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【19〜28】頑張れ!岸和田競輪 |
【19=平成20年2月4日(月曜)】
岸和田競輪場ができあがったのは、大阪に住の江競輪が誕生したのがきっかけだった。岸和田市では税法改正で財源の減収と義務教育拡充による校舎建設など重要事業の著しい増加で財政が窮迫していた。そんな時に、住の江競輪の地方財政に寄与する貢献度の高さに刺激を受けて昭和24年春、競輪開催都市の指定と競輪場建設の許可を申請した。
許可を得ると12月に春木町に4千300万円を投じて競輪場の建設に着手し、翌25年2月16日に竣工するとともに、同17日第1回の市営競輪を開催した。それでも、25年9月3日に台風で甚大な被害を受け、さらに28年2月の火災で、復旧や場内施設の改良などで8972万1000円を注ぎ込んだ。
順調に収益を上げだした競輪事業だが、昭和30年の正月、おとそ気分も抜けやらぬ1月11日、朝日、毎日の2大紙を始め全国各新聞紙は「競輪競馬の平日開催は罷り成らぬ…群馬で河野農相語る」と報道された。
河野農相は10日に群馬県前橋市で開かれた民主党演説会で記者団と会見した際に「国民が働いているのに一部の者が平日から競馬、競輪にふけっているのはおもしろくない。新生活運動の一環として土、日、祝日以外は開催を禁止する競馬法改正案を11日の閣議に提案する。また競輪の平日開催も禁止するよう石橋通算相にも協力をもとめるつもりだ」と語った。この投じた一石で、正式に閣議に諮られた結果、各官僚の賛成が得られ、ただちに了解事項として関係各省で具体案をねって実行に移すことになった。
実際の平日開催の禁止が実現するのは、政府としては4月からの新年度に目標を置くこととした。
しかし、一部閣僚らは全面的に了解しなかった。西田自治庁長官は地方財政の問題から「一応意見は留保する」という建前をとっていた。その後、関係各省で協議の結果、行政指導で…ということになった。地方財政の赤字を補うための競輪、競馬、競艇なのだから“平日禁止”は実現の困難さが予想されていたのだ。
近畿地区でも各府県、各都市の関係者は事の重大さに善後策に狂奔する有様だった。協議の結果、基本方針として、競輪、競馬、競艇などのギャンブルは午後発走の土曜日、日曜日、祝祭日を含む6日間開催とし、5千万円以上の売上競輪場の場外車券発売所は廃止するーと決まった。これで、ひと安心なのだが、大阪競輪界は大揺れになった。
【20=平成20年2月5日(火曜)】
大阪府下の競輪開催も午後発走、土、日曜を含む6日間開催という基本態度を明らかにしたばかりの月22日、大阪府庁の定例記者会見で赤間知事が「新年度の昭和30年4月1日から府営の競輪、競馬を全廃する」と発表した。
大阪府が競輪全廃を決めたのは「政府自粛の線に沿えば競輪では7千万円の純益しか上げられない。これぐらいの財源は他の支出経費を節約することで浮かすことができる」というのが理由だった。
さらに、大阪府は3月1日、首脳部会議を開き府営豊中競輪場も廃止するという道を選んだ。跡地は府民のレクリエーション施設に改装することを内定し、開催都市の統合、開催日数の縮小を決めた。
3月3日に大阪府立労働会館で府下21都市の市長会で大阪府に反発の意を示した。府が開催都市の統合や開催の縮小など自粛計画を一方的に進めていることを非難、市長会として府に抗議することを決定した。それでも覆ることはなかった。
近畿競輪運営協議会は4月6日、開催の4日制、3・3制についての最終決定をせず、第1レースの正午発走ということを確認した。引き続き4月12日、自粛競輪最初の日程調整を行い、大阪府を除く第一案として3・3制もしくは4日制、万一の事態に備えて第二案6日制の二本立てで再出発することになった。
6月からの府下開催は豊中競輪場が姿を消し3カ所(大阪住の江、中央、岸和田競輪場)になった。「青少年の健全なる育成に障害がある」と廃止に至った大阪府は、すぐに赤字財政に転落した。29年度までは黒字を誇っていたのが31年度の予算編成にあたり各部課よりの新規事業の要求は殆ど見送り。毎年、競輪の純収益2億円以上のものが大阪府に送り込まれていたのが、あとさき大きな損失となって、赤字危機は深刻な様相を呈した。
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【21=平成20年2月6日(水曜)】
豊中競輪場の閉鎖が発表されて大阪選手会も大きな衝撃を受けた。大阪に居住する選手は四百数十名に達し、直接、間接に生活権を脅かされることになる。もちろん全国の六千に及ぶ競輪選手に取っても同じ。大阪府選手会は7月12日、緊急理事会を開き、豊中競輪場再開陳情運動に関する件を協議した。大阪振興会とともに再開運動することになった。
中央、住の江、岸和田の各競輪場に参加選手の協力を求め、ファンを対象に再開署名運動を実施した。横田選手会理事長は7月から8月にかけて大阪府選出の代議士らを尋ねて側面運動を行った。
運動の最後の締めくくりは8月16日、大阪府内に再開陳情のデモンストレーションを繰り広げた。午前9時、大阪市阿倍野区の大阪府選手会事務所に350名の選手が集結。そして10時に揃いの白シャツ、黒パンツとなって愛用の自転車に乗り、大阪府庁を目指して行進を開始した。隊列は天王寺西門前―上本町六丁目を経て北進、上本町一丁目から馬場町府庁前大手前公園に集合した。
横田理事長ら各役員、班長を代表者に選び、それぞれ手分けして大森副知事、塚本商工部長、梅本府会議長を始め各政派の幹事長を訪問して「豊中競輪場再開陳情趣旨書」と手渡し、善処を要望した。
しかしながら、知事選挙における知事の公約を動かすことはできなかった。 昭和31年12月に大阪府としての最終態度を決定。振興会始め各方面の再開運動は一応、中止することになった。昭和30年5月に閉鎖されてから3年近い日が経っても、府民に公約した競輪場をレクリエーション施設に切り替えることも、当時の予算面の制約によって実現は遅れたままだった。
【22=平成20年2月9日(土曜)】
競輪が生まれて7年目。在来の競馬をしり目に競輪の車券売上、入場とも上昇の一途をたどった。それでも事あるごとに批判の対象になって、存廃論が繰り返された。
そこで世論に理解を求めるため、昭和30年、大阪府自転車振興会は競輪関係者自体のPR、啓蒙宣伝といったことに重点を置いた機関紙・月刊「サイクル大阪」(タブロイド4ページ)を発刊することになった。
その編集綱領は@競輪の本質を明らかにするA競輪の歴史的必然性を解明するB競輪の社会性公共性を強く打ち出すC誤ったジャーナリズムの方向をただすD競輪の健全娯楽性とスポーツ性を強調するE競輪のPR理論を確立するーを基本方針に、歩み続けた。
「サイクル大阪」刊行以来、全国争覇競輪、オリンピック後援競輪、全国オールスター競輪などの特別競輪のほか各種記念競輪を開催してきた。その都度、できる限りの有名人、文化人を招待して、感想を聞き、紙面に掲載することに努め、競輪の健全性確立に大きな役割を果たしてきた。
一方では紙面の硬化を防ぐ意味からも家庭娯楽、随筆などを多く入れ、情操教育の一翼を担った。競輪と共に生き、成長する「サイクル大阪」は、世論の理解を深めるためには欠かせないものだった。
【23=平成20年2月11日(月曜)】
大阪府は29年度までの4競輪場が30年度には3競輪場に減った。しかも自粛体制による開催日短縮が年間23日に及んだが、29年度と30年度を比較して車券売上、入場人員は幾何級数的に増加した。競輪がファン、すなわち国民大衆の経済的基盤によって支えられてきた。
自粛後一年のファンの増加、投票額の増加は、この当時、景気増大、経済拡大の基盤の上に立つ好景気の影響も強かったが、競輪そのものが安定したギャンブルであり、娯楽であるということが、一般大衆に浸透した結果と考えられていたようだ。
大阪、中央、岸和田の3競輪場は、平日開催自粛によって、従来の6日開催が一競輪一年間に4日制開催6回、6日制開催6回、平均月5回に削減されたが、開催日数が23日減少したにもかかわらず売上額では約6千万の減少程度だった。
一日当たりの平均売上額と入場人員については、30年度は返って上昇し、売上額274万円、入場1200名と29年度よりも増加していた。
自粛後に縮小されたにもかかわらず逆に上昇線をたどったことは大衆の競輪認識が向上してきたことを物語っている。しかも、一競輪場を失ったとはいえ、これだけの大事業を大阪振興会が従来の従事員140名から72名という少数人員で運営にあたり、この好成績を収めたことは競輪史上特筆されるべきことだった。
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【24=平成20年2月12日(火曜)】
東西の一年交代で開催されていた「全国争覇競輪」が、第5回から中央の政治情勢に基づいて東京・後楽園での行われることが決まった。だから昭和30年10月29日から11月3日までの「第10回全国争覇競輪(ダービー)」は西日本で最後の大会となった。
全国から選抜された男子競走者180名、女子競走者40名、軽快車競走者30名、合計250名の選手が中央競輪場に集まった。開会式では、実用車で7連勝の偉業を遂げた河内選手への表彰、そして松本選手の選手宣誓で幕が開いた。
◆男子競走車決勝=1発目の号砲では誰も出ず、2発目に岡田政勝が思い切って飛び出した。後は牽制して追わず、2周目ホームでは岡田を先頭に坂本昌仁―武田勝義―昌山晃夫―半田弘之―安野茂雄―力石岩夫―山本高幸―松本勝明―石田雄彦―中井光雄―宮本政則の順。12車立ては周回中の位置が勝敗を決するキーポイントだったそうだ。ジャンでも体形は変わらず、最終バックはダンゴ状態で通過。武田は力石に競り負け、坂本は内に粘って出られず、松本は力石に合わせつつ追走。
直線に入って力石が先頭で回ったが松本も続き、ゴールでは松本に軍配が上がった。松本が連覇を達成し、2着以下はB力石C石田D中井E武田F昌山G半田H安野I坂本J山本K岡田だった。
◆女子競走車決勝=女王・田中和子はジャン後に内へ包まれて苦しい展開になったが、バック過ぎに一瞬の隙を見逃さずに外へ踏み出し、中バンクを猛ダッシュ。逃げ込みをはかる岩村勢津子や畑田美千代を抜き去って2連覇を飾った。2着以下はA畑田B奥野陽子C岩村D立川玉子E森耐子F松下五月G中川幸子H奥野真弓I酒田広子の順。
◆軽快車決勝=青木一が観念してトップを引き、最終1コーナーで志和介一がスパート。青木が下がり、2番手にいた森本金三がトップに出て志和と競り合う。志和がトップで直線に入ったが、30b付近で稲村宝に交わされ、稲村の後輪に触れて転倒。清水利治も接触落車。追走の一団から中バンクを快走した杉井正義が稲村を交わして優勝した。2着以下はA渡辺努B稲村C奥野和夫D森本E青木F志和で清水が落車、岡田憲治が失格となっていた。
【25=平成20年2月13日(水曜)】
西日本で最後の「第10回全国争覇競輪(ダービー)」は約3万の大観衆の見守るなかで閉会式が行われた。晩秋の午後5時半、日は落ちていた。投光器の光と、配置された五基の松明(たいまつ)にも点火され、式場は赤々と映し出されていた。
まず連覇の偉業を達成した松本勝明選手に内閣総理大臣賞、軽快車の杉井正義選手に通産大臣賞、松本選手と同じく連覇に輝く田中和子選手には衆議院議長賞、それぞれに優勝旗が授与された。
また生産者賞として軽快車第1位の333自転車株式会社に通産大臣賞、男子競走1位のエバレスト土屋製作所に自転車工業理事長賞、同2位のビナス自転車に日本自転車商業協同組合連合会理事長賞、女子1位のビナス自転車に自転車タイヤ工業会理事長賞が、それぞれ授与された。
さらに男子、女子競走者第1位から第3位までと、各種目第1位者、決勝戦参加者第4位以下に大阪市長賞、市会議長賞、大自振理事長賞、開催執務委員長賞などが贈られた。
表彰並びに賞品授与が終わって、中井大阪市長の挨拶があり閉会が宣言された。松明の火が闇空を焦がすなかに、王冠に粧いを凝らした3人の王者、松本選手を中央に田中、杉井両選手が左右に、優勝台の上で喜びを表し、ファンの拍手に応えて、幕を閉じた。
その後、ダービーは後楽園で開催され、他府県へ持ち出されたのは16回と23回が一宮、関西の大阪に戻ったのは24回の岸和田(昭和45年11月=優勝・荒川秀之助)だった。それにしても表彰式の厳かさに、ファンの熱気が、伝わってくる。選手だけでなく自転車メーカーにも賞が贈られるとは、“走る自転車”を開発する意欲も湧くというもの。最近のGT閉会式ではファンもまばら。盛り上がりを欠いているのが現状だ。古きよき時代は、もう競輪界に訪れないのか…。
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【26=平成20年2月14日(木曜)】
昭和31年に入ると競輪開始以来の黄金時代を迎えた。正月の1日から6日間開催された岸和田競輪は、開設して以来6年で最高の車券売上額を示した。ファンの増加もすごく、競輪場のどこもかしこも人の波だったとか。
このころから経済拡大政策が打ち出され、株式界未曾有のブームとして騒がれていた。そのお陰か、競輪場の殺気だった雰囲気も見られなくなり、2月、3月とオリンピック協賛競輪や全日本決定戦、さらに岸和田キング選定争覇競輪など特別、記念が矢継ぎ早に行われ人気を呼んだ。
府下3競輪場は4月から5月にかけてゴールデンウィークを迎え、大いに賑わった。当時の朝日新聞紙上の競輪特集記事では「これまでとかく荒みがちだった競輪場の雰囲気が和やかになってきたためか、ご婦人方や子供さんずれの姿が多くみられるようになり、スタンドの一隅や場内休憩所のベンチにカバン、水筒などを肩にかけた子供らが嬉々として遊び戯れているのがほほえましく見られる。このごろの競輪場をみていると、今昔の感に堪えない。ほんとうに競輪が健全な娯楽として国民のものになりつつあることを知ることができる」と書かれてあったそうだ。
数字の上で見ると、中央、大阪、岸和田の3競輪場に1月から4月までに集まったファンの総数は53万人、車券売上額は15億9千万円に達した。前年比では、一日平均の入場人員は2200人の増加で、売上額は400万円の増加となっていた。とにかく世をあげての競輪ブームが訪れていたのだ。
競輪ブームに伴い、競輪選手を志願するものが多くなり、31年7月に全国一斉に新人選手の募集を行った。大阪府のみで100名の志願者があり、第一次試験で合格したのは27名。中央での第二次試験ではわずか3名しか合格できず、激しい競争率だった。
メルボルン五輪の自転車選手の選考にパスした人がプロ転向をめざしたが試験に失敗した。それほど選手への道は狭き門となった。
【27=平成20年2月18日(月曜)】
31年度は豊中競輪場が廃止された最初の年だったが、経済環境に恵まれ、大衆の支持によって車券売上額は30年度に比べて3億6千万円、一日平均では400万円の激増ぶり。3競輪場のうち中央競輪の19億7290万円、岸和田競輪の11億5700万円は、年度売上の最高額を示した。
世の中は“神武以来の景気”という言葉が流行しはじめた。翌32年の正月は新記録の連続。3競輪場の売上額は31年の3億7715万9500円、入場13万3110人に比べ、32年は5億4060万7200円、入場18万7720人と大幅に増えた。勢いに歯止めもかからず、競輪は世の中に浸透していった。売上増大に、夕刊紙の記者は「これほど売上があるのは、ファン層が広くなったことに原因があるのでしょう」と語っていたそうだ。
31年の11月に大阪府自転車振興会が中央競輪場で行った入場者の世論調査では成年女子は約2600人で前年の倍だった。それほど家族連れで競輪場へやってくる人が多くなったのが、競輪ブームの第一だった。
第二は各事業の好況組と、好況の裏にあえぐ階層とに分かれてきていること。まず自家用車やハイヤーで乗り込み10万、20万を元手に1万円以上も賭ける人と、わずか数百円札に大穴の夢をのせる労働者の二極化だった。
それと無茶な「大穴」が出なくなったのも健全化した証拠でもあった。大阪では5万円以上の「大穴」が31年度から出ていなかった。一人当たりの平均車券購買額は2700円で、当初に比べて低下の傾向にあったが、反面、入場者が増えて大衆娯楽としての基盤を固めていた。
そんななかで、第26国会において32年度予算が編成され成立してわずか一ヶ月で日本経済は急転した。国際収支の悪化で、政府は6月中旬に綜合経済政策を打ち出し、前途に暗い影が覆い被さった。それでも競輪界への影響がみられなかったのは、競輪が社会に根付いていたのだ。
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【28=平成20年2月19日(火曜)】
「全国争覇競輪(ダービー)」が後楽園一本で開催されることに決まって、31年度から新しい企画として「全国オールスター争覇競輪」が特別競輪に加わった。この特別競輪は毎年1回、川崎、大阪中央、名古屋の3カ所の順序で持ち回ることになった。
30年6月に第1回を川崎で開き、台2回は32年5月1日から6日間、中央競輪場で行われ、関西のファンを熱狂させた。この競輪の特長は出場選手をファンの投票で決め、ファンのためのレースであるとともにドリームレース(夢の競走)といわれる豪華レースも組まれていた。
選手の選抜方法は@正選手及び補欠選手はファンの投票を参考とし選考委員会で決定Aドリームレース予選出場者50名は正選手より選考委員会において決定Bファン投票は神戸競輪場、向日町競輪場、大阪中央競輪場において行うーとなっていた。
ファン投票は32年1月27日の神戸競輪場を皮切りに、2月3日向日町競輪場、2月7日中央競輪場で実施。その結果、投票ファン数は4496名、投票総数は1名に10名連記なので4万6071票となり、正選手200名、補欠15名が決定した。選考委員会の構成は近畿スポーツ関係記者4名、関東地区スポーツ関係記者2名、中京地区スポーツ関係記者1名、全国施行者競技会1名、自転車振興会連合会1名、大阪市1名、大阪府自転車振興会1名だった。
ファン投票の結果、ベストテンは、松本勝明(京都)坂本昌仁(大阪)中井光雄(滋賀)佐藤和幸(神奈川)西村公佑(大阪)山本清治(大阪)石田雄彦(和歌山)西地清一(大阪)高倉登(埼玉)古田泰久(広島)。
私が競輪の仕事を始めた頃は、山本さんだけが引退されて報知新聞の評論家として活躍されており、佐藤さんのレースぶりも記憶にないが、他の人は何度となく取材で楽しい話を聞かせてもらったものだ。石田さんは受験の関係で和歌山登録となっているが、後には大阪登録に戻っていた。今のようにベストナインと違って、ベストテンは10車立てだから10人だったのかも。
【29=平成20年2月20日(水曜)】
西日本最初の「全国オールスター争覇競輪」開催を前に、中央競輪場は東西木造スタンドを鉄筋コンクリートに改築、投票所の改造、特別席、いす席、発売所の拡張、さらに競輪場正門前ローターリーに針中野間専用バス道路の舗装工事など、ファンサービスのための化粧をほどこした。
「第2回…」は5月1日から6日間のゴールデンウィーク開催。開会式では前年の覇者・石田雄彦選手が通商大臣優勝旗を持って現れ、続いてファン投票ベストテンの各選手が氏名を書いたタスキがけで登場、ドリーム選手の50名は黄色のユニホーム、その他は緑色のユニホームを着用して入場した。12時少し前に開会が宣言され、熱戦の火ぶたを切った。
◆ドリームレース=5月3日に決勝戦が行われた。スタートと同時にトップの豊田茂、田中久彦(2人トップ)に続いて大山一海、西村公佑、山本清治が出ると、石田雄彦、戸上守、松本勝明、西地清一、吉田実の順でジャンを迎えた。トップ田中のピッチが上がり2角まで一列。
これでは後方の選手は不利。大山が先行に入り、4角入口で西村が仕掛けて抜け出し、山本も猛然と追い込む。二人が並んでゴールに飛び込み、写真判定の結果、山本に軍配が上がった。
レース終了後、表彰式で山本選手には大阪市長賞の金盃が授与された。2着以下はA西村B大山C戸上D松本E石田F吉田G西地H豊田I田中の順。
◆オールスター決勝=スタートで白鳥伸雄が飛び出しトップをとる。竹野暢勇に西村公佑―坂本昌仁―大井清―井村稔の大阪勢が前につき、西村亀―中井光雄が続く。先行一本の大山一海が最後尾ということは波乱を思わせた。ジャン前に豊田茂が大山を連れて前に出て竹野らを抑えたが、1角から竹野が思い切って飛び出す。
西村公―大井がうまく続き、バック8番手から中井がスパート。西村公が4角前より竹野を交わし、直線伸びる大井、強襲する中井を制して優勝した。2着以下はA大井B中井C西村亀D竹野E坂本F井村G大山H豊田I白鳥の順だった。
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