【107】〜【120=完】我がモンスター野中和夫
【107】平成19年11月30日(金曜)
 優勝の味は格別だ。復帰以後、野中和夫を待つ家もパッと明るくなった。笹川良一会長に受けた“恩”に、野中は優勝したことでわずかでも報いた。復帰4場所目の優勝に、誰もが驚き、そして「やっぱり野中や」と認められた。長く暗いトンネルを抜け出すと、もう陽光をめがけて突っ走るしかない。
 C級からA級に戻れば、もう押しも押されもしないスター・野中だ。いやモンスター・野中なのだ。晴れて“A級”が決まると、夏の蒲郡競艇「第28回MB記念」へ出場の朗報も届いた。蒲郡といえば50年7月の周年記念で、一般戦を含め初めてインから逃げ切り優勝を奪ったところ。さらに51年7月に記念を連覇、10月にはダービーを制し、巨人・王貞治を抜いてプロスポーツ界の稼ぎbPに上り詰めるための決め手となった優勝だ。
 「蒲郡は相性がええんやろ。気持ちようレースをさせてくれるとこや。ファンの声援も励みになるとこや」
 蒲郡・MB記念の前に、野中は大変な窮地に立たされていた。A級の看板を背負った初戦の桐生競艇で、あろうことか1日に2本のフライングだ。勝つために、スタートで勝負をかけたのが裏目と出た。さらに浜名湖競艇「開設29周年記念」の初日。前半のレースで転覆、そのとき右眼上を切った。それも単なる切り傷ではない。救急車で運ばれてもいいぐらいの重傷だ。周囲は慌てふためいていた。

【108】平成19年12月3日(月曜)
 野中和夫はレースに命をかけている男だ。意識があって、体が動けば走り続けるのが“選手道”と心得ている。医務室で応急手当を受けながら、野中は担当医に言った。「先生、(後半の)10レースがあるんですわ。なんとか走りたいんで、なんとかしてくれませんか」と縫合処置を願い出た。この医者も相当の熟練医というか、勝負度胸があるというのか、野中の願いに「そこまで言うんやったら縫合しよう。痛いぞ」と答えた。
 麻酔をすればレースに支障をきたすかもしれない。だから麻酔をせずに縫合手術だ。痛さは想像を絶するが、野中は痛いそぶりもみせない。グッと奥歯を噛みしめて我慢だ。眉毛を剃り落とし、4針縫った。おまけに打撲もしている。腫れ上がった右眼は視界もゼロに等しい。
 形相は入道。見る者を威圧するほど迫力のある顔に変貌していた。大時計が見えるのか。それが心配だ。が、野中には仲のいい国光秀雄という“ナビゲーター”がいた。どういうスタートをして、どういうふうに1マークを旋回するか、エンジンの調子も、すべてを知り尽くしていた。そう、国光の外につけて、1マークは差し一本に絞ればいい。左目はバッチリ見える。
 進入は5コースに国光。野中は6コース。「大時計は見えないが、ターンマークはしかっり見える」と、国光の仕掛けに合わせてスリットラインへ突っ込んだ。国光は、もちろんまくって出た。1マークのブイが野中の視界に入った。その瞬間、差しにハンドルが入った。ヨミは的中した。そのまま鋭く抜け出し、奇跡ともいえる勝利を手中にした。

【109】平成19年12月4日(火曜)
 強行出場には理由があった。桐生競艇での2本のフライングで、出走回数を減らす訳にはいかない。5、6月はC級のため月1本の斡旋。だから事故率を下げるには出走回数が必要だった。
 「浜名湖の医者には、ムリを言うて縫ってもらって、ほんと感謝や。いつまでも忘れることがでけへんよ。それと、よう走れたなぁ、というのが実感や」
 大阪へ戻って、自宅に帰ると、みんながビックリ仰天だ。当時の新聞には、野中の負傷のことはどこにも載っていない。人身事故につながらない限り、今でも軽傷の場合は記事にならない。まして、最終日まで走っているなら、誰もが“無事故完走”と思ってしまう。眉毛はない。眼はギョロッとして、まさに入道の様相だった。
 「みんなビックリしとったなぁ。レース場から連絡があるわけないから、ケガは知らんわなぁ。それが仕事やから、当然かな」
 “暴れん坊”“入道”の異名そのままに、浜名湖に続いて平和島競艇「開設29周年記念」に臨んだ。昨年11月、復帰した思い出のレース場。その時は期待にこたえられなかったが、今はA級の看板を背負って、記念の主役の一人として参戦だ。今度は“恩返し”をーと気負っていた。
 そんな野中は、またまた試練を与えられた。A級わずか3場所で、3本目のフライングを平和島で犯したのだ。出走回数をいくら稼いでも、もうダメ。“8項”に抵触して、10ヶ月欠場のペナルティが課せられるのだ。それより、蒲郡競艇での「第28回MB記念」には“F3持ち”で出走することになった。

【110】平成19年12月7日(金曜)
 「(フライングは)切りとうて切ってるんやない。休みたいなんて思ったこともない。精いっぱい、勝ちに行って、それがフライングになってしもたんや」
 的確なスタート勘を身につけていたはずの野中和夫だが、気負いか、焦りか、とにかく3本のフライングで、また一線から退くことが決まった。1年5ヶ月に渡る“登録消除”中のブランクは競艇の事を考えるより“復帰”のことしか頭になかった。今回は同じ欠場でも、常に競艇を考えて休める。選手の動向にエンジンの研究など、競艇場にも出入りできるのは、次へのステップにもつながる。
 入道・野中が57年8月4日、蒲郡競艇の「第28回MB記念」の前検日を迎えた。54年8月、丸亀競艇「第25回MB記念」を制して以来、3年ぶりのビッグな舞台。それも苦難の道を乗り越えて、全国レベルの大会に戻ってきた。
 「F3本? 関係ない。オレは勝つために、蒲郡へ来たんや。勝ちに来たんや」
 なんと、野中は戦う前から“優勝”を宣言した。そして、予選から準優勝線をクリアすると、もう一度、「明日(優勝戦)は絶対に勝つ」と、報道陣を見渡して勝利を改めて宣言した。ライバルの彦坂郁雄も乗ってきた。艇界を盛り上げる2人のスターが、戦う前から火花を散らせたのだ。ファンにはたまらない“対決”の図柄。どちらが勝つのか? と思うだけでワクワクしたものだ。
 そんな野中も、寝間に入ると心が揺れた。勝ち負けは時の運。だけど4本目のフライングは選手として“不適正”の烙印を押されても仕方がない。

【111】平成19年12月10日(月曜)
 心地よい夏の早朝。午前6時前に目を覚ました野中和夫は、さらに冷静になっていた。柔軟体操などで、体をシャキッとさせた。彦坂郁雄もすでに起きていた。
 「F3持ちは辛いなぁ。やっぱりF4はでけへん。業界へ復帰させてもろたのに、これ以上、迷惑をかけられへん。とにかくインを取って、どこまでスタート勝負できるかやな」
 いつも強気な野中が、苦しい胸の内をのぞかせた。フライングを3本も持って、ビッグの優勝戦に乗ってきたのは野中ぐらいか。ほとんどはレースにならず散ってしまうものだ。さすが“勝ち師”野中とほめるのは簡単だが、業界に与える影響を考えると、冷静にならざるをえなかった。ファンの声と笹川良一会長の“鶴の一声”で選手に戻れた野中が、もしF4を犯すと、野中の進退問題に発展しかねないからだ。
 「フライングはでけへん。スタートで後手を踏まんように、とにかくインで勝負や」
 ピットオフと同時に、イン奪取へ艇を運んだ。大時計を向いても、思い通りの進入だ。ただ、起こして、大時計を確認すると、誰も視界に入ってこない。一瞬、野中の頭にF4がちらついた。思わずアジャストして、スリットへ頭を伏せて突進した。が、わずかの迷いが、命取りになった。5コースから彦坂郁雄が猛烈なスピードで野中に襲いかかった。強烈なツケマイに野中がインで持ちこたえて踏ん張った。浅香登に差し込まれたが、2マークで逆転差し。負けのスタイルから、一転して勝利の流れに…。野中の迫力にスタンドは沸いた。

【112】平成19年12月8日(土曜)
 勝負は終わらない。勝ちを意識しすぎた野中和夫は浅香登を張りながら大きく流れた。そんなスキを彦坂郁雄が見逃さない。鋭角に差し込むと、一気に突き抜けた。それでも野中は1マークで彦坂の内へ突っ込んだ。いなされても、いなされても、コーナーごとに突っ込んだ。鬼気迫る勝利への執念。結果は3着まで落ちたが、歴史に残る名勝負となった。
 「アジャストせんと握ってたらコンマ05ぐらいで残ってたやろなぁ。握るべきやったけど、あの時点では、やっぱり限度やったんかも知れん。F3持ちの限界や」
 戦いが済んで、野中は三谷温泉の旅館にいた。松本進に中道善博、高辻幸信、竹内尉宏らと“残念会”だった。アルコールがすすむに連れて、F3持ちの限界と納得させながらも、野中には、まだもやもやが残っていた。
 「しゃあないやろ。精いっぱい戦ったんやから」
 自らを言葉でなぐさめたが、心の中には“悔い”が消えることはなかった。今までの選手生活で、唯一の“悔い”だったかも知れない。
 スタンドは3人の死闘に酔った。コーナーにかかると一喜一憂しながら、最後には優勝した彦坂を祝福し、2着・浅香の健闘を称えた。存在感を示しながら敗れ去った野中だけが、悔し涙を流したのだった。

【113】平成19年12月12日(水曜)
 復帰から1年、モンスター野中和夫は、存在感を十分すぎるほど見せつけた。ブランクなど感じさせない。ファンも日本一強い野中を信じたまま。タイトルも記念優勝も奪えなくても、迫力満点のスピード戦を堪能した。
 「フライング休みは規則やから、ね。しばらく離れるけど、この1年は、ほんま、楽しい毎日やった。ファンが期待してくれると、応えようとして、頑張れるやないか。レースは気持ちで負けんように、エンジンは誰よりも出るように、そんな考えが、よけいに強なった1年やったかな」
 10ヶ月のフライング休みに入った。もう手伝う店(ブッチー、うどん屋)もない。競艇選手一本に命をかけて、家族を養っていく。10ヶ月の“無職”をどう過ごすか。国内にいればイライラもつのる。走れないもどかしさも感じる。ゴルフー酒―ゴルフー酒の繰り返しでは、人間としての成長もない。野中は知人の多いハワイへ一時的に“移住”した。
 「今回の休みも言ってみれば試練や。避けて通れんわなぁ。ハワイやったら、いろいろ知人の手伝いもできるし、空気もええし、ゴルフも気持ちようにやれる。人の目もないし、最高の場所や」
 まずサンフランシスコへ飛んで、アメリカ大陸の広さを思い知り、そしてハワイへ入った。ゴルフやホノルルマラソンの仕事にも携わった。手伝いであっても、野中は手を抜かない。細々としたことでも、きっちりこなす。日本からの観光客には丁寧な“道先案内人”だった。

【114】平成19年12月13日(木曜)
 10ヶ月のフライング休みは、実に長かった。といっても、毎日を精一杯に生きる野中和夫には、それほどの“空白”ではなかった。世の中の動きが、人の流れが、すべて感覚として五体に残った。
 勝負師という言葉を嫌う野中。「勝負師というもんは、勝ったり、負けたりと言う意味と一緒や。そら勝ち負けは時の運や。そやから勝ちに行くんや。負けを考えて、戦えるわけがない」
 色紙に書くのも“勝師”だ。勝つための努力を惜しまない。人生でも同じ。あらゆる状況、場面をインプットして、最善の方法をぶつけて勝利を呼び込むのだ。そんな意味でも、10ヶ月の人生勉強は、再始動への活力になった。
 58年の初夏から実戦に復帰。またまたC級からの出発だが、もう野中に迷いも、苦しさもない。しっかりとA級をキープして、59年からの“復活”につなげた。
 記念路線に戻った野中は常滑競艇「施設改善記念」、尼崎競艇「近畿ダービー」、住之江競艇「第17回太閤賞」などを立て続けに経験した。常滑では、あの蒲郡・MB記念の死闘以来、久しぶりに彦坂郁雄との対決があった。両雄が59年の競艇界を引っ張る予定だったが、野中が戻れば彦坂は期F2で80日の休みに入る。こんな状況下で、野中は4コースから1着を奪い、ビッグ路線へ復活の狼煙を上げたのだった。

【115】平成19年12月14日(金曜)
 1年8ヶ月ぶりのビッグ出場へ、野中和夫にファンの後押しは強烈だった。5月の浜名湖競艇で開催の「第11回笹川賞」へはファン投票トップでの出場が決定した。第1回、3回の覇者・野中は、またもファンのお陰で、ファンが望む“スターの座”へ腰を据えることができたのだ。
 「ファン投票で選ばれてうれしいね。久々のビッグレースやし、ファンの票に応えられるように、頑張るよ。優勝? それは時の運や。勝つための努力は惜しまんよ。浜名湖は目の上を切って、縫ってくれた先生もいてはるし、お礼も言わんとなぁ」
 蒲郡・MB記念を走る前、野中は浜名湖周年で右眼上を裂傷した。後半のレースに備えて、競艇場の担当医に縫合手術を願い出て、しっかりと縫合してもらった。その時の感謝を野中は忘れていない。
 「今年は、あんまりリズムがようないなぁ。ここらでスカッといきたいところや」
 A級に戻って、記念の連続で、波にのれないまま「笹川賞」を迎えた。記念と一般戦の違いを、野中自身が思い知った。“登録消除事件”で1年5ヶ月、F休みで10ヶ月、これだけ休んでビッグの舞台に帰ってくるのは野中ぐらいのもの。だから余計に、ターンのスピードの違いを感じ取ったのだ。
 せっかくの「笹川賞」だったが、期待に応えることはできなかった。惨憺たる成績に、野中は浜名湖から四国の琴平へ直行した。“厄払い”のため金比羅さんへ出かけたのだ。願をかける顔は真剣そのものだった。

【116】平成19年12月20日(木曜)
 期待の大きかった浜名湖・笹川賞は、やはり野中和夫にはショックだった。何かを変えるために“厄払い”も必要だった。その甲斐があったのか、リズムはわずかずつ好転した。夏の若松競艇での「第30回MB記念」では優勝戦にコマを進めた。そして本命人気を背負って、熱く燃えた。ところが、ラフプレーで、またも特別Vはお預けになった。
 スタート練習でインに構えた野中。ゆったりの運びと、ライバル北原友次が4コースに構えたため、スタンドのファンも「野中の逃げ切り」を決めていた。が、本番で、5号艇の北原が野中に襲いかかった。1号艇がイン取りに有利な若松。野中は当然、有利な枠だ。
 「(北原が)本番ではインに来るとは思っていた。もちろん明け渡すつもりはなかった。スタート練習でインに入っとるのに、ファンを裏切れんやないか」
 北原は、そんな野中にお構いなし。ピットを離れると、野中の前を塞ぐように、強引な回し込み。それでも野中は2マークブイ際を開けずに大時計へ艇首を向けた。このままなら激しいイン争奪戦で済んだが、北原は野中の前へ出て締め込んだ。それも野中の艇首を手で押して、強引にもインをもぎ取ったのだ。道義上、許せるわけがない。
 血気盛んな野中はカーッときた。「オレが内へねじ込んだら内線を切ってしまう。スタート練習からオレとインを争っていたらファンも納得してくれるが、これでは…」と、30秒前に5コースへ出た。スタンドは騒然とした。野中は北原にターゲットを絞って、叩きつぶすつもりだった。

【117】平成19年12月21日(金曜)
 「クソッ、負けられるもんか」―野中和夫はスタートで遅れ、イン変わりの手に出た。通常の北原友次なら得意の“張り逃げ”に持ち込むのだが、この時は内懐をしっかり締めて、ターンマークをめがけて走っていた。ヨミが外れた。これでは野中も突進できない。
  「(北原の)内へ飛び付くつもりが、ひと呼吸遅れた。(差しに構えた八尋信夫に)えらい迷惑をかけた。こんな悔しいことはない。なんで初めから力の勝負をせんのや」
 怒りはおさまらない。控室へ引き上げてからも、野中は北原に詰め寄ったが、勝負の世界は勝てば官軍。仲裁にでた周りの選手の手前、涙を飲むしかなかった。復帰後、初めて体重を47`まで減らして臨んだ大好きな「MB記念」で、野中は苦い思いを味わった。
 その夜は、迎えに来ていた中野浩一らと博多の中洲でたっぷりアルコールを含んだ。食べるわけにはいかない。10月のダービーまで、47`を維持させて、タイトル奪取へモチベーションを高めるためだ。
「エンジンに関しても、一応のメドがたつのに3年はかかったなぁ。それでも、まだ考えとレースが一致せんのや。まあ、もう勉強の段階は済んだから、次のダービー(住之江競艇)で燃焼や。地元では負けられん」
 再デビューから2年9ヶ月。その間、10ヶ月のフライング休みもあったが、なんとか“新人研修”を終えた。確かな手応えも感じ、元のモンスターとして、競艇界を引っ張って行く決意を固めたのだ。悔しい「MB記念」の後は、40日のフライング休み。野中は地元で開催の「ダービー」へ向けて、心技体の充実に努める。

【118】平成19年12月24日(月曜)
 フライング休みの間、津田富士男らと住之江競艇場で特訓に明け暮れた野中和夫。地元開催の「第31回競艇ダービー」へ向けて、乗りまくった。再デビューから3年、野中はタイトル奪回へ、盤石の構えを敷いた。MB記念2回、笹川賞1回を経験したが、地元でのビッグなら、なお気合も入るというものだ。
 「いくら地元や言うてもブランクがあるから、やっぱり感覚を取り戻さんと。ファンが納得のいくレースをせんと、自分でも納得がいかん」
 初日のドリーム戦。ファンは野中の動向に注視した。ファンは、モンスターか、並のスターか、そんな答えを求めて、ファン投票1位でドリーム戦へ送り込んだ。結果は今村豊のパワフルなスピード戦に屈し4着。2走目はツケマイが決まらず3着。苦戦もここまで。3走目から1116着で予選をクリア。そして準優勝戦も1着。若松・MB記念に続いて、完全復活の狼煙を上げるチャンスが訪れた。
 「優勝に乗ったからには勝つ。1着を取れんかったら2着も6着も同じや。勝ってこそ、初めて(ファンの)期待に応えられるんや」
 初日のスタンドはファンの波。先着1万人に用意されたファンサービスの粗品は午前10時の開会式までに品切れ。それほどモンスター野中和夫の出場する“ダービー”を楽しみにしていたのだ。2日目以後もファンの足は遠のかない。連日の大入りだった。最終日はさらにファンが増えていた。


【119】平成19年12月26日(水曜)
 そんなファンの後押しも生かせず、野中和夫は「競艇ダービー」も6着に敗れ去った。勝てないもどかしさに「情けない。もう一度、やり直しや」と自らを叱咤した。まだ記念優勝も手に入れていない。段階としては、特別=記念を勝って、そしてビッグVだ。野中は暮れまで、6つの記念戦に“鳳凰賞”への出場権をかける。
 タイトルは手にできなくても、59年後期の勝率1位の座を奪回した。ちょうど“登録消除事件”が起こったとき以来の1位だ。期の最後、10月31日は12年目の結婚記念日で、和子夫人の誕生日でもあった。その日は、野中が戸田周年へ向かうため、車の免許取り立ての和子夫人が南海電車の堺東駅まで、初めて送った記念の日でもあった。
 「新米ですから、すごく気をつかいました。肩に力が入って、疲れました」
 そんな内助の功は報われた。11月6日、戸田競艇「28周年記念」で、再デビューから丸3年、登録消除になる前の丸亀28周年記念を優勝して以来、実に4年と4ヶ月ぶりに記念を勝ち取った。やっと“一人前”だ。
 コンマ03、インから一気に逃げ切った。「関東では弱い」の印象をファンに与えていたが、野中にとっても高価な記念V。関東地区では初めての特別Vだ。
 「やっと勝てた。これで、またステップアップができる。まだ、昔に比べると80%ぐらいや。これからも集中力を養って、タイトル取りへ頑張る。鳳凰賞(平和島)へ行く権利もできた」
 笹川良一会長に、ほんとの意味の恩返しにつながる関東での特別V。モンスターが“全国”であることを証明できたのだ。

【120完】平成19年12月27日(木曜)
 好事魔多しーとはこのことか。戸田・周年Vで勢いをつけたが、12月4日にL返還、中休みのあと6日にF返還。なんと住之江競艇「施設改善記念」でL、Fを連発だ。
 「復帰してから住之江では期待を裏切ってばかりや。情けない」
 手負いの獅子は後退を許されない。続く下関・30周年を優勝して、力強さをアピールした。暮れの31日から60年2月28日まで“60日”のF休み。A級に踏みとどまったことで、今後は明日のボート界を背負って、邁進する。
 「ファンあっての競艇」の基本理念は、野中の頭にしっかりと植え付けられている。笹川良一会長が、つねにファンと接触して、競艇の素晴らしさを説いてきた。野中も笹川会長の意志を受け継ぎ、再デビュー以前にも増して、レースに没頭した。
再デビュー後は、60年=下関MB記念、62年=尼崎・笹川賞、63年=住之江・賞金王、平成2年=住之江・笹川賞、平成3年=住之江・笹川賞、平成4年=住之江・賞金王、平成5年=丸亀・笹川賞、住之江・賞金王、平成7年=桐生・グランドチャンピオン決定戦、平成8年=住之江・オーシャンカップ、住之江・賞金王の11個のタイトルを獲得(49年=住之江・笹川賞、丸亀・MB記念、住之江・ダービー、51年=住之江・笹川賞、蒲郡・ダービー、54年=丸亀・MB記念で6つのタイトルを獲得)。
 笹川会長の冠「笹川賞」は6大会を優勝と、野中には縁の深いタイトルとなった。
 選手で業界を引っ張り、今は日本モーターボート選手会の会長として、全国のファンに競艇をPR。もう一度、隆盛の時代へ、そして次代へバントを引き継ぐまで、野中は笹川良一会長の意志を胸に、ファンと共に歩む。(完)