【26】〜【40】我が野中和夫
【26】平成19年7月19日(木曜)
 期末の10月31日まで、モンスター野中和夫は芦屋周年、宮島周年を残している。記録をどこまで伸ばすのか、12月31日までは賞金、さらに年間優勝数など、年内は目が離せなくなった。「このダービーには勝負をかけていた。これからは追われる立場になるだろうが、僕の気持ちはいつも、その節、目の前のレースを大事に戦っていくこと」。特別タイトル5つは、すべて5、6コースから手にしたもの。
 昨年の蒲郡周年で初めてイン逃げ優勝を飾って以来、野中は成長した姿を蒲郡で実証したのだ。「これからは何とか勝率の新記録を達成したい。芦屋を勝てば宮島で7連覇にも挑戦したい」と、あくなきチャレンジ精神も披露した。
 それよりも、この優勝戦で、野中から松野寛、岡本義則への舟券に2500万円を投じたファンがいた。当時の発券機は1000円券を打つ機械で、発売当初から2点の舟券を打ちっぱなし。800円ぐらいのオッズが、この2点だけは400円台まで下がった。その分、野中ー岩口昭三は1340円(5番人気)まで上がった。このファン、野中のまくりが決まればインの北原友次は捨て、差す松野か岡本の2着と信じていたのだ。残念なのは、野中のまくりが内側の艇を壊滅させる威力があるのを知らなかったこと。結果は岡本4着、松野5着で水に消えた。今でも蒲郡では語りぐさになっている。
 優勝を奪った夜、野中は三谷温泉に一泊して余韻に浸った。翌日、愛車の白いリンカーンコンチネンタルに乗り込むと、トランクから桐の箱を取り出して、優勝賞金800万円をしっかり確かめた。一晩、ほったらかしとは、野中もすごい。また祝儀袋の束もずしりと重かったのを記憶している。その足で、知多半島のゴルフ場で、松本進らと打ち上げコンペに出て、改めてダービー優勝を実感した。

【27】平成19年7月20日(金曜)
 夏前から走り詰めの野中和夫。家に帰るよりも遠征の連続で、旅ガラス同然だった。いくら減量が役立つといっても、不摂生はカラダに毒だ。6連覇を目指して乗り込んだ芦屋周年も気力でカバー。疲れが目立ち、体調にも異変の兆候が出てきた。それでも11112421着で優勝戦には乗った。ホッとしたのか、展開がむかず長嶺豊と5、6着争いで、結果的には6着に敗れた。5月以降の今期、野中は6着を一度も取っていなかった。最後まであきらめず長嶺を交わす努力をした。後日、長嶺が「なんで野中がひつこう来るんかなと思ったよ。引き上げた時も悔しそうな顔をしとったのは、優勝できんかったんより、6着やったんか」と話していた。そう、野中は「6着ゼロで通したかったんや」と無念の唇を噛んだ。
 最後の宮島周年には前々日から宮島に入り、地元選手に混じって練習にも参加した。残り3走を1着で締めくくるつもりだったが、前検日(10月29日)の野中は唇が荒れ、腹部にはブツブツの湿疹が現れるなど、あきらかに体調不良。結果も264着の未勝利で、期を終えた。116走、1着81回、2着14回、3着11回、4着4回、5着5回、6着2回で、勝率は9・53と不滅の金字塔を打ち立てた。彦坂郁雄のマークした昭和45年前期の勝率9・27を大幅に上回った。期間優勝12回のうち特別優勝8回も記録。勝率は今の基準に合わせると9・97にも達するすごさ。モンスターはカラダを張って、ボート界の発展に貢献した。

【28】平成19年7月21日(土曜)
 勝率9・53の不滅の記録に対して、彦坂郁雄が「記録は破るためにある。勝率はいずれ誰かに破られると思っていた。私の場合、一般戦が多く記念は少なかった。だから得点も1点増しのケースが少なかったから二通りの考えようがある。もしも、当時、記念が多ければもっと勝率が上がったかもしれないし、逆にメンバーが強くなり負けていたかも知れない。いずれにしろ野中君にはおめでとうといいたい。これからはライバルとして戦っていく」と野中和夫にメッセージを贈った。勢いだけでなく、野中が培った努力を彦坂も評価していた。
 野中は「自分では良くやったと思う。目標にしていた9・50を上回ることができたし、今期に関しては言うことがない。本音は最後を3連勝で終わりたかった」と、ホッと気をゆるめた。この10月31日は和子夫人誕生日で結婚4周年記念でもあった。野中が「勝って」と言ったのも、最良のプレゼントを手渡したかったのだ。体調の限界がきて、野中は11月1日のレースから急性胃腸炎のため欠場。久々に大阪に戻って、年間優勝15回、プロ競技bPの総所得6千万へ向かって、カラダのチェックをすませて出直す。


【29】平成19年7月23日(月曜)
 死力をぶつけて勝率9・53という不滅の記録を樹立したモンスター野中和夫。宮島を欠場して、帰阪後は医者で精密検査をうけたが、肝機能などが弱っていたのは確かだった。1週間の“休暇”は、再びモンスターを生き返らせた。昭和51年11月7日〜13日のびわこ競艇「開設24周年記念・秩父宮灯杯争奪戦」で体調の不安を一掃、初日から13141222着で優勝戦に進出した。相手は私の手元にないが、激戦の結果、野中は年間V15をマーク。倉田栄一に並んでタイ記録となった。
 続く児島競艇「第24回周年競走」は武運つたなく優勝戦に乗れなかった。成績は6212461112着だった。優勝は盟友・村上一行が獲得したことで、野中も我がことのようにうれしそうだった。
 12月に入って、2日から5日まで丸亀競艇の一般戦に参加。好きな水面で、記録達成も濃厚だった。そんな人気の重圧もはねのけ、111311@着で、最インを奪って一気に逃げ切り、年間最多優勝の「16回」を決めた。15年ぶりに塗り替えた記録に「倉田さんの優勝回数をなんとか上回ってホッとしている。丸亀は以前から好きなところで、そこで達成できて、いままでやってきた甲斐がありました。まだ賞金の方が残っているので、下関、三国も頑張ります」と感激しながら、目前に迫ったプロ競技bPの稼ぎへ、照準を絞った。

【30】平成19年7月24日(火曜)
 クライマックスが近づいてきた。モンスター野中和夫の昭和51年の締めくくりは、賞金で6000万円の大台突破だ。すでに5730万円で巨人軍・王貞治(現ソフトバンク監督)の年俸を上回ったが、プロbPの存在感を示すには6000万円奪取が不可欠だ。1年間の総決算へ向けて、野中は12月16〜21日の下関競艇「22周年記念」は臨む。大阪を出発したのが14日、空路・伊丹から博多へ向かい、そして下関に戻るなど8月に施設改善記念を優勝したときと同じコースをたどった。
 我が社では、野中の記事を1面のトップで取り扱うのが決まった。当日は、プロ野球の江夏豊が阪神から南海に移籍して、年俸交渉で『5%ダウンの1710万円で一発サイン』のニュースがあったにもかかわらず、野中がトップを飾った。ギャンブル界で個人がスポーツ紙の1面を飾るのは初めてのこと。その見出しも赤枠に『野中6千万円へ 秒読み』、上には『“賞金日本一”華麗なる競艇王』さらに“男の夢かけ挑戦”“腕一本、誇り高く”“競輪でも藤巻昇が5千5百万円、賞金増えプロ野球しのぐ傾向”と、満載だった。
 旅立ち前に自宅でトロフィーを手に笑顔の野中。「勝ちたいね。僕はこの道に入って、ずっとプロ野球の選手を目標にしてきた。それも第一人者といわれる王さんです。野球もボートも腕一本、稼ぎで王さんに追いつき、追い越せを合い言葉にやっている。今年は王さんも6千万に乗るはず。負けられんですね」。そして「この道に入ったのは、正直いってお金がほしかったからです。いまはレーサーになってよかったと思っている。プロ野球は素質があっても、なかなか試合に出られないが、ボートは平等に勝つチャンスがある」とも語っていた。

【31】平成19年7月25日(水曜)
 6千万円を目指して下関競艇「開設22周年記念」に臨んだ野中和夫。マスコミの取材も、賞金のことばかり。どう計算してきたのか、わずかに足りないとか、茶々を入れる記者もいた。周りの狂想曲に、反発心の強い野中は、気合がレースに充満しすぎて、空回りのケースも。予選はドリームを含め221321着。好成績でも内容的にはピン(1着)を並べても不思議ではなかった。それだけ“6千万円”に意識が過剰になっていたのか。
 準優勝戦は、やはり暴れすぎて4着に敗れてしまった。優勝して6千万円の希望は叶わなかったが最終日を42着で終え、5983万3500円に達した。「ちょっと運が悪かったなぁ。そうそう、ええこともない。次に頑張るわ」と、昭和51年の最終戦、三国競艇へ向かった。
 初日12着、2日目9Rの1着で、ついに6001万5千円に達し、国内のプロ競技史上初の“20万ドルプレーヤー”となった。結局、三国は12161311B着。6088万2500円で51年の“野中フィーバー”を締めくくった。
 「充実した1年でした。今年の目標は特別のタイトルをひとつ取ることだった。それが夏を契機に記録への挑戦もひとつの目標においた。辛いときもあったが、かえって励みの方が大きくなった。これからも“挑戦”の言葉を頭に叩きこんでいきます」と、野中は満足感にひたりながら、また新たなる年へチャレンジをする。

【32】平成19年7月26日(木曜)
 昭和51年は野中和夫の記録ラッシュで終えた。最多タイトル5回、期・選手勝率9・53、期・優勝回数12回、期・特別競走優勝回数8回、連続優勝6回、年間優勝回数16回、そして年間所得6088万2500円のプロ競技のbP。とにかく夏以降は野中の名前が新聞に載らない日はなかったほど。昭和52年も住之江競艇で“仕事始め”、優勝はできなかったが1112121111着で優勝戦には進出した。1月18日は、昨年から始まった「優秀選手表彰規定」の第1回目の「選手の表彰」が決まる日だった。私も1回目の関西記者クラブ代表で選考委員(10人)を務めた。
 モーターボート大賞には野中が満場一致で輝いた。最高勝率、最多優勝も自動的に決まった。全国記者クラブ選出大衆賞もクラブ員46人(関東8人、中部8人、関西20人、九州10人)のうち38票を獲得して選ばれた。また、新鋭選手賞(新人優秀選手)には野中の“弟子”北山二朗が選ばれ二重の喜びにわいた。敢闘選手は安岐義晴、北原友次、岡本義則、松本進が受賞した。
 野中は「競艇界ではじめて制定された表彰制度で4つの賞を手中にできたのはうれしい一言です。努力の結果を認められたのですからね。最優秀選手は別として最高勝率、最多優勝は運だけでとれたんですよ。まあ、努力したから運が向いてきたといえますが…。競艇では二度とやりにくい記録といわれますが、今年ももう一度ねらいます。2年連続栄誉獲得が今後の目標です」と、受賞の喜びを語った。

【33】平成19年7月27日(金曜)
 「ジロウ(北山二朗)はうれしいやろなぁ。新鋭選手賞は新人しか取れんのやから。ええ親孝行や」と、野中和夫が「表彰式典」で年老いた両親を招待した北山をうらやましがった。北山は“野中二世”といわれ、スピード満点のレースぶりで頭角を現してきた。フライングをせずに、アウトから的確なコーナーワークで勝つなど、なかなかの“巧者”だった。
 このころ、北山や国光秀雄、津田富士男、角川政志、望月重信らが将来のスター候補生として暴れ回っていた。野中は、こんな迫力をもったヤングが大好きだった。常に刺激を受け、さらに力ずくでねじ伏せる。また、彦坂郁雄とは王道を争い、北原友次とはレースでの強引なイン戦に目くじらを立てて挑み、岡本義則や加藤峻二にはレースマナーを教わった。安岐真人や中道善博らも野中の牙城を崩そうと、地力をアップさせていた。
 風雲児・野中が駆けた昭和49年から51年の3年間、まさに手のつけようのない強さだ。「50年が悪かったから52年もええことないで」と口ではいいながらも、やっぱりターゲットは絞っていた。住之江競艇の「太閤賞」と特別タイトルの優勝だ。この「第1回モーターボート大賞」の栄誉は、野中の頭から離れることはなかった。

【34】平成19年7月28日(土曜)
 昭和52年も、ボチボチとエンジンがかかりだした。1月に多摩川、2月には尼崎で「近畿ダービー」で優勝のあと、下関競艇「第12回鳳凰賞」は準優勝戦で涙を飲み、5月の住之江競艇「第4回笹川賞」はフライングのため自粛欠場で、ちょっと“ひと休み”したが、6月には常滑、そして8月2日に得意コースの徳山競艇で「開設24周年記念」を優勝。それも彦坂郁雄、北原友次、柴田稔を相手に、4コースから必殺のまくりを決めた。0秒05のきわどいスタート。まさに“野中らしさ”がよみがえった一戦だった。
 「勝負をかけてたんや。フライングも覚悟やった。作戦は“まくり一本”。久しぶりに気持ちのええ優勝をした。いつも、この徳山周年を境にして成績が上がってくる。僕にとっては徳山は調子のバロメーターを計るうえに欠かせない場所になったナ」。昨年のV16に比べ、まだV4だが、スカッとした優勝には違いない。笹川賞を挟んだフライング自粛欠場の間は、毎日、ゴルフ場通い。友人らと草野球で暴れ回ったこともある。右投げ左打ちで、捕手から投手、どのポジションもこなすユーティリティプレーヤーだ。「野球は好きや。南海や、南海ホークスが一番や」と、大阪球場にも応援によく行った。大阪が大好きな野中、徳山周年Vの余勢を駆って、8月10日から16日までの7日間、住之江競艇で是非とも欲しい「太閤賞」の初優勝へ挑む。
【35】平成19年7月30日(月曜)
 「太閤賞の優勝戦には一度も乗ってないんや」ーモンスター野中和夫は、住之江競艇の夏の風物詩「第11回太閤賞(開設21周年記念)」への思い入れが強い。あれほど豪腕でねじ伏せてタイトルを奪い取ってきたのに、「太閤賞」だけは、いつもスルリと逃げてしまう。だから、この昭和52年の「太閤賞」は、優勝の二文字を背に、全力傾注だ。予選、準優勝戦をクリア、念願の優勝戦に乗った。
 メンバーは@後川博A北原友次B国光秀雄C柴田稔D古谷猛E野中和夫の6人。古谷に柴田、北原、後川がイン争奪戦にピットを離れた。野中と国光は見向きもしない。枠がよくても、野中に、インは眼中になかった。最インの古谷は30秒前にオレンジブイ。深すぎる。北原、柴田もズルズルと流れ込む。後川が野中マークへ切り替え、野中は4コースのカド発進。アウトは国光。コンマ08で飛び出した野中。1マークでは他艇を1艇身半以上も引き離す、圧勝のスタイル。緊張、喜悦、満面の笑み、野中が太閤賞に5度目のチャレンジで、やっと優勝を手に入れた。「四大競走のタイトルより、この優勝が一番うれしい。いままでから取りたかったのは太閤賞やった。モーターが悪くて、苦しいシリーズやったが、最後まで整備をあきらめんかったのが良かった」と、野中も飛びっきりの笑顔でファンの声援に応えた。
 初日のドリーム「千成賞」の勝利とあわせ“両手に花”で締めくくった。“千成賞の覇者は優勝できない”のジンクスも破った。徳山に続いて得意のまくりで記念を連覇。弾みをつけて「第24回モーターボート記念」(浜名湖)に転戦したが、流れは向かなかった。

【36】平成19年7月31日(火曜)
 野中和夫のライバル彦坂郁雄はフライングの事故点でB級に落ち、一般戦まわりがほとんど。それでも、「太閤賞」終了時点での勝率は、彦坂が9・35、野中はわずかに下回って8・88。記念、ビッグばかりの野中は不利な状況だが、競艇界のシステムでは仕方のないこと。ただ、1月からの年間勝率争いでは、ほとんど差のない状況。野中は最後のビッグ、「ダービー」(福岡)で史上初の連覇に挑み、さらに年間勝率1位の座も譲らない構え。
 昨年度から始まった「年間優秀選手表彰」。この年は加藤峻二が「笹川賞」「MB記念」を獲得して「モーターボート大賞」に輝く公算は濃厚だが、“無冠”でも、野中には第1回の賞を総ナメにした意地がある。「勝率はなんとしても負けられん。年間を通じて、一番貢献した証しやから」と“一走入魂”を肝に銘じた。彦坂とは走るステージも違って、対決ムードをあおる話題も少ないが、野中は走る場所では必ずファンをひきつけた。「ファンが舟券を買ってくれる限り、納得してもらえるレースをせないかん。勝ち負けは時の運やから、常に全力投球や」と言う。 昭和52年、最後の勝負は「ダービー」の舞台だ。

【37】平成19年8月1日(水曜)
 「第24回全日本モーターボート選手権競走(ダービー)」(福岡競艇=昭和52年10月6日〜11日)へ向かったモンスター野中和夫。史上初の“ダービー連覇”が目標だ。ところが第一前検日(4日)に引き当てたモーターは勝率19・0というワースト2の「17号機」。「えらいモーターを引いた。出足がさっぱりないんや。みんなこの勝率を見て“野中はすんだ”と思ってるやろ。そやけど、とことんやってみる」と“大手術”の敢行を決めた。近歴は吉田重義→木島西三郎が乗って15走、2着1本とさっぱり。整備士が「17はあきません。たとえ野中君がでも直らない」と断言した代物。こんな時ほど整備巧者・野中の腕の見せどころ。まして盟友・松本進の帯同は心強い限り。二人三脚の「改造」なら良化も当然か。

 第2前検日には野中の顔に笑顔が戻った。ピストン2本、リング4個、下部ベアリングを交換してスタート練習に臨むと、6回とも1コースに構えて、ほとんど逃げ切りのパターンを整えた。「出足がだいぶ良くなった。ピット離れはもう抜群。今のままならインから。まだリードバルブやギアケースなど手を加えるところはいくらでもある。勝率は悪くても、きっと直してみせる」。わずか1日で凡機から並まで上昇させた野中。とにかく臨戦態勢は整った。

【38】平成19年8月2日(木曜)
 開会式でダービーの優勝旗を返還した野中和夫。レプリカを渡されても、感動はない。ターゲットは「ダービー連覇」(第24回全日本モーターボート選手権競走)だから、口元をギュッと結び、闘志をあらわにした。モーターが悪ければ“超抜機”へ、人気が薄くなれば目の覚めるようなスタートで決着をつけるのが、野中の真骨頂。まず第1走目は100bポールからのイン進入。島也茂が猛スピードで突進したが、野中はがっちり受け止め、逃げ切った。新モーター10節目で最高タイムの1分52秒7をマーク、早くも“怪物”ぶりを発揮した。
 「今回はフライング覚悟でやってきた。4日目の2回走りを考えないで、前半から飛ばしていく。その方が精神的に楽。ターン足も島也さんより上。スタートは目いちの勝負」。2日目は不利な5コースだったが、最内を差してBS一気。それでも「今の足ならまくれん。インしかないなぁ」。そして3日目に3コースから差して3連勝を決めると「出足が強力や」と完調を宣言。盟友・松本進は風邪で38度の熱をおして序盤を2141着。「かえって頭が冴えているね。あとは減量だけ。モーターは出足がいいし、いうことない」と、野中ともども“大仕事”へ向かって好ムードを漂わせた。得点トップの野中、2位の松本、二人の勢いは止まらない。

【39】平成19年8月3日(金曜)
 野中和夫の連勝を「4」でストップさせたのが松本進。予選最後の10Rで、野中は先制したが、1周2マークで松本の逆転を許した。「ここまできたから完全をねらっていた。残念や」と悔しそうな野中。逆に松本は「ターンを回った後の足が強力」と元気いっぱい。この2人、仲良しコンビは福岡競艇「第24回全日本モーターボート選手権競走(ダービー)」の準優勝戦に臨む。
 野中は2コースに構えて、加藤峻二の強烈なまくりを浴びながらも、なんとか2着でクリア。「リングを変えたのが失敗。だから2着ねらいにした」と臨機応変に対処。ただ、凡機が肝心の後半戦にきて、素性の悪さが顔を出したのかも。松本は勢いに乗ってインからコンマ04で逃げ切り。そして「体重は4sほど落ちた。枠番もいいし、深くてもイン」と初のビッグVへ意欲満々だ。
 優勝戦のメンバーは@岡本義則A八尋信夫B加藤峻二C島也茂D野中和夫E松本進の6人。枠番に恵まれたのが松本と野中。当然、松本のイン。野中は2コース差し。ただ、野中は「ボートが悪い。足落ちも優勝戦までには直す」と言っても、松本の出足の強力さを野中が身をもって体験している。どいちらかが優勝をーこんな思いが野中の頭にあった。展開が向けばダービー連覇の可能性もあるが…。野中は2コースからコンマ04。「握ってたらフライング」と落としたため、インの松本はコンマ10、イン変わりで挑む岡本を軽くあしらって逃げ切り、初めてタイトルを獲得した。野中は2マークでは内を締め、外に張るなど、松本の援護に徹した。まさに“友情のダービー”となった。

【40】平成19年8月4日(土曜)
 選手生活15年目で手にしたタイトルに、松本進は目をしばたたかせ「ただうれしいだけです」と声をつまらせた。昭和52年10月11日、野中和夫とともに戦った福岡競艇「第24回競艇ダービー」の決勝戦。野中が「ススムちゃんが優勝してよかった。足は俺より強力やった」と自分のことのように喜んだ。
 野中は松本と第1前検日の前から博多に入り、ゴルフにネオン街と、2人で気合? を入れていた。ところが松本は「55sまで減量したのに野中と飲み食いして、第1前検日には59sに増えていた」そうで、開催中は牛乳とかき氷で減量。選手食堂で北原友次が豚骨ラーメンにご飯を食べていても「(太らない)体質だから」と気にしない。松本は「優勝戦では55sを割っていた」と、そんな苦労が実った初タイトルだからこそ、野中も満足感でいっぱいだった。
 表彰式で笹川良一会長が「立派なヒゲだね。ヒゲに負けんように」と激励した。この夜、中洲で野中に北山二朗、中道善博、村上一行らが朝まで松本の優勝を祝った。翌朝、松本は「ほれ、一晩で4sも増えた」と、おどけながら、改めて優勝の実感にひたっていた。
 野中の描いた史上初のダービー連覇は消えたが、この後も年末まできっちりとこなし、昭和52年は勝率8・52で8・46の彦坂郁雄を上回り、「最高勝率選手賞」の連続受賞で締めくくった。