【106】〜【120】我が中野浩一
【106】平成19年11月5日(月曜)
 「内容を重視してよ」ー岸和田競輪「開設33周年記念・岸和田キング争覇戦」の出場の中野浩一は、初日が菅田順和を抑え込んで4番手を奪い、直線は中割の2着。準決勝は国持一洋に強烈パンチを浴びて7番手に後退。そして2角からまくって行くと亀川修一が番手まくりを放ったため、3番手に切り込んで国持にお返しの体当たり、4角では2番手の増子政明を内からしゃくりあげて2着をキープ。常識では考えられない中野のスタミナだが、未勝利ではファンも納得しない。亀川→中野で“裏目千両”どころか2650円もつけたのだから…。
 「調子は絶好調なんだけど展開がめぐまれないだけ。準決勝なんか、みんなは“もうオレは無い”と思ったはず。無いところから2着にきてるんだから。だけど、お客さんは何と思っているかなぁ。内容では満足してくれただろうか。準決勝は1着をとらんとね」
 決勝のメンバーは東日本が関東、東北の垣根を越えて結束するからやっかいだ。西は中野ー佐々木昭彦ー亀川修一で並ぶが、中野は佐々木から「誰も動かなかったら、ボクが前に出ます」と聞いていた。東日本は吉井秀仁を先頭に菅田順和ー阿部道ー阿部良二ー宮本孝雄ー田中俊克の6人が結束して“中野封じ”に乗り出す。カマシか抑え先行か、2連勝の吉井が「菅田さんの後ろがいいけど、調子に乗る方だからね。オレが前でいい」と腹をくくったのだが…。

【107】平成19年11月6日(火曜)
 東日本の結束に対して、「スタート一本にかけた」の佐々木昭彦が前を奪うと、中野浩一を迎え入れて前攻めの形を整えた。ただ、東日本の先頭になったのは菅田順和で、吉井秀仁がマーク策をとった。もう一人、田中俊克は西の4番手を選択。4対5なら、中野も戦いやすくなった。菅田の弱点は知り尽くしている。出渋るクセのあるのを…。
 ジャンが鳴っても動きはない。中野は佐々木の「誰もこなかったら前に出ます」の言葉を信じて外から後ろを見ると、佐々木は内に隠れ、内を見るとまた外へ隠れる。中野は仕方なく先行だ。菅田が「行こうと思った」時には誘導ピッチも上がり、中野はホーム先行。それでも踏み込む菅田は3番手・亀川修一のブロックであえなくダウン。東日本は壊滅した。
 快調な中野。ホームからの半周(200b)は10秒8、後半も11秒3のすごさ。1周22秒1なら、マークの佐々木も差せない。検車場で「昭彦、なんで前にこんかった」と中野が激怒すると、佐々木が「すんません。中野さんの後ろについて優勝しようと思ったんです。でも強かぁ。もう二度と後ろは回りません」と平謝りされては、中野も「そやろ、価値ある優勝や。ホーム先行やで」と、久々の快勝劇に納得した。
 55年10月の名古屋記念以来の逃げ切り優勝、胸を張ってスタンドの声援に応えた。世界選V6以外、国内ではいいことのなかった57年。これで軌道修正もした。18日からの小倉・競輪祭で3連覇を目指す。
 「これから先行で行きますか。一宮でシゲ(井上茂徳)もAA@で優勝しとったから、よけいに燃えたよ。賞金1位はムリやけど2位には入りたい」
 舌も、脚も滑らかな回転。スーパースター中野は、岸和田バンクで完全によみがえった。

【108】平成19年11月7日(水曜)
 27歳の誕生日(11月14日)を迎え、中野浩一の選手生活も8年が経った。ピークが過ぎたと見るのは競輪仲間だけ。中野本人は、まだ最高の状態を保っている。一時の不安は、単なるアクシデントが重なっただけだ。
 「もう練習しても飛躍はないと思う。だけど、自分の脚は落ちてないよ。ただ、無茶な練習はできん。時期を見て集中的にするほうがいい。競輪王へは合宿も訓練もしない。肝心の舞台でパンクしたらあかんもん。調整だけや」
 世界選V6の年に“無冠”で終わりたくないのだ。2年連続の1億円奪取もかすんでしまいかねない。せっかく岸和田記念で“世界の脚”をよみがえらせたのだから、57年11月18日からの小倉競輪「第24回競輪祭」では必勝の態勢だ。
 「時計が出るようになったから心配はしてへん。悪いときは11秒5か6やからね。踏み出しが良くなったし、粘りは不足していても、なんとかゴールまでたどりつける」
 賞金ダービーの1位を走る井上茂徳との差は開きすぎても、井上の1億円奪取にはストップをかけられる。「いまは5617万円か。第4位やね。シゲ(井上)は1億円に達するかも知れんけど、なかなか難しいもんや。オレがいるもんね。うん、競輪王は取られんと…」
 中野はこの年、最後の大一番に、全力投球だ。

【109】平成19年11月8日(木曜)
 競輪祭の「新人王」と「競輪王」が同時に開催(6日間)されるようになって4年目。中野浩一が新人王に輝いたころは別日程だった。だから参加人数も増え、前検日(57年11月17日)の検車場も選手があふれかえっていた。そんな中へ、笑顔をふるまきながら中野が登場だ。岸和田記念で菅田順和、吉井秀仁を相手に逃げ切り優勝を飾ったのが話題の中心。
 「まあ、たまにはそんなこともあるよ」
 照れくさそうに返事しながら、「これは酒焼けだからね」と冗談が飛び出すほどの血色の良さ。作戦面についてはしゃべろうとしないが、競輪王3連覇へ向けて上々のコンディションだ
 中野以上に注目を集めた井上茂徳は「賞金王をねらいます」ときっぱり。世代交代の引導を中野に渡すつもりだ。初日に登場の井上は高橋健二のバックまくりに乗って1着を奪う幸先のいい滑り出し。中野は2日目の“特選”が1走目。井上とは逆に6着の大敗だ。それも中野後位の佐々木昭彦ー緒方浩一がインで菅田に粘られると中野を叩くなど、展開が乱れた、そこを亀川修一ー国持一洋でカマシを放ち、中野は内詰まりから抜け出してしかけたが、ドローンしたまくりで届かなかった。
 「何もせんうちに終わってしまった。あ〜ぁ」とため息。逃げるつもりの中野を抑えた佐々木ー緒方に対し「もう少し勢いよく出切ってくれたら飛び付けたのに…」と、最後まで不完全燃焼のレースに悔しさいっぱいだった。

【110】平成19年11月9日(金)
 中野浩一が2次予選を1着クリアした日(57年11月21日)、小倉競輪「第24回競輪祭」で衝撃が走った。長らく競輪界を“3強”の一人として支えてきた福島正幸が1次予選で8着に敗れて「限界を感じた」そうで、3日目の敗者戦でまくりが2着にしか届かず「ここが引けどき」と決心して、A級1班のまま引退を表明した。競輪祭は「新人王」に「競輪王」を3度優勝と思い出の場。「小倉で最後の競走ができたことがうれしい。かねてから35歳で辞めようと思っていた」と、師匠の鈴木保己氏も同席して17年間の選手生活にピリオドを打った。
 中野へは「中野君は若い。私よりももっと強い。頭もいい。後輩が目標にできるような記録をたくさん作ってほしい」と、大きな期待を寄せていた。
 常にパーフェクトなレースを心がけ、ファンの期待に応えるようなプレーを披露してきた福島。中野も全力で戦い、決して諦めないところが福島と似ていた。17年間といえば、中野も引退は36歳、17年間であった。当時、トップスターの感じる力の限界は35か36歳だったのかも知れない。
 話しは競輪祭の準決勝に戻ろう。中野の2次予選は前受けから巧みに捌き、最終的に礒野実に乗って勝機をつかんだ。高松・オールスター競輪の準決勝で北村徹に付けて事故入着した二の舞を防ぐため、中野は自力勝負を選択した。だから北村ー服部良一はマーク策。逃げたのは木村一利。中野は7番手から2角まくりを放ったが、5番手の久保千代志がインを突いて抜け出したため2着に甘んじた。それでも決勝戦にはコマを進めた。

【111】平成19年11月12日(月曜)
 惨めな無冠! 小倉競輪「第24回競輪祭・競輪王」決勝戦(57年11月23日)で中野浩一が強いショックを受けた。無冠で終わったことよりも、番手まくりを放ってマークした井上茂徳に8分の1輪差され、敗れたためだ。それも必殺の“3角まくり”だったのだが…。
 九州が6人乗った決勝戦。いち早く井上が「こうなったら同県がどうのといってる場合じゃない。競輪祭は中野さんの前で回るつもりだったけど若い人がいるから」と“折れ合い”を強調。並びは佐々木昭彦ー北村徹ー中野ー井上ー緒方浩一ー松江竜起に決まった。佐賀ー熊本ー福岡ー佐賀ー熊本ー熊本と同県よりも“格”の配置だ。それぞれの使命は佐々木がイン切りの“死に役”で、北村が“機関車役”だ。尾崎雅彦ー高橋健二ー久保千代志を佐々木が抑えて内に押し込むと、北村がじわじわと踏んで先制。これでは尾崎らも手が打てない。2年前の競輪祭で九州が“内ゲバ”して吉井秀仁に敗れたの参考に、堅い結束を披露したのだ。
 中野の誤算は北村のかかりが悪くスピードにのりきれないまま“3角まくり”を放ったため、鋭さを欠いた。井上は2角からまくってきた高橋ー久保をブロックするなどアクションを起こした分だけ、最後のひと踏みにシャープさが増したのだ。中野ー井上の番手まくりは、立川オールスターが微差、2度目の競輪王は8分の1輪、二度とも井上に軍配が上がった。井上は9957万7311円に達し、初の“1億円奪取”に大きく前進したが、中野は無冠で終わり、情けない結果に“世代交代”を感じだしていた。

【112】平成19年11月13日(火曜)
 「番手ヨ。あれで勝てんかったら、どないして勝つのー。ガックリや」引き上げてきた中野浩一は頭を抱え込んだ。競輪競走で2番手は一番強い選手が回る位置。それが“3角まくり”で井上茂徳に差し込まれた。井上にすれば中野のために同県の後輩・佐々木を泣かせ、北村の後ろも熊本同士の緒方浩一ー松江竜起よりも中野の“指定席”とした。中野の後ろでも、井上にすれば“抜く”のが佐々木や緒方に対しての“礼儀”だったのかも知れない。 
 「もういかん。シゲ(井上茂徳)の強さを認めないかんねぇ。だけど、オレも、もう一度練習をやり直すよ」と、競輪王3連覇を逸した悔しさより、力の衰えをはっきりと感じ取っていた。それでも「まだ当分はボクが前を回りますよ」と言っていたが、“強い選手が2番手”を回る並びが今回なら、後年に吉岡稔真の出現で、井上が中野を差し置いて「オレが番手」と主張したのもうなずけるのだが…。
 控え室で緒方浩一が「ナカノ〜っ、素質の時代は終わったよ。努力した選手(井上)が勝ったんだから、中野も練習の人にならんといかん」と言った。中野は耳が痛かった。ダッシュ力は天性のものだが、持久力は日ごろの練習の積み重ねが大事なのを、中野は十二分に思い知った。
 この夜、中野は翌日のゴルフに備えて博多で泊まった。中洲で待っていたのは競艇の野中和夫。「浩一、済んだことは忘れろ。気分を変えて、次から出直せ」と中野を励ました。


【113】平成19年11月14日(水曜)
 ショックは一夜が明けても尾を引いていた。競艇の野中和夫、小倉で泊まっていた工藤元司郎、そして知人と福岡の古賀ゴルフクラブでゴルフの腕を競った中野浩一だが、「100は切りますよ」の威勢のいい言葉とは裏腹にスコアはメロメロ。アウト54、イン54とグリーンでは一人で暴れ回っていた。終わってみると「もうゴルフはヤメ。叩き過ぎて手が痛い」とギブアップ。立川・オールスター競輪で2角まくりでタイヤ差、小倉・競輪祭では3角まくりで8分の1輪差、いずれも井上茂徳に差された。踏む距離が短くて抜かれたことに、中野は言いようのない悔しさが残っていた。
 ゴルフの後の食事会で、野中が「勝つのは難しいもんや。そやけどファンの声援がある限り、納得のいくレースをせなあかん。ボクらは競輪選手が、いつも“超抜”のエンジン(足)を持っていて、うらやましいと思っている。練習すれば戻る」と話した。中野も「ボクもこのままでは終われませんよ。57年は最悪の年、もう下がるとこも無いでしょう。また一から出直します」と巻き返しを誓った。
 最悪の年も、残りは記念3場所。58年に失地回復を期すためにも、おろそかにできない。まず広島記念に臨んだが71C着。初日はジャンからカマし、準決勝は3角まくり、決勝は2角手前からの先行。なんとか通算350勝をマークしたのが救いだったが、山口健治に優勝を奪われ、賞金レースの2位も危うくなった。続く奈良記念も山口と天敵・吉井秀仁がいる。苦手な小回りバンクで、どう対処するのか。

【114】平成19年11月15日(木曜)
 奈良競輪場には5度目の登場となる中野浩一。苦手な33バンクでも、奈良ではV3(記念V2)とお得意さんだ。「今年は3連覇で明けたから、終わりも優勝で締めくくって来年につなぎます。そうなるように戦い抜きます」とやる気は満々だった。
 開設22周年記念「春日賞」の前検日(57年12月18日)も「ウマ(先行の大井栄治、片岡克巳)がいるね。だけどボクも逃げていいよ。練習? 忙しい合間をぬって…。落ち込み? そんなことはないよ」と、自力の攻めをほのめかし、前検練習も軽く流した。いつもならたっぷりと乗り込むのだが、今回は短時間。戦うための“練習”は足りている証だ。
 初日特選はホームから仕掛け、山口健治のブロックをかいくぐって2角まくりで圧勝。準決勝も3番手から2角まくり、9秒50のタイムで快勝した。完全優勝へ、視界も開けてきた。連日にわたる中野コール。発走台で「コウちゃん、こっち向いて」の声が聞こえる。自然と中野の顔もファンの方へ。走ればまくり連発、胸のすく快走に、奈良のファンは酔いしれている。
 「うれしいですね。近畿地区で走ると、いつもこうですもんね。気持ちも盛り上がります」
 外交辞令ではない。言葉通り近畿との相性はいい。奈良は記念3連覇へ王手をかけるほど。勢いもついて、吉井秀仁ー山口をねじ伏せるか。ところが…。中野は予想外の展開に、あわてて、まくり不発に終わってしまった。なんと山口が仕掛けて、吉井が番手まくりで優勝したのだった。
 「クソッ」ー中野は腹の虫が治まらなかった。この後の岐阜記念も11B着で優勝を逸し、57年は終わった。

【115】平成19年11月16日(金曜)
 昭和58年の正月は海の向こうハワイで迎えた。仲良しの兄貴分・矢村正と世界選仲間の亀川修一が一緒だ。12月31日に成田空港から旅立ったが、荷物はボストンバッグ一つだけ。完全休養と決めていた。
 「自転車を持っていって乗りまくろうとも思ったんですが、初めてプライベートの海外旅行ですからね。自転車のことは忘れることにしました」
 ハワイで充電中の競艇・野中和夫とも再会。そして4人でゴルフ三昧の生活を送った。朝から夕方まで、無心になってゴルフボールと格闘した。5日に帰国すると、久留米へ戻り、7日にはチャリティーゴルフのために上京。神奈川県レイクウッドゴルフクラブでは参加159人中120位でも「プロになるわけでもないし、いいときも、悪いときもありますよ。気分転換ですから」と、競輪選手に戻るための英気を養ったのだ。
 さて、58年はどうするのか。まず、世界選手権の新記録、7連覇に挑戦だ。もう一つは高松宮杯競輪の優勝。まだある。賞金1億円への再挑戦だ。
 「高松宮杯はどうしても取りたい。タイトルに挑戦しだして、一番早く取れると思っていたのに、(グランドスラムへ)最後まで残ってしまったんですから。なんとかしたい。昨年はスプリントのV6以外は何も残らなかったから、すべてに挑戦できる楽しみがあります」
 スパースターは、新たな目標に向かって、たっぷりと乗り込み、帰国第1戦に備えた。

【116】平成19年11月17日(土曜)
 いきなり苦手バンクを克服だ。昭和58年の第1戦は静岡競輪「開設30周年記念」後節。過去、静岡県の静岡、伊東競輪場では5回走って、優勝はゼロ。新年を幸先良く滑り出すためにも勝っておきたいところ。初日特選は国持一洋に差されたが、決勝戦はがっちりとV奪取。それも上がりは11秒6と上々のタイムが出た。
 「静岡と伊東はいつも国持さんに差されてたんですよ。だから優勝をするのは難しいところでした」
 地区は関係なく、番組マンは強い中野に地元のスター国持がマークするように計らった。末の甘い中野はいつも国持に差されていたのだ。相性の悪かった静岡を制したことで、中野に勢いが戻った。続くダービーTRの1回戦・別府21A着では連日、まくりを放って好走。2回戦・京王閣11@着はパーフェクト優勝を飾った。京王閣で対戦した選手から「自信満々でしたね。昨年とは大違い」と“中野復活”を認めていた。
 「自力(まくり)で攻めてばかりですよ。差されることもあるけど、小細工しないほうが実戦の脚もつく。もう去年のようなことはないでしょう」
 57年の不振で、取材攻勢も少ない。その分、中野は練習にも、レースにも集中できるわけだ。静岡に続いて、伊東競輪の「開設32周年記念」前節も11@着の完全優勝。苦手の静岡県の両競輪場を攻略して、国内での巻き返しに加速がついてきた。伊東の優勝で、デビューからの優勝数も99回に達した。

【117】平成19年11月19日(月曜)
 この年の競輪界のキャッチフレーズは“努力が素質を超えた”だった。素質とは中野浩一で、努力は井上茂徳のこと。素質だけで競輪を勝てるほど甘い世界ではない。中野が一番、知っている。だから「ボクは面白くないですよ。カチンと来ましたね。それと“中野が終わった”と書かれるのにはハラがたつ。勝つには素質プラス努力が必要なんだから」と、中野は反骨精神をむき出しに戦いだした。
 3月に入った西宮記念。初日は久保千代志に、決勝は佐々木昭彦に敗れたが、果敢に攻めて21A着の成績。年頭から5場所を終えて1着10回、2着5回のオール連絡み。快進撃は58年3月17日からの前橋競輪「第36回競輪ダービー」でも止まらない。
 前検日の中野はフラッシュの雨を浴びながら「初心に返って動いてるんですよ。自分で行かなきゃだめでしょ」と力強さを強調。フラワー軍団プラス菅田順和で形成した“やまびこライン”や、中野マークでビッグV2の井上茂徳ら敵を前にしても、中野は「勝ち負けは別にして。いいところを見せますよ」と気合乗りも満点。“特選シード”組は2日目からの出走に備えて、初日の中野はローラー台で汗をたっぷりかきながら「緊張するのは2日目から。うん、じっくりいくよ。誰が相手でも“ひとまくり”ですよ」と余裕までのぞかせた。それほど“脚”には満点評価を与えていたのだ。

【118】平成19年11月20日(火曜)
 “赤城おろし”が吹き抜ける前橋競輪場。風の克服も重要だ。「第36回競輪ダービー」2日目の特選に登場した中野浩一は、まるで自作自演の“役者”だった。ジャン前に吉井秀仁を叩いて前へ出ると、誘導員が退避してしまった。初日から誘導員の退避が早く、選手と競技会でひと悶着起こっていたのだが、途中での規則変更はありえない。「なんぼなんでも1周半はムリ」と考え、先行する振りを見せながらペダルを踏むと、あわてて高橋健二がカマシを打ってきた。ニタッと笑ったのは中野だ。
 「ケンちゃん(高橋)が来てくれて助かった。来るとは思っていたけど、ね」
 世界選仲間の高橋は、こんな流れでいつも中野の窮地? を救ってきた。高橋の番手に飛び付いた中野、こうなれば確勝のスタイル。“3半まくり”で快勝だ。薄氷を踏むような流れに、一瞬、肝を冷やしたが、中野の術中にはまった高橋は不幸だった。
 「オレも“芸人”かな。綱渡りをしてるもんね。まともに行ったんではオール連絡みもできないよ。まあ、第一関門を突破したし、次は準決勝で勝負や」
 1着で引き上げてきた中野のに、斑目秀雄が「やっぱりちがうねぇ。レースを作ってしまうんだから」とシリをポンと叩かれた。「エッヘッヘッ」と含み笑いを残して控え室へ戻ったが、しばらくはニタニタ顔が消えることはなかった。半周13秒1の遅い勝利なら、照れ笑いを浮かべるのも、当然か。


【119】平成19年11月21日(水曜)
 「ゴールデンレーサー賞」(第36回競輪ダービー)に進出したのは@中野浩一A滝沢正光B木村一利C亀川修一D菅田順和E原田則夫F井上茂徳G村岡和久H山口健治の9人。中野に挑戦するのは滝沢ー山口にプラス菅田だが、どう並ぶか注目を集めた。結局、滝沢ー菅田ー山口ー原田ー木村に対して中野ー井上ー村岡ー亀川で並んだ。
 「中野はつぶれるんじゃない? ウン、滝沢もいるけど、井上が有利かな」と、フラワー軍団の総帥・山口国男が“中野苦戦”を予測した。ところが、中野には、勝算がありありだった。「オレが滝沢に突っ張られても、井上君がその後ろの菅田さんを早めに崩してくれると思った」と、中野は井上とのコンビプレーが“頭脳”の勝利と言った。
 滝沢ー山口なら手こずるが、滝沢の後ろなら菅田の弱点は知り尽くしている。案の定、中野が赤板前から動き出し、滝沢の横へ並びかけると同時に井上は“菅田崩し”の仕事を終えていた。逃げる滝沢の後ろを、まんまと占めた中野ー井上で一気に抜き去った。“やまびこライン”の敗北は「後ろが中野さんと思わずに踏んだ」の滝沢の早駆け先行だった。
 「いやぁ、作戦通りでしたね」と中野も会心のレース運びに満足そうだった。中野と井上、まさに“黄金コンビ”の行く手を阻むのは困難ということを印象づけた一戦だった。
 準決勝も中野、井上が、ともに1着を奪い、またもワンツー決着を披露する決勝戦となった。

【120】平成19年11月22日(木曜)
 2度目の“日本一”へ向けて中野浩一は自信に満ちていた。「第36回競輪ダービー」(前橋競輪)の決勝戦には@吉井秀仁A山口健治B中野浩一C荒川玄太D竹内久人E石川浩史F亀川修一G藤田朝弘H井上茂徳の9人が進出した。本命人気は、もちろん中野。吉井ー山口が真っ向対決を挑むが、展開は予想外の流れに…。
 井上がスタートを決め、中野ー井上ー亀川ー竹内ー藤田が前受け。吉井ー山口ー荒川ー石川で中団以下に控えた。後3周から吉井が追い上げ、残り1周まで中野と2列併走のまま。こんな状況で、後方では石川ー竹内ー藤田で東海ラインを成立させていた。そして石川ー竹内がジャンの4角から猛烈なスピードでカマした。1コーナーでハナに立つと、吉井も追っかけられない。中野といえば7番手。1角半で藤田が落車。中野はそんな不利な位置から巻き返した。まず吉井を叩き込み、バック過ぎには石川ー竹内を射程圏に入れた。
 竹内が中野が動き出したところで番手まくりは放っていれば、初のタイトル奪取だったが…。気の優しさが災いして竹内は無冠に終わった。中野の猛追は緩まない。石川ー竹内を3角半で飲み込むと、井上ー亀川も続いてきた。
 「しまった」ー中野の脳裏に井上の存在が浮かんだ。立川・オールスター、小倉・競輪祭で井上に差された悪夢がよみがえってきた。が、中野は「よし、もう大丈夫。これで勝てる」と最後の力を振り絞ってペダルを踏んだ。ゴール線で外を見ると、井上が1輪抜け出ていた。