【94】〜【106】我が野中和夫
【94】平成19年11月13日(火曜)
 選手会の制服は1年ごとに更新されるが、野中和夫は前年度の紺のスーツに身を包んで記者会見場にやってきた。報道関係者は約30人。身体検査などからカメラマンは追っかけ、フラッシュが光った。55年6月27日以来、やっと日の目を見た。
 「おかげを持ちまして、再登録検査に合格しました。私が疑惑をもたれたことで、他の1450人の選手にも多大の迷惑をかけ、心苦しく思っていた。これからは言葉で謝罪するよりも、自分自身がしっかりとして、二度と業界に迷惑をかけないようやっていきます」
 口をキュッと結び、合格の喜びより、責任の重大さを感じ取っていた。
 《記者会見での一問一答》
 ー休んでた期間は何をにしていた? 「問題になったスナック(ブッチー)はすぐに止め、兄貴の喫茶店も“ブッチー”なんで、これも止めてもらった。堺に“うどん屋”を開店して、兄貴やブッチーの授業員らと、一緒に働いていた」
 ー家族はどう思われてた? 「母は近くへ買い物にも行けなくて家にこもってばかりでした。子どもは達は幼くて何も分かってなかったのが幸いでした。近所の人も以前にもましてよくしていただいて、人間の有り難みが身にしみてわかりました」(続く)



【95】平成19年11月14日(水曜)
(続き)
 ー復帰に際して“誓約書”を提出したと聞くが内容は? 「今後、疑惑を持たれるようなことは一切しないし、そんな恐れの出てきたときは競走会さんへ相談に行く、といった内容です。いずれにしても今度、事件を起こしたら潔く退職勧告を受けます、と書きました」
 ー復帰へのトレーニングは? 「スタミナ作りに1ヶ月はかかると思う。精神面でも、レースの世界の精神力は、世間的なものとは全く違う。これも鍛え直さないと」
 ー乗艇訓練はどうする? 「大阪競走会の指図に従います」
 ー復帰第1戦は住之江で走りたいか? 「いえ、どこでもいい。一生懸命に走ります」
 ー復帰に際して、事件を起こした今の気持ちは? 「業界のイメージをダウンさせたことの責任は重大です。言葉でどのように謝罪してもどうにもならない。これからのレースで自分自身が、目いっぱいにがんばるしかないと思います。それと、選手仲間にボクが疑惑をもたれたことで肩身の狭い思いをさせたことは、選手でないと分からない気持ですから、ひとり、ひとりにお詫びしたい気持ちです」
 モンスター野中和夫が水面に帰ってくるのは分かったが、まだ段階がある。全国の施行者から野中の出走を“拒否するか、しないか”の回答が揃って、拒否が5競艇場を超えない限り10月中旬までに“斡旋”を受け、11月中旬ごろには復帰第1戦を迎える。また、日本モーターボート選手会(田中淳会長)への入会問題も残されている。

【96】平成19年11月15日(木曜)
 ある日、野中和夫の復帰問題に関してベテラン選手と夜の街で意見を闘わした。
 「一人入ってくるだけで、今までの選手は困るんや。賞金が減るわけやから、実質的には損になる。これぐらいの勘定はだれでもするよ。復帰できるのはいいが、金の問題は納得いかん部分や」
 確かに、野中は強い。稼ぎまくる。復帰しても、しばらく経つと、やっぱり“モンスター”と呼ばれるようになるだろう。度量が狭いと言われても、このベテラン選手にとっては深刻な死活問題だったのだ。が、待てよ。野中が活躍してファンを呼び込めば、売り上げも伸びるし、自然と選手賞金も上がってくる。こんな話しをしていると、「そりゃそうや。ようけ(舟券が)売れたらの話しや。それだけ頑張ってくれたらえんやけどなぁ」と、やはり野中の活躍に、期待もこめていた。
 56年10月12日、日本モーターボート選手会(田中淳会長)は、東京・虎ノ門の船舶振興ビル10階会議室で56年度の定例理事会を開いた。去る9月9日、全国モーターボート競走会連合会(笹川良一会長)で選手再登録をすませた野中和夫の選手会入会問題を検討した結果、入会を満場一致で可決承認した。野中は12日付けで選手会会員となり晴れて現役復帰が決定した。全国の施行者からの拒否も無く、15日に再スタートのデビュー戦が連合会から発表されることになっている。
 野中は「これでホッとしました。いろいろ復帰に尽力して下さった方々に深く感謝したい。これからは新人のつもりでイチから出直します」と、1年2ヶ月の“苦闘”から解放され、やっと“選手”に戻った。

【97】平成19年11月17日(土曜)
 余談だが、なぜ野中和夫は「ブッチー」と呼ばれるのか。親しい人は「ブッちゃん」と言う。2着をぶっちぎって走ることから「ブッチー」と名付けられたと思われがちだが、意外なところから誕生した。ある時、お菓子の最中を、野中が手でつぶすとブチュッとつぶれ、中からあんこが飛び出した。野中が最中をつぶしてブチュッとなったことから転じて、ブチュ→ブッチュ→ブッチーとなって、呼び名の「ブッチー」はだじゃれの発想からだったとか。
 水面の野中は、スピード満点の走りっぷり。スタンドからも「それ行け!! ブッチー」の声が飛んだものだ。そのブッチーが、モンスターが、11月には再びファンの前で勇姿を披露する。
 10月14日、野中は住之江レース場(この頃、競艇場ではなくイメージ考えてレース場と呼んでいた)を訪れ、競走会関係者にあいさつ、再起の決意を語るとともに、自主訓練のスケジュールを話しあった。復帰へ向け本格的な再始動にとりかかるためだ。
 日程は、15日から開催のレース後にスタートする「第49期新人選手訓練」に組み込まれた。
 「実戦のカムバックもほぼ1ヶ月後に迫りましたし“一日も早く練習しないと”の気持ちです。走る事への不安は確かにありますが、これも乗って練習してみないと、間隔は分かりませんし…ともかく新人のつもりでやってみます」
 37歳の“新人”は上條信一、山本孝司の両新人と11月7日までの3節、17日間に渡って、スタート練習、交差旋回、模擬レースなどを消化していく予定だ。

【98】平成19年11月19日(月曜)
 時は流れて、エンジンは“ヤマトイチマル”に替わっていた。野中和夫は見たことも、聞いたことも、触ったこともない。カムバック第1戦が11月20日から24日の平和島に決まった15日、住之江レース場で再始動を開始した住之江競艇初日のレース終了後、午後4時過ぎ、赤いカポックに身を包んだ野中が水面に姿を現した。閉門まで居たファンは、1マーク側で野中の航走を食い入るように見つめていた。
 はやる心を抑えて、最初は慎重な始動。丸亀競艇「開設28周年記念」で豪快なまくりで優勝を飾って以来、実に1年4ヶ月ぶりの“感触”をじっくりと味わった。競艇に命を賭けてきた野中、レバーを、ハンドルを握る手に、胸がジーンと熱くなるのを感じていた。
 15周ほど個人旋回に汗を流したが、その間“全力疾走”の1周タイム測定では最初に37秒1をマーク。最後には36秒4を計時した。通常の平均タイムは37秒5前後だけに、このタイムは破格。早くも王者の片鱗をのぞかせた。
  「あかん、いざ水面に出てみると、なかなか思うようにはいかん。ランニングなどをしてコンディションを整えてきたつもりでも、15周ほど走ったがやっぱりしんどい。とくに両ヒザが“笑う”んや。こんなことは初めて。まあ、実際に走ってみて、走る前の不安な気持ちは消えましたね」
 初体験となった“ヤマトイチマル”については「まだ実感としてピンときません。どこをどう整備するのか、実戦を積み重ねながら考えていく」と暗中模索の状態だった。

【99】平成19年11月20日(火曜)
 笹川良一会長はビッグレースの時などファンの前へ、しょっちゅう顔を出していた。テレビのCMにも出て、子どもたちにも「火の用心のおっちゃん」と人気があった。野中和夫の復帰も、そんなファンの声が決めてとなった。「ファンのために、会長に、業界に恩返しをする。命をかけて、競艇に打ち込む」と誓った。以前から、ファンへのサインや写真撮影にも断ったことがない。一人でも、二人でも、握手しながらファンと接触した。
 「これからの競艇人生は、すべてが恩返しと思っている。もう一度、頂点に立てるように、ファンが振り向いてくれるように、負けるわけにはいかん。勝つための勉強はせんとあかん。初めて見るエンジンも、結果はすぐに出んかも知れんけど、できるだけ早く、元の状態に戻すつもりや」
 再出発の場が住之江競艇場でなくて、ファンが復帰を望んだ平和島競艇場であったのも、何かの縁だ。ファンの間では「野中は関西で強いだけで、関東では弱い」と言われていたが、そんな風評がありながら野中を復帰させた。ファンの目が注視する平和島で“新生・野中”が、どんな戦いを見せるのかー。
 「訓練を始めて1週間ほどは、足がガクガクやった。まともに歩けんのやから。いかにブランクが大きいか、よう分かった。救いは大時計との勘が狂っていなかったことや。エンジンが分からんところは、スタートでカバーできると思う」
 昭和56年11月19日、平和島競艇・一般戦の前検日を迎えた。もう前を向いて、戦う男に変貌だ。

【100】平成19年11月21日(水曜)
 紺の制服で平和島競艇場に現れた野中和夫。胸を張って、誇らしげに、威風堂々とした“新人”が前検日、モーター、ボートの抽選に臨んだ。できれば高勝率のエンジンを…甘くはない。神は試練を与えた。勝率は最悪の部類。手をほどこさないと動かない代物だ。
 「苦労のしがいがあるエンジンやった。初めから(高勝率の)エンジンに乗せてもらって勝てても、けっしていいことはない。悪いからこそ良くしようと整備する。勉強のしがいがあった。それにしても、新エンジンは、難解やった」
 汗にまみれてエンジンと格闘した。整備と取り組む姿には、再び水面で走れる喜びがあふれていた。整備しては試走、この繰り返しで、ついに1走目を迎えた。スタンドからは野中への声援が、すさまじいばかり。1年5ヶ月ぶりに、武者震いだ。
 「なんとも言えん気持ちやった。緊張とかより、勝つことを考えていた。ファンが後押ししてくれてるのも伝わってきた」
 5コースに進入を取った野中。トップスタートで臨んだが、やはりエンジンにパワーが無い。まくりに行くどころか、内の小川忠良が先まくりのスタイルに持ち込んだ。いきなり差しにチェンジしたが、突き抜けない。パワー不足で4着が精いっぱい。ファンの支持は1番人気。売り上げの51・3%が野中がらみだ。長期離脱後でも、ファンは“強い野中”が復活するのを期待していたのだ。

【101】平成19年11月22日(木曜)
 再デビュー戦の平和島競艇では、結局、優勝戦には乗れず4413512着の成績に終わった。それでも6走目の1着は、十八番の強烈なツケマイだった。スピード満点の勝利に、ファンもやんやの喝采。そして最終日は5番手から追い上げて2着を奪うなど、ターン時のハンドル捌きの巧みさも取り戻しつつあった。エンジンは悪くても6着がゼロというのは“新人”ではありえない成績だ。やはり野中は、モンスターそのものだった。
 「毎日、微調整をしながら、何度も水面に出たよ。一日中、乗ってたから。少しでも新エンジンの感触をつかむためには、乗るのが一番やからね。ターンの練習もできたし、自分のなかではよくやれたと思う。だけど、ファンが望んでくれる成績を残せずに迷惑をかけたが、今後につながる勉強ばかりだった。新ヤマトの内面も初めて見たし、次はもっとよくなるやろね」
 久々に実戦を終えて自宅へ帰った野中。さすがに疲れていた。というより、心地よい疲れだった。明日へつながる光が見え、元の“王道”を歩む速度も徐々に軌道修正だ。
 まずC級からA級へ。月の一度の実戦では、ムリもできない。フライングでもすれば少ない出走回数で事故点もオーバーしかねない。まして40日の休みもある。とにかくスタートは慎重にいくしかない。2戦目は12月19日からの津競艇場に決まった。どんな変わり身を見せるのか、楽しみが満載だ。

【102】平成19年11月23日(金曜)
 自宅は、やっぱり心地よい。ミナミの仮住まいも引き払った。一家8人。兄の一家も来る。近所の人も集まる。親しい選手や知人も集まる。いつも賑やかだった野中和夫宅。大黒柱が戻ると元の温かさが戻った。それでも、レーサーは甘い顔はできない。減量もある。モンスターはどこにいても“オレが一番”だ。わがまま、勝手、気ままだ。56年も師走に入った。再デビュー2戦目は津競艇だ。
 「今期は、とにかくA級に入ることを目標にしている。それと7点台の勝率を残すことや。自分ではなんとか行けると思ってるけど、フライングだけは絶対に切れん。スタートには気をつけて走るで」
 津は平和島と違って実戦の勘を取り戻してきた。予選の成績は311411551着。もちろん優勝戦に進出した。復帰2場所目で、初優勝の好機だった。優勝戦のメンバーは@横山候祝A野中和夫B神ノ口国光C村田瑞穂D高峰孝三E増岡睦の6人。増岡以外は記念で暴れている面々。野中にとっては最近のレベルを知るためには格好の相手だ。
 「ええスタートやったけどなぁ。まあ、平和島と同様に、まずまずのシリーズやったんと違うかな。優勝? そんなんは結果や」
 優勝戦になると燃えるのが野中。スタートだけは負けておれない。2コースに構えて、なんとコンマ04の快Sだ。それでも勝てない。外から高峰もまくってきて、野中とまくり合戦。2人が競り合ったたため、インの横山はクルッと回って逃げ切り優勝だった。野中は結局3着に甘んじた。
 2場所走って勝率は6.71。再飛躍を期す57年に向けて、リハーサルは上々の結果だった。

【103】平成19年11月26日(月曜)
 待ちに待った地元・住之江競艇での出走も、1月14日からと決まった。正月シリーズ恒例の「GSS旗争奪戦」だ。本来ならC級は初日の「特別選抜戦」に組み込まれないが、そこは“住之江の星”が誕生したところ。悩んだ番組編成委員は、誰もが納得のいくファン投票で決めることになった。野中和夫の支持率は高い。いくらブランクがあっても、ファンは野中を忘れてはいない。吉田重義を押しのけてトップ当選だった。
 「ありがたいことです。ファンの人が1位に選んでくれたのは“野中、気合を入れろよ”と言ってもらったのと同じ。一生懸命に戦うし、エンジンの勉強もする」
 昭和57年1月1日。野中は38歳の誕生日を迎えた。サンスポのレース面のトップも中野浩一と二人で“82へ誓いも新た”のタイトルで飾った。話題度では中野に大きく差をつけられたが、水の上に戻ってくれば野中も巻き返すのは必至。競艇ファンの多い大阪では、中野以上の人気だ。
 「いつまでも“古い人”の時代だとファンもおもしろくないでしょう。若い人がドンドン力をつけることが艇界の発展につながると思う。そのためには練習、練習、それしかない。レースの合間も水面に出て乗り回すこと。そして自信をつけること。若い人の目標になれるようボクも頑張る」
 49年の“3冠奪取”は初めて2000番台から優勝者だった。ヤングの旗頭としてデビューから5年半でトップレーサーへ。さて、今回の再デビューでの噴火はいつなのかー。

【104】平成19年11月27日(火曜)
 平和島→津に続いて住之江に登場した野中和夫。復帰3節目といっても、ファンは待ってくれない。久々の勇姿に1着=優勝を信じて疑わないのだ。前検日の13日、野中はいつもよりも早く競艇場に到着した。通い慣れた場所でも、やはり緊張もあった。平和島と同じく、紺のスーツ姿で現れた。この大会は、近畿の3地区対抗戦で、気心の知れた選手ばかり。野中も自然と同化していた。
 午前十時から競技本部内の選手控室でモーター、ボートの抽選が行われた。ガラガラを回す手にも力が入る。できるだけ高勝率モーターを…と願うのは、全員が同じ。野中も抽選器を回すと、あろうことか平和島で苦しんだときのような凡モーターを引いてしまった。順風満帆では面白くない。神も東のメッカ・平和島と同様に西のメッカ・住之江で、野中にさらなる試練を与えたのだ。
 「まあ、ええやろ。2節走って、だいぶとエンジンもわかってきた。住之江も、ええ勉強になるわ。整備士さんもいるし、いろいろ教えてもらって、期待にこたられるよう頑張るで」
 初日から悪戦苦闘の連続。それでも整備しては、水面で乗り回し、徐々にでも戦える状態に動かないエンジンを蘇らせていった。ファンは「野中もブランクには勝てんか」「もう歳かいな」とか、冷たい視線も届く。
 「オレは歳は気にしてへん。選手をやってる限りは年齢より実働年齢だと考えている。実働20年、それまでは衰えへんはずや」
 デビューが44年なら、あと7、8年は大丈夫。38歳は充実期だ。

【105】平成19年11月28日(水曜)
 苦労は買うてでもせぇ! 買わずとも野中和夫は、ワースト1か2のエンジンに魂をこめて整備した。扱いも丁寧に…。その甲斐あって、準優勝戦にコマを進めると、難関を突破して津に続き優勝戦に乗ってきた。結果は吉田重義の強烈なまくりを浴びて敗れたが、住之江競艇場のファンは納得ずくの“本命は野中”だった。
 「よう優勝戦に乗れたと思う。整備に苦しんだけど、新ヤマトもわかってきたから、大いなるプラスやった。優勝は、その時の運やから、しゃあないかな。そのうち勝てるやろ」
 新生・野中の“新年の誓い”は@A級復帰A年度表彰を受けるーの二つに置いていた。A級はスタート事故さえ起こさなければ可能だが、年度表彰となると厳しい。年間勝率や優勝回数、さらにビッグタイトルの優勝などで叶うが、それほど甘い世界ではない。A級に戻れば7月以降は記念やビッグの舞台ばかり。ブランクが埋まるか、それが問題だ。
 「いや、どこかの部門(勝率、優勝数など)でトップに立ってみせる。復帰した限りは、自分の目標も大きく持たんと、戦う意味がない。今年はともかく、せっかく復帰できたんやから、タイトルも2つぐらいは取らんとね…」
 タイトル2つとは、謙虚なモンスター。牙を剥くには、まだ早すぎるのだ。まず初優勝、続いて記念の優勝、さらにタイトル…ここまで登ってくれば、もう2つや3つのタイトルでは終わらない。またまた“第2の野中時代”を築くはずだ。再デビューの3戦目は2月4日からの大村競艇場に決まった。さらなる進化へ、野中はペラの研究に余念がなかった。

【106】平成19年11月29日(木曜)
 モンスターはやることが違う。再デビュー4節目の大村競艇で、野中和夫は思う存分、暴れ回った。平和島で、住之江で苦しんだ凡モーター。それでも必死に整備に取り組んだのが実を結んだのだ。初日から快スタートを連発。豪快に水面をぶっ飛ばした。走れば勝つーまた勝つ。なんと5連勝で優勝戦に乗ってきた。
 津、住之江に続いて3節連続しての優出。ともに惜しいところで優勝を逃してきた。大村といえば、昭和51年の5月、周年記念で優勝。住之江で「第3回笹川賞」を手に入れた直後で、序盤は553着と崩れながら、残りを6連勝で終えたのだ。相性のいいところでは、いつも快ショットを連発させる野中。この再起4節目も、勢いに乗ってしまった。
 優勝戦のメンバーに向義行や瀬戸康孝、荘林幸輝ら記念レーサーが揃っていた。それでも、もう野中の敵ではなかった。インを奪うと、そのまま一気に逃げ切って、55年6月の丸亀周年記念以来、再デビュー初の優勝を手に入れた。6連勝のパーフェクトVのすごさだった。
 「津も住之江も残念やったけど、大村は気分も乗ってしまったかな。まあ、優勝できたんで、一区切りはついたかな。エンジンも分かりかけては、また元に戻ったり、やっぱり難しいもんや。まだまだ時間がかかるんと違うかな」
 完全優勝は49年4月・尼崎、5月・丸亀、6月・蒲郡、51年6月・宮島、7月・びわこを含め、大村で6度目だった。