【172】〜【181】我が中野浩一
【172】平成20年2月10日(日曜)
 世界選(スペイン・バルセロナ大会)前には福井記念、久留米記念、小田原記念の3場所をこなして出発だ。無事に走り終えたいのだが、アクシデントのつきまとうのが競輪競走。まず福井記念の初日にいきなり事故に見舞われた。仕掛けて出たところで滝沢正光と接触してチェーンがはずれた。そのまま惰力でゴールにたどり着いて7着だ。
 「チェーンがはずれるなんて初めてのこと。イヤーな感じでした」
 準決勝は3番手から追い込んで1着。上がりも11秒1で悪くない。それでも「伸びん。もうひとつや」と手応えを感じない。決勝戦は片岡克巳―岡本新吾の42期コンビの仕掛けを直線で抜き去り優勝を飾った。ライバル滝沢は後3周を残したところで後輪がパンクするなど、ツキに見放されていた。
 「不思議ですね。調子が良くても勝てないし、福井はどちらかといえば悪い方で優勝できたんだから、ツキがありましたね」
 福井から雷鳥に乗って大阪へ戻ってきた中野。福井から福岡へは当日に帰れない時代だった。徳島の中田毅彦、同じ久留米の江嶋康光も一緒に、大阪で福井記念優勝の祝杯をあげた。静かなムードの中田、江嶋と違って、はしゃぐのは中野だけ。カラオケやピアノの演奏で得意のノドを披露した。
 「今日は、もう寝んでもええ。朝までどっと遊ぶか」
 といっても、翌朝の8時には伊丹空港発の福岡便に乗らなくてはならない。午前1時ごろにはホテルへ帰って、ぐっすり眠ったものだ。
 久留米記念は完全優勝で締め、通算勝ち星も430勝に達した。年頭にたてた“V12”の目標へ、やっと半分のV6となった。
 「やっぱり月に1回は優勝せんと、勝ちグセを忘れてしまいますからね」
 ここまでは、とりあえず順調に世界選前のノルマをこなしてきたが、小田原記念で、またまたドキッとさせられた。

【173】平成20年2月12日(火曜)
 ガシャーン、中野浩一は小田原記念の決勝戦で、ゴール後に落車。それも顔からバンクに突っ込んだ。左眼下を8針も縫い、顔面は腫れ上がり、自慢の男前? も台無しだ。左足も痛めて、引きずりながら歩くしかなかった。
 小田原から帰ると、佐賀県の佐賀医大へ。いつもなら久留米市内の病院で診てもらうのだが、かかりつけの医者が佐賀医大を紹介。それほどの“重傷”だった。が、精密検査の結果では異常が認められず、抜糸をすれば乗れるとのことだった。
 「左のフクラハギは肉離れになっていなかったから良かったが、痛くて、痛くて…練習もできないし、医者通い(佐賀医大)ばかり。世界選の欠場も考えたけど、病院へ行って少しは気が楽になった。車は運転できたんで、気晴らしに友達のところへ遊びに行ったりして、世界選のことを考えないようにして過ごしていた」
 中野を一番心配したのはメカニシャンの長沢義明氏だ。「落車の連絡を受けたときに、中野は世界選へ行きたくないなーと思った。行くか、行かないかでモメたり、何かピリッとしたものがなかったからね」と言っていた。それでも負傷が癒えると、中野も奈良競輪場での8月9日からの強化合宿に一日遅れで参加した。
 「日本で3日間は体をいじめぬきたかった。移動で3日ほど練習できないし、強めに踏み込んで、あとは現地で調整すればいい。幸い左足も痛まなかった」
 他の選手が11秒1か2のタイムでも、中野は10秒9を出すなど、練習をしてなくても“世界の脚”にかげりはない。しっかりと鍛え抜いた。

【174】平成20年2月13日(水曜)
 15日の打ち上げの前日、 中野浩一の音頭取りで世界選参加の若い野田正、井上薫、坂本典男、松枝義幸らと奈良ドリームランドで童心に返って遊び、夜は野田、坂本、松枝らと大阪ミナミへ出て歌って、飲んだ。 若手との親睦を深めるため、中野にはリーダーとしての自覚が芽生えていた。
 そんな心遣いに、長沢義明氏が「イチ(中野)がみんなを誘って飲もうなんて、今まで一度もなかった。それだけチームのことを考えていたんだね」と抱いていた不安感を一掃した。選手団が一丸となって、中野とともにV8へ挑むが、まだ中野自身はゴーサインを出していなかった。
 「首から肩にかけて痛みが走るんですよ。小田原の落車で首も打ったみたい。東京で治療をしてもらうけど、現地でどうなるか、調子が戻らんと…」
 奈良競輪場での強化合宿を終え、8月17日の壮行会の後、同夜9時30分成田発のSK980便で空路スペイン・バルセロナへ旅立った。機上の人になれば、中野が抱く不安も消えていた。世界選用のフレームは全プロ(向日町)で使用済み。スプリントで10秒台を連発させるなど、長沢氏がV8用に造った走るマシーンは心強い。
 「前のよりも乗りやすいですね。現地での調整でしっくりいくでしょう。ボクは7連覇が最高の記録と思っている。これがなければV8にも挑戦できないんですから。まあ、今回はチャレンジャーの気持ちで戦ってきますよ」
 スプリント競技の行われるバルセロナ自転車競技場は周長250b、幅員7b、最大傾斜42度、直線45・9b、舗装木製のバンクだ。日本にない小回りバンクでも、“世界の中野”にはマイナス材料とはならない。

【175】平成20年2月18日(月曜)
 世界選の舞台は中野浩一によく似合う。すでに7連覇王者は“スプリントの神様”だ。V7の相手だったモスクワ五輪の銀メダリスト、ヤーベ・カール(フランス)が「ナカノのスプリントは私よりも上手い」と認めていた。それでも、バルセロナでの強敵はカール。「カールは2周ぐらい平気で逃げるから怖い」と中野はカールを警戒していた。
 予選、準々決勝を圧勝の後、準決勝は初顔のD・ジェプケン(西ドイツ)が相手。「初顔だし、何が起こるかわからない」と緊張感をもって臨むが、力の差は歴然。1本目は最終2角でインからすくうようにして逃げ切り。2本目はジェプケンの先行を、まくり追い込んで勝ち、無キズで決勝戦へ進出。世界初のV8へ王手をかけた。
  問題は対戦相手。カールは日本でも馴染みの深いオクタビオ・ダザン(イタリア)と中野への挑戦権を賭けて激突。ところが中野の予想と反して、ダザンがカールを圧倒した。1本目は11秒41で逃げ切り、2本目は11秒37でまくってしまうなど、ダザンが連勝だ。
 ダザンの力量を知り尽くしている中野は「ダザンは追い込みタイプ。逃げさせれば大丈夫」と自信を持っていた相手だ。カールを倒したのは成長の証だが、中野は脅威と感じていなかった。
 甘く見たわけではないが、自信が過信となって、1本目はヒヤッとさせた。ワザを持ち合わせていないと思っていたダザンが、最終ホーム手前からインに切り込んだあと、すぐにカマシを放ち中野を2、3車身離して逃げた。一瞬、踏み遅れた中野だが、1角過ぎからまくり上げ、小回りバンクの傾斜を利用しながら直線に入って立て直し、ゴール前で差し切った。
 “あと1”で、ギネスブックの「世界プロスプリント優勝数」の項目に単独で名前が載るのだ。

【176】平成20年2月19日(火曜)
 圧勝を描いていた中野浩一だったが、ダザンも軟弱な選手ではなかった。だから常に油断は禁物なのだ。
 「レースは苦しくなかったけど、自分より下(弱い相手)と思っていて、緊張したら辛勝(4分の3輪差)で、やっぱり甘く見てはダメですね」
 V8への最終戦、プロスプリントの決勝戦の2本目を前に、反省しきりだった中野。もう手抜きは許されない。もちろん「記録をねらうつもりで走る」とパワー全開を決めていた。
 ダザンは2周目のバックでインをついてダッシュ。奇襲をかけてきたが、中野は慌てない。最終ホーム過ぎからフル回転させると、1センターでは早くも逃げるダザンを沈め、そのままゴールへ突進した。10秒88の大会一番時計でV8を決めた。
 ジェフ・シェーレン(ベルギー)、アントニオ・マスペス(イタリア)と並んでいたV7から、中野が抜け出した。それも8連覇の偉業だ。中野は午前5時頃、バルセロナから父・光仁さんに「いますんだよ。終わった」と勝利の報告をした。ベネズエラでV1を飾ったとき以来の電話連絡だった。よほどうれしかったのだ。
 「親父は世界選を見たいと、言ってるんです。でも、マスコミの人に見つかるし、ボクが辛い。だからボクがスプリントを止めてから世界選へいけばいいと言ってるんです」
 このV8へは、直前の小田原記念の落車で、光仁さんも「私は“行くな”と言ったんです。でも約10日間ほどで、よく調整したと思います。頑張ってくれました」と、中野以上にホッとしていた。
「落車とかあって、観光旅行でもするつもりで参加したのが良かったのかな。V7はプレッシャーの重圧で苦しかったが、V8はそれほどでもなかった。その分、いい結果が出たんでしょう」
 大会が終われば、また中野のV9挑戦が取りざたされる。

【177】平成20年2月20日(水曜)
 プロスポーツの同一種目で8年間もチャンピオンの座に君臨し続けた選手はいただろうか。空前絶後、中野ただ一人ではないか。プレッシャーに打ち勝つ強い精神力は、黄金の脚とともにV8を支えてきた財産だ。
 そんな中野を育てた父・光仁さんは、V8直後の電話のインタビューで、こんな話をした。
 ――世界選の連続V8、とうとうやりましたね
 「ありがとうございます。行く前に落車でケガをしていたので、私は“行くな”と言ったんですがね。でも10日間ぐらいでよく調整してくれました」
 ――競走の上がりタイムも10秒台を出すなど、まだまだパワーは底知れなくありそうですよ。V9、V10と伸ばしてほしいですね
 「いやぁ、もうだいぶ歳も食ってますからね。来年のことは分かりません。出る、出ないは本人任せですよ」
 ――本人から連絡はありましたか?
 「よほどうれしかったんでしょうね。今まで一度も電話してこなかったのに、V8して初めて、朝5時頃“終わったよ”って言ってきました。こんなことは珍しいので、やはりホッとしたんでしょうね」
 ――姉の恵子さんが、この9日に挙式とうかがいましたが、中野君も今年で29歳、そろそろお嫁さんをもらわないと
 「姉がようやく片付いたし、今度は浩一の番です。本人はまだ連れてきませんので、何とかこちらで探さないと。どこかにいい人いませんか」
 ――来年はお父さんも現地(イタリア)に行かれたらいかがですか
 「来年のことは分かりません。私も一度は出かけて行って応援したいと思っています」
 光仁さんが浩一を見つめる目は、いつも優しい。「名誉と競輪界のイメージアップにつながると思って世界選に参加している」という中野。父親の手の届かない“有名人”になっていても、気になるのは健康と将来の生活設計だった。

【178】平成20年2月22日(金曜)
 V8の快挙に、各界の友人、知人から祝電が山のように久留米の自宅に届いていた。この日、中野浩一が親しく付き合っている広島カープの山本浩二選手は祝砲のホームランを2発(28、29号)を夜空にブチ上げた。
 そんな祝福は、すべて中野を支えたスタッフによるものだ。V8用の“走るマシーン”を造った長沢義明氏、通訳で世界の自転車界に精通している柴野邦彦氏、そして兼松直一監督、石村正利コーチ、選手たちが一丸となって中野をバックアップした。世界選前の落車で、仕上がりに自信をもてなかった中野。若い選手の中で浮きでないように、自らも輪の中に入ってとけ込んだ。それぞれの努力がV8となって実った。
 「練習不足のボクを、みんなが盛り立ててくれました。感謝の気持ちでいっぱいです」
 表彰式で胸にかかった通算8つ目の金メダル。中野は初めてメダルにキスをした。それほど喜びが大きかったのだ。ニース、パリを楽しんで、9月5日に帰国。成田空港は出迎えのファン、関係者、報道陣でごったがえしていた。
 「勝てたのが不思議なぐらいだった。今までの世界選のなかでも、調子は最悪。“勝てる”という自信も湧いてこなかった。何とかなると思っても、自分の思い描くレースができなかった」
 練習で自己最高の10秒55が出ていても、踏み込み不足が中野に自信を与えなかった。急場ごしらえの“脚”では、不安感が襲いかかるばかり。はっきりと調整の失敗を感じていた。誰にも悟らせないように、陽気にふるまっていたのだ。
 「調整期間さえあれば、まだまだ(スプリントを)やれるという感触を自分なりにつかんだ」
 成田空港での記者会見で、中野はV9、V10への挑戦をほのめかした。最悪の状態で勝てたのだから、逆に“無敵王者”の自信は揺るぎないものとなっていた。

【179】平成20年2月23日(土曜)
 ホテルオークラでの帰国報告会、祝勝会には、歌手の山本譲二、相撲の間垣親方(元横綱若の花)、俳優の川谷拓三、タレントの西郷輝彦、小野やすし、渡部絵美さんらが中野浩一の快挙を祝った。
 この席上で、日本自転車振興会は、中野に日本競輪学校の“名誉教諭”の称号を授与。生涯勝利1341勝をマークした松本勝明氏(56年9月19日引退)についで2人目。
 「若い人に少しでも役立つように、いろんな面を講演などで話してみたい」
 世界選の日本への誘致も、中野が口にした。この年、日本は開催国に立候補する予定だったが、諸般の事情で急きょ変更。打ち消しになった。
 「ボクがチャンピオンでいる間に日本で世界選を開催してほしかった。来年でも立候補するなら、ボクも力の続くかぎりスプリントをやってみようと考えている。そのためなら力を大事に使っていきますよ」
 今回のバルセロナの後はイタリア→アメリカ→オーストリアの順で世界選が行われる予定で、早くても4年後しか日本へ誘致できない。片折行日本プロフェッショナル連盟理事長は「プロ車連として前向きに検討したい」と、誘致の考えを明らかにした。
 世界ではV8男・中野の“誘致合戦”も始まっていた。中野は外国人記者に「ヨーロッパにとどまって、いろんなイベントに参加してほしい」と願望された。南米のコロンビアで9月に開催する自転車選手権にも参加要請があった。プロ・アマのエキジビションで優勝賞金は360万円。ほかに支度金も用意されていた。
 世界のトラック競技はロードレースに押されっぱなし。だからスプリント界を、もう一度、花形レースにするには中野が欠かせない存在だった。ちょうど、国内のオールスター競輪と日程が重なり実現しなかったが、中野は世界自転車界の大スターなのだ。

【180】平成20年3月1日(金曜)
  世界選V8から帰国第1戦はファンの夢をのせた「第27回オールスター競輪」(西宮競輪=59年9月20〜25日)。ファン投票7万5980票で、中野浩一は断トツのトップ。勝っても、負けても、ファンをひきつけるのは2本の“黄金の脚”だ。
 「ファンがボクを支えてくれてますね。宮杯はドジ(落車)なところを見せてしまって…。今度は迷惑をかえないようにしないとね。まあ、見せ場だけは絶対につくりますよ」
 5日に帰国後は東京で挨拶回りなど3日間の足止め。8日は防府競輪場でサイン会、9日は姉・恵子さんの結婚式。オールスターへ向けての練習は10日からだった。
 「世界選に向けてスピード練習をやっていたから、体の切れはあるんですよね。でも、このごろ疲れが歳のせいか、なかなかとれない。よく転ぶしね」
 前検日の前夜(18日)に大阪入り。ジンクスをかついで初めてNホテルに宿をとった。TやDだと失格や落車に泣いたからだ。
 「何も考えない方だが、負けが続くと気分転換も必要でしょう」
 ミナミのスナックで南海ホークスの畠山準投手、山内和宏投手、吉田博之捕手とバッタリ出会った。
 吉田捕手が「ファンなんです。サインをしてくれませんか」と、おそるおそる色紙とマジックを差し出した。プロ野球の選手が競輪選手にサインを求めるとは…まさに世界選スプリントV8の威光だ。
 「気持ちよくサインしましたよ。今回は踏み込む期間も少なかったが、自分なりの調整はしている。先行? それもいいね」
 今回までのファン投票はC@@AA@@@@の順位。ドリーム戦の成績は落車(再乗9着)DA@BAAAと連に絡む確率は高い。2日目の出番「ドリーム戦」から勢いに乗れるか。

【181】平成20年3月3日(月曜)
 オールスター競輪(西宮競輪場)が始まっても、中野浩一の忙しさは変わらない。初日の59年9月20日は、朝練習の後、開会式で選手宣誓、雑誌「月刊ドリフ」の取材、10月1日収録のABCテレビ「徹子の部屋」の事前打ち合わせ。休養日もゆっくり過ごせない。
 「いつものことやもん。なれっこになってますよ」
 カメラマンの篠山紀信さんが被写体(中野)の自然な姿をパチリ。いつもの勝手と違うのか、いくぶんテレ気味だ。
 「改まるとね、つい硬くなってしまって。それより“徹子の窓”に出るのが楽しみなんよ。クイズや料理番組と違って、すごく興味をもっている。黒柳さんを相手に、うまくしゃべれるのかな」
 しゃべくりは中野の専売特許? のはずだが、黒柳さんにかかってはタジタジになるかも。
 “ひと仕事”を終えると、もう実戦のモードへ。ドリーム戦へ向けては「欲を言えば世界選からもう少し練習の期間がほしかった。5日間は目いっぱい踏んだけど。だから、その範囲でやれるところまでやる、それしかいえない」と、不安感を抱いていた。
 ドリーム戦のメンバーは@中野A滝沢正光B山口健治C藤巻昇D佐々木昭彦E久保千代志F井上茂徳G高橋健二H吉井秀仁の9人。
 「勝つ確率は20%かな」とレース前の中野。心細いコメントだが「自分で攻めて行く」作戦なら、仕方のないこと。後ろは井上―佐々木が援護。ただ、スタートで久保が前を取って、流れが一変した。
 高橋―久保に中野―井上―佐々木―藤巻が続く。しかし、滝沢―吉井―山口が高橋の前へ入ると、中野は赤板前で滝沢に並びかけ、ジャンで飛び出す。この時、佐々木が一気に仕掛け、中野がうまくキャッチ。車を下げた滝沢は追い上げた高橋に封じこまれ、フラワー軍団は壊滅だ。
 中野は3角半からまくって快勝。まくり込んだ高橋が2着、井上は3着。ものの見事に“中野グループ”のフラワー包囲網が成功した。
 「2番手を回れば誰でも勝てますよ。まあ、勝つための最善の方法を考えたのが好結果になっただけですよ」
 幸先のいい勝利でも、中野には、まだ余裕が感じられなかった。