◆102〜111◆ちょっとした思い出
【102】平成20年7月23日(水曜)
 初めて鈴鹿サーキットでロードレースが開催されたのは59年5月9日。第31回全日本プロ自転車競技大会のロード競技だった。午前9時から三重県鈴鹿市の鈴鹿サーキットコース(1周6`)で約500人のファンを集めて行われ、全国8ブロックの精鋭79選手が日ごろの“脚自慢”を競いあった。
 優勝したのは18周目から4人の先頭グループの中に入った田村幸男(岩手52期)で、ゴール手前400bあたりからハナに立ち、必死で猛追する川野信一郎(大分52期)を2分の1輪おさえてチャンピオンの座についた。2連覇をねらった藤並克則(大阪51期)は16周目に入った下り坂で先頭を奪ったが左足をケイレン、22位に終わった。
 残り3周でスパートをかけたのは田村、川野に野口信次、佐藤公二の4人。前団で頑張った渡辺久哲、井狩吉雄らはアッというまに400bひど引きちぎられた。
 「完走するのが目標。笑われないように、一生懸命走った」
 “無欲”の田村は、栄光のゴールを先頭で通過できるとは思っていなかった。4人が先頭を交代、最後のトップは田村が努めた。同じ岩手で、同じアパートに住む佐藤が「オレはいい。田村が優勝すれば…」と、川野、野口を直線半ばで大きく牽制。「アレッ、オレが1着? 」と田村は“まさか!”の優勝。佐藤の援護が、田村を優勝へ導いた。
 「先頭に立ったとき、4着だな、と思っていた。佐藤君のおかげですね。うれしさより、夢を見ているようです」
 デビュー9ヶ月後で、でっかい“勲章”を手に入れた田村。岩手県立平舘高校時代は、アルペンスキーで国体に出場。西根中学時代の親友・田村康則(47期)が競輪選手になったのを知り「ヤスノリにはスポーツで負けたことがなかった。だからオレもやれる」と“適性組”で輪界入りした。
 ◆ロード競技成績◆(120`)
 @田村幸男(岩手52期)3時間06分53秒64A川野信一郎(大分52期)3時間06分53秒75B野口信次(広島51期)3時間06分53秒82C佐藤公二(岩手50期)D井狩吉雄(滋賀35期)E柳原利弘(福井43期)F渡辺久哲(大阪46期)G福島猛寿(群馬49期)H稲垣勝弘(埼玉46期)I野呂尚(三重46期)

【103】平成20年7月29日(火曜)
 「第35回高松宮杯競輪」(びわこ競輪=59年6月5日)で優勝したのは九州第3の男・佐々木昭彦(佐賀)だった。全冠をかけた中野浩一、井上茂徳は山口健治のラフプレーにあって最終ホームで落車。逃げる片岡克巳―国松利全を分断した佐々木が、番手奪取から一気に差し切って、初のタイトルを手に入れた。
 高松宮殿下の手から直接、カップを渡された佐々木。「とにかく悔いの残らないように戦うだけ」だったのが、勝利の女神はいつも前で苦労してきた佐々木に微笑んだのだ。
 「ビックリしました。こんな展開になるなんて」
 連番E―Eで1万20円の大穴。勝利インタビューのマイクで、スタンドのファンに「ボクが勝ってご迷惑をかけました。でも、ボクを応援してくれたファンの人、ありがとうございます」と複雑な心境の挨拶をした。
 落車した井上はキズの手当をせずに佐々木のところに駆けつけ「おめでとう」と手を握った。「ゴメンね。ボクが優勝して」が佐々木の言葉だった。一瞬、意識を失っていた中野は「昭彦はどうやった? 優勝した? よかった」と喜んだのも束の間、ベッドに横たわった。
 「中野、井上さんを引っ張る」の佐々木が前で受けた。片岡―国松に山口が続いて上昇すると、佐々木は突っ張った。最終ホームで佐々木が番手勝負に出ると、中野の横に並んだ山口がハンドルめがけて一撃。これで中野、井上に藤巻昇までが転んだ。こんなアクシデントをしり目に、佐々木は番手を奪い、再度、中を突っ込む国松を封じて優勝を飾った。
 佐々木の父・八郎(56年に引退)が競輪選手だった影響から、昭彦をはじめ兄・和徳、弟・浩三と、3兄弟はみんな競輪選手。昭彦は武雄高1年から自転車に乗り、恩師・光竹則秋先生は昨年10月の結婚式で仲人の労をとってもらった。妻の聡子さんは同級生で、結婚後に記念を6本(結婚前は5本)優勝するなど大飛躍。「いい妻です」とのろけもちょっぴり。
 ユニホームを脱ぐと、シャツの背中に“無敵神飛砲”の文字。小幡政義(福岡31期)が書いてくれたそうだ。種子島の火縄銃につけられた名前で「ドーンと飛んで行け」という意味だ。まさに九州の鉄砲玉が、競輪界にどでかい号砲を鳴らしたのだ。

【104】平成20年8月5日(火曜)
 59年9月の西宮競輪「第27回オールスター競輪」開催を前に、落語家・月亭八方の「競輪は楽しいで」を特集面に掲載した。その内容を2回に分けて紹介します。
 ◆月亭八方=◆
 今年も、あの中野浩一が前人未到の“V8”を成し遂げた。ちょうど世界選手権のスペイン(バルセロナ)へ出発する前日、奈良での強化合宿が終わった中野以下世界選出場の選手達や関係者の皆さんと会える機会があった。
相変わらず元気な中野の姿を見て“V8間違いなし”と思いながらも、時折Tシャツからニョッキリと出ている丸太棒のような腕にケガの痕。勝利、栄光の副産物にしてはごつい痛そう。
 そういえば平川善一郎にもちょくちょく会うが、彼らも腕や脚の傷はたえまがないとのこと。ましてや転倒を怖がっては勝負にならず鎖骨を折って入院ちゅうのはほとんどの選手が経験するらしい。
 「競輪選手は稼ぎがええでー。今度、生まれ変わったら競輪選手にでもなろ」なんて、あの傷を見てたら、とても言えたもんではない。
 連日、各地で熱戦が繰り広げられてはいるけど、20日からの西宮でのオールスター戦、だれが優勝するにしても、一人も落車事故のない事を祈りたい。
 何年前か忘れたが、西宮の全国都道府県選抜競輪の優勝戦、高原永伍VS平間誠記。高原の逃げ切り。この日が、ボクが初めて競輪場へ足を運んだ記念の日や。最近は仕事が忙しくて競輪場へ行かんようになったけど、その昔はちょういちょい行ったもんで、岸和田、びわこ、甲子園、わずかのお金を持って一日競輪場で時間を過ごした。
 あんまり勝った記憶はないけど、向日町で選手の名前も忘れたけど、行くなり7レースで6―3、3−6の折り返し2千円と3千円の2点張り。スジ違いで7千なんぼかの配当。20万円からの大金を手にして、あわてて帰ったときもあったけど、あと勝って帰った日はなかったんとちがうかな。
――――へ続く

【105】平成20年8月6日(水曜)
 ◆月亭八方=◆
 当時の第一人者といえば若手で伊藤繁、同じ神奈川の吉川多喜夫。たしか、その吉川、岸和田のオールスターかなんかで二周トップを引いて、そのまま逃げ切ったんを見たなぁ。
 群馬の稲村雅士、木村実成、新人・福島正幸(この福島も今では引退してしまった)のスジ車券は見向きもせず、迷うことなくヒモ買いと決めて勝たしてもろた選手が稲村雅士。好きな選手やったなぁ。
 でも、競輪そのものも楽しい。あのスタートの号砲で番手取りから一列に並んで、虚々実々のかけひき。鐘の音とともにバンク一杯使って、最後の力をふりしぼってゴールへなだれ込む。何とも言えんなぁ。なかなかやめられんわぁー。
 そういえばチャンバラトリオの南方英二さんも東映時代よう(競輪を)やった言うてはりました。
 ところで、競輪選手の名前カッコよろしいなぁ。すべて本名やねんてなぁ。平間誠記―ヒラマセイキてな名前、どっから聞いても、見ても役者の名前やで。
 木村実成(キムラミナル)、石田雄彦(イシダユウヒコ)も。最近の菅田順和、佐々木昭彦、中野浩一なんて普通の名前やけど、強いからかしらんけど、カッコええよう聞こえまっせ。
 最後に中野君、V8の祝賀パーティーの招待状もろたけど、会場が東京やからよう行かなんだ。サンスポの紙面を借りてお祝い言うとくわ。
 「おめでとうさん。ええ嫁はんさがしたる!」
 選手は足で勝って
     稼ぐ競輪
 お客さん頭で勝って
     家にケイリン
                (八方)

【106】平成20年8月12日(火曜)
 月亭八方さんの「競輪は楽しいで」の前打ちで盛り上げ、西宮競輪「第27回オールスター競輪」開催中は「男の一番」として、注目選手を取り上げた。その一部をー。
 ◆菅田順和(宮城36期)◆
 “強い菅田”をファンは知らなかったのか。中間発表で第13位、最終発表は第10位だ。昨年のオールスター男が、ドリーム戦からもれてしまった。
 「今年の前半が悪かったからねぇ。期待されて、ぶざまな負け方をしていたからかな。しょうがないねぇ」
 競輪場を持たない宮城県。ファン投票は“全国区”の顔が必要だ。中野浩一に対し、菅田は輪界を背負って立つ東日本の看板。夢のレースなら、ぜひとも出走させたかった選手だ。
 「過去に2回、ドリーム戦を勝っているんですよ。でも“選抜”なら、条件はそんなに変わらない。体調もいいし、調整もうまくいったと思いますよ」
 オールスターは9回目の出場。決勝には6回コマを進め、昨年の平で“初栄冠”に輝いた。
 「連覇は意識していない。それより4回(6日間で)しか走れないのだから、一戦、一戦を大事に戦っていく。ポカが多いので、それに気をつけないとね」
 7月30日の前橋記念決勝で7番手から強烈なまくりを決め、10秒9のバンクレコード。2着の尾崎雅彦は口をあんぐりさせるだけだった。
 「久しぶりのバンクレコード。気持ちが良かったね。小回りは前、前へ攻める。先行を主体にね。7番手まくり? それは危険」
 初日は11R選抜予選に登場。敵は多くても、国持一洋と二人で果敢な攻撃をかける。
 結果は9秒6の豪快なまくりをきめ、国持とワンツー決着だったが、二次予選でまくり不発、準決勝に進めなかった。

【107】平成20年8月20日(水曜)
 「男の一番」◆片岡克巳(岡山42期)◆
 剣が峰だ。といって焦燥感はない。清嶋彰一の欠場で、選抜予選に繰り上がり、西谷康彦、国松利全とともに“6着権利(二次予選へ)”を目指した。が、4着失格で、きょう10Rの敗者復活戦で再び勝負をかけることになった。
 「失格になったけど、別に気にしていない。敗者復活戦でも、勝つ自信があるからですよ。よく踏み込んできたんだから、負けるわけにはいかない」
 敗者復活戦は2年前の高松・オールスター競輪で経験。このときは選抜1着失格、そして2着に敗れたニガい思い出がある。
 「あの時は、あせっていた。今回は、違いますよ」
 そう、高松宮杯の決勝で逃げ、3着に粘り込んだのが、有形無形の自信につながってきたのだ。
 「表彰台に立った気分は格別でした。自力で3着に入ったんですからね。今回も決勝戦に乗って、もう一段上に立ちたい」
 オールスター後の27日に岡山東急ホテルで中奥理枝さんと結婚式を挙げる。人生の分岐点にさしかかり、さらに充実しきった選手生活を送るわけだ。
 「今は式のことを考えない。ヤッさん(西谷康彦)も二次予選に進んだし、ボクは先を越して準決勝へ行きますよ。先行を主体に攻めて行く」
 鳥取方面へ連日の遠乗り。苦しい踏み込みをやってきた。「ここで負けたら男じゃない」と“1着取り”に闘志をこめる。
 片岡の晴れ姿を楽しみに待つ理枝さんのためにも、正念場で“男の意地”を見せるつもりだ。
 結果は1周をかけてまくり切ったが、S取りから片岡にマークした桑野治行に差し切られ、2着に終わった。


【108】平成20年8月23日(土曜)
 「男の一番」◆滝沢正光(千葉43期)
 “初体験”のドリーム戦。力を出し切れずに敗れた。ファンにとって、モノ足りないレースだった。その点は、じゅうぶん反省している。
 「せっかくドリームに選んでもらって、名にもできないなんて…。ちょっとあせっていたんですね」
 吉井秀仁―滝沢―山口健治で抑えて出たドリーム戦。前で待った高橋健二―久保千代志が早めに車を下げたため、滝沢―山口―吉井と入れ替わった“フラワー”の必勝作戦は中野浩一に崩された。滝沢は中野に飛び出され、さらに高橋の追い上げにあってダウン。
 「(中野に)うまくとられましたね。下げて4番手、そこに高橋さんが来たでしょう。もう内を突いて行くしか考えられなかった」
 前走の千葉記念(11B着)も内に詰まって惜敗。そして今回も…。“怪物クン”のイメージも薄れがちだ。
 「内はダメですね。二次予選から出直しです。中途半端にならないように思い切っていきます。力を出し切らないと悔いが残ります」
 “休養日”の3日目。早朝練習の時間(25分間)をフルに乗り込んだ。それも外バンクを、じっくり踏みしめるように…。流れる汗で悪夢をぬぐい去った。
 「ええ、制限時間まで乗ってました。普段の開催なら、きょう(3日目)が前検日でしょう。あと3日間、先のことを考えるより、まず二次予選で汚名を返上します」
 3月の千葉ダービーで花を咲かせ、感涙にむせんだ滝沢。パワフルな先行は“日本一”の折り紙つき。豪快発進で二次予選を突破か。
 結果は打鐘前の2角から早逃げに出て、藤巻昇に差されたが、準決勝へ進出。準決勝では中野を8着に沈めて決勝入り。決勝も吉井秀仁の優勝に貢献した。

【109】平成20年8月25日(月曜)
 「男の一番」◆藤巻 昇(北海道22期)◆
 打鐘で一気に駆けた滝沢正光。後位には“おじさんレーサー”藤巻がぴったりつけていた。小回りで、短い直線。それでもググッと踏めば、ズブリと差しきった。ドリーム9着のウサを晴らし、準決勝へ名乗りを上げた。
 「滝沢君が早めに行ってくれたからねぇ。それに、いい位置を回れるもんだから…、何かウソがあるんじゃないかと心配した。これで(ファンに)ドリームでの借りを少しでも返せたかな」
 中野浩一に次いで2位の高得票。36歳の年齢を感じさせない若々しさが、ファンの共感を呼んだ。いや、常にハッスルプレーを見せる闘将に“まだやれるぞ!”の期待がこめられているのだ。
 「2位と知らされたときは、うれしかったねぇ。もうダメだと思っていたからね。さらに意欲がわいてきますよ」
 北海道から堂田将治、中村吉幸も二次予選をクリア。今大会には総勢6人でのぞんできた。彼らヤングと函館で手合わせしても、強いのは藤巻だ。
 「(体をさわって)中年太りじゃないよ。ウエートトレーニングのおかげ。(報道陣に)皆さんが“もうすんだ”と考えているだけで、まだまだ強いですよ」
 さあ、難関の準決勝戦。ここでベテランの味を思う存分発揮だ。レース運びはクレバー。展開をヨムのは実にうまい。
 「もう、あまりチャンスはないだろうし、無欲のつもりで(3着までに)何とか入りたいね」
 二度にわたる“難病”を不屈の精神力で克服。勝か負けるかは時の運。男・藤巻が燃えるのは、この一戦だ。
 残念ながら決勝戦には乗れなかった。それでも翌年の一宮・オールスター競輪(高橋健二がV)では決勝4着、平成元年の静岡・オールスター競輪(坂本勉がV)でも決勝5着と、ファンが選ぶオールスター競輪では常に活躍した。そうそう、藤巻が初タイトルを手にしたのも51年の前橋・オールスター競輪だった。

【110】平成20年8月27日(水曜)
 西宮競輪の「第27回オールスター競輪」決勝戦(59年9月25日)は、吉井秀仁(千葉38期)が必殺のまくりを決めて、競輪祭、日本選手権に続いて3つ目のビッグタイトルを手に入れた。
 中野浩一が準決勝で敗れ、決勝戦はフラワー勢が有利な流れになった。快晴の空が、決勝戦に前に曇り始め、午後4時25分、西宮球場のカクテル光線が灯り、クライマックスにふさわしい舞台となった。
 スタートで1号車の井上茂徳が前を取り、佐々木昭彦―井上―北村徹が前を固めた。中団に細川忠行―竹内久人、後方に増子政明―滝沢正光―吉井―山口健治が控えた。フラワーは増子がイン切りに出て、さらに滝沢が叩く。
九州勢はインに封じ込められた。と当時に細川―竹内が一気にカマした。慌てて滝沢が追っかけ、まくりにかかるが竹内の牽制にあってダウン。その時、吉井は1センターで竹内の内に切り込み、そのまままくって行った。浮いた竹内もまくって出るが、吉井と勢いが違った。山口が続き、切り替えた井上も中を割りかけたが、山口がきっちりと内を締め、吉井の優勝に貢献した。
 「滝沢が出切れば当然だけど、たとえ行けなくても竹内選手が出るだろうし、どっちみち“2番手回り”ができる、そう思った」
 吉井は勝因のひとつにフラワー軍団の団結をあげたが、もうひとつ自分の冷静さ、平常心で走れたことを強調した。
 「3月の千葉ダービーで勝負をかけたけどダメだった。オレの実力もこのへんだな、と思っちゃった。それから宮杯も今回のオールスターでもあまり勢い込まなくなっていた。一戦、一戦を大事に走ることだけを肝に銘じて走った。その分だけ、余すところなく力を出せたと思う」
 ヒーローインタビューは55年3月の前橋ダービー以来、実に4年ぶりの美酒。その感想を聞かれた吉井は「そうですねぇ“伝説の人”になっていましたね」と言って照れた。この4年間、なまけていたわけではない。先輩として若手選手はもちろん、小門洋一(神奈川49期)ら他県のヤングも自宅に呼び寄せて、一緒に汗を流すこともしている。
 「そうですね。これからも勢いこまずに“脇役”で走っていきます。それでビッグタイトルが取れれば言うことないです」
 そんな吉井を滝沢や斎藤修、菅谷幸泰の43期生が選手管理塔の裏庭で1回、2回、3回と秋空へ放り上げた。嬉しい一瞬だった。

【111】平成20年9月16日(火曜)
 第26回競輪祭の「第22回全日本新人王決定戦」の決勝は59年11月25日の4日目に行われ、荒川博之(栃木49期)の先行に乗った小門洋一(神奈川49期)が桜井邦彦(大阪50期)のまくりに合わせるようにBSまくりを放ち、優勝した。
 小門はタオルでそっと目頭を押さえた。右手を高々と上げ、敢闘門へ引き上げて来たときだ。ゴールの瞬間から、ジーンと熱いものが胸の中に…。プロ入り後、初めて味わうタイトルの美酒に、思わず涙腺がゆるんだのだ。
 「叔父(小門道夫=A1)もそうだけど、ボクを精神面で指導してくれた、たくさんの人に、ちょっとでも恩返しができた。両親と離れて(実家は埼玉県浦和市=現さいたま市)住んでいるボクを、いろんな人が支えてくれました」
 帝京高校時代はサッカーで全国制覇(55年)。センターフォワードで活躍した。サッカーにはプロが無い。叔父を頼って、競輪選手を目指すことになった。デビュー前から、マスコミはサッカーから転向の小門を追っかけた。
 「(自転車は)素人なのに、人気が先行して…。今までは勝ってやろうと意識したが、やっと落ち着けるようになった。だから決勝戦も冷静だった」
 本田晴美(岡山51期)、野原哲也(福井51期)に桜井邦彦らがパワーに持ち込みかけたが、小門は同期の荒川に任せながら、最後は自力で決着をつけた。
「50、51期には絶対に負けたくなかった。今年の前半はケガが多く、最後の新人王に照準を合わせていた。これからの目標は、なるべく早く特別の決勝戦に乗りたい。戦法的には自分で動く自在型。その方が結果も、いい答えがでている」
 神奈川では高原永伍、藤巻昇、伊藤繁が新人王を奪い、さらに特別Vも果たしている。スターへの登竜門を自力で突破した小門、まさに前途は洋々だ。
 その後の小門は平塚ダービー133F着、平オールスター123A着、千葉ダービー271B着、競輪王212A着で決勝入りしたが、タイトルとは縁がなかった。