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◆28〜41◆楽しき取材日記
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◆28◆平成19年7月24日(火曜)
苦労人が初めて味わった美酒は、あまりにもドラマチックだった。昭和50年8月21日の住之江競艇「第9回太閤賞」で優勝した後川博のことだ。すでに2年後輩の野中和夫には大きく水を開けられたが、地道な努力は報われた。叩かれても最インを貫く。そしてクルリと1マークで落としマイ。独特の粘っこいインスタイルを確立していた。この優勝戦も小林嗣政のまくりを浴び、差した古賀武日児が先頭に。ところが2マークで小林が古賀の内へ切り込み、二人してフェンス際へ吹っ飛んで行った。3番手の後川は労せず差し抜け、初の記念優勝を飾った。
「バックで2人が競り合っていたから、ひょっとしたら…と思っていた」と冷静さを忘れなかったのも勝因だ。藤沢清(引退)以来、7年ぶりに地元勢が「太閤賞」を奪還した。「僕が(住之江で)デビューしたときに引いたモーターは藤沢さんの(優勝モーター)でした。その時の藤沢さんはヒコさん(彦坂郁雄)でも相手ではなかった。僕らのあこがれのひとでした」。因縁めいた話しだが、目に見えない糸が後川を優勝へ導いたのかもしれない。この年の1月にすみ枝夫人と結婚、来年3月3日に二世誕生予定と、後川には忘れられない優勝となった。
◆29◆平成19年7月25日(水曜)
昭和49年に野中和夫がアウト一本で“3冠王”に輝いたが、八尋信夫も昭和50年に“アウト一本”に戦法チェンジして話題を呼んだ。野中に刺激を受けたのかと思えば違った。同じ九州から出てきた長崎の星・国光秀雄が、あまりにも易々とアウトから勝つのを見て「おもしろいように勝ちよる」と36期の新人に習ったのだ。八尋といえばイン屋で、叩かれて5、6着に沈んでもインにしか見向きもしなかった。「僕らはインに入ってもスタートが遅かった。勝負と思っても消極的になっていたし…。そんなときに国光君を見て、アウトへコースを変えることを決めた」。最後にインで戦ったのは、この年の「第2回笹川賞」。やはり成績は55566245着と目を覆いたくなるほどの無惨さ。迷っていた気持ちも、これで「アウト」に固まった。そうするとスタートは早く、ほんとうにおもしろいように勝ちだした。
8月の下関「MB記念」は初日の4着をのぞいて優勝戦まで5連勝。本命のイン・野中に対し八尋はアウトから全速でまくり込んで、バックで伸び勝負に持ち込むはずだった。それが海面のうねりにハンドルを取られて転覆。「MB記念はいろんな意味を含めて最高の経験になった。アウトから勝つのはスリルとサスペンスがある。これからもアウトで戦う」と、八尋はアウトの虜になっていた。この原稿は住之江「第22回ダービー」へ向けての前打ち記事で、どうしても近畿に馴染みのうすい“まくり屋・八尋”をとりあげたかったのだ。
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◆30◆平成19年7月26日(木曜)
昭和51年3月7日、住之江競艇「飛龍賞競走」の優勝戦で、尾高実が3コースから0秒05のスタートで飛び出し、そのまま独走した。乾燥室の台に並べられた6つのユニホーム。尾高が着用した黒字に白抜きのA番だけは水滴ひとつついてなかった。まさに完勝だった。「エンジンは最高でした。(イン争いで)展開も僕に味方した」。「第4回鳳凰賞」で十中八九手にした特別タイトルを岡本義則にさらわれた。岡本はスター街道を歩み続け、尾高はツキから見放され、この時も2期続いたB級。それでも2月の中国ダービーで息を吹き返し、優勝戦の5着。当たり年(昭和15年生まれ)に幸先いい成績を残した。
「ことし初めての優勝が飛龍賞。干支の辰にあやかって、これから“昇龍”といきたいものです。今は事故点もゼロだし、このままならA級に上がれます。今度のような、まくりで勝ち取った優勝は格別の味です」。この時の尾高の「37号機」は、5月の「笹川賞」で野中和夫が引き当て、優勝宣言したほどの破壊力だった。
◆31◆平成19年7月30日(月曜)
『よみがえった闘将』ーの見出しで安岐義晴の快挙を伝えたのは昭和51年7月7日付けの瀬戸内版だった。登録番号310番の大ベテランが、約1年をかけて体力改善と取り組んだ。高松市・栗林公園近くのトレーニングジムで体力作りを始め、減量に入った。47歳の時だ。心技体の充実へ、率先垂範を実践したのだ。それもこれも、香川王国を建立のため。
丸亀競艇「開設24周年記念」の優勝戦。最インに記念初出場で初優出の平尾修二。2コースの安岐はきっちりと差して、地元勢が22年ぶりに地元記念奪還を果たした。「優勝を取れてうれしいが、それよりも香川県の若手に刺激を与えたことのほうがうれしい」と、表彰台で涙がホオを伝っていた。「口で言っても笑われるばかりだから、身をもって皆に知らせようと思った。やっぱり、香川は“王国”にならんと安心できん」と若手の奮起をうながす言葉ばかり。
52年3月の鳳凰賞、 51年10月のダービーにも出場する安岐。香川の看板を超ベテランが背負っていた。「今まではターンのスピードが鈍かったが、今は若い人と同じように全速でレバーを握っている。過去、丸亀でも先頭を走りながら2マークで二度も逆転(17回は瀬戸康孝、20回は古谷浩)されていましたから。今回は気をつけて走った」と、苦い経験を踏まえて、さらに進歩した。ペラも“安岐の変形ペラ”をあみだすなど、探求心も旺盛だった。この51年は「第1回年間優秀選手表彰」で「敢闘選手賞」を受賞した。誇らしげな姿が印象的だった。
◆32◆平成19年7月31日(火曜)
「もうニコニコやな」と飾りっ気のない大阪弁で優勝の実感をファンに伝えたのが長谷川和雄だ。昭和51年8月3日の住之江競艇「第11回太閤賞」の優勝戦で、長谷川はインから+02のフライングで発進した中道善博にツケマイで挑み、繰り上がりで選手生活10年目で初の記念優勝を勝ち取った。まず「おおきに」とお立ち台で挨拶した後、「もうニコニコやな。Fで繰り上がったが実際はまくり切れていたはずや。モーターは一番、よかったからな。ハチマル(80型モーター)のペラのコツを覚えたのが、この優勝につながった。一般戦だとモーターを見てくれと寄ってくる」と、モーターを仕上げる手腕が財産となった。
大阪の住吉区に生まれ、高校卒業後は親戚の燃料点で1年、コンパクトを作る会社に数ヶ月。そして「大阪がイヤになって九州へ」行って、鮮魚のトラック運転手。はやりの“トラック野郎”だ。「そんなカッコええもんと違う」と笑わせながら、苦労した当時を振り返る。その時に、下関で競艇を見て「選手募集をやってて、これなら俺もできる」と応募した。デビュー10年目は3月・鳳凰賞、5月・笹川賞に出場。やっと一人前に育った裏付けが「太閤賞」の優勝だった。和歌山に在住して、前嶋大、信定英成と“和歌山トリオ”で特別戦線で暴れ回った。
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◆33◆平成19年8月1日(水曜)
台風シーズンの競艇開催は大変だ。昭和51年9月11日から開催予定だった鳴門競艇「第6回サンスポ杯」は前検日が1日遅れて開催。関東から夜行列車に乗った本命候補・新井敏司は、岡山の手前でストップしたまま。宇高連絡線も動かない。前検日に間に合わず“賞典レース除外”の措置で決勝に乗れなかった。いきなりの波乱ムードで進行した。
優勝は黒明良光と鍛冶義晴がイン争いに火花を散らし、4コースへ回った角川政志が0秒07のスタートで飛び出しまくり勝ち、1月丸亀以来、V2を飾った。父親は競輪選手の竹彦(A4班)。幼い頃から父の姿を見て競輪選手にあこばれていたが、体力不足(50s)で断念した。「こうして優勝するとボート選手になってよかったと思います」と歩んだ道に間違いのなかったことを実感した。「今はA級の点数がある。A級に戻ってから勝負のし直しです」。愛媛は新田宣夫とともにビッグ路線で、しぶといイン戦を展開した。
この取材には、私もてんやわんや。台風接近で飛行機が飛ばず、急きょ新幹線乗り継ぎで宇高連絡線で高松まで着いたが、高松ー徳島の県境で崩落。すぐに大阪へ引き返して翌日の飛行機で徳島に入った。その時、岡山・宇野に戻る宇高連絡線に乗らずもたもたしていたら、以後は宇高連絡線がストップして、新井選手と同様に、鳴門へ行く術を失っていたのだ。
◆34◆平成19年8月2日(木曜)
楽しい取材が、後年には「悲しき取材日記に」なってしまった。昭和51年10月19日付けで三国競艇の「第1回サンスポ杯争奪・越前荒磯賞」の主役に地元のホープ石田栄一を取り上げた。30期以降の「新人戦」で、ヤングの宝庫。そのなかでも石田は光っていた。春から夏にかけて三国周年→住之江・笹川賞→尼崎周年→住之江太閤賞と立て続けに記念を経験。笹川賞の準優勝戦では天下の野中和夫に果敢なアタックを見せてフライング。敗れはしたが、男の勝負時を逸することはしなかった。「得るものは多かった。期の始めのフライングですが、その後の方がかえって成績が良くなった。レースで自信と余裕ができました」。F後に唐津、平和島を優勝、3月尼崎を含めV3。来年3月の鳳凰賞への出場権利には後V1が必要だ。「三国の水面は走りやすい。コースは3コースまで」と気合をこめていた。
10月26日の優勝戦には絹子夫人と、11ヶ月の尚也クンが迎えにきていた。「女房の顔を見るよりも先に子供に目がいく」と子煩悩な石田。1歳の誕生祝いに、もちろんインをがっちり抑えて、高辻幸信、橋本博治のアタックを退けて、優勝をプレゼントした。レース後に絹子夫人と尚也クンを見つけると、いっそう喜びがこみ上げていた。「これから、いつも記念、特別で走れるように努力します。岩口さん(昭三)のターンのスピードをマスターしたい」。本命人気の重圧にも勝ち、一回り成長した石田。前途洋々の競艇人生だったが、その後、病に勝てず他界した。今でも、私の脳裏には石田選手の明るく、実直な態度が焼き付いている。
◆35◆平成19年8月3日(金曜)
昭和47年ごろから東京サンスポの企画で「競艇イン・アウト」を連載していた。この51年は各競艇場の紹介で、私は津を担当した。津といえば“競艇の神様”倉田栄一を取り上げるのが一番。45年のダービー優勝戦で転覆、後続艇のプロペラで左足ふくらはぎをS字型に切断され「再起不能」(ちょっとした思い出の◆3◆でも紹介)の診断だった。
それでも不屈の闘志とボートレースへかける情熱で、八度も手術を受けカムバックした。48年には下関・MB記念、住之江・ダービーに出場と、再びクラシック路線に戻った。「走れる喜びは誰にもわからないでしょうね。最初は本当に走れるのか、何度も不安に襲われました」と、苦しい療養生活を振り返った。
津では開設記念の4、9、10周年に43年の東海ダービーも優勝しているが「私の優勝は昔のレース場で、今の場所に移ってからは、あまり記録を残していない」と言う。水面が広くなり、一般的に走りやすくなったといわれるが、倉田は慣れなかったようだ。
44歳のこのころ、中年太りを防ぎ、49sから50sに体重を維持する減量も始めた。「減量は脱水症状を起こす風呂は避け、青山高原に登って足の訓練を兼ねたものに重点を置いてます。鳳凰賞(52年)は最後の大レース参加と思って走ります」。過去にダービー、地区対抗、MB記念を制し、今度は“4冠”への挑戦を熱っぽく語っていた。
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◆36◆平成19年8月6日(月曜)
競輪学校で“喫煙事件”というのがあった。38期、39期生のなかでタバコを吸って6ヶ月の停学で留年。その留年組が40期に“再入学”した。これで40期は史上空前の141人がデビューとなった。昭和52年9月7日に40期卒業記念レースが行われ、優勝したのは“38期組”の遠藤三郎だった。「これで2年間(停学6ヶ月含め)の努力がみのりました。今はうれしくて、うれしくてたまりません」と、同僚の胴上げに胸をつまらせた。福島県の川俣高校を卒業後、紡績会社に就職。2年間のサラリーマン生活のあと「男らしい世界」と兄・勉(A級3班)を頼って静岡から受験した。
逃げて2着に粘った生形堅志は38期のなかでも3本の指に入る逸材だったが、プロ入り後はとんとん拍子に出世しながら、精神的に悩み、志し半ばで挫折、廃業した。この40期のbPは菅野良信、bQは石川浩史。菅野は200b11秒22、1000b1分8秒33学校記録を塗り替えるなど“金の卵”だった。翌年の昭和53年、世界選のミュンヘン大会で銅メダルに輝き、大物ぶりを発揮した。
◆37◆平成19年8月7日(火曜)
競走に“欲”は禁物だ。昭和53年3月28日の平競輪「第31回競輪ダービー」決勝戦のこと。地元地区の菅田順和が、タイトルへ5度目の挑戦だ。それも宮城勢が4人いて、菅田には絶対有利な流れになるはずだった。ところが、菅田が単騎の中田毅彦をアテにしすぎて、宮城勢が最終ホームで分裂。逃げた山口健治ー国男の兄弟コンビに藤巻清志ー渋川久雄のペース。5番手の中田は「菅田の引き出し役にはならない」の考えだったから、菅田はあまりにも頼りすぎて6着に散った。
2番手の国男は「菅田か藤巻がまくってくると思うと、焦って踏んで、逆に脚はギクシャクして“三角”に回って、恥ずかしいし、くやしい」とガックリ。ニッコリ笑ったのは3番手で回った藤巻。「2回タイトルを取っているし、他の人より気楽に走れた。国男さんが外に踏み出してからでも十分届く」と、余裕たっぷりに抜け出したものだ。
競輪ダービーの準決勝日(27日)に3人目の子供が生まれたばかり。兄・昇が「前検日から浮かないをしていたが、子供が生まれて、思い切り走れたんでしょう」と、清志の胸の内を代弁した。清志も「優勝したときの子だから“優子”と名付けるつもり」と感慨深げだった。勝ちを意識しすぎた菅田は「人を頼っちゃダメ」と唇を噛んでいた。
◆38◆平成19年8月8日(水曜)
昭和52年12月18日の奈良競輪「開設記念・春日賞争覇戦」前節・初日9Rでレース不成立があった。当時はイン待ちが流行。杉野孝雄も前を取って、突っ張り先行か番手ねらいの競走スタイルだった。初めての特選シードで「レースは度胸と根性」と言って、闘志を全面に押し出して戦った。打鐘後の4コーナーで外からかぶせる阿部道を突っ張り、その時、誘導員の内へ差し込んでいた杉野は、誘導員退避線の手前で接触落車。
競技規則第73条1項第7号『前略…先頭員が競走選手の競走に重大な障害を与えたときレースは不成立』に抵触したため不成立となった。「まずいレースをして申し訳ありません」と杉野は肩を落とし、責任を一人で背負った感じで帰郷した。他選手からは「@番(杉野)は引かなきゃダメだよ。A1班の競走じゃない」と非難を受けた。期待の大きかった徳島軍団のホープ杉野だったが、この一件以来、持ち味のガッツが薄れてしまった。
決勝戦では近畿のホープ鷲田善一が逃げ切り、初の記念優勝を獲得した。冬季中は福井から向日町へ移動して吉岡隆伸や桝井道弘、荒木実らと練習に明け暮れた。「今年の目標は記念の入着に置いていたが、5月に西武園記念で桝井さんの2着に粘れて、年内に記念優勝に目標を切り替えた。それも達成できて、こんなうれしいことはない」と会心の笑み。さらに向日町での練習にも身が入った。32期・杉野と33期・鷲田、同じヤングに将来の明暗が分かれた記念戦であった。
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◆39◆平成19年8月10日(金曜)
A級3戦目で初優勝を飾ったのが菊谷修一。38期は山口健治や吉井秀仁がスター街道をばく進中だったが、菊谷は9ヶ月のB級暮らしで、A級へは定時昇級だった。努力に次ぐ努力で、“練習の虫”の異名さえついていた。昭和52年10月2日の西宮競輪「サンスポ杯」決勝戦で、菊谷はジャンと同時に前受けの樋口和夫に対しカマシ先行を敢行。そのまま快調に逃げて、優勝を手に入れた。
「ゴールの時、優勝はわかったが恥ずかしくて手を挙げられなかった。自分のレースをできただけで満足でした」と真面目で謙虚なヒーローだ。1b66、58`の小柄なからだに、師匠の井村豊が「こりゃあ、あかんなぁ」と入門を断ったが、「どうしても自転車に乗りたい」と頼み込んで、やっと選手への道が開けた。だから、ガッツは誰にも負けない。
「まだまだ力不足。もっと練習を積んで、大津初雄さんのような選手になりたい」と、さらなる努力を強調。師匠・井村も「300バンクで逃げ切れても、400や500では勝てない。練習の熱心さでは大阪で一番。優勝を励みに頑張ってほしい」と手綱をゆるめない。その後、菊谷は闘志あふれるマーク屋として活躍。引退後の今は息子・信一(90期)の成長を楽しみにしている。
◆40◆平成19年8月14日(火曜)
競輪には“人脈”が欠かせない。それも競輪学校時代の同期、同班、同室というのは、ズーッと続く。28期の小石孝生と田中誠もそうだ。2人は血の通った兄弟以上のつながりだ。家族ぐるみのつきあいはもちろん、精神面でも互いを知り尽くしている。小石の言葉を借りると「マコちゃん(田中・岡山県岡山市)とこは大分県出張所みたい」というぐらい親密。そんな2人が昭和53年6月4日から玉野競輪「桃太郎杯争奪」前節に出場した。もちろん前打ち記事は『二人で1、2着だ』で決まり。
小石は「船で高松に着いて玉野へ入るより、マコちゃんとこでゆっくりするほうが疲れも取れる」と、2日の夜に田中宅へ泊まり、早くも秘策を練った。こんなコンビだから、決勝戦でも息がピッタリ合う。バックからまくった小石を田中が追う展開。ゴール前は「必死に抜きに行った」田中だが、わずかに及ばず小石に軍配が上がった。
副賞の備前焼の壺(1着約50万円、2着約30万円)にも差はついたが、2人の友情にヒビは入らない。この夜、長谷幸行、忠兄弟らと、朝まで倉敷で飲み明かした。引退後も先に整体師の免許を取得した田中が倉敷市内で東京整体研究所『MACの家』を始め、ノウハウを小石に伝授して、ともに“人助け”をしている。田中には同期の坂東利則も師事して免許を取得した。こんな一生の友を育てた競輪学校を、改めて素晴らしい施設だと思い直した。
◆41◆平成19年8月18日(土曜)
同地区で並ぶのが競輪の基本構図だが、昔の、いや昭和53年ころの競輪は兵庫と大阪でも関係なく“競り”があった。6月21日からの岸和田競輪「サンスポ杯」で、売り出し中の佐野裕志と坂東利則の兵庫コンビに、地元のエースで本命の渡辺孝夫が分断に乗り出した。果敢に動くのが佐野。坂東は相手次第で先行策も用いる自在脚質。渡辺は差し主体にまくりを放つ。渡辺としては強い先行屋・佐野を目標にしたいところ。この3人、普段は大の仲良し。坂東が「最終的にナベちゃん(渡辺)と競りになっても仕方がない」と競りを予測しているが、渡辺は「兵庫の後で。後は流れ」と柔軟な構え。自慢の長髪とヒゲを剃り落として爽やかさをアピールの佐野は「A1班が見えてきた。スタートで飛び出して前受けのパターンに持ち込みたい。そして突っ張り先行も」と言う。
初日は佐野の後ろで坂東がアウトで競るところへ、渡辺が追い上げ坂東は包まれて後退。決勝は佐野が坂東を引っ張るつもりだが、坂東は「佐野に任せるが、前をとれなかったら僕が逃げて佐野が番手でもいい」と秘策を練っていた。渡辺には他地区のマーク屋が殺到。それだけ渡辺の責任は重大だ。前受けの渡辺に佐野ー坂東で追い上げると、坂東が叩いて先行態勢へ。渡辺は坂東を迎え入れ、佐野は外に浮いたまま。この渡辺の巧妙さに、兵庫コンビは連動できずに敗れ去った。優勝は渡辺。今では考えられないような競走形態だが、推理の面白さが満喫できた。これが競輪だと…。 |