【31】〜【45】我が中野浩一
【31】平成19年7月25日(水曜)
 大好きな夏、そして世界選V3へのチャレンジだ。プロ・スプリント界で3連覇以上を達成した選手は100年の歴史のなかでも、6連覇のジェフ・シェーレン(ベルギー)、4連覇のビエット・モエスコプス(オランダ)、ルシアン・ミシャール(フランス)、アントニオ・マスペス(イタリア)、3連覇のトルナルド・エソガールド(デンマーク)、レグ・ハリス(イギリス)の6人しかいない。世界チャンプの賞金は日本円で約18万円ぐらいだが、金よりも中野は“名誉”を重んじての挑戦だ。だから「この期間は“世界選の中野”で本業は夏休みというように考えるようにしている」と柔軟な考えだった。
 V3の開催地はオランダのアムステルダム。昨年のミュンヘン大会で銀メダルのデクター・ベルクマンが成長著しく、中野危うしの下馬評だった。準決勝で藤巻昇がベルクマンに2本とも逃げ切りを許し、決勝は2年連続中野とベルクマンの対決になった。スタンドはベルクマンの応援ばかりだが、1本目で中野が逃げ切ると、スタンドのコールは「ナカノ」一色に変わった。2本目はベルクマンがスプリントの“プロ”のワザと奇襲を使う作戦をとったが、中野は慌てない。走路の勾配を利用して逃げるベルクマンだが、4コーナーで1車身差に迫るとゴール20b手前で抜き去ってV3を達成した。「責任を果たせてホッとしたが、すぐにV4が頭に浮かんで…。もう後には引けない」と、1年後に向けて、新たなプレッシャーを感じていた。この時の相手、ベルクマンは中野に2年連続して敗れ、学業に精を出すため、スプリント界を引退した。


【32】平成19年7月26日(木曜)
 V3をひっさげて帰国した中野浩一。3度目のオールスターだが、この大会はファン投票で藤巻昇に次いで2位の屈辱だ。ファンは“世界の中野”より、シビアに“競輪の藤巻”に一票を投じたのだ。昭和54年9月26日日に「第22回オールスター競輪」の開催地・岸和田競輪場へ現れた中野にカメラマンのフラッシュが光るが、報道陣はまばら。「やはり藤巻兄ィに1位(ファン投票)の座を奪われたので、人気ないっすね」と苦笑い。今までならムッとするところだが、世界選V3で心に余裕ができてきたのだ。そして「ファンの望むような走り方をする。勝ち負けは考えないで、納得してくれる競走をする」と“優等生”の応対を続けた。
 ドリームは高橋健二の2角まくりに3角で追いつき、さらに直線で鋭く抜け出し初制覇。まさに“世界の脚”だった。ただ以後は4、3着と取りこぼし、とくに準決勝はまくれずに辛うじて首の皮がつながる薄氷を踏むきわどさ。「よかったぁ。去年の競輪祭(3着=優勝)と一緒や」と“二匹目の…”をねらって、ひとくさり。決勝のメンバーは@高橋健二A吉井秀人B中野浩一C鈴木正彦D山口健治E七竹茂F菅田順和G原田則夫H服部雅春の9人。吉井ー山口が逃げ、原田ー服部でカマしてもつれた最終2角、中野は必殺のまくりを放つ。3〜4角で3番手まで押し上げ、勢いをつけて直線で一気に伸びきった。ゴール後の中野はガッツポーズの嵐。スタンドを埋めた約3万人のファンに両手を突き上げ、何度も、何度も「やったぜ」と、笑顔もふりまいた。よほどうれしかったのだ。

【33】平成19年7月27日(金曜)
 大好きな岸和田競輪場で、「第22回オールスター競輪」を制した中野浩一。世界選直後の大会で、勝てたことに大きな価値がある。苦しんだ調整方法も、今回で解消された。また、V3の勢いを、そのまま持続させ、突っ走れた。「若い選手、それも正直に競走をし、自分の得意ワザを全面に押し出して戦うヤングがそろって、僕も“レースが作れる”と思った。その分、走っていて余裕があった」と、冷静さを失わなかったのも勝因だった。38期の吉井秀人、41期の原田則夫、中野の後輩は怖い敵だが、この時点では、まだ組みしやすかったのだ。
 世界選で帯同した藤巻昇が「中野には、これまで競走のうえで意地悪をしてきたが、ヤツは顔をそむけるどころか、ニコニコして寄ってくる。そう憎めないなんだよ。こんな選手は敵がいなくなるんだね。これからのビッグをヤツが取りまくるよ」と競輪でも、中野の“タイトル連取”を予言した。そう、中野は全国に人脈を持っていた。遠征に行けば、一緒に飲んだり、食ったり、歌ったり、そんな選手仲間がたくさんいる。付き合ううちに、性格も分かり、レースで顔を合わせても、作戦まで読めてくる。
 競艇のモンスター野中和夫から教わった「人脈はいっぱいつくれ」を守ったのが、花開いてきたのだ。これでビッグV2。明日への視界は、また広がった。後に中野が「顔を見るのもイヤ」と言っていた吉井は「アー負けた、負けた。俺の先行はあんなもんだよ。また、やり直しだ」と雪辱を胸に秘めて帰路についた。

【34】平成19年7月28日(土曜)
 競輪祭の連覇と特別V3をねらって、中野浩一は昭和54年11月13日から18日まで宮崎総合運動場で矢村正らと合宿を張った。世界選の合宿以外では初めての本格的な合宿だ。それだけ岸和田・オールスターの優勝で、やる気も満ちあふれていたのだ。小倉競輪「第21回競輪祭・全日本競輪王決定戦」で勝てば年間獲得額で“1億円”に達する可能性もあった。27日の決勝戦には吉井秀仁に山口国男ー国持一洋の東勢に対して中野を含め九州勢は6人もいた。
 中野に死角さえないように思われたが、岸和田・オールスターで中野にまくられた吉井は「(中野に)負けるか」の強い意志を持ち合わせていた。打鐘前に吉井が木庭賢也の追い上げを待つ中野に並びかけた。そして、吉井は誘導員の内まで入り込む強引さに中野は脚踏みの状態。吉井が先制。後の緒方浩一が「引け〜」と合図したが、時すでに遅し。「踏み出しも思い通りにかかった。後はアンちゃん(山口)に任せて。それに打鐘では先行屋の勝負。僕はアレに勝てないと全部パー」と吉井は、先手必勝しか考えていなかった。
 味方にも切り替えられ、内で抜け出せず4着に敗れた中野は顔面蒼白。「僕が(吉井を)押し上げたら不成立(誘導員落車の場合)にもなってしまう。あんな競走はない」と怒り心頭だった。これで12月の広島、久留米、岐阜記念を制しても“1億円”には達せず夢は持ち越し。天敵・吉井は、中野にはやっかいな相手になった。

【35】平成19年7月30日(月曜)
 悔しさと、愚かさをハダで感じ取った「第21回競輪祭」。まさか最終的に“味方”と競りになるとは思わなかった。緒方浩一の反撃も頭に入れ「最悪でも5番手。優勝しなくても2着なら1億円の可能性がある」と万全を期したはずだったが、結果は4着。「すごくいい勉強になった。松本秀房さんから“引け、と言われて引くようじゃ、まだ甘い。甘かったんだよ、中野”となぐさめられました。そうですよね、自分が番手で勝負すれば良かったんだから」と、中野はまた「競輪」をひとつ覚えた。
 年内は広島、久留米、岐阜の配分があったが、競輪祭のショック? から風邪(扁桃腺炎)で広島を欠場。久留米記念は11@着の完全優勝、今年13度目の優勝を飾った。最後は岐阜記念を走り22A着。またしても吉井秀人に敗れた。それも微差の着差に、悔しさが増幅した。この夜、岐阜から大阪に入り、関西記者クラブの忘年会に参加。世世界選のV3や岸和田オールスターの優勝などを含めた祝勝会も兼ねていた。ワイワイ、ガヤガヤが好きな中野、無心に歌い、呑んで、一年のアカを落とした。そう、来年度の“1億円”獲得を誓って…。

【36】平成19年7月31日(火曜)
 新年の幕開けは、例年とは違う。オフのない競輪界では、中野浩一も正月開催は引っ張りだこだった。それでも、やはり休みが欲しい。 世界選に国内の競輪、タフな中野でも、年々、疲れがとれなくなってくる。この昭和55年も和歌山記念に斡旋が入っていたが、家に斡旋のはがきが届くと、直ちに欠場届けを提出。その前に日本自転車振興会の斡旋課に“日程調整”を申し入れていた。わずか2週間でも、体のケアをするのは必要だ。
 「体を休めながら、トレーニングも積んで、常に万全の体調にしておきたい。だから、正月はゆっくり休みたい。僕らには、この期間しかないですから」。和歌山は欠場しても、19日からは佐世保記念の配分だ。気持ちの中で「休んだ」と思うしかない日程だ。だけど、そんな状況でも、中野は“ニュー中野”を披露した。初日に逃げる尾崎雅彦ー荒川秀之助に飛び付き、二人を分断して番手まくりを放った。もちろん逃げた尾崎は9着に大敗した。
 「いろいろ考えて、練習をやっている。レースでも何でもできるようにしたい」と、流れに応じて自在に戦うスタイルを確立させたいのだ。夢の“1億円”奪取は当然だが、夏にはフランス・ブザンソンでプロ・スプリントの戦後タイ記録、4連覇もかかっている。茶の間に競輪をー中野には業界を上げて、イメージアップの使命が課されていた。

【37】平成19年8月1日(月曜)
  円熟期というのか、とにかく昭和55年の中野浩一はスーパースターにふさわしい“歴史”を残した。それも夏以降の後半戦だ。前半は初優勝が5場所走って2月の花月園ダービーTR22@着だけ。3月26日の前橋競輪「第33回競輪ダービー」では、あろうことか逃げる後輩・江嶋康光の番手を、油断から吉井秀仁に奪われ、必死のまくり返しも及ばず3着。前受けの中野は「迷いすぎた」ため、まず抑えてきた江嶋を迎え入れた。
 江嶋は「後は中野さん。早く行かないと」の気持ち。それでも中野は「自分で捌けば良かったかな」の中途半端さが墓穴を掘った。江嶋は原田則夫を突っ張り、吉井ー荒川秀之助の叩きにも突っ張った。この時、中野は車を下げて、荒川の後で原田をはねのけた。誤算は荒川が吉井にかけた「入れ」の一言だ。
 吉井は早逃げの江嶋の番手に入り、中野のまくりに合わせて番手まくりを放った。暮れの競輪祭に続いて吉井は特別を連覇、いとも簡単に中野とV2で並んだ。テレビゲストの中村敦夫が「吉井は力強いね。関東武者だ」と絶賛。ばつの悪い中野は表彰台にも「行きたくなーい」と心の底から叫んだ。後輩の江嶋を、まさかライバル・吉井の機関車として与えるとは…中野は反省しきりだった。

【38】平成19年8月2日(木曜)
 世界選V4の前に、国内で先にV4を達成した。「第27回全日本プロ自転車競技大会」が昭和55年5月11、12日、宇都宮競輪場で行われた。スクラッチの決勝は、この種目初出場の菅田順和と争った。菅田は1000b独走の選手で、スクラッチは世界選で戦うだけだった。菅田とは中野がV1を飾ったベネズエラ大会以来のこと。それから4年、中野はスクラッチ競技に、さらに磨きがかかっていた。中野は「菅田さんのカマシを警戒したけど、その手を使わせないようにした。テクニック勝ちやね」と余裕をのぞかせると、菅田は「ヤツ(中野)のテクニックに負けた。もうダメだね」と脱帽した。そして「次は世界や。行く限りはV4」と、世界での必勝を誓った。
 この勝利者インタビューの間に、西栄一・大会委員長が「中野、頼みがある。カールが挑戦したいと言ってるんだ」と、アマチュア界のエリート、ヤーベ・カールとの対戦を中野に打診したのだ。カールは1000bで1分7秒63の大会新記録を出していた。それに今夏のブザンソン大会で対戦するダニエル・モレロンの弟子。テクニシャンだ。「えっ、カールと? もう疲れきってるし、負けたらカッコがつかない」と断り続けたが、しぶしぶ引き受け、“4カ国対抗戦”の決勝で顔を合わせた。案の定、カールの早逃げに付いて行けず、スクラッチで“初黒星”。「あ〜ぁ、敵は本気やった」とガックリ。喜んだのは1万2千人のファン。カールへやんやの喝采だった。

【39】平成19年8月3日(金曜)
 なんと相性の悪いことか。中野浩一の天敵・吉井秀仁とは…。競輪祭、ダービーで敗れ、暮れの岐阜記念の決勝も微差届かず、直前の平塚記念では中野が失格、落車なのに優勝は吉井。おまけに「第31回高松宮杯競輪」を開催するびわこ競輪場は、中野が苦手な場所。あらゆる不利な条件を、中野はどう克服するのか。「平塚の初日は吉井とアウトで競って失格。決勝も吉井と競って、僕が落車やのに吉井はセーフ」と不満を口にしたが、すぐに前向きな中野に戻った。
 「今回はタイトルより、打倒・吉井やね」と決勝戦での対決を目標にした。二人とも決勝に乗ってきた。それも中野が2313着と苦しんだのに対し、吉井は4連勝と絶好調。特別3連覇へ王手をかけた。まして“先行1車”と同じ。中野が崩さないと、吉井が有利に運ぶ。決勝は中野に“アニイ”と慕う藤巻昇がマーク。国松利全も「二人で何か話しができてるみたい」で3番手に下げた。
 中野は吉井ー山口健治のフラワーコンビを崩す作戦だ。突っ張りはポーズだけ。本音は「イン粘り一本」だった。吉井ー山口を分断に出た中野。山口も強引に中野を押し込むが、最終3角で山口を大きく張った。この時、藤巻がインを突き、吉井の番手に入り、鋭く抜け出し優勝した。中野と山口は“喧嘩両成敗”で失格。「失格? 勝負だから仕方ない。アニイが吉井を抜いてくれてよかった」。競り勝ち→吉井を抜くーのシナリオは崩れたが、意地のぶつかり合いは見応えがあった。

【40】平成19年8月4日(土曜)
 いやな「高松宮杯競輪」とにっくき吉井秀仁はすっかり忘れ、中野浩一は快進撃を始めた。昭和55年6月6日から12日までの世界選・選考合宿が終わったあと、フランスに出発する8月中旬まで、まさに快走、快走の連続だ。別府記念21@着ではコース新の11秒2で優勝。続く富山記念21@着、函館記念41@着ではコースタイの11秒2。さらに強化合宿をはさんで小松島記念21@着では準決勝、決勝とも逃げて11秒2のコース新。とにかくタイムが他選手と違ってきた。門司記念21Aのあと豊橋11@着は11秒0のコースレコードをマークして、気分良く世界選V4に挑む。
 賞金面では無冠でも、ダービーを勝った吉井を抜いて5996万4100円を稼いでいた。帰国後の“1億円”達成もグッと濃くなった。それよりも、すごい記録を中野は続けていた。この豊橋を終え、28場所続けて、すべてのレースの決勝戦に進出しているのだ。54年7月の門司以来だから、13ヶ月に渡って、ファンの夢をつないできた。この記録は、後日に“不滅の記録”として書き加えるが、こんな安定した選手は、中野以外に存在しなかった。まさしく競輪界の“宝”だ。8月13日から19日まで京王閣で強化合宿を終え、8月22日、成田からアンカレッジ→コペンハーゲン→パリ経由でブザンソンへ、戦後タイのプロ・スクラッチ4連覇の夢へ向かって旅立った。

【41】平成19年8月6日(月曜)
 選手団一行19人が世界選開催地のフランス・ブザンソンに着いたのは成田を出て30時間後だった。パリから列車の旅も、中野浩一は時差ぼけを考慮して麻雀ゲームに興じ、時間をつぶした。太陽は沈み、薄暗くなった街並みを通ってホテル「ノボテル」に着いた。猛暑の日本と違って、ブザンソンの夜は15〜18度ぐらい。日中の気温は30度近くになっても、カラッとして湿度が低く、しのぎやすいところだ。一行はホテルに着くと旅装をといて、ぐっすり睡眠をむさぼった。
 翌日は軽い運動程度で休日にあてられ、レオグラーン競技場の下見で終えた。本格的な練習に入った25日。午前中は中野を始め菅田順和、藤巻昇。清志兄弟、堤昌彦、尾崎雅彦らピスト組が50qのロード練習にでかけた。ワインの里・ブルゴーニュ地方へ通じる一直線の国道は起伏にとみ、風景はのどかなたたずまい。この日の気温は23度。心地よい汗を5日ぶりに、たっぷりとかいた。
 午後に競技場に入ると、合宿中のフランス勢の中にダニエル・モレロンを見つけた。この大会だけ“プロ”として国家使命を担って中野に立ち向かう。「37歳なのに、尻を見るとパンと張っている。ベストに近そうですね」と気にしたが、「持ちタイムは僕の方がずっと上なんだよね。力を出し切れば負けないよ」と、自信のほどをチラリ。菅田、尾崎と3本のスクラッチでも11秒1〜2をコンスタントに計時。バンクの感触も確かめ、余裕たっぷりに初練習を終えた。

【42】平成19年8月7日(火)
 1980年(昭和55年)世界選手権の開催は31日から9月7日までの日程で、31日がサランシュ市のロード競技で幕を開ける。杉田典夫が出場するため、選手団一行はバスでいったんスイス・ジュネーブに入り、一泊してサランシュへ向かった。ヨーロッパの山岳地域では距離や高速道路と時差の関係で、こういう複雑な旅程になるのだ。中野浩一らは午前中に練習を切り上げ、束の間の休息だ。ジュネーブの町を散策したり、夕食の日本食に舌鼓を打ち、杉田を盛り上げた。
 杉田は「念願が叶ってロードを走れる。どこまでやれるか力を試したい」と意欲満々。プロサーキットコースは13・4qを20周(268q)を走る耐久レース。サーキットコースの沿道には約15万人がつめかけ、警備にあたるポリスも1800人が動員されるなど、国を挙げてのお祭り騒ぎだった。胸をときめかせて挑戦した杉田は、1周目から平均時速38qの速さに、あっという間に遅れた。そして37q地点でスリップ落車、再乗したものの前輪パンクで棄権した。
 杉田は「現時点では日本人がいくら挑戦しても勝てっこない。世界は広い」と世界の壁の厚さを思い知った。優勝はフランスの人気者、ベルナール・イノーが7時間32分16秒で優勝した。競技途中で、中野と私(特派員)はメカニシャン・長沢義明さんと連れだってイタリアとの国境近くのレストランで食事。中野が「世界選の雰囲気になってきましたね」と、気持ちを高めていった。

【43】平成19年8月8日(水曜)
 世界選V4へ最終調整に入った中野浩一。3日に開幕するピスト競技は、初めて日本生まれの「ケイリン」が正式種目として行われる。藤巻昇、清志の兄弟が世界にアピールする大役を担っていた。2日は藤巻兄弟は軽く汗を流したが、中野は菅田順和とスクラッチ2本をこなし、いずれも先行策で1勝1敗。タイムも11秒0、10秒8に「悪くはないね」と、順調さを誇示した。「2日目の練習で3番手から抜けなかったから、仕掛けるタイミングを早めにした方がいい。直線が短いので4コーナーからでは抜け切れない」と、1周453・89b、幅員7・1b、カント32・30の日本には無いバンクの特性もつかんだ。仕上がりに関しては万全だ。
 中野の心配はケイリンだ。12カ国各2人のエントリーを予定していたが、実際には14人がチャレンジ。予選2個レースの3着までと敗者復活戦3着までの9人で決勝を争うシステム。藤巻兄弟は「決勝に乗る」と闘志満々。3日の予選で昇がD・モレロンのまくりを追って2着、清志がD・クラークの番手に追い上げて3着と、ともに決勝入り。ハンドル捌き抜群のモレロンを見て、中野は「藤巻兄弟の作戦はともに正解でしたね。それにスクラッチで対戦するモレロンの動きがわかったことで、僕にも有利」と、モレロンの動向もちゃんとインプットした。

【44】平成19年8月9日(木曜)
 1980世界選ピスト競技2日目はスタンドを2万5000人が埋めた。お目当ては決勝種目の「ケイリン」に出場する地元のスター・モレロン人気だ。昇がM・バルタンとの競り合いに脚を使い果たし、豪快なカマシを放った清志も、番手から巧みにスイッチしたクラークがモレロンを封じて初代チャンピオンに輝いた。スピード感あふれるケイリンに、スタンドのファンは総立ち。それもレースを演出した藤巻清志の迫力満点のカマシに惜しみない拍手が送られた。
 観戦した中野浩一も「昇さんも、清志さんも、すごいレースをしましたね。鳥肌が立つほど興奮しましたよ。モレロンもいい動きでしたね」と、藤巻兄弟の“大和魂”に、大いに刺激を受けていた。また、ドミフォンの杉田典夫・佐藤寅雄が昨年のアムステルダム大会に続いて決勝入りを決めた。
 3日目は雷鳴をともなった降雨のため競技開始が2時間30分も遅れ、午後9時にスタート。こんな悪条件でもスタンドには約3万人の観衆。そして、深夜になってスクラッチの予選・組み合わせが決まった。中野の相手は無名のカッポンチェリー(イタリア)。「予備知識もないが、なんとかします」と、ドミフォンの敗者復活戦で町島洋一・三原忠組が敗れたのを見届けて、言葉少なに宿舎へ戻った。菅田順和はフレッドボード(デンマーク)、尾崎雅彦はトリニー(イタリア)、堤昌彦はモレロン(フランス)にチャレンジする。

【45】平成19年8月10日(金曜)
 ダニエル・モレロンとは昭和51年の5月、高知・全プロで初対面だった。まだ自転車競技のノウハウも知らない中野浩一だが、そのパワーにはモレロンも高い評価をしていた。モレロンはジョン・ニコルソンと来日しており、プロ・アマの第一人者が、それぞれテクニックを披露した。その後、ベネズエラで中野はニコルソンを破って世界チャンピオンになったが、モレロンのアドバイスが金メダルにつながったのだ。「モレロンは僕のスクラッチの師匠です。教えてもらわなかったら、スクラッチの僕は存在しなかったでしょう」と言う。そのモレロンが世界選V4の“刺客”として、フランス・ブザンソン大会で中野の前に立ちはだかった。
 1980年世界選ピスト競技もクライマックス。スクラッチの幕が開いた。中野は予選でカッポンチェリィを一蹴。準々決勝はモレロンに敗れて、敗者復活戦から勝ち上がってきた堤昌彦と対戦したが2−0のストレート勝ち。モレロンは堤を破ったあと、カッポンチェリィを2−1退け、順当に準決勝へ進出した。日本では尾崎雅彦が勝ち上がった。最終日は準決勝と決勝が行われるが、組み合わせが中野=モレロンと尾崎=トリニーに決まった。「モレロンは勝算があるから国家の要請を受けたんだし、対決は避けて通れない。勝てばV4の価値もたかまる」と中野は冷静に受け止めた。