【151】〜【161】我が中野浩一
【151】平成20年1月8日(火曜)
 例年通りに帰国第1戦は「オールスター競輪」だ。平競輪での「第26回オールスター競輪」は、世界選V7男・中野浩一も引き立て役になった。積年のライバル菅田順和のビッグ初Vをアシストしたのだ。別に引っ張ったわけではないが、結果的に中野のバックまくりを追った菅田が差し切った。
 「長い間、おさわがせしました」
 ヒーロー菅田は実感のこもった挨拶をした。16回目の特別決勝戦、中野よりも早く“世界の…”と言われながら、大きく後れを取った。それが地元地区の平で、まさしく男になった。「いつも焦っていた。でも、それを考えると腹が立つので極力、考えないようにしていた」と菅田は苦しい胸の内を初めて打ち明けた。
 菅田が向こう正面で中野の手を取りに行くと、中野は静かに振り払った。「後ろが久保(千代志)さんとばかり思って安心していたのに」と悔しそうな顔をしたのだ。それでも菅田の喜ぶ姿を見て「菅田さんはボクとラインを組んでいれば、もっと早くタイトルを取れていたし、2つや3つは可能だったんと違うかな」と祝福した。
 2着とはいえ、中野は驚異的な稼ぎを続けている。この時点では選手生活最高のペース。ダービー2着、高松宮記念杯3着、オールスター2着と、無冠でも稼ぎは3度目の“1億円”へ秒読みだ。
 オールスター競輪から11月の競輪祭まで、中野は4場所の斡旋があった。そのいずれもの施行者が“V7表彰”と銘打って、ファン集めに精を出した。車券を知らない人はもちろん小さな子どもも金網越しにみかけるようになった。

【152】平成20年1月9日(水曜)
 競輪祭を前に、中野浩一は好相性の岸和田競輪「開設34周年記念」前節(58年10月31〜11月2日)で初日特選を快勝の後、準決勝で落車、全治20日のケガを負った。
 最終ホームで中野の前に入った村岡和久の後輪と接触してバンクに叩きつけられた。右肘、右大腿、下腿部を包帯でグルグル巻き、ヒジからは血がにじんでいる。救急車の中で顔をしかめる中野。心配そうに駆けつける各選手。“大売り”を当て込んだ施行者も一枚看板の落車(最終日欠場)でアテがはずれた。
 「ヒジの曲げるところが4aぐらい割れている。骨が見えるもん。次の一宮? あかん。競輪祭(11月18日から)に間に合うやろか。そやけどヘタなハンドル捌きやった。痛いよ〜」
 1着は同枠の井狩吉雄が入り、ファンへの影響はなかった(当時は枠単)。「よかった。迷惑をかけなくて…。せめてもの救いですね」と着順確定後はホッと一息。しかし“1億円”は競輪祭優勝まで持ち越しとなった。
 オールスターの後、静岡記念23A着の準決勝で4番手まくり不発の4着(繰り上がり3着)、京王閣記念11G着では初めての9着(繰り上がり8着)、そして岸和田の落車。悪霊? にとりつかれたように予期しないことが、次々と起こった。
 「別に気にしとらんよ。勝てんときもある。それより失格覚悟で攻められてはかなわん」
 京王閣で山口健治に芝生の側まで押し込まれ“受け身”の辛さを味わった。

【153】平成20年1月10日(木曜)
 ファンの支持率が高い中野浩一、まさか失格行為の競走をできるわけがない。
 「そうなんよ。人の弱みにつけこんで…。まあ、ボクはファンが満足のいくレースをすればね。ケガ、もう大丈夫や。岸和田のあと4日ほど休んだだけで、いつも通りの練習はこなしている。ヒジ(4針縫う)もしっかりしている。競輪祭もガーっと攻めていくよ」
 3度目の1億円まで約900万円。通算400勝へあと4つ。58年の目標を成就するには、競輪祭での完全Vが条件だ。
 前検日の前日、16日は博多にゴルフのクラブを買いに来た競艇の野中和夫と合流して大相撲九州場所を観戦。夜は歌手の山本譲二も交え、中洲で旧交を温めた。
 「14日にゴルフをしたけど右ヒジも気にならなかったよ。急ごしらえだから、あとは疲れが出ないかが心配だね」
 小倉競輪の「第25回競輪祭」は18日が初日。出番は2日目で、雨の降る前検日がローラー練習だけだから、“休養日”の初日はグランドでたっぷり乗り込める。同一タイトルで史上初のV4と1億円奪取へ、中野は調整にぬかりがない。
 2日目のドリーム戦で中野がスタートを決めた。井上茂徳が「中野さんがスタートを決めた? フーン」と不思議そうな顔。そりゃそうだ。中野は年に数えるほどしか“S”の印がない。
 「ねらっとったもん。Sの印を入れなあかんよ。(内枠なら)行くんよ」と口数の多い中野。そして梨野英人の先行を目標に、菅田順和のまくりを3角でブロックして快勝。あっさりと不安説を吹き飛ばした。

【154】平成20年1月11日(金曜)
 3度目の“1億円”へ王手をかけた中野浩一。二次予選はまくりで勝ち、準決勝は目標の岸本元也が不発、外併走から吉井秀仁の先行をまくりきった。伊藤浩に差されたものの、好ムードで小倉競輪「第25回競輪祭・全日本競輪王決定戦」の決勝戦(58年11月23日)に乗ってきた。
 「400勝は広島まで持ち越しやし、1億円も意識はしないよ。取れればいいけどね。前を(佐々木昭彦に)任せてもいい」
 決勝戦のメンバーは@高橋健二A佐々木昭彦B藤巻昇C佐古雅俊D中野浩一E高橋美行F滝沢正光G佐藤正人H伊藤浩の9人。佐古と伊藤はスタートを決めれば中野マークへ。佐々木も「井上さん(茂徳=準決勝で落車)が居ないのなら中野さんマークはボク」と話していたが、中野は「誰がスタートを取っても入れてくれそうだ。佐々木とは朝練習の気合を見て、行けると思えば任せる」の考えだった。
 スタートは9番車の伊藤が決め、佐々木―中野―伊藤で前受け。中団に高橋兄弟。佐古は東日本勢の滝沢―藤巻の後位を選択。佐藤がこの後ろ。滝沢が上昇すると佐々木はイン粘りで藤巻を競り落とす。佐古がまくりあげたが、佐々木の横まで。中野はじっくりと足をためて、7番手から内をついて突っ込んできた高橋美の“頭突き”も封じて、一気に抜け出した。
 特別競輪の優勝回数は7回。高原永伍(10回)、中井光雄(9回)に続いて史上3位となった。同一タイトルでは史上初のV4、競輪祭では新人王を含め5回目の優勝となった。獲得賞金も1億353万200円で“賞金王”の座も奪回した。

【155】平成20年1月12日(土曜)
 暮れなずむ小倉競輪場のスタンドは、中野浩一がゴールの瞬間と同時に地響きが起こるぐらいの歓声に包まれた。もちろん本人は右手を高々と突き上げた。
 「レース前から落ち着いとったやろ。緊張感がなかったもん。そやけど4コーナーから意外に伸びんかったなぁ。まあ、調子が悪くて優勝だから。よし! とせな」
 初めて“1億円”に達した松戸競輪場(55年)でも“中野フィーバー”で沸き返り、一人のファンがバンク内へ降りてくるほどだった。この時も「同じ1億なら勝って達成したい」と肝に銘じていたものだ。
 「1億は別に意識しなかった。ただ、賞金王は奪回するために走ってきた。プロで一番強いのは稼ぐ選手ですよ。昨年は惨めな思いをしましたからね」
 後輩の井上茂徳が競輪王を手に入れた昨年。競輪関係団体は“努力(井上)が素質(中野)を超えた”のフレーズを宣伝材料につかった。カチンときたのは中野だ。そのポスターを見たときから、この日の来るのを待っていたのだ。
 「だってそうでしょう。素質だけで勝てるわけがない。よーし、賞金王は絶対に取ると決めた」
 年頭から順調に歩み、記念9回、TR1回、競輪王を優勝、名実共にbPの座を両の手に取り戻した。世界選ではV7の新記録。レースの合間にはテレビ、雑誌のインタビューが殺到。
 「年末、年始は芸能人並みですわ。これからも年に1回はタイトルを取らんとね。忘れられますよ」。体をオーバーホールすることもできない。が、世界のスーパーヒーローは、ファンが期待する限り東に、西に顔を出す。

【156】平成20年1月14日(月曜)
 競輪祭優勝の余韻に浸ってる間もない。 “あと1”と迫った400勝へ、12月は広島記念、佐世保記念でレースが続く。その間に、マスコミ攻勢だ。
 スケジュールを紹介してみるとー11月29日ボクシングの渡辺二郎選手と大阪で対談、30日週刊誌インタビュー、ボートレース彦坂郁雄選手、オートレース飯塚将光選手と対談、スポーツウエアのデサント社パーティー出席(いずれも東京)、12月4日プロ野球運動会(横浜球場)、5日プロ野球の“名球会”ゴルフコンペ(千葉)、7日オールスター歌の球宴(東京)、13日アップダウンクイズ(シルエットゲスト=大阪)、20日番組対抗ものまね合戦(東京)、21日オールスター歌謡大賞(東京)etcと多忙だ。
 それでもレースで手抜きはできない。まず広島記念で初日に通算400勝を達成。決勝は4着に敗れたが、11C着の好走だ。最後の佐世保記念は3連勝の完全優勝で、締めくくった。
 「世界選のV7と1億円、それとビッグレースの優勝に400勝と、今年は目標を達成できて、良かったと思っている。すべてのスケジュールが終われば、やっとゆっくりできる」
 年の瀬から新年にかけてハワイで過ごす。稼いだ“1億円”も、この年限り。翌年は、また一からの出発。プロ野球選手のように年俸制ではない。成績が悪くても最大25%のダウンしかない野球選手。うらやましくても、中野の選んだ道は“賞金稼ぎ”のギャンブルレーサー。オフが無くても、やっとオフを取れる選手になったのが中野だ。
 素質の持ち主が努力をして、さらに光り輝いた58年。中野は満足感を味わって、選手生活10年目へ向けハワイでリフレッシュする。

【157】平成20年1月16日(水曜)
 59年の幕が開いた。中野浩一は50年4月のデビューだから10年目。世界では7連覇の偉業を達成した実績も、競輪の世界では通用しない。実力の世界は、すべてイチからの出発だ。
 「選手になったときから、前年を上回ることを目標にしてきた。落車ですべてがダウンした時(昭和57年)は情けなかった。だから、目標設定を下げるわけにはいかない」
 暮れから仲良しの矢村正や江崎広重とハワイでオフを楽しんだ。1月3日に帰国後は4日に初乗り。翌5日と合わせて180`を踏み込んだ。6日の“オールスターチャリティーゴルフ”に出場するため、13日からの立川記念をにらんでのハード練習だ。
 「こんなに乗ったのは今までにないでしょうね。足はパンパンに張っているけど、ゴルフで2日間抜けるし、ちょうどいいと思う」
 競輪祭を取ってからのフィーバーぶりで、約40日間は満足な練習をしていない。いくら“蓄積型筋肉”でも、不安があって当然。遊んで? ばかりでは置いてけぼりにされてしまいかねない。
 「バンクへ出たのは8日から。練習しないで勝てるほど甘い世界ではありませんからね。戦える脚をつくらないと」
 新年第1戦は立川競輪「開設32周年」前節。いきなり苦戦だ。初日はアウトから競り込まれたとはいえ3番手から伸びずに2着。準決勝は7番手からまくって出たが張られて不発、そして落車だ。幸い擦過傷ていどでホッとしたものだ。
 「今まで転んでも骨折をしていないし、大きなケガにはなっていない。丈夫に産んでくれた両親に感謝です」
 年頭からの落車だが中野は気落ちするタイプではない。すぐに立ち直った。

【158】平成20年1月17日(木曜)
 日本列島は寒波に襲われていた。中野浩一の住む久留米市も雪に見舞われ、練習もできない。立川記念での落車に加えて雪害での練習不足。それでも玉野競輪「開設33周年記念」後節への出走に踏み切った。
 「条件は誰も同じ。ボクは練習できないときは休養にあてるし、頭を切り換えてますよ。要は集中ですから。ただねぇ、雪はゴルフに行けないのがつらい」
 玉野は51年8月2日に初めて記念優勝を飾った思い出のバンク。一般戦(11@着)を含め、54年の記念も21@着で優勝と、好相性だ。売上低下で悩む地方の小さな競輪場でも、中野のファンは多い。スタンドから熱い視線で快走を期待していた。
 「ボクのレースを見に来てくれるのはうれしいですね。今の力を出し切ってファンも納得する競走をします」
 初日は2着に敗れたが、準決勝、決勝をあっさりと白星。59年の記念初Vを手に入れた。もちろんスタンドのファンも納得顔だった。
 玉野へ出発前の18日、九州地区の58年度優秀選手の表彰式があった。この席上で、中野は「世界選のV8を目指すのもそうですが、今年は高松宮杯を取ってグランドスラムを達成したい」と抱負を語った。V7の後、V8への挑戦を口にしていなかったが、59年の目標に「V8」は欠かせないものとなった。
 そんな気持ちに固まったのは、ボクシングの世界チャンピオン・渡辺二郎選手から「世界選に出ないで他の選手が“オレがチャンピオンだ”と叫ぶのを、じっと黙ってみてられますか?」と問われ、中野は「ウーン…」と黙ってしまった。
 プライドの高い中野、渡辺選手の言葉で歩むべき道を誤らなかったのは当然だ。

【159】平成20年1月21日(月曜)
 世界選への動きはまだまだ先だが、この頃はダービー出場を目指すTR戦が関心事だった。中野浩一も特選シード権を取るのに躍起だ。まして寒波が何度となく襲来、体調管理も難しい。ちょうど熊本TR15@着で優勝のあと、一宮TRまでに声がガラガラになった。
 「熱は出ないけど、扁桃腺が腫れて…。こんなの初めて。(レースを)休めないし、苦しいですわ」
 競輪場の医務室で注射を打ち乗り切った。それでも決勝戦では5番手の滝沢正光にまくられ、絶好の2番手も“ハコ4”の惨めさを味わった。とにかく12C着で1、2回戦の合計が102点で6位。特選シード権は手にした。
 千葉・ダービー前には奈良、西宮の両記念が待っていた。連続優勝で、スカッとダービーへ挑むつもりだった。
 まず奈良競輪「開設33周年記念・春日賞」後節決勝戦(59年2月28日)で、2着に甘んじた。佐久間重光の先行に付けた中野が8番手からHSまくりで挑む滝沢正光に合わせて2角まくり。必勝パターンだったが、内を突く安福洋一、外へ踏む伊藤浩に抜かれた。
ゴール後は「(安福が内線を)切ってるやろ。内を開けとらんもん」と、繰り上がり優勝を信じて疑っていなかった。が、安福が失格でも伊藤にもタイヤ交わされていた。
 「弱いなぁ。抜かれるとは…。まあ仕方ないか。初優勝やろ、伊藤は。これしか言えんもん」と、中野の口からはタメ息ばかりが聞こえてきた。
 安福は“幻の優勝”で、以後、地元記念を勝てないまま。無念、残念の1着失格だった。そんな悔しさも西宮競輪「開設34周年記念」後説(3月7日)を3連勝で晴らし、千葉・ダービーへ乗り込んだ。

【160】平成20年1月22日(火曜)
 なんとも情けない結果に終わった。千葉競輪の「第37回競輪ダービー」の決勝戦(59年3月20日)に臨んだ中野浩一。2度目の“日本一”に向けて、余裕たっぷりに現れた前検日(15日)と違って、戦うにつれて自信を失っていった。
 初走は清嶋彰一に敗れ、ゴールデンレーサー賞は国持一洋との競り合いに敗れて8着。準決勝は滝沢正光に前を任せて3番手。直線勝負で滝沢を抜けずに2着。3人制のスプリントと同じスタイルで、世界選V7男は、スピード負けしたのだ。
 未勝利のまま決勝に乗ったのは、初めてダービー王に輝いた56年と同じ(252@着)。場所も千葉。最後に笑えばいいと思っても、周りは“フラワー軍団”がズラリ。東日本は滝沢を始め山口健治、吉井秀仁、菅田順和、清嶋、大橋秀人の6人。西日本は中野に井上茂徳、梨野英人の3人だ。中野―井上は史上最強のコンビでも、菅田を交えたフラワープラスワンは強力すぎる。大橋も味方だ。
 中野らは菅田―山口にフタをされ、ジャンの鳴った3コーナーで清嶋―滝沢―吉井が一気にスパートした。中野も巧みにスイッチしたが、山口にブロックされ、菅田のフェイントにあって足が止まった。それでも内から3番手の吉井に攻撃をかけたが、またしても山口、菅田の“いじめ”にあって抜け出せなかった。
 井上が自力でまくり上げたが、2番手の滝沢は井上に合わせるように4コーナー手前から清嶋を交わしてゴールへ。初めてビッグタイトルを獲得した。 中野は井上の位置を確認しながら、最後は吉井をはねのけて踏んだが時すでに遅かった。結局282E着の成績。吉井に次いで滝沢と千葉では天敵が多すぎた。

【161】平成20年1月23日(水曜)
 陸上競技でオリンピックを目指していた中野浩一が競輪選手になって、世界のチャンピオンに輝いた。国内でもタイトルを獲得するなど、いわば“適性組”の先駆者なのだ。競輪界が新しい血を導入したのが40期生から。その第1号が清嶋彰一。43期の滝沢正光も清嶋と同じバレーボールからの転向組だ。
 中野が松田隆文というアマのエリートに牙を剥いて練習に励んだのと同じく、清嶋も滝沢も“技能組にまけるな!”と猛練習を積んだ。そして清嶋―滝沢の連係の前に、中野は千葉ダービーで屈した。
 発走台上の中野に向かって「中野、苦しいなぁ」とスタンドから同情の声が飛んだ。思わず中野は苦笑いを浮かべた。誰が考えても中野が勝機を見いだすのは難しい。それでもファンは中野―井上を一番人気に支持。決まれば配当は840円だが、2着が井上以外なら4桁配当ばかり。信頼度は低かった。
 好位置キープなら勝つ確率も高くなるが、フラワー軍団の“中野包囲網”を崩すのは容易ではない。さらに、タッグを組む井上の動向を見極めながら、フラワーに立ち向かった。井上がまくりを放つのを待って吉井をはねのけたのも、早ければ落車事故につながったかも知れない。
 「強引に張れば事故になるかも知れなかった」
 中野は自分が勝てない場合は井上の優勝を願っていた。心は常に「九州は一つ」だった。
 パワータイプに弱い中野を露見した千葉・ダービー。その後、清嶋にも、滝沢にも、苦しめられることになった。“適性組”の持つパワーは、中野がパンチ力で輪界を、世界を席巻した時よりも、さらに競輪向きの強力な馬力を秘めていた。