【182】〜【191】我が中野浩一
【182】平成20年3月4日(火曜)
 不安は準決勝で的中してしまった。西宮競輪の「第27回オールスター競輪」は中野浩一の世界選V8で盛り上がっていた。ドリームを勝ち、二次予選も北村徹に前を任せて、ゴール前で差し切って1着。無傷で勝ち上がっても、表情は冴えない。
 「世界選前の落車から、初めての競輪でしょう。横に並ばれると怖くて…。下げるか、付いて行くか、そんな判断力も鈍ってしまう」
 相手は滝沢正光だけだが、レースは中野が思うように運ばない。先行1車・滝沢の後位に照準を当てたのはいいが、判断力が悪い。他の選手に絡まれた一瞬に、滝沢がスパート。中野は立ち遅れ、最終ホームは7番手。1角半からまくって出たが2センターでふくれてきた選手と接触、外バンクへ押しやられて8着に敗れ去った。挙げ句の果てに腰をネジってしまった。
 「やっぱり判断が悪かった。競られて、転けるんじゃないかと思って…。調子が悪すぎた」
 本来なら自分で踏んでも3着までには届くはずだが、この大会に限っては並みの選手だった。
 「あーぁ、せっかくファン投票の1位に選んでくれたのに…。申し訳ない気持ちでいっぱいです。高松宮杯は落車、オールスターは準決勝で8着。もう一度、競輪祭(11月22日から)までにやり直します。このままで今年は終われない」
 スーパースターの不在で、決勝戦の西宮競輪場は、ファンの足が遠のいた。推定3万5千人、売上14億円を目論んでいた施行者だが、当日は約3万人、約10億円と、大幅に下回った。累計額も96億円にとどまり、100億円は“夢”で終わった。
 腰の精密検査を受けた後、この夜は大阪泊まり。ホテルのベッドで「自分が情けなくなった。涙が出るほどだった」と、まんじりともしない夜を過ごした。
 「癒えに帰っても決勝戦のテレビは観ません。悔しいですから。腰を治し、今回の借りを返します」
 スーパーヒーローは悔しさを胸に、巻き返しを誓った。

【183】平成20年3月7日(金曜)
 59年最後の競輪祭へ向けて、練習に明け暮れるはずだったが、V8男・中野浩一は相変わらずの“オイソガ氏”ぶり。9月29日には東京・池袋の西武百貨店地下2階スポーツ館「サイクルショップ」でサイン会。先着50人の限定だが、サイン会の会場は黒山の人だかり。質疑応答では、競輪や私生活のことだが、終始、にこやかに受け答えた。
 「サインは日ごろ書きなれないから、手が痛くなったりしますね。でも、気持ちよく接してくれるから、楽しい面も多い。競輪を知らない人に知ってもらえるだけでもプラスですね」
 サイン会が終わると、久留米へ戻って名古屋記念(10月5日から)に備えて練習に取り組んでも、3日には中部・近畿地区の「第1回太閤プロ自転車競技大会」に招かれた。といっても“客寄せパンダ”と同じ。ファン動員のためだ。それでも中野はイヤとは言わない。ファンが集まるなら…と常にオーケーだ。
 サイン会をメインに、エキジビションでスプリント競技も披露した。スタンドには雨模様にもかかわらず約3500人のファンが一宮競輪場にやってきた。スプリントの1本目は今年の世界選スプリント6位の井上薫を相手に、11秒3の好ラップで逃げ切った。5分後の2本目は、中部のスター高橋健二と久保千代志との“3人制”だ。スタンドからは「中野を倒せ」のコール。久保が「任せなさい」と胸を叩いたものだから、さらに「アンチ・中野」ばかりとなった。
 久保が中野をけん制するあいだに、高橋が1センターから猛然とスパート。一瞬の踏み遅れでも、中野はパワー全開で追っかけた。ゴールでは2分の1車輪届かなかったがファンは大喜びだった。
 「ショックや。(高橋を)抜けると思ったのに…。練習するつもりが、走るとつい本気になってしまう」
 サイン会は100人の予定が20人もオーバーしたが、ペンを走らせ続けた。
 「車券を抜きにして、ボクのサインを欲しいと言ってくれる人が多かった。世界選で勝ってきて、良かったと改めて思いました」
 翌日、名古屋に入ると、折からの「名古屋城博」が開かれており、金シャチパビリオン前でサイン会にかり出された。東京、一宮、名古屋と、中野はたくさんの一般の人と接触、素顔の中野を売りまくった。

【184】平成20年3月8日(土曜)
 さすがに中野浩一はファンを呼ぶ。一宮、名古屋でのサイン会効果か、名古屋競輪「35周年記念」の前節決勝戦(10月7日)には約2万5000人が詰めかけた。そして21@着で3ヶ月ぶりの優勝を奪い、美酒に酔った。
 車券はもちろん1番人気。最終日の売上は5億8386万3300円で53年10月10日の5億7700万円を6年ぶりに更新する記録となった。
 「地元の久留米で走ってるのと間違うぐらいの声援でした。車券も一本かぶりだったから、久々にプレッシャーがかかりましたね。オールスターで負けた(準決勝8着)あとだから、余計にうれしい」
 直後の熊本記念は名古屋と一変して11C着。配当金は5万4590円の超に字がつく大穴だった。
 「ファンに迷惑をかけて申し訳ない。アテにしすぎて…。今年はこんなことが多い。いい状態が長続きしないんですよね。じっくり乗り込めないからだと思うけどね」
 そんな中野にでっかい“勲章”が届いた。なんと59年10月30日の「園遊会」へ招待されたのだ。
「84世界プロ自転車競技大会」で前人未到のプロ・スプリントV8を達成した中野は、東京都赤坂御苑で開かれた天皇陛下主催の秋の園遊会に出席した。苑内を一巡された陛下は中野に「最近競輪の方はどうですか」とお言葉をかけられると、中野は緊張した表情で「一生懸命やってるんですが、年のためかなかなか勝たせてもらえません」と答えた。
 毎年、春と秋、各界の功労者約2500人が集まって開かれる園遊会。黒のタキシードに身を包んだ中野は緊張気味。それもそのはず、プロスポーツの世界では52年の王貞治(現巨人監督)以来、二人目の栄誉なのだ。しかも、陛下が直接お言葉をかけられるのは、そのうちの4、5人。そのなかに中野が選ばれたことは競輪だけに限らず、不況に悩む公営ギャンブル界にとっては、まさに画期的なことで、大変明るい話題となった。
 園遊会のあと、中野選手は首相官邸に中曽根首相を訪ね、歓談した。
 首相は中野選手に記念品の置き時計を贈ったあと「今度は余裕を持って勝ったようだね」と質問。最後に「今度は9連覇だね」と励まされていた。
 中野浩一選手の話「君が代が流れて、陛下がこちらに来られたときは本当に緊張しました。しかし、競輪も一般的に認められたんだなぁという実感がわき大変うれしい。祖父」(光雄さん)の陛下に会えるなんてお前もたいした男になったな、と喜んでくれた」

【185】平成20年3月11日(火曜)
 秋の園遊会の模様は、59年10月30日の夕刻、各テレビ局のニュース番組で流れた。どのチャンネルをひねっても、メインは中野浩一だった。以後、中野の顔は、全国津々浦々に知れ渡った。
 「お年寄りからも声をかけられるようになった。天皇陛下とお会いして、その偉大さを改めて思い知りました。僕らには雲の上の人ですからね」
 59年の競輪界も押し詰まってきた。ダービー・滝沢正光、高松宮杯・佐々木昭彦、オールスター・吉井秀仁が優勝と、中野は未冠のまま。最後に残されたビッグは競輪祭。過去、中野は20回、22回、23回、25回と4度の優勝を飾っている。
 「特別の中では九州で行われる競輪祭が一番、気合が入る。地元戦ですからね」
 中野は高松宮杯の落車と世界選前の小田原での落車で、調子を崩した。世界のV8には支障もなかったが、国内の競輪では乗り込み不足がたたって、不安定な戦いが続いた。花月園記念54欠、岸和田記念51B着と競輪祭へ向けてもリズムは悪い。それでも別府競輪場での九州共同合宿(2泊3日)ではハロン10秒5台を出していた。
 「岸和田よりも状態はよかった。練習の感じも悪くなかった。オールスターよりも手応えがあった」
 競輪祭の中野は一番人気ではなかった。井上茂徳や尾崎雅彦、滝沢正光、吉井秀仁らが車券の信頼度を高くしていた。いわば中野は客寄せだった。初走、2走目ともまくり不発で6、5着。ファンも中野を見限っていた。
 「踏み出しはいいのに、スピードに乗り切らん。地元でファンに怒られてばかりですわ」
 難関の準決勝。中野は終始、内に包まれ、直線だけで必死に突っ込んだ。スプリントでの勝負強さが、最後になって生きた。写真判定の末、辛うじて3着で決勝入りだ。中野は優勝したような笑顔を見せた。
 「バックでは、もうアカンと思った。最後はスプリントですね。ゴール前でポンとハンドルを投げたら、3着に届いていた。調子が悪くて決勝に乗れて、ほんとうれしい」
 着順確定の放送後は、九州の控室がパッと明るくなった。とりわけ最強タッグのパートナー井上はホッとしていた。

【186】平成20年3月13日(木曜)
 昭和59年最後のビッグレース、小倉競輪「第26回競輪祭・全日本競輪王決定戦」の決勝戦は11月27日。スーパースター中野浩一が絶不調でも、なんとか決勝入り。3連勝で完全Vを目指す井上茂徳と強力タッグを組む。
 決勝戦のメンバーは@井上茂徳A中野浩一B尾崎雅彦C伊藤豊明D吉井秀仁E小磯伸一F清嶋彰一G菅谷幸泰H馬場圭一の9人。
 有利に運ぶのは徹底先行・清嶋を目標にする尾崎―吉井―菅谷―小磯と並ぶ“フラワー軍団プラス1”だ。中野―井上がどう切り崩すかが焦点だった。
 そこで、9人の胸の内を紹介しよう。
 井上「結果的に3連勝ですから調子はいいんでしょうね。やっぱり中野さん任せ」
 中野「ホッとしたといえばファンの人に悪いが、正直言って気持ちは楽になりました。井上君に抜かれるけど、今の力を出し切る」
 尾崎「清嶋さんがいるし目標に迷いはない。スタートも狙っていく」
 伊藤「馬場君に付けてもいいが、その状況に応じて臨機応変に戦う」
 吉井「作戦は分からないけど、うまく立ち回りたい。滝沢がいなくなったし、尾崎君の後ろが妥当なところかな」
 小磯「小倉はゲンがいい(昨年の新人王覇者)。スタートを決めてもフラワーの後ろ。ダメなら自分で動いて積極的に行きたい」
 清嶋「直前の成績(991着)が悪かったので欠場しようかと思っていたぐらい。競輪て、わからないですね。先輩の尾崎君を連れて持ち味(先行)を出す」
 菅谷「ビッグは2回目の決勝入り。吉井さんの後ろになりそうですね」
 馬場「初めての決勝入り。先行で戦うために来たが、まだ動いていない。伊藤さんにかかわらず、西の人が付けてくれるなら東の先行選手と勝負します」
 結束の固い東日本勢。清嶋に乗る尾崎が本命人気を背負ったのも当然だった。

【187】平成20年3月15日(土曜)
 頭脳作戦が功を奏した。苦しみ抜いて「第26回競輪祭・競輪王決定戦」の決勝戦に進出した中野浩一。最後は、組み立ての巧さでフラワー軍団を壊滅させた。
 「自力で納得のいくレースをする」と決めていた中野。スタートで尾崎雅彦が飛び出すと吉井―菅谷―小磯と続いた。清嶋が中団に構えると、中野―井上もこの後ろに待機。伊藤、馬場も控えた。清嶋の動きを利用しながら、中野が叩いて馬場の飛び出しを待つ作戦だ。来なければ、中野の先行だ。
 あと3周で清嶋が追い上げると、中野―井上―伊藤も上昇。そして赤板過ぎに中野が清嶋を抑えて誘導員を交わすと、馬場が一気に踏み上げ、伊藤もスイッチ。中野は労せず3番手をキープ。
 いったん車を下げた清嶋以下だが、肝心の清嶋の足が動かない。中野がしきりに後ろを見ながら牽制したため、清嶋は動くに動けなかったのだ。馬場―伊藤が快調に逃げたが、バックでは中野が井上を連れて、今大会一番のまくりを放った。これでフラワーの出番はなくなった。
 にんまり笑ったのは井上だ。過去3度、井上は中野のまくりを差してタイトルを手中にした。まして本調子を欠く中野なら、ゴール前で抜くのは簡単だ。ハロンも12秒0、井上は中野を2分の1車身も抜き去っていた。
 「とにかく調子が悪いので、清嶋が来たら外へ思い切って振ることだけを考えていた。あの展開なら最高。シゲが優勝したし、最後に、なんとか格好をつけられた」
 立川オールスターに前橋ダービー、競輪祭2度、中野は井上のタイトル奪取に貢献した。差されて悔しくても、それが現状なら、同じ九州の選手が優勝だと中野は満足だった。
 「理想の展開で負けたのは、自分の力不足だったんでしょう。さあ、来年は巻き返しますよ。このままでは終われない」

【188】平成20年3月28日(金曜)
  昭和59年も無冠に終わった中野浩一だが、最後は佐世保記念21A着、岐阜記念6止@着で締めくくった。この年の優勝は記念7回、TR1回の計8回。並みの選手なら胸を張っていばれる成績だが、スーパースターには物足りない。再飛躍を期して、暮れから常夏ハワイで休暇だ。当然、異国で拝む初日の出には「世界選V9祈願」と国内での失地回復を期している。
 「もう、あまり大きなことは言えないが、走る時点で持っている力を出し切って戦う。年々、力が落ちているのがよくわかる。練習量の問題もあるしね」
  昭和60年は競輪界にとって、新たな出発の年でもある。通産省の券売場設置基準の改正、施設改善、競輪開催条件の緩和、開催休日の流動的設定など、諸施策を展開してきた。これで中央競馬のように、場外で車券が購入できる可能性もでてきた。それもこれも中野浩一というスターが現れたことで、自転車熱が高まったからだ。
 すでに新番組制度(KPK)もスタートして1年9ヶ月。ファンにも浸透してきた。59年11月にはユニホームも改善され、徐々に古い殻を破ってきた。そして“競輪振興元年”を迎えた。4月には京王閣競輪で“電話投票”も実施する。7月には「第1回全日本選抜競輪」が前橋競輪場で、1年間の総決算である「KEIRINグランプリ」の開催も決まった。
 すべてがスター中野を中心に動く。いわば競輪界の再興は中野の双肩にかかっているのだ。
 ハワイでの休暇を含め、正月休みは1ヶ月。世界と日本の両立を果たす中野には、これぐらいの“お年玉”があってもいいものだ。が、現実は自費でのバカンスで、期間中は無収入。保証もなにもない。“賞金稼ぎ”を選んだ競輪選手はプロ野球選手のように年俸での保護もない。
 「世界選の賞金は気持ち程度(約50万円)ですからね。名誉を取りに行って、賞金は国内で稼ぐんですよ。それが、ボクの生きる道です」
 新たな年は、最大のテーマ、世界選V9へ向かって歩む。

【189】平成20年3月29日(土曜)
  “競輪振興元年”を迎えた競輪界。スーパースター中野浩一は、1ヶ月遅れのダービーTRから始動した。まず立川TR12@着、静岡TR33B着で特選シード権を獲得した。3月の立川競輪場で開催の「第40回競輪ダービー」へターゲットを絞って、好スタートを切った。
 ところが、3場所目の奈良記念で歯車が狂った。初日特選が事故棄権、準決勝は2着でクリアしたが、決勝戦で落車だ。左肩鎖関節亜脱臼に左膝打撲挫創、じん帯損傷で全治2ヶ月の重傷を負った。
 ダービーはもちろん欠場。病院が生活の場となった。たっぷりと休養にあてたが、やはり寂しいもの。動けるようになると、入院中でも自転車に乗って、衰えた筋肉を鍛えていく。骨折よりもタチの悪い亜脱臼。じん帯損傷も、回りの筋肉を鍛えて、負担を軽減しなければならない。いわば一からの体力作りが必要だった。
 負傷が癒えると、中野は不死身とも思える活躍だ。5月の別府記念は31@着で優勝。続く高松記念は11@着のパーフェクト優勝だ。いつもの年よりも勢いがついて悲願の“宮杯”へアタックした。
 びわこ競輪での「第36回高松宮杯競輪」。中野が52年から挑戦を続けてきたが、その都度、厚い壁にはね返されてきた。58年は4連勝のあと決勝戦で3着、59年も同じく4連勝で決勝に進みながらラフプレーにあって落車。相性が悪すぎた。60年も、ウンは向いてこなかった。317着で、途中欠場だ。ファンの支持に応えられなかった。
 宮杯の後は弥彦記念12@着で優勝。久留米記念16欠では準決勝で沈み、途中欠場。そして小松島では初日に転んでしまった。幸い軽傷ですんだのがラッキーだった。まだ世界選V9への挑戦には時間があった。合宿などで、練習も調整も、しっかりできる。
 前橋競輪での「第1回全日本選抜競輪」も、中野には欲しいタイトルだ。脚の方はしっかりと仕上がっていた。それでも、まくりを決めながら佐々木昭彦に差されて、ガックリだった。

【190=番外】平成20年3月31日(月曜)
 この昭和60年、私は1月16日付で、レース部から運動部へ異動になった。14年間に渡って取材を続け、自ら“1”と思っていた。だけど、社では、記者の代わりはいくらでもいる。掃いてすてるほど、余っているのだ。また、プロ選手に対して、エキスパートも必要ではない。別に、そんなつもりでギャンブル記者をしていたわけではないが、出る杭は打たれる…だった。こんな中途半端な日に異動のあるのがおかしいくらいだった。
 運動部? プロ野球? どっちでもいい。俺にとっての転機には違いない。野中和夫に触れて、若い中野浩一に自らをだぶらせて、日本、世界を歩く姿、その基本姿勢に変わりはなかった。人と接するには、同じ“匂い”が必要なのは、初めて競輪の取材に携わった日に、味わっていた。だからプロ野球担当と決まって、まず若い選手、それと俺と同期に、ぴったりマークした。そして読者が望む、読んで楽しい記事を提供したつもりだ。
 新米記者の時、先輩に言われた「読み直して、書いた本人が面白くない記事は、読者も面白くないんや」の言葉を、忘れたことはなかった。定年のその日まで、出稿前に何度も読み直して、自らオーケーをだして送稿したものだ。
 今、改めて「我が世界V10男 中野浩一」を執筆しているのも、自分で面白く、楽しんでいるからこそ、ここまで続けられているのだ。いくら持ち場が違っても、中野浩一に、電話で近況を聞いたり、プロ野球の遠征先で福岡に行けば中野とも、携帯が無い頃でも自宅に連絡をとって夜の中洲で会った。もちろん競艇の野中和夫とも“旧交”を温めていた。
 だけど、異動になった60年は、プロ野球(近鉄バファローズ)のノウハウを覚えるのに神経をすり減らし、野中や中野と四方山話をするのにも半年はかかった。【189】の原稿も、手元にあるデーターから書いたもので、面白くもない、新聞の記事なら“ボツ”だ。それでも精いっぱい、中野を知って欲しいから、単調な流れでも書きつづった。
 ただ、世界V9の話しは、しっかりと電話で聞いた。いくら担当が変わっても、気になるのが記者の本能だった。

【191】平成20年4月2日(水曜)
 世界への旅も10度目。最初の4位がなければ、こうも長く続いただろうか。負けた悔しさがあったからこそ、世界のスーパースター中野浩一として、プロ・スプリント8連覇の王者として、無敵の存在に育ったのだ。
 イタリアのバッサノ市で開催の1985年度世界選手権大会。水の都・ベネチアの西方70キロに位置する静かな街だ。ホテルの食事で出てきたグラッパという酒は、焼酎とよく似たアルコール度数40度の強いもの。アルコールの好きな中野は、何でも体験とばかり、グイッとあおって、V9獲りへ、燃えた。
 現地入り後に中野が始めたのは情報収集だ。前年はオリンピックイヤー(ロス五輪)で、プロのスプリントには、新顔も少なかった。だから、この大会にはプロ転向組も出てくる。そんな中に、ロス五輪で坂本勉(57期で競輪学校在校中)に敗れ、スプリント4位のベルネ(フランス)だった。ヤーベ・カールらとの練習でも、上がり10秒7〜8をコンスタントに計時していた。
 「未知数の選手と対戦するのが一番イヤですね。ボクも初めての時は当たって砕けろの気持ちでぶつかりましたからね。そんな無欲で挑戦されるのが怖いですよ」
 準決勝の相手は、このベルネだった。キャリアもパワーも中野が上位でも、未知の力が気になった。1本目、中野はベルネの動きを警戒しながら、スパートしたが、いつもの勢いがない。スピードに乗れないのだ。そして…なんと、ゴールでタイヤ差抜かれていた。日本のキャビンは、一瞬、凍り付いた。まさか負けるとは、誰もが勝利を信じて疑わなかった。
 しかし、相手の力を、しっかりと見抜いた中野には、不安感は無かった。苦笑いを浮かべながらも、冷静そのものだった。だから2本目も、2コーナーからすんなり先行、マイペースの逃げでベルネを寄せ付けなかった。あまりの完勝劇にベルネの方が意気消沈だ。3本目も中野の圧勝、V9への決勝の舞台へ立った。