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【29〜37】頑張れ!岸和田競輪 |
【29=平成20年2月20日(水曜)】
西日本最初の「全国オールスター争覇競輪」開催を前に、中央競輪場は東西木造スタンドを鉄筋コンクリートに改築、投票所の改造、特別席、いす席、発売所の拡張、さらに競輪場正門前ローターリーに針中野間専用バス道路の舗装工事など、ファンサービスのための化粧をほどこした。
「第2回…」は5月1日から6日間のゴールデンウィーク開催。開会式では前年の覇者・石田雄彦選手が通商大臣優勝旗を持って現れ、続いてファン投票ベストテンの各選手が氏名を書いたタスキがけで登場、ドリーム選手の50名は黄色のユニホーム、その他は緑色のユニホームを着用して入場した。12時少し前に開会が宣言され、熱戦の火ぶたを切った。
◆ドリームレース=5月3日に決勝戦が行われた。スタートと同時にトップの豊田茂、田中久彦(2人トップ)に続いて大山一海、西村公佑、山本清治が出ると、石田雄彦、戸上守、松本勝明、西地清一、吉田実の順でジャンを迎えた。トップ田中のピッチが上がり2角まで一列。
これでは後方の選手は不利。大山が先行に入り、4角入口で西村が仕掛けて抜け出し、山本も猛然と追い込む。二人が並んでゴールに飛び込み、写真判定の結果、山本に軍配が上がった。
レース終了後、表彰式で山本選手には大阪市長賞の金盃が授与された。2着以下はA西村B大山C戸上D松本E石田F吉田G西地H豊田I田中の順。
◆オールスター決勝=スタートで白鳥伸雄が飛び出しトップをとる。竹野暢勇に西村公佑―坂本昌仁―大井清―井村稔の大阪勢が前につき、西村亀―中井光雄が続く。先行一本の大山一海が最後尾ということは波乱を思わせた。ジャン前に豊田茂が大山を連れて前に出て竹野らを抑えたが、1角から竹野が思い切って飛び出す。
西村公―大井がうまく続き、バック8番手から中井がスパート。西村公が4角前より竹野を交わし、直線伸びる大井、強襲する中井を制して優勝した。2着以下はA大井B中井C西村亀D竹野E坂本F井村G大山H豊田I白鳥の順だった。
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【30=平成20年2月21日(木曜)】
「第2回オールスター争覇競輪」は大盛況の内に終えた。
夕闇迫る午後6時30分を過ぎた頃から表彰式と閉会式が始まった。優勝者の西村公佑選手には通産大臣賞、全国競輪施行者協議会会長賞、自転車振興会連合会理事長賞、大阪市長賞、大阪府自転車振興会理事長賞など賞状賞品が贈られ、第2位・大井清選手、第3位・中井光雄選手にも盛りだくさんの賞が授与された。
6日間大会を見守ってきた国旗並びに大会旗が降下され、表彰台の中央に西村公佑選手、左右に大井選手、中井光雄選手、前列に第4位から10位までの選手が並び、2万余のファンに向かって感謝の意を表明した。
グランドには特設された敷設花火が右に左にさく裂、七色の煙が場内を包んだ。優勝者の西村公を先頭に10名の選手場内を周回、名残を惜しむファンに応えて閉幕した。
大阪府自転車振興会では「全国オールスター争覇競輪」に多数の有名人、文化人などを招待し、最近における競輪の実態を見てもらった。とかく一般から誤解されがちの競輪観を是正するために、三色グラビアの明るい印刷になるパンフレット「競輪」を発行、PRとして大きな効果をもたらした。
今回の「第2回全国オールスター争覇競輪」は、思わしくない悪天候が続いたにもかかわらず車券売上は2億9664万1400円となり、32年1月のお正月競輪の売上記録2億7894万1100円をはるかに突破して、大阪府下並びに中央競輪場開設以来の新記録を樹立した。
西村公佑選手はドリーム決勝が写真判定の2着に悔し涙を飲みながら、オールスター決勝にも進出して優勝するとは、精神力のタフさを物語っていた。それよりも、どんな番組編成だったのか、改めて興味を抱いたのだが、残念ながら、私の手元には資料がない。記者時代に疑問に思えば詳しく調べて紹介できたのに…。
【31=平成20年2月22日(金曜)】
競輪事業は自転車産業振興のためと地方財政(国利民福)のために実施されているが、スポーツ発展にも自転車競走がスポーツであることから全面的に協力してきた。
ただ、ヘルシンキ五輪の際には競輪界も応援する方針を決定。昭和25年9月に通産省も乗り気で競輪収益をもって支援することになったが、たまたま社会情勢が競輪界の支援を拒否して、その計画は中止になった。
しかし、31年11月のメルボルン五輪には、再び競輪収益による後援の問題が起こり、日本体育協会並びに同後援会、関係各省庁も希望していることが判明。自転車振興会連合会では関係各方面と打ち合わせた結果、31年1月26日、機械貿易会館でオリンピック後援特別競輪開催要綱に関する会合を開いた。通産省、全国施行者協議会、自振連、日競選など関係者が出席、協議して運営方針を決めた。
オリンピック特別競輪の開催地は東京後楽園、川崎、大阪中央、名古屋の4カ所だった。大阪中央の2月を皮切りに7月まで開催されるが、出場選手はオールA級を原則として、オリンピック種目を一種目加えることにした。車券、その他の関係からタンデム(2人乗り)を1レース入れることになった。オリンピック後援費としては開催6日間の収益の3分の1を提供することにし、4競輪場より提供する経費は4300万円程度が予想された。
この昭和31年に開催されるメルボルン五輪への日本の参加は、国力立ち直り直後のヘルシンキ五輪と異なり、国民的体力の増強も著しく国を挙げての熱意も高まった。その反面、体協内部にはごく一部でも反対があったとか。それでも言論機関なども競輪界のオリンピック後援に賛意を表したことは、競輪史上きわめて意義のあることだった。
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【32=平成20年2月23日(土曜)】
オリンピック競輪は昭和31年2月15日、大阪中央競輪場で幕を開けた。正門にはオリンピックと銘打った大アーチが設けられ、バックには五輪をかたどった装飾に花が配せられていた。開会式には白のユニホームに黒いタイツの選手184名が入場。
荘重なファンファーレが高らかに鳴り響くなかを山本清治選手が4選手を従え、伊勢神宮より運ばれてきた聖火を高々と掲げて入場、フィールドに設けられた直径50センチの銅製の聖火台に点火した。聖火は神々しい光彩を放って燃え上がったと、書いてある。この聖火は本大会期間中燃え続けた。
入場者の出足も好調なら、オールA級の出場選手も張り切って熱戦が繰り広げられた。とくに第1日より第4日まで13レースに「タンデムレース」が組まれ、大阪中央競輪として初めての車券化であった。落車や事故もなく、5〜6レース程度とほぼ同額の車券が売れた。この人気に、今後は近畿地区で「タンデムレース」が行われる可能性ができた。
第5日目は日曜日で、入場者2万名、売上5000万円を突破するなど賑わい、6日間で当初の予想1億8千万円をはるかに凌ぎ、2億1520万4300円も売った。オリンピックの拠出金は主催者、自転車振興会とも収益の3分の1となっているが、これに選手賞金から拠出金、投票所で働く人々や大阪自振職員の拠出金を合算すると、この第1回だけで1千万円以上が拠出される。
6日間にわたる各種競走の成績は、第3日目最終レース・大阪市長盃争奪選抜決勝での第1位は西村公佑選手(大阪)、第4日目タンデムレースでは大橋稔・川上太一組(奈良)が優勝。最終日の決勝戦は坂本昌仁選手(大阪)が優勝して燦然として輝く金メダルを獲得。第2位の西村公佑選手に銀メダル、第3位・山本清治選手(大阪)に銅メダルが贈られた。
大阪中央競輪を皮切りに半年にわたって4場で繰り広げられたメルボルン五輪・選手派遣後援の特別競輪は総入場42万人、車券売上額は13億5千万円にのぼり、文部省から依頼された援助費は目標額5千万円をはるかに突破して7千893万円が贈呈された。
そういえば、私が取材を始めたころ、びわこ競輪場のバンク内にクロスの走路があった。聞くとタンデムレースの名残だった。懐かしい昔だ。
【33=平成20年2月25日(月曜)】
大阪府下で最初の競輪が開催されて以来8年が経った。昭和31年8月25日からの中央競輪は、大阪府内競輪が300回目の開催となった。全国的には年間2千万人のファンを動員するなど黄金時代に突入していた。
「大阪府内競輪開催300回記念競輪」は、競走場のバックには色とりどりのアドバルーンがはためき、常日頃の記念競輪と違った和やかな祭典風景を醸し出していた。もちろんタンデム競走も実施され、ファンを喜ばせた。
ファンサービスは開催中、入場者先着3000名に抽選券を配り、毎日5台ずつの軽快車、婦人車、子供自転車を贈った。PR運動の一環として第1日目は自振連発行の写真画報「競輪ファン」を3000部配布、第2日目には大自振の機関紙「サイクル大阪」の別刷りとして「大阪府内競輪300回記念特集新聞」を2万部配った。
その新聞には競輪開催の歴史や、競輪が日本の地方自治体、自転車振興などに大きな寄与をしてきたかということをファンに知らせ、今後も競輪が果たしてきた公共性を強く訴えた。大衆競輪の真価を紹介したことは祭典と相まって非常な成功を収めた。
大阪府内300回の内訳は、住の江競輪場91回、岸和田78回、中央75回、豊中56回(30年6月閉鎖まで)となっており、その間の売上額は総合計342億9529万7950円に達していた。
最終日の31日、最終レースが終わった午後6時半から、スタンド正面の走路を前にした芝生で競輪隆盛の礎を築いた表彰式が行われた。大阪府自転車振興会では創立以来、8年間解禁勤務した審判長・橘益三、経理課長・津川孝雄、審判係・池田一馬、審判課員・金井昭子の4氏に、表彰状並びに記念品を贈り、長年に渡る功績に感謝の意を表した。スタンドに残ったファンからも拍手を浴びた。
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【34=平成20年2月26日(火曜)】
競輪を大衆の基盤にしっかり乗せ、愉快に楽しいものにするためには競輪場の施設や環境を立派なものにすることは当然だが、同時に娯楽(車券)の対象となる選手が正しく健康でなければならない。しかも選手の身辺が清く美しいことが要求され、いささかでも誤解を受けるようなことがあってはならない。その意味で競輪開催中の選手の管理ということが非常に重大なことになってくる。
大阪府自転車振興会では数年前から選手宿泊所を完全なものにするため、先に南海沿線羽衣に選手宿泊所としての建物を確保していた。いざ実施となると、競輪場との交通その他、選手輸送の問題で理想的とはいわれず延び延びになっていた。
その間、選手は各競輪場附近の旅館に分宿、管理課員の手数も大変だった。そこで昭和30年2月に入り、大阪振興会内に選手宿泊所建設委員会を設け、新たな構想による建設準備に着手した。十数回にわたって委員会を開き、検討した結果、大阪市阿倍野区松崎町1丁目の大阪府自転車振興会事務所の東隣接地に決定した。
敷地2500余坪に建設面積は450坪、3階建て鉄筋コンクリート建、大体の予算4千万円で11月15日に竣工式が行われ、8ヶ月後の31年7月初旬に竣工、待望の選手宿泊所が近代建築物として大阪阿倍野の一角にお目見えした。
宿泊所の名前は、大自振関係者250名より名称応募を行い、111種のなかから賛成多数で「豊輪閣」と正式に決定した。内部の諸施設も完成し、名称も決まり、7月9日午前10時から落成式が行われ、歴史的なこの式典に官民500人を招待、「豊輪閣」の誕生を祝福した。
【35=平成20年2月27日(水曜)】
豊輪閣は模範的なスポーツマン・ホテルといわれている。3階建てのスマートな建築物の内部は、ベッド式寝室と日本間を合わせると250名が収容できる。談話室やテラスがあって、娯楽としてはテレビ、ラジオ、電蓄などの近代設備のほかに、ピンポン台、平行棒、輪投げ、その他一切のスポーツ用具をそろえ、精神的慰安と健康増進に気が配られていた。
その一方で83畳の日本式広間には、正面に立派な舞台が特設され演劇、映画、講演など、いろいろな催し物が開かれるようになっていた。宿泊所の心臓部ともいうべき厨房、食堂、洗濯室などは時代の先端を行くオートメーション化され、食堂は同時に100名収容ができた。洗濯施設は1日に200名の衣類が洗濯できると同時に乾燥もできるなど、至れり尽くせりだった。
宿舎と競輪場の往復は専用バスで運ばれた。所在地は夜ともなれば近くを走る近鉄電車の音ぐらいで静かな街並みにあった。屋階の広大な展望台からは、南側に阿倍野のひっそり静まりかえった住宅街、西側は近鉄百貨店、近鉄会館を始め天王寺駅を中心に大阪名物の青い灯、赤い灯、ネオンに夜空を彩る不夜城をながめられ、勝負の世界に生きる競輪選手に温かい息吹を与えたそうだ。
「大阪競輪史」には写真も掲載されてあって、確かにゆったり過ごせそうな宿泊所だ。大広間では、雨で中止の時は映画でも見せたのだろう。また、全国から集まった選手がお国自慢など演芸大会なども催されたのかも知れない。そんな立派な選手宿舎がありながら、その後、豊中に続いて中央、大阪住の江も廃止となるんだから、なんとももったいない話し。岸和田だけが大阪の顔として、競輪を支え続けていく。
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【36=平成20年3月12日(水曜)】
日仏文化の交流、友好関係の増進、日本の自転車競技の技術向上、競輪のスポーツ化を目的として、1957年5月、フランス自転車競技連盟と日本のプロ・アマ統一団体として日本自転車競技連盟を発足させ、両国間の親善を約束した。そして日仏自転車競走実施に関する基本協定に基づいて日仏交歓及び対抗のプロ自転車競技大会が開催された。
日本の開催地は11月5日の岸和田を皮切りに6日・西宮、8日・大宮、10日・花月園、13日・松戸、15日・びわ湖、17日・大阪中央、22日・高松、24日・一宮、26日・川崎、27日・後楽園、29日・岐阜、12月1日・静岡、6日・名古屋と転戦した。
フランス選手一行は10月30日午後9時30分着のエールフランス機で来日。約一ヶ月にわたって各地で日本選抜群と戦った。この結果、日本の自転車競技の技術向上に、このうえない刺激となった。この対抗戦は国際自転車競技連盟の公認競技として正式に記録された。
フランス選手の横顔も紹介されてある。
☆ルイ・ジェラルダン=45歳(主将)=パリグランプリ優勝3回、フランス国内選手権11回、速度競技ヨーロッパ杯優勝3回、UCI(国際競技連盟)グランプリ優勝
☆ジルベール・リベイル=25歳=トラック競技・エスポワールデュスプリント1位、フランス杯トラック競技1位、大学対抗速度競技フランス選手権1位。ロード競技・ピュートグランプリ1位、リエ(固定ギア)賞1位
☆アンリ・アンドリュース=26歳=アマ追抜競技フランス選手権(4000b)1950、51、52年優勝。オリンピック追抜競技フランス選手権(5000b)1950、51、52年優勝。プロ追抜競技フランス選手権(5000b)1952、53、54、55年優勝
☆セルジェ・ブリュッソン=29歳=アマ時代に世界選手権第4位、スエーデンでの五カ国賞1位、グランドフイナル・ド・ラ・メダイユ1位。プロ時代にフランス1周3回参加、6日間競技にしばしば出場、フランス西部1周レース1位、シェール周回競技1位
☆ミシェル・ジェラール=23歳=1955年アマチュア及びアンデパンダンフランス選手権に参加。1956年フランス陸軍選手権、1956年及び57年にプロフランス選手権3位。
☆レイモン・ブラザ=25歳=アマは1950年から54年まで。ロードレース優勝14回、トラックレース優勝55回。55年以降プロ入り。6地区周回競技第一行程1位、同競技最終順位12位、1957年フランス1周ロード参加
いずれもフランスのトップレーサーばかり。一行は11月4日、午後4時30分大阪駅着の特急「つばめ」で来阪。駅頭に主催者の岸和田市ら多数の関係者の出迎えを受け、宿舎・新大阪ホテルで関西の一夜を過ごした。
【37=平成20年3月14日(金曜)】
フランス選手団は5日の午前9時、オープンカーを連ねて肥後橋から信濃橋、四つ橋の目貫通りをパレードして岸和田競輪場へ向かった。到着した一行は三色旗を手にした人々に包囲され、いかにもうれしそうである。午前10時50分から入場式。スタンド前芝生に両軍選手が整列、日仏国歌演奏のうちに両国旗が掲揚され、仏チーム主将・ルイ・ジェラルダン、日本チーム主将・山本清治の両選手がペナントを交換して式を閉じた。
岸和田大会の日本選手は、坂本昌仁、水田佳博、松村憲、宮本義春、山本清治、大倉寛の6人。
《日仏対抗プロ自転車競技・岸和田大会》の幕が開いた。下馬評ではテクニックに勝る仏軍が有利と見られていたが、遠征の疲れか、地の利を生かした日本が3−1で第1戦を制した。
◆スクラッチ=水田佳博 2−1 ミシェル・ジェラール
◆5000b個追抜=@アンリ・アンドリュー6分55秒7A坂本昌仁7分11秒7
◆4000b団体追抜=@日本5分12秒8日本新記録(大倉寛、松村憲、山本清治)Aフランス5分22秒1(セルジュ・ブリュッション、レイモン・ブラザ、ジルベール・リベイル)
◆競輪競走3200b=@松村憲4分39秒2A水田佳博・着差2車Bブラザ・着差2車CジェラルダンDブリュッソンE山本清治F宮本義春
《日仏交歓大阪中央大会》は岸和田大会から数えて7戦目。11月17日は雨で順延され、18日に開催した。
日本選手は井村稔、馬場名和友、西海寿一、伊藤宗徳、山本義男、平川英二郎、尾池義翁の7人。各地の戦いから日本人選手の特長やクセを知ったフランス選手は、初戦から圧倒的な強さを見せた。
スクラッチではジェラールが井村稔をストレートで下し、ミス・アンド・アウトレースで1、2位を占め、競輪競走もものにして、一方的に日本チームを倒した。
◆スクラッチ=ジェラール 2―0 井村稔
◆ミス・アンド・アウト競走(3000b)=@ブリュッソン5分49秒9AジェラルダンB馬場名和友C伊藤宗徳
◆競輪競走(3000b)=@ジェラールAジェラルダンB山本義男C馬場名和友DアンドリューE尾池義翁
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