宅、奈良市内の松岡大阪府モーターボート競走会副会長宅にお礼の挨拶に出向いた。我が社も車で野中を追った。笹川会長との同席写真は撮れなかったが、会長宅の前で和子夫人とのショットは収めた。
 選手時代の紺のスーツに身を包んだ野中は「会長、副会長の温かいお言葉を頂き、胸がつまって何も言えない状態です。聞けばファンの皆様が“野中を走らせろ”と言ってくださったとか、現役時代に、勝つことを目指してきた私にとって、ファンの支援はほんとうにうれしい」と喜びをかみしめ、感謝の意を表した。

【91】平成19年11月8日(木曜)
 復帰への難題は選手会への加入だ。全国モーターボート競走会連合会へ選手登録を済ませても、選手会の会員資格を取り戻す必要があるのだ。笹川良一会長の意向を受けて、堀金文夫日本モーターボート選手会副会長は「本人が昨年自主的に選手登録消除の手続きをした段階で、自動的に選手会の会員資格は消滅しています。会員になるには理事会の承認が必要になります。いまはまだ野中君の復帰は聞いてません」ということだった。
 それでも彦坂郁雄は「よかったですね。ボクもライバルとして励みになる」、北原友次は「えっ、ほんとう。それはよかった。これからのビッグレースもおもしろくなる。ボク自身も張りができるしね」と、スター選手は野中復帰を大歓迎だった。
 8月17日は野中にも忘れられない日となった。家族にも笑顔が戻った。名誉を回復し、新たな旅立ちだ。その前に、子ども達へ、2年ぶりの“夏休み”をプレゼントしなければならない。トレーニングを兼ねて、長男と次男、知人の子どもも一緒に連れて、ワゴン車で和歌山県・白浜温泉へでかけた。2泊3日でも、野中は子ども達とはしゃぎ、楽しんだ。白浜サファリーパークでの打ち上げ花火。空高くから落ちてくる落下傘を追っかける子ども達も大喜びだった。
 「子どもにも寂しい思いをさせて申し訳なかった。2年分の夏休みを、思い切り楽しんだよ。今までは何もしてやれんかったから」
 知人や友人からも、今度は「よかったなぁ」「おめでとう」の電話がひっきりなしにかかってきた。陰ながら励ましてくれた人ばかり。あとは9月9日に“再登録検査”を受けるだけだ。

【92】平成19年11月9日(金曜)
 思えば1年2ヶ月、野中和夫は心の底から笑ったことがなかった。いつも黒い、もやもやとした雲が頭の中を占めていた。唯一、和んだのは56年2月3日、西宮競輪のダービーTRで完全優勝した中野浩一がマンションへ尋ねてきたときだ。55年は頂点から落とされた野中と違って、中野は世界選V4、年間獲得賞金1億円と、スパースターへの道を一気に登っていった。それでも中野は、いつも野中の事を思っていた。「王道を歩く者には、王道を知るものが教示」する必要があるのだ。
 初めて2人が会ったときから、中野は野中に心酔していた。“野中事件”が起こっても「ボクは大丈夫。野中さんを信じてるし、きっと復帰する」と動じなかった。隠れて会うどころか、堂々と会った。
 「浩一が来て、うれしかったよ。頑張る姿を見ると、オレも力がわいてくるからね。年齢は違っても、浩一には“オレ達の世界から、世間に通用するスターが出なあかん”と、いつも言ったもんや。そのための努力は惜しんだらあかんのや」
 輪行バッグを携えた中野がマンションのドアを開けると、野中はビックリした。携帯電話も無い頃だ。この年の第1戦を終え、すぐに第2戦が始まるのに、中野は野中に会いたかったのだ。食事は外で済ませ、たっぷりとつもる話しに花を咲かせた。そして、翌日、ゴルフの約束。中野はまだ初心者。それでも野中の知人と3人でゴルフ場を駆け回った。
 「浩一はセンスがええなぁ。パットがうまい。それに飛ぶしなぁ。まあ、これから何度もゴルフする機会ができるやろ」
その後、野中はゴルフは“封印”状態だった。復帰が叶うまで、とにかく「うどん屋」に精力を注ぎ込んだ。

【93】平成19年11月12日(月曜)
 体力作りにゴルフは欠かせない。子ども達との夏休みでは、白浜でランニングとか腹筋、腕立て伏せなどで、体は動かした。それでもゴルフは歩き回るのが、足腰の鍛錬にもってこいだ。夏の終わりから、精力的にゴルフ場通いで、顔も日に焼け精悍になってきた。復帰への道が開けて、野中和夫は気持ちも前向きになった。8月28日までに全国モーターボート競走会連合会への再登録申請手続きも終えた。
 「あとは再登録検査を待つばかりや。体調的には問題ない。この1年2ヶ月も常に復帰を願ってきたし、無茶な生活はしてなかったからね」
 9月8日に大阪を出て、9日の“再登録検査”に備えた。久々の東京でも、知人と軽く食事をしただけで、早々と笹川記念会館の向かいにある「都イン東京」(現在は取り壊されている)へ引き上げた。翌朝は午前7時半に起床、朝食を済ませて笹川記念会館へ入った。9時から11階にある「ライフプランニングセンター」で、3年に一回の登録更新検査を受ける22期生43人と一緒だ。仲のいい中道善博や村上一行らとともに次々と検査を受けた。
 予定よりも検査は長引いたが、野中は午後2時に“合格”の知らせ受けた。ただちに手続きが行われ、斡旋依頼書、レース場拒否申請書を提出。そして登録番号「2291」も手元に戻り、56年度分の選手手帳も交付された。晴れて“名誉回復”を果たしたのだ。