◆93〜102◆楽しき取材日記
【93】平成20年4月24日(木曜)
 和歌山競輪の「サンスポ杯・紀州てまり賞」後節はダービーTR2回戦として行われた。優勝戦(58年2月12日)で一枚看板を背負ったのは近畿のエース亀川修一だった。TR1回戦を3連勝、この2回戦も3連勝と、パーフェクトで前橋ダービーへの出場を決めた。
 ダービーへ出場153人中、亀川ただ一人6連勝をマーク。ダービー優勝への期待もふくらんできた。「この感じをダービーまで持続させたい。選手生活でも今が一番のデキ。優勝戦に乗りたい」と慎重な中にも“タイトル盗り”への意欲をみなぎらせた。
 1号車の亀川。藤本達也や小磯伸一を制してスタートを決めた。勢い余って誘導員の内へ差し込んだため、失格審議の対象となったがセーフ。確定のアナウンスと同時に「よし、やった」と力強くガッツポーズ。それほど、この優勝へ全力を投入していたのだ。
 緒方浩一と国持晴彦が入れ替わり立ち替わり亀川の後位を奪い合った。赤板前で野田正が動き、さらに石川浩史も上昇すると、亀川は石川―野田をすっぽりと迎え入れた。2角先行の石川、番手の野田は「直線勝負に持ち込めば勝てていた」が、先行選手の宿命か早めの踏み込み。これでは3番手の亀川が勝って当然だった。
 「よう伸びたなぁ。よかったやろ。6連勝はボクだけやな」と、控室の亀川は自信たっぷり。
 暮れの31日から1月5日まで中野浩一、矢村正とハワイで4泊6日のバカンスを楽しんだ。自転車のことは忘れ、毎日、ゴルフに明け暮れた。帰国後、9日には玉野記念の前検入り。練習どころではなかったが、この玉野記念を優勝した。
 「玉野へは気楽に行ったつもりやのに優勝やろ。こんなこともあるんやね」
 いつもはハード練習(合宿も)―調整―実戦へ、豊富な練習量が支えになっていた。ところが玉野記念の優勝で新分野を開拓した。実戦に臨む心構えさえ充実させていれば、レースで力を発揮できることを悟った。玉野の後は、弟の昌宏(48期)とみっちり乗り込んだ。ハワイ休みの分を取り返し、ダービーTRへ向けての練習だ。
 「今は自然に外へ、外へと踏んでいる。意識してまくりを狙ってないし、気持ちと脚がぴったり噛み合っている」
 大宮記念51B着で井上茂徳を破り、別府TRは2角まくりの中野を鋭く差し切った。その勢いで和歌山も優勝。本番の前橋ダービーは中野―井上―亀川でまくり、井上が差して、亀川は3着に終わった。結局、亀川のタイトルは“競輪祭・新人王”だけだった。

【94】平成20年4月29日(火曜)
 58年4月から競輪の番組編成が変わった。これにともない選手の級班制度も大幅に変更されることになった。日本自転車振興会を中心に関係団体が4年がかりで研究を重ねたシステム、当初はKPK(競輪プログラム改革委員会)競輪と呼ばれ、一昨年末には“新層別トーナメント競輪”としてすでに実施されている。さて、4月から本格的に新番組制度が発足して、目的通りに車券売上減少に対するカンフル剤となりうるかが注目される。
 ◆級班別の改定◆
 従来のA、B、二階級制をS、A、Bの三階級分類とした。これは同じA級でもA1選手とA5選手では、あまりにも力が違いすぎて勝負にならないので、今までのA級に相当する層をS級(スター)とA級に二分したもの。最高位のS級1班の定員は130人(旧A1班は120人)と決められている。
 ◆準記念を新設◆
 特別競輪、記念競輪と普通競輪のほかに準記念としてのタイトル戦(呼称は各競輪場ごとに決める)が登場。S級選手は準記念以上の競輪に出場し、B級選手は普通開催だけに走る。
 ◆新人リーグ◆
 今春デビューの51期生(特に50期生をプラス)以降の新人は、従来の新人戦と同じシステムでB級を走り、その結果によりA1からB2までの級班別を認定する。
 以上が主な変更事項だが、そのねらいは実力の接近したメンバー構成により競輪独特の低配当(百円台のレース)をなくし、ひいては売上の増加をはかろうというものだ。ニュー競輪は車券作戦も難解エースが増えるが、当たれば“取って損”はなくなるはず。新システムに期待してみたい。
 
 競輪界始まって以来の大改革だったが、売上が伸びたのは電話投票と相互場外発売の効果だったのではないか。競輪自体は難しくなり、“当たりにくい”状態が続いている。
 平成14年4月にKPKが廃止され、S級2班制(S1、S2)とA級3班制(A1、A2、A3)になった。そして、平成20年1月にはS級S班がS級の頂点にしてS級3班制、A級には「チャレンジレース」が組み込まれ「A1・A2班戦」「3班チャレンジ戦」に分類された。“当たりやすい”チャレンジ戦は好評でも、総体的には難解戦ばかり。だから売上低迷に歯止めはかかっていない。こんな状況なら、「楽しき…」どころではなかったかな。

【95】平成20年5月2日(金曜)
 藤野淳司(兵庫)が強烈な追い込みで、初の準記念優勝に輝いた。岸和田競輪の準記念「スターカップ」争奪優勝戦は58年5月7日の第10Rで行われ、最終バック8番手の藤野が、4角で前団のもつれた中へ切り込み、シャープに伸びて1着。2着には藤野に続いた京田晃が8分の1輪差で突っ込み、人気の大井栄治、佐野裕志、新井正昭らは6、7、5着に敗れた。
 激しい戦いだった。前受けの大井―佐野―藤野―京田に対し、阿部良二、新井―安福洋一―菊谷修一が攻めて行った。打鐘で新井を阿部がかぶせると、大井は阿部に内へ押し込まれ、さらに安福―菊谷で“HSカマシ”の手に出た。
 いったん車を下げた新井が堀一男を連れて、安福―菊谷3番手へ入った。そして阿部―大井―佐野―藤野―京田で追走。
 バックで大井がまくっていく。堀が大きく牽制。新井も菊谷に合わされた。ガラッと空いた4角手前、藤野は猛スピードでインをついた。2番手絶好の菊谷が安福を交わすと、藤野は外へ踏み一気に通り抜けた。さらに京田も迫ったが、藤野に軍配が上がった。
 「4コーナーで内が空いて、思い切って突っ込んだ。この1勝を踏ん切りに、あまり大きなことは言えないが、高松宮杯では西の王座戦(準優戦)ぐらいまで進みたい。このあと合宿を張って、万全の体調で宮杯に臨みます。この優勝は本当にうれしい」
 藤野は3月の前橋ダービー初日の一次予選で、ホームから逃げて、松本秀浩に番手まくりを許しながら、追走の国持一洋に飛び付いて競り勝ち2着を確保。「やったでぇ、どや」とガッツポーズ。応援していた佐野裕志が「国持さんに勝つなんて…」と目を白黒。斉藤哲也も「あんな芸当ができるの…」と口をあんぐり。そんな声をよそに藤野は「本気になったらあんなもの」と悦にいっていた。
 いつも脇役の藤野。それでも“大物喰い”で穴党には魅力の一人だった。
 ところで、藤野のS級優勝は、この岸和田だけで、8分1輪届かなかった京田晃はS級優勝を飾れないままだった。

【96】平成20年5月14日(水曜)
 「第34回高松宮杯競輪」(58年6月2日〜7日=びわこ競輪場)を前に、地元・京滋コンビとして松本整(京都)と西地孝介(滋賀)を取り上げた。ともに近畿の“スター”だった。
 ◆松本整◆
 ちょうど1年前の宮杯がビッグ初出場だった。その時の松本は「A級1班の人に名前を覚えてもらえるように先行」というものだった。つい最近まで、少なくても3月の前橋ダービーまでは「名前を売るのが目的」と言いつづけてきた。
 それが少し変わった。4月玉野準記念11@着、甲子園準記念23@着の連続優勝は、いずれも人気を背負っての戦いだった。本人は露払いのつもりでいても、いつの間にか横綱の土俵入りをする番になってきた。
 「宮杯は勝ちに行きます」。今まで抑えていた闘志を、今シリーズで一気に爆発させるつもりだ。
「最近になって競輪の人脈の難しさが分かってきました。なんか、こう、うっとうしいことが多くてね。それやったら、もう、なんも考えんと勝つ競走をしようと思いますねん」
 いまや押しも押されもせぬ中堅のスター。いつまでも“先行・大売り出し中”の看板をあげていても仕方がない。今回からは“勝負”の旗印を揚げて決戦に出発だ。

 ◆西地孝介◆
 西地にはひとつの宿題が残っている。中野浩一に勝つことだ。井上茂徳、高橋健二、吉井秀仁など、トップスターのほとんどに勝っているが、中野には一度も勝ったことがない。昨年の宮杯、第1走目に中野とあたり、佐野健次を連れて先行したが味方が少なく、まくられてしまった。
 「中野さんに一度勝ちたい」とチャレンジしていたのだが、今年3月の西宮記念、西地―中野―佐々木昭彦でラインができて、西地の大まくりに乗った中野が1着。「5月の別府でも中野さんはボクを前に入れてくれたんです。一緒のラインでボクが引っ張るんでは勝てっこないですよ」と喜んでいいのか悲しむべきなのか。
 「でも、中野さんと別の時は勝負しますよ」という。中野の周囲は九州で固まる事の方が多い。宮杯で、中野と勝負するシーンが見られそうだ。

 松本は失格に泣き、西地も予選を突破できなかったが、ともに気合をこめて、貴重な体験を、また、ひとつ積んだ。

【97】平成20年6月22日(日曜)
 「夢見てぇだ」と引き上げてきたのがびわこ競輪「第34回高松宮杯競輪」(58年6月7日)を獲得した尾崎雅彦(東京39期)だった。
 中野浩一が“全冠制覇”を賭けた大会で、尾崎はフラワー軍団の結束力の、絆の固さで、初のビッグタイトルに輝いたのだ。
 高松宮杯競輪には3年連続、特別競輪には6回目のチャレンジで、フラワー軍団の山口健治、吉井秀仁と初めて3人が揃って決勝入り。山口と吉井はすでにタイトルを手に入れ、二人は「尾崎に優勝させてやりたい」と公言してはばからなかった。尾崎も「うれしいっすねぇ」と素直に受け入れた。
 だから梨野英人―中野―藤巻昇が追い上げてくると、吉井がイン粘りで中野と競り。吉井が負けると、中野に尾崎―藤巻が続く。今度は中団から山口が2センターでまくり上げ中野を押し込みにかかる。この山口の作戦に中野がまんまとはまった。中野が山口を外へ張ると、尾崎は迷わずにインを猛襲した。これが鮮やかに決まった。
 「競輪祭で中野さんの後ろから抜きに出たとき、中野さんは外に張ってきたんですよ。だから、きょうはインがあくんじゃないかと思っていました」
 見事な“イン差し”。4角を回ったところで勝負の決着はついていた。
 「吉井さんが逃げて、ボクが番手まくりでも後ろは山口さんだし、その後ろの菅田さん(順和)も味方だから、いつでも出て行ける気楽な立場でした」
 尾崎はタイトルを取りたいという気持ちよりも、ラインで走る無欲さが、冷静に立ち回れた一因だった。
 「山口国男さんが練習嫌いのボクを引っ張ってくれた。今のボクがあるのは国男さんのお陰です。健治さんや吉井さんは大きい存在。一歩でも近づきたいと思っていたので、少しは近づけたかな」
 輪界のプリンスと呼ばれる尾崎。中野が世界選V4を飾ったときの銀メダリストは、やっと自慢の脚と端正なマスクを全国のファンにアピールできた。
 「みんなのお陰。オレ一人じゃとても優勝できなかったですよ」
 フラワー軍団のアシストに感謝、感謝の尾崎だった。

【98】平成20年6月26日(木曜)
 コンコルドに春が来た。中野浩一と世界を駆けめぐった菅田順和(宮城36期)が、デビュー8年目、特別競輪の決勝の舞台16度目で、悲願のビッグタイトルを地元・平競輪「第26回オールスター競輪」(58年9月27日)で手に入れた。
 中野が“九州のハヤブサ”と呼ばれれば、菅田は世界の大空を華麗に飛行する“コンコルド”と称された。イタリア・レッチェで中野を破って銅メダルを獲得して日本のエースになったが、翌年のベネズエラで一転した。中野が金、菅田が銀だったが、以後、中野がスーパースターとして“日本の顔”として世界を席巻。パワーで遜色の無かった菅田は、常に脇役に甘んじてしまった。
 世界でも国内でも中野に差をつけられた菅田だが、この平だけは違った。バックでまくる中野の後ろに、なんと菅田が取り付いていた。中野は仲良しの久保千代志とばかり思っていたが、ゴールで中野を交わしたのは菅田だった。積年の思いを一気に晴らすように、力強く、グイッと中野を差し切った。
 バンク内を何度もバンザイしながらウイニングランをする菅田。初めて手にしたビッグタイトル。ファン共々、嬉しさを隠しきれなかった。
 「長い間、お騒がせしました」
 実感のこもるインタビューでの第一声だ。持てるパワーを出し切れない菅田に、報道陣もファンもやきもきしていたからだ。
 「今回は練習中の落車で、出場できないかも知れないと思っていた。左の膝を動かすこともできなかったからね。まあ、欠場明けの調整は得意な方なんで、参加してから調子も上がってきました」
 師匠格の荒川秀之助に「宮城の誰かが決勝に乗ったら応援に行きましょう」と、オールスター前は、そんな冗談も飛ばしていたほど。それがフタを開けてみると、あれよあれよの快進撃。そして決勝ではフラワー軍団の一員? として、みんなが位置を譲ってくれた。滝沢正光―吉井秀仁の間に、菅田が割り込んだのだ。そして吉井は尾崎雅彦の後ろまで下げた。
 「タイトルを取れずに焦っていたが、それを考えると腹がたつので考えないようにした」
 30歳を手前に、菅田は初めて「競輪選手」を実感していた。

【99】平成20年7月4日(金曜)
 今でもS級1班で頑張っている萩原操(三重51期)だが、A級初戦の舞台は59年1月8〜10日の甲子園だった。初日から、まくり切って2着、準決勝はまくりが届かず2着。それでも決勝戦での評価は同期・渡会真幹(岐阜51期)の対抗格だ。
 大本命の島村栄治が準決勝で内に詰まったまま抜け出せず4着に沈んでしまった。このレースを見た萩原は思わずニッコリ。理由は決勝で“島村つぶし”を考えていたのが、一転して優勝のチャンスがふくらんだからだ。
 「島村さんは先行でしょう。どうすれば勝てるか、それを思っていた。だけど、こうなれば先行でもいい。本当はまくりが得意だが、そうも言っておれない」
 野原哲也、戸辺英雄、山田英伸で代表される51期。彼らよりデビューは半年遅れたものの、競輪学校では第7位にランクされた逸材だ。第8位の戸辺とは同班、同室で大の仲良し。それが今では一歩も、二歩も水が空いた。
 「よく“どないしてるのや”と電話がかかってきます。悔しいけど、いつも“今に見ていろ”の気持ちでいます。戸辺君はライバルです。これから少しずつ差をつめていきます」
 戸辺はS級へ特進、準記念も手に入れるなどスター街道をバク進中だ。萩原は今回がA級初戦。新人リーグでは52期に混じってしのぎを削った。優勝は12月の松阪(93@着)の1回だが、A級入り寸前に大器の片鱗をのぞかせた。
 「渡会君とは同じ境遇(半年遅れ)です。二人で思い切って攻めたい。中団ならまくりだし、渡会君がスタートを決めれば前で戦う。(優勝も)ねらっていく」
 父は稔。兄は誠(40期)。競輪一家で環境にも恵まれている。練習では片岡浩也にもひけをとらない。特進組が次々と脱落、いきなりV奪取の色も濃くなった。
 「ボクはB級ではマーク屋だったんで、決勝は萩原君にマークします」と渡会は、萩原にマーク宣言をしていた。だから、結果は渡会の完全優勝に貢献したのだ。萩原がA級初優勝を飾ったのは、甲子園から1ヶ月後の松阪11@着で、完全優勝だった。

【100】平成20年7月9日(水曜)
 和歌山競輪「開設34周年記念」前節(59年1月12〜14日)を前に、同期(45期)で仲良しの伊藤浩(大阪)、佐古雅俊(広島=現徳島)が、ともに記念初優勝を目指して、意気込みを語った。
 ◆伊藤浩◆ 「自信がつきましたねぇ。上位の人とでも、戦っていける自信ですワ。中野さん(浩一)を差し切ったのが大きいですね」
 昨年の競輪祭(231D着)で中野の2角まくりをズブリと差し切った。特別戦は8回目のチャレンジで初優出。“S(スタート)”の印に加え、力強い回転力も身についた。
 「今年は記念優勝を取りたい。そして特別戦の決勝に、また乗りたいですね」
 58年最終戦は伊東の準記念(22A着)。松本整のまくりに4分の1輪届かなかった。「勝てば良かったけど、それでもいい正月を迎えられた。練習も休まずやったし和歌山記念は“取りに行く”気持ちです」と、準地元の和歌山で“初笑い”をねらっている。
 仲良しの佐古だが、すべてを任すとは限らない。「特選は信頼します。でも、大阪の若い人と乗り合わせたら別線も考えます。今年はシビアに厳しく戦うつもりですから」とメンバーに応じて柔軟に臨む覚悟。それには日本一のスタンディングをいかすことだ。
 ◆佐古雅俊◆ 高松宮杯C、競輪祭F着―瀬戸内の“機関車”は全国区の仲間入り。競輪祭ではまくりきれなかったものの、中野浩一より早めの仕掛け。ヒョッとすれば…の期待を抱かせる活躍だった。
 「直線勝負でも良かったのに、とアドバイスされたが、自分で動いたのだから納得しています。勝負は今年ですよ。中野さんと戦えるようになっただけでも収穫です」
 よく“アリが象に挑むようなもの”と口にするが、なかなかどうして。アリのひと噛みは上位陣にとって脅威と映っている。
 「チャレンジャー精神は、いつまでも持ち続ける。弱気なところは見せたくないし、今年は何が何でもアタマねらい(1着)で行こうと思う」
 3年続けて年末年始が悪い。が、悪いなりにも暮れは優出をはずさなかった。「踏み込みはじゅうぶんです。初走からリズムに乗るためにも、和歌山はやり甲斐のあるメンバーです。ダービーTRも近いし、ここらで記念をとりたいですよ」と力強い。パンチの効いた自在戦、記念初Vへ大接近だ。

【101】平成20年7月12日(土曜)
 和歌山競輪「開設34周年記念」前節(59年1月12〜14日)は、初日特選で佐古雅俊―伊藤浩の仲良しコンビがタッグを組んで、佐古の突っ張り先行を目標に伊藤が先勝した。が、伊藤は準決勝で沈み、逆に佐古は競りを克服して決勝入り。そして“本命”の印を背負い、念願の記念初Vへ視界も開けた。
 決勝戦には佐古と人脈の菊池仁志が同乗した。準地元の菊谷修一も「佐古君の後ろ。競ってもいい」と、佐古に一目を置いていた。
 スタートを決めた佐古。菊池を迎え入れ、後ろは菊谷が確保。続いて服部良一ー大鹿隆史―蝦名隆―長井賢人―上山豊秋―佐藤正人。佐藤は長井か、上山の後位か、最後まで迷っていた。
 ジャンで上山が動く。が、菊池は最終ホーム手前で誘導員を交わして先行態勢に入った。佐藤は上山を捨て、割り込みを見せるが失敗。上山は再度、襲いかかったが、1角半で佐古のブロックにあってダウン。
 逃げる菊池。絶好の2番手を回った佐古は楽に抜け出して、初めて記念の優勝を獲得した。佐古に続いた菊谷が2着に入った。
 検車場でも、控室でも、いつもにぎやかな佐古が、優勝と同時に神妙な顔つきになった。“本命人気”の重圧をはねのけ、念願の記念Vを飾ったというのに、静かなヒーローだ。
 「緊張しているのか、何か勝手が違う。時間がたってから、喜びがわいてくるのでしょうかね。あまりにもすんなりいきすぎて…」
 レースで妥協を許さず、ドカーンと決めて、佐古の戦いは常にパワフルだ。それが菊池の逃げに乗って、踏んだのはゴール前だけ。このあたりに物足りなさが残っているのか。
 「菊池君は4着? そう。準決勝で抜けんかったし、決勝もよくかかっていた。強かったですねぇ。ボクもこの記念をきっかけに、中野さん(浩一)らにぶつかっていきますよ」
 ヘルメットの“広島の歩守男(ブッシュマン)”と書くほど、野性味にあふれた選手。瀬戸内のエースへ、佐古は新年早々、でっかい“仕事”をやりとげた。次はダービーTRから千葉ダービーへと、さらに希望に胸がふくらむ。
 そんな佐古も、結局、タイトルを手にできず、ビッグ路線から姿を消した。

【102】平成20年7月14日(月曜)
 和歌山競輪「開設34周年記念」後節(59年1月15〜17日)は、国持一洋(静岡28期)が1年6ヶ月ぶりの“美酒”を味わった。
 人気を集めた佐々木昭彦―井上茂徳の佐賀コンビは片岡克己―松村信定と突っ張りあって共倒れ。そんな流れで亀川修一の2角まくりに乗った国持に57年7月、福井以来の記念Vが転がりこんだ。
 カギを握ったのはスタートマン・笹倉重治だった。笹倉が誰を入れるかによって、流れが大きく変わるからだ。ポンと飛び出した笹倉。迷わず亀川に目標を置いた。
 亀川は「佐賀二人を前に」と、自らは自力の攻めができる位置に構える算段。佐々木―井上に亀川―笹倉―藤本浩が続き、以下、大橋秀人―国持―片岡―松村の順。
 流れは亀川の思い通りになった。片岡―松村―大橋で追い上げると、佐々木は突っ張り先行。佐々木は「下げて松村さんと競ってもよかったが、井上さんと一緒だし…」と片岡と激突。後ろの井上は「きれいな競りをしよう」と考えたが、マーク屋・松村はシビアだ。猛然と井上に襲いかかっていた。
 車を引いた亀川。この時、国持は笹倉を押しのけて亀川後位を奪っていた。ホーム先行の佐々木。宙に浮いた片岡は井上を内へ押し込む松村の前へ。佐々木―片岡―松村(外に大橋)で1角へ。
 早駆けのうえに、片岡との突っ張り合いで余力のない佐々木。亀川は1角半からスパート。が、亀川は直線に入って勢いが止まった。
 笑ったのは国持だ。「スムーズに伸びたね。カメちゃん(亀川)も苦しかったんだろうね。でも、この優勝はうれしいや」と、1年6ヶ月ぶりに味わう美酒をじっくり噛みしめた。
 腰痛で悩み、一時はダービー出場の補欠まで落ちたマーク屋・国持。その後も鎖骨を折ったり、落車の連続で“日本一のマーク屋”の看板も降ろしかけていた。蘇ったのは昨年の11月の競輪王戦(6111着)からだ。
 「休み明けで感じは戻らなかったが、いつも勝ちたい気持ちと、一生懸命レースをしよう、と心に決めていた。これからもそうです」
 前走の落車で自転車のハンドル位置が狂っていた。「ビデオを見て(決勝戦の)朝に直した。初日、2日目より伸びたのは、ハンドルを元に戻したから」と、2、2着に甘んじた欠点を見抜いたのも勝因だった。