【新=58〜】頑張れ!岸和田競輪
【63】平成20年5月20日(火曜)
 ◆自転車競技の機関◆
 自転車競技の代表統轄機関として日本自転車競技連盟が設立されたのは昭和9年2月。次いで昭和11年には国際自転車連合に参加。第1回ベルリン・オリンピックには出宮順一、石塚睦春、国見辰夫、村上二三九選手らが参加した。
 翌12年10月、明治神宮において開催された第9回国民体育大会に参加した同連盟は、日本学生自転車競技連盟とも手を握り、新たに二荒芳徳氏を会長に推し、新発足した。これより先、大阪サイクル協会は10年1月、毎日新聞社において関係者が参集、日本自転車競技連盟大阪支部を設立した。
 昭和の初めにおける大阪関係の競技大会の主なる記録を抜粋すると、次のようなものである。
 ☆第9回明治神宮体育大会=昭和12年9月5日 戸山学校
  1万b 15分24秒9(日本新記録 昭和12年度公認) 横田隆雄
☆第1回大阪サイクル選手権大会=昭和6年11月22日 大阪市立運動場
1000b速度競走 1分44秒 佐藤直次
  4000b速度競走 7分45秒6 佐藤直次
 ☆大阪サイクル選手権大会=昭和7年1月25日 大阪市立運動場
  1000b速度競走 1分36秒2 傍島兼吉
 ☆西日本サイクル選手権大会予選=昭和7年8月14日 大阪市立運動場
  5000b速度競走 9分54秒4 傍島兼吉
 ☆第2回西日本サイクル選手権大会=昭和7年9月10日 甲子園南運動場
  1000b速度競走=1着 1分38秒  玉置玉作
  5000b速度競走=1着 9分40秒1 玉置玉作
  100`道路競走=3着 2時間45分53秒 傍島兼吉
 ☆西日本サイクル選手権大会予選=昭和8年8月12日 大阪市立運動場
  5000b速度競走=1着 8分16秒2  玉置玉作
 ☆第3回西日本サイクル選手権大会=昭和8年9月9日 甲子園南運動場
  1000b速度競走=3着 玉置玉作
  1万b速度競走=3着 川崎正人
 なお、西日本サイクル選手権大会は12回まで開催されたが、我が国の戦争突入によって今日まで開催されていない。

 以上が「大阪競輪史」のなかから抜粋した大阪の競輪事情だが、今後は日本自転車振興会発行の「競輪年史」などを見ながら、大阪にまつわる話題を探したいと思う。それにしても手元に「大阪競輪史」があって、改めて貴重な資料を残してもらったことに感謝したい。

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【58】平成20年5月7日(水曜)
 日本に自転車が発達するなかで、自転車競走の歴史も変動してきた。日本全国いたるところに自転車競走をめぐる記録が残されている。そんな競輪の原点となった過去の足跡を取り上げてみよう。
 ◆日本最初の自転車◆
 初めて自転車が輸入されたのは明治3年、佐藤アイザックという人である。古い東京府の記録に『東京府明治5年8月中諸税収納触示中に自転車1台』と記載されている。明治9年には6台となり14年には矢野次郎、森村市左衛門氏らによって英国製の三輪車が輸入された(一説にはこれが我が国最初の輸入ともいわれている)。
 当時の自転車は木製のガタクリ自転車が殆どで、その後、俗に一輪半と呼ばれていた「オーヂナリー型」が輸入されたものであった。22、23年ごろから日本人の間にも乗用に使用されるようになり。30年前後にはゴム製の両輪が一般に普及されるにいたった。
 29年1月ごろ日本人と外国人を交えた30人ばかりで、横浜に「日本バイシクル・クラブ」といわれるクラブをつくり、自転車ハイキングや競走会を行ったのが自転車クラブの元祖といわれている。
 その後、各地の有力者間にクラブが結成され、自転車を一般に普及するため大々的に宣伝された。大阪方面では、当時、堺市甲斐町に双輪商店というのがあって、自転車の一時貸しを行い非常な好評を受けていた。発展途上にあった自転車は、大体において米国車が主なるもので、製造される自転車もほとんど米式に造られていた。
 最初の製造者は東京の宮田製作所、関西においては大阪空堀の真島安太郎氏であった。自転車工業としての形態を整えてきたのは明治37、38年ごろからで、数年後には続々と和製の完成車が市場に現れるようになった。
 このころまで国内の自転車は全部といってよいほど米国製であったが、神戸の橋本商会から英国車を売り始めたところ、英国車は修理作業が簡単で、値段が安いというところから人気を集め、短期間のうちに米式は英式にお株を奪われる結果となった。

【59】平成20年5月9日(金曜)
 ◆初期の自転車競走◆
 日本最初の自転車競走選手は輸入商に抱えられていた。つまりアメリカ、イギリス製品の輸入商が明治23年ごろからゴム製のウェスト・フィールド・デートンとかピアスとかを輸入したが「実によく走ります」と宣伝するため、選手を養成したのが始まりである。
 横浜にあって、後に丸石商会となった石川商会や、ピアス、トライアプルの輸入元、東京の仁藤商会、坂田商会などの店では2、3人ずつの選手を抱えていた。この選手達は学生が大部分で、輪士会という選手会が厳しい統制力をもっていたといわれる。これらの選手はいろいろな形で競走をしていたそうだ。
 ◆明治時代の競走◆
 今様レースのスタートは、明治30年春、東京上野の不忍池で催された自転車競走が、我が国最初らしい。
 参加選手は約20名で第1回の優勝者は鶴田勝三という選手であった。その翌31年に同好の士を集めて東京神田淡路町に「双輪クラブ」という選手会が呱々の声をあげたのである。「双輪クラブ」は二六新聞の後援のもとに春秋2回、上野不忍池でレースを催し、次第に評判を高めていった。
 選手は鶴田の他に岩谷松平、小野寺正一郎、石崎由太朗ら2、30名であったが、断然強かったのは鶴田勝三で「鶴田の前に鶴田なく鶴田の後に鶴田なし」と当時、大変な人気であった。
 32年には東京本所菊賀町に「輪友クラブ」が誕生し、このクラブは同場所に4周一哩のグランドを持っており、34、35年頃まで双輪、輪友のクラブ対抗戦がしばしば行われ、有名選手を輩出するようになった。
 また、大阪にも有名選手が生まれ、石井大三郎兄弟、鈴鹿光一、芭蕉竹松などで、とりわけ石井兄弟が強く、関東の鶴田選手としばしば覇を競ったものである。

【60】平成20年5月11日(日曜)
 明治33年頃、アメリカから選手が来日して不忍池で「日米対抗競走会」が開催された。ジーメソン、ビーメソンの兄弟、ドラモンド・スコット、曲乗りのシードブラック、エルジット・ボーン等が出場。彼らと対抗した一流選手の実力は相当なもので、鶴田選手はドラモンドと対戦して1車身の差をつけて破った。この時のレースは、初めての国際レースでもあり、不忍池に2万人もの観衆を集めたそうだ。
 全国と名の付くビッグレースの始まりは34年春、不忍池で開催された東西対抗レースだった。翌年から大阪築港などで、次から次へと全国大会が開催された。チャンピオンは小宮山長造選手で、常に覇を競っていたのが砂田松次郎選手だった。この当時、6年間の選手生活中、長距離ロードレースを除いて、敗れたのはただ一度という驚異的な記録を残し、今日まで盛名を残しているのが小宮山長造選手である。
 不忍池で行われた第1回全国大会5哩レースは当時の一流選手を網羅して、いわば選手権大会だともいえよう。東京からは小宮山、大久保、毛利、沢山、関西からは鈴鹿、石井、高野の顔ぶれであった。入場料はゴール前が1円と50銭、観客はぎっしり詰まったという。この時、1着になった小宮山選手の賞金は1円銀貨で100円、大変な評判であった。
 小宮山氏はいわば日本プロ選手の草分けといえるだろう。プロとアマとはっきり区別することは現在と違っていろいろ疑義もあったが、とにかく小宮山氏らの場合は自転車輸入商に所属し、給料とはいかなくても食べさせてもらい、小遣いをもらって、競技のために自転車を乗り回していたわけである。こういった選手は店の自転車宣伝に使われていたのだが、小宮山氏がテストケースであり、その結果、次々と専属選手が輩出してきたのである。
 40年頃、東に小宮山、西に砂田とうたわれた両選手が引退後、華々しく表舞台に出てきた選手は多田健蔵、佐藤産吉両選手である。41年に万朝報、横浜貿易新報主催で250哩レースがあり、多田は各選手を引き離して堂々の優勝。佐藤選手は不忍池の大会でもたびたび優勝し、一時は多田・佐藤時代を形成したものだ。

【61】平成20年5月15日(木曜)
 ◆大正時代の競走◆
 多田、佐藤の全盛期の後を受けて出た有名選手は渡辺貞平、小島八郎の東方選手に、西方では松原国忠、池田清二郎らである。
 大正3年、大阪築港グランドで開催された大会で、松原選手は岡山の葛城重太郎選手と対戦し、決勝点5b手前で転倒。明らかに進路妨害であったうえに、敵の葛城選手が1着となったので、松原選手は抗議を申し入れ競技の再戦を求めた。しかし、審判が協議した結果、うけいれられなかった。納得のいかない松原選手はセーターをズタズタに引き破り、審判席に投げ込み、場内は騒然とし、ついに競技続行不能となる事件もあった。
 この時代の全国自転車選手の最大目標は、春秋2回、東京、大阪、名古屋で開かれる全国大会への出場権を得ることであった。この大会の10哩レースに1着になることが、文字通り“全国一”といわれたのだ。この栄冠を勝ち得た選手は、小宮山長造、砂田松次郎、多田健蔵、佐藤雄吉、渡辺貞平、松原国忠、後期では高梨政吉、柴田音吉、藤原延、高橋隆二、宮島留吉、長谷川新、本郷秀之助らであった。
 また、この間、長距離レースもかなり行われた。大阪、日光間の千哩ロードレース、大阪、九州間の千哩ロードレース、大阪新報主催の大阪―神戸―京都間百哩ロードレースなど、数々の思い出が残されている。
 大正時代の初めに大阪築港グランドで開かれた大会は随分と華々しいものだったらしい。先にも述べたように松原、葛城選手のトラブルなど多くの話題を提供しているが、大会の花形には松原、葛城のほか東京の多田健蔵、大阪からは柴田音吉、本郷秀之助、説田長次郎など多士済々だった。
 大正2年に朝鮮においても大レースがあり、内地にも選手の招聘があった。京城日報の主催で、レース場は仁川、平壌、釜山、京城の四カ所。朝鮮にはスボキ(グロリア)、ボクトン(ラーヂ)らの内地の一流でも歯が立たない選手がいた。この年を皮切りに年々、関西選手が下関から海を渡ったのである。この年の派遣選手5名、一流選手を選って葛城重太郎、説田長次郎、小川淳、汐見喜太郎などが乗り込んだ。
 初日に仁川で小川、第2日目の京城で説田が勝ち、残る釜山、平壌ではスピード屋の葛城が連勝、優勝旗をモノにした。自転車競走も昭和を迎え発展気運に向かっていたが、満州事変に引き続き戦乱は拡大、自転車競走も立ち消えの形になってしまった。

【62】平成20年5月18日(日曜)
 ◆自転車の話題◆
 我が国においてはどのようにして自転車競走が行われてきたのか、過去を顧みて頗る興味深いものがある。日露戦争の直後、丸石、角、日米、森西ウイリアムス各商会によって、初めて競走用自転車が輸入された。丸石商会はピアス号、トライアンプ号、日米商店はラーヂ号、ホドソン号、角にプリミヤ号、ランクル号、森西にはグロリア号などだ。
 これらの自転車をどのように宣伝し、販売するかということが研究され、国民の関心を呼ぶには各競走車を一カ所に集めて自転車競走を行い覇を競うことが一番であるという結論に達した。各業者は競走選手の養成につとめた結果、華やかな自転車競走時代を現出したのであった。
 当時の各社選手の顔ぶれは丸石に芭蕉、砂田、小川、説田、角商会には松原、本郷、日米に山尾、山下。森西では藤原、池田、汐見といった全国一流の強豪が生まれ、藤原選手は上海オリンピックにおいて優勝の栄冠を勝ち得た世界的選手である。
 注目されるのは一流の専属プロ選手のほかアマチュアが多かったこと。当時はプロ・アマの区別なくレースに出場していたものであった。このころ、一流選手の給料が四、五十円という比較的高級であったが、無給のアマチュア選手が多数存在したことは、競技そのものがいかに真面目に行われていたかがうかがわれる。
 この時代の公認競走場は、関西では須磨の大池公園、東京上野不忍池公園、名古屋の鶴舞公園の3カ所であり、それぞれ1周3哩、普通10周30哩の競走が実施されていた。
 大会当日ともなれば色とりどりのノボリが林立し、勇壮な音楽が流れ、非常に賑やかな風景を描き出したものである。選手らは社運を賭しての必死の競走を展開した。各自転車商は宣伝100%の競走に全力を傾注、選手と一体になって活躍したことも、この時代の特色といえよう。