【202】〜【211】我が中野浩一
【202】平成20年5月27日(火曜)
 62年4月に選手生活13年目に入った中野浩一。まだまだ衰える年齢ではない。今まで鍛え抜いた財産とキャリアで、タイトル奪取への野望を持ち続けるのだ。5月には大好きな「全プロ」がある。例年は、この頃から調子もアップ。そして、悲願の「高松宮杯競輪」にもアタックしなければならない。
 「6月までに調子をあげる。練習量も多くしているし、このままでは終われない」
 5月には中野の運命を変える出来事が起こった。平塚記念261着の後、甲子園記念を3連勝の完全優勝を飾り、“全プロ”から高松宮杯競輪へ向けて弾みがついた。
 “全プロ”は5月16、17日、熊本競輪場で行われた。世界の中野を語る上で、熊本は避けて通れない場所だった。11年前の「第23回全日本プロ自転車競技大会」(通称全プロ)は、この土地、熊本だった。
 中野は初めてスプリント(当時はスクラッチと呼ばれていた)に挑戦。前年に阿部良二(29期・岩手)が世界選のベルギー大会で日本人初の銅メダルを獲得、世界の空に“日の丸”を掲げた。そんな阿部に“九州のハヤブサ”中野が決勝で対決した。
 日本チャンピオンの阿部を倒すため、中野は力任せに挑んだ。ところが阿部のテクニックに歯が立たない。軽くあしらわれて2位に甘んじた。それでも世界選の一員に選ばれた。イタリアのレッチェへは、「世界選は金にならない」の名言? を残した阿部が代表を拒否した。関係者は若い菅田順和と中野にメダル継続の夢を託した。
 二人は準決勝をクリアできず、3、4位決定戦で戦い、中野は菅田に敗れて4位に終わった。この敗戦が“V10男”誕生のきっかけとなった。帰国後は銅メダルの菅田がもてはやされ、中野には見向きもしない。中野の“世界”は、ほろ苦い初体験だった。
 熊本で阿部に、世界選で菅田に、1対1のスプリントで屈した中野。その後、「力で負けたと思われるのがイヤでしたね。ワザとパワーのミックスに相手の性格まで知るなど、スプリントは奥が深い」と、スプリントの魅力にとりつかれていった。まさに熊本・全プロが日本の、中野の、歴史の舞台だった。

【203】平成20年5月29日(木曜)
 スプリントを初体験した熊本競輪場で、中野浩一は11年後に屈辱を味わった。引退したはずでもスプリントにエントリー。予選では佐々木昭彦を倒し、準々決勝に進出した。が、中野は対戦相手の本田晴美と戦わずに棄権を選択。世界選のスプリントを引退すると言った限りは、若い選手にスプリントを任せるのが当然だった。
 「スプリントは引退すると言ったんだから、ケイリンに賭けてみる。世界選で金メダルを取ってないんだから、ボクが挑戦する」
 米・コロラドでV10直後に、ケイリンへの挑戦を公言した。だから、本田に後進の道を開き、自らはケイリンでの代表権獲得に絞った。ところが、運命の女神は非情だ。中野はケイリンで4着に沈んでしまった。さあ大変だ。「世界選手権派遣選手選考委員会」は頭を抱えた。
 世界選には前年のチャンピオンは優先出場できる資格があった。V10男・中野も世界選への出場は可能と思っていても自然だった。しかし…。
 「中野の考えは甘い。競輪界の発展のために…と思っていたかも知れないが、業界関係者は必ずしもそうだとは思っていないよ。“中野がかってに(競輪界のためと)思っているだけで頼んだ覚えもない”という人もいるからね」とプロ車連関係者。
 “日本の宝”も、競輪界では“一選手”の扱いだ。あまりにも人間味に欠けた、冷たい言葉だった。競技終了後の「世界選手権派遣選手選考委員会」では、熟考のあげくスプリント優勝の俵信之(北海道)とケイリン優勝の井上茂徳(佐賀)が代表に選ばれたが、残りの5人は25日まで保留となった。中野の処遇をめぐって、意見がまとまらなかったのだ。
 「世界選の雰囲気は好きだし、今年も行って、ケイリンで頑張ってきたいね」
 中野は世界選へノミネートされるとばかり思っていた。欧米諸国の自転車関係者は、常に中野を“日本の顔”としてVIP並みの歓迎ぶり。英雄は、いつまでたっても英雄というお国柄だから、日本のように引退、敗戦など暗いイメージを与えると“ただの人”というわけではない。そんな気質は中野も大好きだった。

 【204】平成20年5月31日(土曜)
 世界選へ行けるのか、行けないのか、定かではないが、中野浩一はファンを大事にするのは変わりないこと。全プロの最後はドミフォン競技(バイク=ぺーサーと選手=ステイヤーが一体となって戦う)のオープンレースに急きょエントリーするなど、ケイリン4着の敗戦など気にもせず、熊本競輪場に詰めかけた4300人のファンに大サービスだ。
 こうして「第34回全日本プロ自転車競技大会」は幕を閉じた。中野は迫る「第38回高松宮杯競輪」(5月28日から)に向けて、伊豆・修善寺の競輪学校「サイクルセンター」で合宿を張った。松本整(京都)や荒金佳男(神奈川)らも参加した。例え世界選の代表に選ばれなくても、国内でのタイトル奪還へ、鍛えるのが当然だった。
 25日がやってきた。朗報は届かない。「世界選手権派遣選手選考委員会」は中野を選ばなかった。“日本の顔”よりも現時点の“実力”、いや“成績”を事務的に最優先したのだ。
 「全プロ大会の成績を優先し、1999年の日本大会を踏まえ、各種目で、現在、最強と考えられる選手を幅広く選考した」
 片折行・プロ車連理事長が選考理由に“成績優先”をあげていた。それでも選考会は午後5時から3時間以上もかかるなど、中野の処遇で意見が分かれたのも確かだった。
 「世界選のことについてはノーコメントにしてください。ボクは行くつもりでも、決めるのはボクではないですから。こればかりはどうしようもない」
 全プロ直後に、松井英幸(愛知)を破って、スプリントのチャンピオンになった俵信之(北海道)は「中野さんの名を汚さないように力一杯がんばります。みんなの期待に応えたいです」と希望に胸をふくらませて、ポスト中野に自信満々だった。
 そんな意欲の言葉を、中野から聞きたかったが、残念ながら、代表選手に選ばれずに、世界との付き合いも“中断”となった。
 結局、中野の「スプリント物語」は熊本で始まり熊本で終わった。というよりも中野という“日本の宝”を財産放棄してしまったのだ。

【205】平成20年6月5日(木曜)
 全冠制覇へ残されたのは「高松宮杯競輪」だけ。世界選への挑戦が叶わなくなったからには、国内で“一番”を奪回するしかない。中野浩一は62年5月27日、「第38回高松宮杯競輪」に出走のため、びわこ競輪場へやってきた。前検日は取材陣も多い。何を聞きたいか、中野自身は百も承知だ。
 「力のある選手を選んだと言ってるんだから、ボクは、そういう(力がない)見方をされてるんでしょう。今は目の前の宮杯に挑戦ですから、これぐらいにしておいて下さい」
 世界選の話題は極力避けた。それでも寂しさと、悔しさは、言葉からも感じとれた。そんな状況のなかでも、中野はバンクに、レースに、“世界の脚”を披露した。予選を3連勝、西王座も手に入れ、4連勝で決勝入り。念願の全冠制覇も目前だった。
 しかし、びわこの“女神”は、またも微笑まなかった(決勝4着)。滝沢正光がパワー全開で「高松宮杯」を3連覇したのだ。
 敗れても、“中野健在”をファンにはアピールした。合宿を張ったお陰か、中野にもパワーが蘇っていた。宮杯のあと、富山記念11@着で完全優勝を飾り、函館記念へ転戦した。通算500勝へ“あと1”だった。
 日本競輪学校が伊豆・修善寺に移って以来、26期以降で500勝に達した選手はいない。そんな歴史を、中野が新たな1ページに記録として残す。12年間で500勝は、ファンの支持に応えてきた証しだ。
 「いつも1着を、悪くても2着に、そう思って走ってきた。それでも、自分では1着以外は敗者と思っていた。だから負けると悔しかった」
 6月22日、函館競輪「開設37周年記念」の2日目、準決勝戦で、中野は500勝を達成した。初日は事故入着の8着で悔しい思いをしていた。だから、メモリアル勝利で、気も楽になって、決勝戦も勝ち名乗り。“浩一ダッシュ”の切れ味が戻って、宮杯前の甲子園から記念3連覇を飾った。

【206】平成20年6月7日(土曜)
 初めて世界選に挑戦した11年前から“日本の夏”を経験していない。大好きな世界選の季節が到来すると、中野は常に輝いてきた。果たしてデビューの50年以来、暑い夏を、どう戦い抜くのか。
 「今年の夏は日本で稼ぎますよ。(世界選のことも)何も考えずに、競輪に打ち込みます」
 個人でライセンスを取得すれば世界選のプロ・スプリントには出場できる。が、3位3度のケイリン(久保千代志、北村徹、滝沢正光が銅メダル)には、一国2人しかエントリーできない。スプリントは中野がチャンピオンだから出場できるのだが、中野はそこまで波風をたてるつもりはない。規則は守るタイプなのだ。
 「力が衰えたから世界選に行けないのじゃない。たまたま運がなかった。そう思っています」
 500勝の中野は、福岡の大先輩で1000勝を達成した丹村喜一選手(54歳)のパーティーに出席した。1341勝の松本勝明や石田雄彦、古田泰久、吉田実、中井光雄の“千勝男”のようなハデな活躍はなかったが、コツコツと1勝を積み重ねた丹村選手には初めての大きな勲章だ。中野も1勝の大事さを改めて思い知った。
 「ボクは、まだ半分ですよ。あと20年も競輪で走っているとは考えられませんね。でも1勝は大事にしたいし、体も常に健康でありたい」
 7月に入って、中野は安定した成績を残した。久留米記念21B着、福井記念11A着、そして向日町競輪場で開催の「全日本選抜」に臨んだ。先の高松宮杯競輪で中野をマークせずに滝沢正光マークを選んだ井上茂徳は弥彦記念(7月)の失格が悪質と判断されて出場停止。その宮杯で中野は井上にブロックされて“全冠”の夢が破れたのだ。
 タイトル奪還へ、中野は競輪学校で1週間の合宿を張って、万全を期した。その効果か、第1戦からまくりを連発させ、211着で決勝戦へコマを進めた。とくに2戦目では怪物・滝沢正光をまくって快勝するなどデキの良さを実証した。

【207】平成20年6月9日(月曜)
 国内では中野浩一ではなく滝沢がbPの評価だ。この頃の滝沢は記念を8連続優勝するなど、向かうところ敵なしの状態だった。高松宮杯競輪では中野を倒して“宮杯3連覇”を飾った。
 向日町「全日本選抜」では、中野も作戦を考えて臨んだ。自力では、滝沢を崩すのは困難を極めていた。ところが…。
 打倒・滝沢に、中野は本田晴美を目標にしたかったが、梨野英人が番手を主張。中野は九州同士で野田正に任せた。中野マークは4日間とも地元の松本整。井上茂徳が不在で、松本にはラッキーな大会だった。が、松本にとっても、野田―中野と並べば3番手、優勝を狙うには不利な位置だった。
 レースは滝沢の後ろで野田がイン粘り。野田が競り勝ったが、中野は内を抜け駆けるとき松本が接触落車。後続のもつれをしり目に滝沢が逃げ切り、野田―中野が2、3着に入るのが精いっぱいだった。
 全日本選抜が終わって、9月の宇都宮・オールスターまで、世界選組は日本を離れた。例年なら、中野のスプリント連続Vの話題で持ちきりとなるところだか、今年は静かなもの。ファンの関心も薄れかけていた。
 「ボクが行かなくても世界選を注目してほしい。新しいチャンピオンが誕生するかも知れないし、ケイリンでも金メダルを獲得するかもわからない。みんなが関心を持ってくれてこそ、ボクの10連覇も価値が上がるでしょう」
 灼熱の日本で、中野はレースに打ち込んだ。話す言葉に寂しさを隠しきれないが、競走ではハッスル、ハッスルだ。松戸記念32@着で優勝を手にすると、豊橋記念11@着、青森記念11@着を完全優勝。そんな流れのなかで、世界選の開催地、オーストリア・ウイーン市からビッグニュースが飛び込んできた。
 フェリー・デュシカ競技場で「1987年世界選手権ピスト競技」は8月25日から行われていた。1周250b、木製、最大カント45度。26日の注目のプロ・スプリント決勝には俵信之と松井英幸が進出。前年の米・コロラドでは銀、銅に輝いた二人が、中野のV10を引き継ぎ、期待通りに勝ち上がったのだ。どちらが勝っても日本の11連覇が確定した。

【208】平成20年6月15日(日曜)
 世界選の代表からはずれた中野浩一にとって、暑く、寂しい夏が終わった。しかし、オーストリアから届いた二つの快挙に、素直に祝福の言葉を贈った。
 「俵、松井君の金、銀メダル獲得おめでとう。ボクが初めて世界選に参加したとき、その壁の厚さに驚いたが、二人の活躍によって、日本のレベルの高さ、層の厚さを世界に示せたことを誇りに思っている。これを新たな出発点として、日本が持つ連勝記録をひとつでも伸ばしてほしい」
 ヤング俵信之と松井英幸で争った世界選のプロ・スプリント決勝戦。今年の全プロでは俵が松井を下して日本のチャンピオンに輝き、そして世界の舞台でも俵が松井を2対1で退けた。中野の後継者として、俵が日本11連覇の金メダルを胸に抱いた。
 「中野さんのV10なんて考えていません。それより、一年でも長く、このタイトルを守っていきたい」
 新チャンピオン俵は、初々しい言葉で、初の金メダルを喜んだ。
 俵の次は、ケイリンでの世界チャンプ誕生だ。初めてケイリンが世界選で採用されてから8年目。若い本田晴美と井上茂徳のコンビで世界の壁に挑戦した。初出場の本田のプレッシャーを緩和させ、そして好ガードした井上(銅メダル)。一度は連結がはずれたものの、すぐに逃げる本田マークを奪い返し、内を締め、外に張り、番手できっちりと仕事だ。もちろん本田のパワーは外国人にも負けてはいない。まさに“世界のホンダ”の爆発力だった。
 全プロで本田とスプリントで戦わずに棄権した中野。その時、中野が決勝戦で本田と争っていれば、世界選の代表に選ばれ、ケイリンにチャレンジしていたかも。しかし、本田は中野以上の若さとパワー、度胸の良さで悲願の金メダルを手に入れた。
 「本田君と井上君の息がぴったり合って、ほんとうに、よく金メダルを取れましたねぇ。ケイリンでも日本が勝ったのだから、スプリントとともに、今後とも二つのタイトルは勝ち続けてもらいたいですね」
 新たな世界チャンピオンの誕生と同時に、中野も世界との決別を、実感として受け止めていた。

【209】平成20年6月18日(水曜)
 オーストラリア・ウイーンから、もう一つ、日本に明るい話題が飛び込んできた。UCI(国際サイクリスト連合)の理事会が8月25日に開催され、満場一致で1990年(平成2年)に、日本で、アジアで初めての「世界自転車競技大会」の開催が決まったのだ。
8月20日から9月2日までの予定で、ピストが前橋市(グリーンドーム前橋)、ロードが宇都宮市と、開催場所も内定した。前橋市では世界選の誘致のため、ドーム競輪場の建設にとりかかった。
 「ボクが元気なうちに、チャンピオンでいる間に、一度は日本で世界選を開催してほしかった。日本での開催が決まってうれしいし、今まで世界で戦ってきたことが認められたのだと思っています」
 世界への気持ちが、また蘇るのか、中野浩一が、3年後、偉大なチャンピオンのままで“コンパニオン”として世界の仲間との応対に努めているのか、この時点では白紙の状態だった。
 俵信之のプロ・スプリント金、本田晴美のケイリン金、ニュースターの誕生というのに、選手団を迎える成田空港ではマスコミの反応も静かなものだった。ファンの関心度も薄く、偉大なスター中野を超えるには、まだまだ前途多難だ。
 秋を迎えて、大一番は宇都宮競輪場で開催の「第30回オールスター競輪」だ。ファン投票では、中野が7年連続、9度目のトップ当選を果たした。例年と違うのは世界選帰りというハンデがないこと。競輪選手・中野として、万全のデキで臨めることだった。
 「夏の前に競輪学校で合宿を張っていたし、脚の方は完全に戻っています。迷わずに、思い切って、その脚を生かせるか、どうかですね。もう世界選のことは、気にならなくなりましたね」
 気負いがあったのか、中野はオールスター競輪で惨敗だった。ドリーム戦は人気に応えられず6着。2走目こそ1着を奪ったものの、後は5、5着で決勝戦にも乗れずじまいだった。決して調子が悪いわけではない。歯車が噛み合わなかったのだ。
 その証拠に、直後の名古屋記念11@着で完全優勝を飾り、静岡記念11A着も好走。続く岸和田記念11失も1着で決勝ゴールを駆け抜けたが失格、脚に不安はなかった。
 
【210】平成20年6月20日(金曜)
 4年ぶりのタイトル奪取へ、中野浩一は小倉競輪「第29回競輪祭・競輪王決定戦」に臨んだ。世界選に出場できなかった年なら、是非とも勝ちたいのが国内のビッグレース。残すのは、この「競輪祭」だけ。優勝すればグランプリにも出場できる。
 初日から431着で決勝戦に名を連ねた。準決勝の1着で、久々にタイトルをねらえる状態だ。まして、九州の核弾頭・野田正が同乗なら、心強い限り。他には世界選のケイリンで金メダルを獲得してきた本田晴美や小門洋一、吉井秀仁、竹内久人らが進出。活きのいいヤング・本田に初タイトルの期待をかけるファンも多かったが、野田―中野の結束力は本田や吉井をねじ伏せるには、もってこいのコンビだ。
 野田がデビュー間もない頃、松田隆文が中野を尋ねて久留米へやってきた。松田は中野と同期だが、中野にとっては目標の選手だった。競輪学校から追いつき、追い越せを念頭に、中野は精進した。そんな中野に、松田は「(弟子の)野田をよろしく頼む。俺はビッグとかへの出場も少なくなるだろうし、野田の面倒を見てやって欲しい」と頼み込んだ。もちろん、中野は“来る者拒まず”の姿勢。二つ返事で、男の約束を受けた。
 食事をしたあと、スナックへ出向くと、野田は自慢の歌唱力を披露。マイクを持って歌いまくっていた。世界の中野の前でも物怖じしない野田は、大舞台でも怯む事はなかった。
 野田が「中野さんのために」と思ったのは当然だし、中野も「タダシ(野田)にお任せです」と全面信頼。果敢に攻める野田をマークから、中野は“番手まくり”でゴールを駆け抜けた。「第25回競輪祭」以来、4年ぶりのタイトルを手に入れ、やっと納得の笑顔をのぞかせた。
 3度目のグランプリ出場も決まった。猛威をふるう怪物・滝沢正光が王道をまっしぐらに突き進んでいる。世界選のプロ・スプリント金メダルの俵信之に本田が滝沢にアタックをかける大一番。中野の後を引き継いだ俵にマークして、2度目のGPを目指した。が、俵のまくりも滝沢に通用せず、中野は滝沢後位へ切り替えて直線勝負に持ち込んだが、滝沢を捕らえることはできなかった。かくして激動の62年が終わった。

【211】平成20年6月24日(火曜)
 新たな年は、中野浩一にとって、例年とは違う幕開けだった。一年の計に「世界選」のことが抜けた。競輪選手として、デビュー当時のように、好成績を残すこと、そうビッグタイトルの獲得と悲願の「高松宮杯競輪」優勝だ。
 63年の仕事始めはダービートライアルから。1回戦の川崎TRは11A着、2回戦の小倉TRは11@着の完全優勝。特選シードも文句なしの成績。昨年のようなギリギリの26位ではなかった。62年の後半からの好調さを持続させていた。以後も伊東記念11E着→西宮記念11F着。そして立川競輪「第41回競輪ダービー」が始まった。
 第37回大会から滝沢→清嶋彰一→滝沢→清嶋とくれば「第41回競輪ダービー」は滝沢が勝つ番だ。昨年の賞金は1億3千万円を超え、中野も及ばなくなっていた。世界選のケイリンで金メダルを獲得した本田晴美、そして中野に井上茂徳、三宅勝彦、佐古雅俊、馬場進、山口健治、今村保徳らが決勝戦に乗っていた。本田が逃げて、中野がまくるどころか、滝沢が怪物パワーを発揮してまくりで一撃。ダービー3度目の優勝を飾った。中野は目立たない4着入線だった。
 しかし、中野のターゲットは「第39回高松宮杯競輪」だ。滝沢の強さや本田の果敢さを、、身を以て体験できたのは、大きなプラスだった。後2ヶ月。中野は快速ぶりを取り戻してきた。武雄記念(141着)こそ準決勝で取りこぼしたが西武園記念11A着(準決勝でバンクレコード樹立)→高松記念21@着→川崎・国際競輪21@着と、好ムードで宮杯に乗り込んだ。
 成績こそ414着だが、しっかりとした走りで決勝戦に進出。宮杯3連覇中の滝沢が人気を集めたが、中野には意地があった。悲願の宮杯を勝ち取るには、一番強い男・滝沢を倒さなければ道は開けなかった。
 井上茂徳に富原忠夫、佐々木昭彦・浩三兄弟と味方も万全。中野が優勝するお膳立ては整った。が、女神は微笑まない。会心のまくりを放った中野が、これほどゴールが遠く感じたことはなかった。「勝てた」と思った瞬間、鬼脚・井上が鋭く交わしていた。
 全日本選抜も手に入れており“全冠制覇”を達成した井上にガッツポーズはない。中野は井上に向かって、何かしゃべっていた。その内容は「来年もあるやろう」だった。
 この時、中野は引退する最後の、最後まで、宮杯を獲得するために、あきらめないと肝に銘じたのだ。