◆1〜12◆楽しき取材日記
◆1◆平成19年6月1日(金曜)
 過去は振り返らない! をモットーに記者生活を続けてきたが、定年の1年前ぐらいから「もっと競艇や競輪の選手を知ってほしい」と願うようになった。ギャンブルの素晴らしさは理解できていても、野中和夫や中野浩一には「強かったんですね」ぐらいの知識しかないファンがほとんど。だから、幅広く野中、中野を知ってもらいたかった。競輪選手を目指す若者のなかにも「世界の中野」を知らない人がいるということを聞いて、情けなく思っていた。偉大な選手は風化させてはならい。時代が流れて、競輪の歴史も途絶えてしまいかねないからだ。
 今の世はホームページがある。私が感じた、書きたい野中や中野を活字にすることができる。誰が見てくれるのか、誰でもかまわない。もちろん野中、中野だけではない。全国で知った選手、そのつながり、秘話、さらに現在のスターとの比較など、あらゆる角度から検証もしてみたい。


◆2◆平成19年6月2日(土曜)
 記念競輪の主役が、病気を患いながら前日検査の競輪場まで足を運んで欠場届けを提出した。今では考えられないことが昭和46年2月25日付けの新聞に載った。もちろん私の原稿だ。その選手は荒川秀之助l。昭和45年11月の岸和田・全日本選手権(ダービー)をイン切り、飛び付き、そして“飛燕の差し”で優勝したばかりで、人気絶頂の時だ。それも宮城県・仙台から西宮競輪場までの遠距離。ファンを大事にする荒川ならではの行動だ。高熱で顔が赤みを帯びながら、取材にも受け答えた。「ムリして走れないことはないが、ファンのみなさんに迷惑をかけてはいけないと思い欠場することにしました。次回の向日町(3月4〜6日)には体調を整えて出場します」と、初日特選の談話の横に掲載された。荒川は約束通り、体調を整え、向日町記念で優勝を飾った。まさに有言実行だった。昭和54年には“高松宮杯(現高松宮記念杯)”を5連勝の完全優勝で2つ目のタイトルに輝いた。平成14年7月31日、通算622勝で引退した。


◆3◆平成19年6月3日(日曜)
 プロ野球選手(西鉄=現西武)から競輪選手へー島田伸也(高知)は華麗に転向した。昭和46年9月5日付けの紙面では西宮競輪「ゴールデンサンケイ杯争奪戦」の主役として取り上げた。26期の“三羽がらす”としてデビュー。3年目のこの年は初めて特別競輪(第22回高松宮賜杯競輪)にも出場。スター街道を歩んでいた。「走っていて楽しい。野球界から競輪界に転向してよかった」と話していた。このシリーズはパワーで圧倒して優勝を飾った。副賞は白黒のポータブルテレビだったが、島田は長い年月、愛用していた。今は「サテライト安田」(高知)の会長として、業界の発展に尽力している。

◆4◆平成19年6月4日(月曜)
 6月1日に無職人のスタートを切ったが、この項目を掲載するのを忘れていた。
 社会へ出たときもアルバイトからだった。昭和45年3月。学園紛争のあおりで大学を留年。5年目は新聞社受験に備えて、電話受稿のアルバイトだった。月謝を捻出するためだが、いきなりめぐってきたのが“記者”の勉強だ。
 スクラップの1ページ目は、その署名のない原稿。生涯、忘れることのない一番の財産だ。書いたのは「関大、戦後初の3シーズン連続優勝」の見出しが躍る関大=関学の試合経過だった。我が母校、野球部の後輩、山口高志らの晴れ姿を見るだけではなくて、記事として残った。ただ、わずか30行の原稿だが、オーケーが出るまで何度も、何度も書き換えた。デスクへ出稿するたびに、目も通さずゴミ箱へポイ。10回以上も書いて、ゆうに2時間ほど経過していた。あまりの情けなさに、最初の原稿をゴミ箱の中から拾い出して、そっくり書き写して出稿すると「よっしゃ」とオーケーが出た。
 この時、鬼のようなデスクから「どや、いっぱい書くことがあるやろ。題材は一つでも、書く角度は山ほどあるんや。これが記事というもんや」とアドバイスを受けた。鬼に見えた顔が、仏のように優しく思えたものだった。36年間、この言葉を忘れずに、読む人の心に感動を与えるように、書いてきた。人生にも通じる取材の基本理念を教わった大事な昭和45年6月2日付けの切り抜きだった。もちろん試合のスコアブックも一緒に残っている。
◆5◆平成19年6月5日(火曜)
 草創期から「競輪祭」は発祥の地・小倉で開催されてきた。「競輪王決定戦」と「新人王決定戦」に分かれ、関門海峡を越えて冬の幸「ふぐ」を食するのもそうだが、見知らぬ町を散策できるのが出張取材の楽しみだった。新幹線も岡山までで、寝台の夜行列車も風情があった。昭和46年11月19日付けには「新人王はもらった」の見出しで、矢村正、谷津田陽一、松尾一由、山口国男の4人を取り上げた。駆け出し記者は、矢村以外、会ったこともなかった。
 それでも電話取材で、意気込みを聞いて、まとめた。写真は競輪学校を卒業するときのヘルメットをかぶった上半身だけのもの。それでも当時の紙面では見栄えがしたのを記憶している。この「新人王」には24期から27期までが出場しており、26期の矢村は「高松宮杯」を経験しており優勝の最短距離にいた。だから「新人王は僕が取る」と豪語していたほど。直前には阿蘇山に山ごもりして、万全の体制で臨んだが、勝利の女神は矢村にそっぽを向いた。準決勝で脱落して、野望は砕かれた。1b63の小柄な矢村、パンチ力の効いたまくりで、この後のビッグ戦線で福島正幸、田中博、阿部道の“3強”に真っ向から立ち向かって行った。ちなみに「新人王」の決勝戦はマーク屋の山口がバックまくりでゴールを目指したが、さらにまくった須田知光ー山藤浩三(優勝)が上位を占めた。

◆6◆平成19年6月6日(水曜)
 昭和47年4月5日付けに、競艇の新人33期、大阪の4人にスポットを当てた原稿が載っていた。「一流選手めざし」のタイトルで播口昌司、柚木重春、堀田三知治、大坪茂をとりあげた。それぞれの胸の内は…サラリーマンやホテルのボーイを経験した播口は「人に使われるのがイヤで、ボートの道しか自分を生かす道はない」。柚木は鹿児島から就職で名古屋に出て建設会社に勤めたが長続きせず職を転々。大阪でホテルのボーイをしている時に選手募集を知って、長崎からデビューした兄・益巳を追って選手に。「兄を目標にはしない。自分の能力を試します」。
 堀田はサラリーマンを辞め友人と始めたのがトイレの防腐剤の販売。それでも満足感を味わえず「なにかやりたい」と友人に相談して選手に方向転換。「根っから機械いじりが好き」だったのが幸いした。32期を見送って33期を受験、合格した。大坪は「外交官になりたい」の夢を抱いていたが住之江で「第14回太閤賞競走」を見てボートに魅せられた。「兄に連れられてボートを見なかったら平凡な生活だったでしょうね」。4人は転換のきっけを見逃さなかったのが“天職”につけたのだ。

◆7◆平成19年6月27日(水曜)
 昭和48年8月9日付けに『銀行マンからヘンシーン』の見出しで、30期・池水正樹(大阪)を紹介した。珠算2級、簿記2級の特技を生かして銀行に就職したが「一日中、机に向かって座っていても毎日がおもしろくなかった。給与の手取りも約3万円、先輩たちを見ても出世の望みもありませんでした」が理由で、魅力ある仕事として競輪選手を選んだ。
 趣味で自転車愛好会に入っていたが、両親は競輪選手になるのを猛反対。それでも銀行に休暇届を出して、両親にも内緒で29期を止めて30期を受験。合格したあとは10ヶ月の訓練で200b11秒5、1000b1分10秒1をマーク。当時は1000bの非公認だが学校の最高記録だったそうだ。競輪学校で池水を見た、元競輪選手の白鳥伸雄氏(ダービー覇者)が「学校に入る前の4ヶ月の練習で、これだけの進歩を見せるのだから末恐ろしい」と、大きな期待を寄せていた。
 もちろん無キズの10連勝で“A級特進”を果たし、昭和48年1月3日付けの正月紙面で渡辺孝夫、山下文男の29期と近畿競輪界のホープとしてとりあげるなど、将来の有望株だった。「矢村正さんのダッシュ力、阿部良二さんの粘りを身につけたい」と抱負を語っていたが、その後、壁にぶちあたり、大成することなく一線級から若くして脱落した。期待が大きく、重圧をはねかえせなかったのか。本心を聞けなかったのが残念だった。それでも通算306勝をマーク、平成4年12月8日に引退した。



◆8◆平成19年6月28日(木曜)
 昭和47年から始まった競輪学校の“二部教育”。48年には29、30期が春秋にデビューした。29期は101人、30期は66人。暮れの30日付けに『有望新人花ざかり』で29、30期の“決算”を掲載した。とりわけ話題を集めたのは29期。4月のデビュー後は、ヤングパワーを遺憾なく発揮。勝ちまくる選手がズラリ。無キズの10連勝“A級特進”を決めたのは16人にものぼった。26期8人、27期6人、28期6人とは比較にならないほどの“29期旋風”を巻き起こしていた。16人は棚橋良博(岐阜)太田三郎(静岡)仲村三千雄(千葉)加藤功治(三重)阿部良二(岩手)田仲俊克(東京)塙勇(東京)木津健一(北海道)堀内正則(青森)笠巻清貴(新潟)遠藤清彦(新潟)秋田建一(広島)中田毅彦(徳島)岩本幸明(熊本)田中巧(熊本)山下泰正(大分)である。とくに阿部良二の評判が高く、競輪界の大きな“夢”がけられていると表したものだ。学校では目立たない存在の阿部だったが、逃げた場合の粘りと思い切りの良さが特徴で、常に打鐘から逃げて丸1周以上を逃げ切っていた。A級でも2場所連続優勝を飾り、デビューから20連勝の怪物ぶりを発揮した。 「同期に負けたくないが、僕は独自のレースをしたい」と“阿部型”を貫く決意をしていたものだ。そんな阿部が昭和50年に日本人で初の世界選手権で日の丸(銀メダル)を獲得するのだから、このころから桁外れのパワーを身につけていたのだ。

◆9◆平成19年6月29日(金曜)
 少し前へ戻るが、昭和47年10月3日(4日付け)は大垣での「第15回オールスター競輪」の決勝戦だった。タイトルとは無縁になりかけていた稲村雅士が、昨年の高松宮賜杯でタイトルを奪うと、翌年はオールスターまでも勝ち取った。その前までは決勝に乗っても、8度も美酒を味わえず2着。だから“万年2着”の有り難くない代名詞までついていた。この頃は“3強時代”で、とりわけ群馬の福島正幸と田中博は“対立関係”にあった。ただ、先輩の稲村はマーク屋。2人の後位にしがみつくしかなかった。この決勝戦は福島と同乗だった。逃げても、まくっても強い、文字通り信頼できる選手だ。稲村は作戦を考えた。初日から552着で未勝利。切れは悪く、ギアを3・62から3・57に下げた。福島後位を死守しながら鋭く迫るためだ。福島は矢村正がまくりに構えたため、先行策を選択。矢村のまくりを3コーナーで自らブロック、こうなれば番手の稲村が有利、ビッグV2に輝いた。「高松宮賜杯の時は初めてで言葉にあらわせないほどうれしかった。でも、今回は選手になっていて本当によかったと思いました」と、ビッグ優勝の喜びをかみしめていた。このヒーロー原稿の最後に、前橋市の実家に夫人と生後9ヶ月の成浩ちゃんがいる。成浩ちゃんとは、69期でデビューして、親子2代のビッグウイナーとなった稲村成浩である。

◆10◆平成19年6月30日(土曜)
 昭和48年3月20日、埼玉県の西武園競輪場でドラマが起こった。「第26回日本選手権競輪(ダービー)」の決勝戦が行われた。メンバーは@工藤元司郎A福島正幸B田中博C吉田洋D阿部道E平林巳佐男F片折行G今井正H松本秀房の9人。福島、田中、阿部の“3強”が揃い踏み。三つどもえの優勝争いはスタートからもつれた。号砲が鳴っても誰も出ない。このシリーズ、特有の北風(風速5b前後)に先行選手が泣かされ続けた。誰も正攻法には付きたくなかったのだ。一度、二度…。待ったなしの3度目の号砲で、トップ平林(当時は普通競走で誘導員代わりのトップ引きが先導した)の後ろには、「僕が前に出ないと…」と本命人気を背負った責任感から阿部が付いた。後ろは工藤だが、片折ー今井も吉田も位置合戦。田中ー福島ー松本が続く。田中、福島の群馬最強コンビは、連係したわけではない。「ちょうどいい位置」の田中に、福島は「不利な位置」と互いに食い違っていた。前を占めた阿部は、結果的に大正解の答えをつかんだ。3万を超すファンの歓声の中、福島が追い上げ正攻法に。田中ー松本ー吉田が続く。そして阿部が下げて6番手。福島が2コーナーから先行態勢に入ると同時に、阿部は1コーナーから仕掛け、3コーナー過ぎでは福島をまくり切っていた。工藤も追走がいっぱい。田中も直線でフル回転させたが、ゴール20b手前で追い上げた片折(落車)と接触したのがたたって、わずかに阿部を捕らえられなかった。第24回・岸和田の荒川秀之助、第25回・千葉の河内剛に次いで、阿部が宮城勢のダービー3年連続優勝の偉業を達成した。福島、田中の“確執”は、まだまだ続き、爽やかでクリーンな阿部は“ミスター競輪”への道を歩む。
◆11◆平成19年7月2日(月曜)
 強力軍団となる“フラワーライン”が誕生したのは昭和48年6月の「第24回高松宮杯競輪(東西対抗戦)」だった。千葉県の房総半島のシーサイドロードのフラワーラインで練習するグループの総称だ。後々に中野浩一と天下を分けて戦った。まだ、誕生したころは山口国男(東京)と太田義夫(千葉)の仲良しコンビだけが頭角を現していた。この二人、私生活を含め、兄弟のように仲がよかった。4つ年上の太田も山口の気性が大好きだった。5日の決勝戦にそろってコマを進め、そして大輪の花を咲かせた。逃げる太田を山口がしっかりガード。人気は荒川秀之助と矢村正が分け合ったが、矢村は1角からまくり上げると、太田が加速をつけて先行。後ろはイン山口ー荒川とアウト矢村で競り合い。太田は巧みな先行策で後続の競りを誘い、そのまま逃げ切って、選手生活7年目で初のタイトルを手中にした。阿部道と同期の23期。昭和46年に記念V6を含め“賞金王”に輝いたが、この優勝で名実ともにスターの座についた。太田の先行は“3段構え”といわれ、2コーナーから3度仕掛けることだった。「矢村君の動きが見えたので、早めでも逃げるだけ逃げたのがよかった」と、相手の踏み出しに合わせて仕掛け、そして流し、さらに仕掛けと、相手の出方に応じて踏む先行だった。「山口君の援護にも助けられたが、すべて練習のおかげ。これからも練習あるのみです」。雨の日でも師匠(伊東善司氏)の家まで35qの道のりを自転車で駆けつけ、練習に明け暮れた。山口が来ると一緒にフラワーラインで鍛え抜いた。こんな努力が実って、さらにフラワーラインの名が知れ渡った。以後、東京、千葉の若手は太田・山口道場に入門だ。そして山口の弟・健治を始め吉井秀人、尾崎雅彦、滝沢正光、清嶋彰一、波潟和男らがタイトルホルダーとなった。残念ながら総帥・国男は、この宮杯と平・ダービー(昭和53年3月)で二度、4コーナーを番手で回りながら勝利の女神は微笑まなかった。

◆12◆平成19年7月3日(火曜)
 昭和48年7月18日付けに「瀬戸に輝く栄冠」の見出しで尼崎競艇「開設21周年特別競走」の優勝戦の後書きが載っていた。勝ったのはベテラン瀬戸康孝だ。壮絶なイン争奪戦が繰り広げられ、深く入り込んだ松尾幸長がわずかに流れたスキを見逃さず突っ込んだ瀬戸が最インを奪取。そして一気に逃げ切った。全国のほとんどの記念を制覇して、“記念の鬼”と呼ばれるなど、表彰式にも慣れっこと書いてあった。3月から3ヶ月のフライング欠場後3戦目で、唐津周年に続く記念連取。まさに“鬼”の、面目躍如だ。「記念の連続優勝? 一昨年に続けて5つほど取ったことがあるはずですよ」とクールに答えていた。ビックリはヒーロー原稿の最後に《ボート選手になってから、福岡商科短期大学(現在の福岡大学)を受験、卒業するという努力家でもある》と書かれていた。当時は吉田弘明と並んで“艇界の紳士”といわれ、フェアプレーに徹していたのを、改めて思い出した次第だ。