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【16】〜【30】我が中野浩一 |
【16】平成19年7月7日(土曜)
カッコよく勝つー世界で一番強い男・中野浩一が、帰国第1戦となったのは千葉での「第20回オールスター競輪」。もちろんファン投票は第1位。世界選への出発前には「1位」が確定していた。だから金メダルを手に、中野はファンの期待に応えるには勝つしかないと考えていた。それも、得意のスーパーダッシュを爆発させるまくりで…。昨年は4位で帰国のうえに、ドリームで落車(再乗9着)して途中欠場。逆に3位、銅メダルの菅田順和はドリームを制して“菅田フィーバー”を巻き起こした。中野も金メダリストなら、負けるわけにはいかない。ところが競輪競走は甘くない。ドリームは不発の5着、菅田も4着と“金銀”は、あっけなく散った。続く2走目不発。スタンドから痛烈なヤジの嵐。中野は強いショックを受けた。「世界チャンピオンは世界一強いし、カッコよく勝ちたい。そんな気持ちだから、競輪競走を甘く見ていたんですね」。準決勝も先行の作戦が、ついまくりに回って届かない。最終日の敗者戦でもまくりにこだわって不発。カッコ悪いまくり不発4連発の5675着で終えた。「九州の先輩から抑えて逃げれば負けないと言われても、中団にいれば好きなマクリで勝てると思った。“クソッ、もう一回”と思って、同じ負けを4回繰り返した。情けなかったですねぇ」と、競輪は力だけでは勝てないことを、身をもって体験した。いつも陽気な中野も、あまりの不甲斐なさに親しい記者とも冗談が出てこず、苦笑いでごまかすしかなっかった。“金メダル”を喜ぶどころか、中野は新たな課題克服に、また練習の鬼となった。
【17】平成19年7月9日(月曜)
オールスターの屈辱から立ち直るには練習しかなかった。食事と睡眠の時間を除いて、中野浩一は練習に打ち込んだ。汗を流すことで、気分も楽になってきた。そして熊本記念21A着で確かな感覚を取り戻し、続く名古屋記念21F着、花月園記念31C着と優勝できないまでも手応えをつかんだ。22歳の誕生日、昭和52年11月14日は、岸和田記念(13〜15日)の出走中。こんな記念日に無様な成績を残せない。気分転換もあって3日前にフレームも新しく変えた。九州地区プロでは千b独走で1分8秒89の好タイムも弾き出していた。「絶好調の8分ていどまで戻ってきた。優勝してないが内容はいいですよ。そろそろがんばらないと忘れられますね。スカッとぶっ飛ばしますよ」と、前検日に自信のほどをちらつかせていた。初日には“金メダル”をチャンピオンジャージの胸に、ファンの前でお披露目。岸和田市から記念品の日本刀が贈られるなど、ファンの熱い声援も受けた。気を良くした中野は、初日が突っ張って逃げ切り、準決勝はイン粘りから11秒4のBSまくりで圧勝。「やっと本来のパターンに戻ってきた」とノリノリ気分だ。決勝は、勝てば昨年のプロスポーツ界bP、競艇の野中和夫を抜くことになる。だから気合も満点だった。岩崎誠一ー葛西新蔵の北日本コンビが逃げたが、中野は4番手キープから強烈な11秒3の3角まくりで圧勝した。この年、8度目の記念優勝で、総取得賞金も6千90万5650円となって、“賞金王”レースでもトップに立った。「もやもやしていたものが今回の優勝でふっきれたみたいです。今の調子を崩さないように競輪祭へのぞみたい」と“無冠返上”へ加速をつけた。この岸和田は51年もオールスターの落車明け第1戦で81C着で決勝入りと好相性。以後、中野にとってドル箱バンクとなった。
【18】平成19年7月10日(火曜)
気持ちよく初タイトルへーと昭和52年11月26〜28日の「第19回競輪祭・競輪王」に臨んだ。岸和田記念を完全優勝の後、兄貴のように慕う矢村正にお願いして、熊本で3泊4日の合宿を張った。良くなったリズムを、さらにパワーアップで「競輪王」を奪うためだ。前検日には「調子は最高」ときっぱり。言葉通りに、初日はスパーダッシュでホームから一気に仕掛けて逃げ切り。飛び付きをねらった荒川秀之助を置き去りにするなど、2着に5車身の差をつける圧勝だった。ところが、準決勝はゴール前で粘りを欠いて、情けなくも5着に沈んだ。自信満々の表情が、一転して強ばり、一言も発せずに九州地区の控え室へ戻った。誰も声をかえられない。大の字に寝た中野。毛布を頭からかぶって、悔しさと、不甲斐なさで、五体が震えていた。藤巻昇が「プレッシャーに負けたんだよ」と中野の代弁をした。その声を聞きながら、中野は「もっと逞しいレースをしないとダメだ」と思い直すと、気持ちも落ち着いた。翌日の最終日は決勝前の順位決定戦。得意のまくりで1着を占め、なんとか気を取り直すことができた。世界選の“金メダル”も忘れられるぐらいのオールスター、競輪祭で受けたダメージを晴らすには、勝つことしかなかった。12月の記念も広島21C着、久留米11E着で終え、新たな年へ向かう。
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【19】平成19年7月11日(水曜)
デビューから3度目の正月(昭和53年)がやってきた。“ビッグレースに弱い中野“ーこんな烙印が押されてしまった。中野浩一の力は抜群でも、肝心の所で勝てない。昨年も優勝を10回(記念10回、TR1回、普通1回)をマークしながら、ビッグの決勝戦に乗ったのは“金メダル”を獲得する前のダービー(113F着)と高松宮杯競輪(1121B着)だけ。オールスター競輪、競輪祭は惨めさだけが残った。だから実家近くの高良神社への初詣では「平常心を失わない。4大特別競輪の決勝進出」と誓った。タイトル奪取には時間がかかるが、53年の初走は甲子園。1月7日から中田毅彦を寄せ付けずに、あっさりと完全V。続く佐世保記念では大和孝義、荒川秀之助を相手に21@着で記念V。さい先良く“競輪選手”を始動した。3月の“みちのくダービー”(平競輪)まで、中野は7場所走って1着14回、2着3回、優勝4回と、昨年同様に、初タイトルへも希望がわく快調さだった。ところが…またも女神はそっぽを向いた。平競輪の「第31回日本選手権(ダービー)」で4141着。最終日の順位決定戦は逃げ切っているのに、準決勝では中途半端なレース運びで4着。“1年の計”は、いきなり崩れてしまった。
【20】平成19年7月12日(木曜)
ダービー後は四日市記念を欠場したあと、中野浩一は武雄失1@着、高松11@着、平塚21@着と記念を4連覇。5月は別府記念11A着で惜敗したが、招待されたパリ・グランプリでも強行日程のなかで3位と健闘してきた。ただ、帰国後の高知記念18(滑入)欠で、リズムが狂った。3度目の「高松宮杯競輪」を前に、不吉な流れだった。この「第29回高松宮杯競輪」は予選2走の着順点で勝ち上がるシステム。よほどのことが無い限り、中野は上位レースへの進出も堅かった。だが、びわこの女神は、またも試練を与えた。第1戦で絶好の展開に持ち込みながら、スピードが乗らず外へふくれたまま。ゴールは7着。第2戦でバンクレコードの14秒1で1着を手にしたが、同得点が4人いた。選考順位とか持ち億点上位とか、そんな特典はなかったから、平等に4人の抽選だ。“残り2議席”は、ものの見事? にハズレ。ガックリしている中野は「抽選で乗るような選手じゃないんだから、あきらめろ」と、なぐさめのような、激励のような言葉をかけられたが、心は晴れない。「高松宮杯競輪」は初めて経験したビッグで、昨年は表彰台(3着)にも立つなど、思い入れも強かった。三度目の正直をもくろんだが、二度あることは三度…と非情な大会となった。
【21】平成19年7月13日(金曜)
イヤーな敗戦があっても、もう中野浩一は後ろを振り向かない。大好きな夏、世界選手権の季節がやってきた。ベネズエラで輝いた“金メダル”、今度はV2をねらって、また世界で、西ドイツ・ミュンヘンで目立つのだ。高松宮杯競輪の後は、福井21@着、前橋61@着と記念を連取。1月からの優勝回数も52年と同じ9回を数えた。賞金はビッグの決勝入りを逸していても4250万円(52年4897万円)を稼いだ。まずは順調に競輪の前半戦を終えた。
世界選手権への選考を兼ねた「全日本プロ自転車競技大会(通称・全プロ)」は5月13、14日に前橋競輪場で行われた。4千人を越える選手のなかから全国8ブロックの地区予選をクリアした選手が集う競技大会だ。中野は前年の覇者で、優先出場だった。もちろん世界チャンピオンは負けるわけがない。あっさりとスクラッチのV2を飾った。世界選が近づくと、マスコミの目も「世界の中野」に向いてきた。競輪の取材と違って、見ず知らずのマスコミの取材攻勢も増えてくると、中野は昨年までと違って、「チャンピオン」を意識するとプレッシャーを感じだしていた。
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【22】平成19年7月14日(土曜)
“V2”への旅には菅田順和、高橋健二、菅野良信も一緒だった。プロ・スプリントには中野浩一ともども4人がエントリー。心強いかぎりだ。「大会前まではV2とか書かれて憂鬱だったけど、結果は戦ってから出るものですからね。はっきりしているのは、自分はチャンピオンということです」。前チャンピオンのジョン・ニコルソンは2連覇で、東洋の無鉄砲な若者に敗れた。ワザがパワーに屈したのだ。だからといって中野がV2を飾る保証はない。パワーにワザを身につけてこそ真のチャンピオンだ。
この大会には、ニコルソンにジョルダーノ・トリニー、アマから転向した地元・西ドイツのデクター・ベルクマンが挑戦したきた。初顔のベルクマンの力量を、中野は量りかねていた。そのベルクマンは高橋を破り、準決勝でも菅野を倒して決勝にコマを進めてきた。当然、中野はストレートで決勝入り。地元の期待を集めて、スタンドはベルクマンへの声援で埋まった。
1本目はベルクマンの仕掛けを追っかけ、ゴール前できっちりと捕らえた。2本目は余裕を持ちすぎたのか敗れた。3本目は先行策に出た中野。ベルクマンは仕掛けず、内へ突っ込み、3〜4コーナーを併走のまま直線に向いたが、パワーは外の中野が断然。そのまま力強くねじ伏せた。ベルクマンが中野の左手を高々と上げて祝福した。菅野も3、4位決定戦で銅メダルを獲得、2年連続2つのメダルを持ち帰った。
【23】平成19年7月16日(月曜)
世界チャンピオンを2年続けた中野浩一。ヨーロッパなら、もうスーパースターの仲間入り。連日、新聞の紙面をにぎわし、リッチな生活も約束されている。ところが、日本は大違い。チャンピオンに対する価値観の違いだ。勝った瞬間は「すごい」と騒いでも、やっぱり暗いイメージの「競輪」の二文字がついてまわっていた。自転車選手・中野と競輪選手・中野は同じではなかった。
こんな“事件”もそうだ。ベネズエラで金メダルを獲得したときは、マスコミもでかでかと取り上げたが、あくまでもトップ扱いではない。巨人軍の王貞治(現ソフトバンク監督)がホームランの世界新記録の715号を放ったからだ。この時、中野は「野球が国技的な扱いを受けても、世界チャンピオンの評価も正当にしてほしい」と話していたものだ。競艇のモンスター野中和夫がプロ選手の所得で王を家督賞金で抜いたのが昭和51年。だが、王はすぐに推定7500万円の年俸を手にしてbPに。中野は53年の目標に「世界のV2」と賞金で王を抜くことを心に秘めていた。ところが、またもV2と時を同じくして王がホームラン800号目を放ち、日本国内は王の話題でもちきり。世界の中野は影が薄くなった。世界V2では、まだまだ存在感も薄いものだった。
「偉大な王さんをライバルと思うのはおこがましいが、王さんが8000万もらうなら、僕はそれ以上を稼ぐ。それも1億円にを目標にしたい。そうすれば世間の目も僕に向くでしょう」と“スポーツ=ケイリン”を願って、邁進したものだ。
【24】平成19年7月17日(火曜)
プロ・スプリントでV2を飾って帰国すると、昨年と同様に「オールスター競輪」が待ち受けていた。2年連続ファン投票は1位。“無冠返上”へ、中野浩一もそれなりの覚悟で臨んできた。世界選から帰国後は地脚の強化がほとんど。最後の1周(400b)を22秒3の好タイムで終えるなど、自信も深めていた。「第21回オールスター競輪」の開催地は西宮競輪。西宮球場の中に特設された組み立て式で、先行有利なバンク。以前は1周300bで8車立てだったが、この「オールスター競輪」を前に1周333b、9車立てに改装されていた。
注目のドリームレースは、高橋健二が菅田順和を制して逃げたが、中野は2角手前から仕掛け、3〜4コーナーで力任せにまくり切ったが、藤巻清志に抜かれて2着。「4角で足が思うように回らなかった」とガックリ。それでも準決勝はスカッとまくりを決めて決勝入り。
「相性の悪いオールスターでの初勝利。うれしいね。思い通りのレースができている。当然(優勝を)ねらいます」と力をこめていた。決勝は7番手の不利な位置から、高橋健二を抑えに行くが突っ張られ、ジャンが鳴る1周半前に強引に先手を奪った。いくら小回りでも、外で脚をロスしたのはマイナスだ。快調にゴールを目指した中野を、福島正幸ー天野康博が2角まくりを放ち、福島が4角で中野を交わすと、さらに天野が外を急襲して優勝。またしても中野は3着に敗れたが、先行での戦いは明日への希望がつながる貴重な一戦だった。詰めかけた3万4382人のファンも中野の積極策に拍手喝采だった。
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【25】平成19年7月18日(水曜)
世界チャンプは忙しい。中野浩一は西宮・オールスターで感触をつかんでも、すぐに取材などで東奔西走。もちろん競走でも手抜きはない。観音寺11@着、熊本11@着、花月園71@着で記念を連取。世界選前から5連覇だ。そして11月11日、大好きな岸和田記念へやってきた。「体調は万全じゃない。練習もできてないし。配分の詰まっているのは、みんな条件も同じです」と、口数も少なく、浮かない顔で競輪場入り。工藤元司郎が「ヤツ(中野)は不調と言っても、俺たちと力が違うよ」と、中野との実力差を力説。
不安混じりの中野でも、岸和田では別格。初日に11秒4のまくりで特選を制すると「踏み出しもスムーズだったし、上がり11秒4も予想外のタイム。ホッとした」と自信のほどをチラリ。2段駆けを決めた藤巻清志が「しめしめと思ったのに、イヤになっちゃうよ」と4着に沈まされ、中野の強さにあきれかえっていた。
13日の2日目は雨で一日順延、中野の疲れもとれた。14日は番手を回る絶好のレースで23歳のバースディー勝利。こうなれば手がつけfられない。決勝戦も「いいレースをしたい」と、後続の競りを誘って逃げ切った。記念戦は6連覇を含め、通算11回目の優勝を飾った。獲得賞金も6千505万1千円で、トップに立った。「ほんとうに練習不足でした。今、考えるとうまく優勝できましたね。この調子で競輪祭へ臨みます」と、中野は無冠返上へ、確かな手応えを感じ取ったのは確かだ。
【26】平成19年7月19日(木曜)
戴冠の日が近づいてきた。特別レースに10回目のチャレンジをする小倉競輪「第20回競輪祭・競輪王決定戦」は昭和53年11月25日に幕を開けた。「岸和田記念を終えて自分なりの練習を積んだ。今回は勝ち負けより納得のいくレースをします」。3年半の選手生活で心技体とも充実しきっているのを、中野は実感していた。いくら無冠でも、控え室の声は「今回は中野の優勝」が圧倒的だった。初日は村田一男のカマシ逃げを2番手で追う流れで1着。昨年の準決勝は敗れ号泣したが、今年はバックで内に包まれ3着もおぼつかない位置。それでも踏み込み写真判定で3着。このときばかりは「今年は泣かずにすんだ。もう無欲です」と笑顔、笑顔。2日間とも“脚あまり”の競走で、温存?した“世界の脚”は決勝戦で完全燃焼だ。
高橋健二ー久保千代志の世界選仲間が鐘前から誘導員を交わして先制。高橋は「僕が抑えれば中野君は5番手」と読んでいたが、味方の渡辺孝夫が「まだ早い」と踏み遅れて、中野は3番手に入るラッキー。こうなればバックから強烈なまくりを放って、中野は初めてビッグタイトルを勝ち取った。
「ゴールの瞬間、おもわず“やった”と声をあげた。3番手に入れた時、勝てると自信を持った。タイトルを取って“これでいい”という気持ちにだけはなりたくない。あくまでも4大タイトルを全部取ることを目標にします」と“全冠制覇”へのアタックを肝に銘じた。賞金も史上初の7千万(7432万5800円)を突破、12月の成績次第では8千万円台も夢ではなくなった。スパーヒーローは表彰台の中央がよく似合う。
【27】平成19年7月20日(金曜)
気分はすっきり。中野浩一はタイトルホルダーだ。世界チャンピオンが国内でも胸を張って「チャンピオン」と叫べる。そんな気持ち良さを、中野はどこでも味わえるようになった。大阪のキタやミナミに出ても、プロ・スクラッチV2の後、やっと顔と名前が一致されるように認知されだした。「初めは見たことあるなぁ、ぐらいだったけど、“中野さん?”と聞かれることも出てきましたね」。タイトルを手に入れたが、まだ“仕事”が残っていた。8千万の大台突破だ。
久留米記念は21@着できっちり優勝。地元で凱旋報告もできた。もちろん“超”の付く有名人だ。福岡県教育協議会発行の「県民と教育」という機関紙のインタビューには「自分に勝つこと」をモットーと答えた。常に“本命”の重圧を受けて戦ってきた。負けては元も子もなくなる。いかに精神的な負担が大きかったか。小倉の後の久留米戦なら、プレッシャーも相当なものだが、まさに『克己』を地でいく優勝だった。
晴れやかな昭和53年もラストランを迎えた。奈良記念で優勝すると8千万円をクリアできる。相手はだれであれ、中野はたくましい。21@着で優勝。8237万8600円で堂々の“王超え”をやってのけた。この1年、74戦1着51回、2着9回3着3回、着外11回、優勝は16回を数えた。この夜、大阪ミナミでは記者クラブの忘年会に出て、夜を徹して飲み、歌いまくったのはいうまでもない。
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【28】平成19年7月21日(土曜)
年が明けても猛威は止まらない。各スポーツ紙は中野浩一をでかでかと取り上げている。でも、マイナー扱い。あくまでも競輪面の限定だ。中野は常々、他のスポーツと同じように、ギャンブルという特異な目では見られたくなかった。昭和54年の元旦、2日からの久留米競輪に参加のため、午前10時に自宅をでて、バンクで練習だ。シーズンオフのないギャンブル競技は辛いが、これも仕事と割り切るしかない。正月競輪はファンも多い。強い中野が登場なら、なおファンも増える。いわば競輪場も稼ぎ時なのだ。そんな状況下で3連勝の完全V。昨年の甲子園と同様に気持ちよく滑り出した。
3月の立川ダービーまで、中野は優勝をとりまくるのだから、恐ろしい限り。久留米の後、玉野記念21@着、大宮記念21@着、西宮TR11@着、京王閣11@着まで昨秋の観音寺記念から前人未踏の12連覇を達成したのだ。土のついた佐世保記念11A着は逃げる中田毅彦の4番手を確保する理想の展開。ところが2番手の大和孝義にブロックされ、中田の逃げ切りを許してしまった。中田は「中野に逃げて勝つことだけを考えて練習してきた。自分の中で、中野の存在感がすごく大きかった。佐世保で勝ったとき、ほんとうにうれしかった」と大喜びだった。それでも中野はビッグレース前に連覇が止まってホッとしたものだった。
【29】平成19年7月23日(月曜)
打倒!中野を掲げて、関東勢の結束は、中野浩一には驚異の的となった。まず昭和54年3月26日の立川競輪「第32回日本選手権競輪(ダービー)」の決勝には尾崎雅彦に山口健治の東京コンビに、菅田順和、高橋健二、久保千代志もいた。最終的に中野はカマシの策を選んだのだが、地元開催で気合の入る尾崎ー山口は目の色が違った。尾崎は主導権奪取に燃え、山口は誰が来てもブロックの構え。中野は菅田と高橋を意識しすぎて、レースの絵を描くのが遅かった。仕掛けた時は尾崎がフル回転。中野のカマシはあっけなく不発に終わっていた。番手の山口が抜け出し、逃げた尾崎も4着に粘った。あきらかに力負けだった。
この東京コンビが吉井秀人らと“新フラワーライン”を結成して、この後も、中野を大いに苦しめ、その分、中野もパワーに頭脳もミックスして対処するなど、しばらくは競輪界も対決ムードに盛りあがった。世界選仲間の菅田が“フラワー”と手を組むにいたっては、中野も“孤軍奮闘”の図式だった。ダービーで8着に敗れ、以後は武雄記念22A着、川崎記念11@着、別府31D着、宇都宮記念42A着と安定した成績を残していたが、中野は「調子は悪くないのだが、調子の波に乗れない」と感じていた。
【30】平成19年7月24日(火曜)
宮杯を勝って、世界選V3も奪取ーこんな考えを中野浩一が描いても、もうだれも疑わなくなってきた。国内では“1冠”でも記念のV数から“競輪も中野”が浸透しだしていた。苦い思い出ばかりのびわこ競輪の「第30回高松宮杯競輪」の決勝戦が昭和54年6月5日に行われた。中野は特別競輪で初めて1111着と4連勝で進出した。ギアも3・54から3・62に上げて必勝を期して臨んだ。結果的にはこれが裏目に…。
逃げたのは吉井秀人ー谷津田陽一ー荒川秀之助ー阿部利美の東日本勢。5番手の中野にも味方がズラリ。矢村正ー国松利全ー田中巧ー菊地優が並んだ。得意のまくりで一撃! のはずだったが、びわこバンクの鬼門を中野は知らなかった。最終バック過ぎの3角で仕掛けるが、4番手の阿部が2度、3度と中野を見ながらフェイント気味にけん制。“浩一ダッシュ”はあまりにも簡単に封じられた。結果は4着でも惨敗だった。
「あの展開で、このメンバーで勝てないんだから…もう怖くない」と控え室で、こんな声も。「前(吉井)はかかっていなかった。自分では自信を持っていた。でも、それ以上に僕のかかりが悪かった。周回中も脚は重かったし…。ギア? 関係ないよ」と険しい表情で話した。そのころ3番手から内を抜け出し、5連勝で優勝した荒川が「中野は10年か20年に一人の選手。このごろは楽して勝とうとしているのか、力を発揮していないところがある。そこが僕らの付け目です」と思い切りの悪さの弱点を指摘していた。この言葉は中野の今後を変えていく。
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