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【162】〜【171】我が中野浩一 |
【162】平成20年1月24日(木曜)
ダービーが終われば全プロ、そして高松宮杯、世界選と“中野の夏”へ向かって突っ走る。4月の川崎記念41D着から高知記念11A着、四日市記念21B着、大垣記念21A着と相変わらずコンスタントに決勝入り。優勝できないもどかしさは残っても、ファンの期待には十分応えていた。
女性だけの“中野浩一ファンクラブ”が京都で発足した。事務局は“中野新聞”の創刊号を発行。タイトルは「NAKANOTIMES」でキャッチフレーズは「強い・速い・熱い…男の基本」だ。
ちょうど、向日町競輪場で「第31回全日本プロ自転車競技大会」が5月12、13日と開催されるため、事務局長の小川裕代さん(主婦)らは中野のインタビュー記事などを載せて配った。「中野さんは、とっても楽しい人で魅力です。中野さんさえよければ離婚だって…」というぐらい熱の入れようだった。
そんなファンの後押しで、中野は向日町で暴れ回った。10日は大阪泊まり。11日の前検日はタクシーで向日町へ。ところが「腹減ったぁ〜」で、阪急東向日駅近くで餃子に焼きそばなどを詰め込んだ。
国際ケイリン参加のため来日しているY・カールやO・ダザンら10人の外国人選手を蹴散らすためには腹ごしらえが必要だったのだ。
全プロ初日は、スプリントでシードされているため出番が無い。あっちうろうろ、こっちうろうろ。スタンドのファンも“世界の中野”の姿を追う。ちびっ子や中高生の少年が、サイン帳や色紙を差し出すとサラサラとサイン。暇を持て余していたが、午後になると体がムズムズ。レーサーパンツをはいてローラー台でウォームアップを始めた。
【163】平成20年1月25日(金曜)
新しい“ナガサワ号”に乗ってローラーを踏む中野浩一。メカニシャンの長沢義明氏から「何もしないのか? お客さんのお目当ては、お前(中野)なんだぞ。顔見せぐらいしろよ」とデモンストレーションを要求したのが始まりだった。そして「1000bでも計ってみるか」と追い打ち。中野も「それじゃー」と重い腰を上げたが、「1000bなら1分13秒ぐらいか。恥をかくかな。やっぱりスプリントか」と迷っていた。
勝てる確率の高さはスプリントだ。交歓競技でアマチャンピオンの中武克雄選手(シマノ工業)の相手を務める坂本典男選手(51期)が欠場。その代役として、中野がファンサービスを兼ねて出場を買って出た。
スタンドは大喜び。中武選手はロス五輪の代表選手。スプリントでは“プロ”だ。中野が7連覇を達成したときも、中武選手のアドバイスが力となっていた。ファンだけでなく、控室に戻っていた選手も、中野登場を聞きつけてバンクに戻ってきた。
ギアは練習用の47×14Tに新車のナガサワ号。サドル調整などを簡単にして臨んだ。未調整の中野に、スタンドから「中武、頑張れよ」「中野は調子が悪いぞ」「中野、アマに負けるな」など、声が飛んだ。
中武選手が先行すると、中野は「中武君は先行タイプじゃないからね」とマーク策で勝算ありと思っていた。ところがアクシデントが起こった。中武のスピードに付いて行って、2センター過ぎから抜きに行った。さすがの勢いだったが、あろうことか中野のサドルがグニャッと曲がって、力がスーッと抜けた。なんと、中武選手の逃げ切り勝ちだった。
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【164】平成20年1月28日(月曜)
ガッツポーズの中武克雄選手。「中野さんがオリンピックで頑張れよと、勝たしてくれたんですよ。でも、うれしい」と興奮気味。中野浩一は「いいんじゃないの。オープン参加だし、サドルも曲がったんだから。足馴らしとしては上々のデキ」と余裕たっぷりに振る舞った。
しかし、翌日の新聞には「中野が負けた」「中野、中武に完敗」の見出しが躍った。「もう書いたらあかんと言うたのに」とクレームをつけたが、もちろん冗談。大会2日目のスプリント、ケイリン競走出場へ、いい刺激となった。
中野のスプリント初走(二次予選)は富原忠夫が相手。富原が先行に入りかけると、中野は2コーナーから一気にダッシュ。そのまま逃げ切って10秒96のタイム。「うん、いいよ。グッと力が入った」とご機嫌。この種目には坂本典男、渡辺幹男の“幻の五輪代表”もいた。渡辺は北日本地区プロで菅田順和を破って優勝している。
坂本、渡辺は「中野さんがチャンピオンでいる間に、勝って世界選へ行きたい」と言っていた。準々決勝では渡辺が相手となった。渡辺は“ワザ”で中野に挑んだが、パワーでねじ伏せて快勝。準決勝も山田英伸を圧倒して、坂本との決勝戦に臨んだ。
「どんな手でくるか、それが心配」
1本目は坂本がインから逃げたが、中野がバックで追いつくと、勢いのまま“3角まくり”で制した。そして2本目を前に、世界選で味わうプレッシャーが襲いかかってきた。
「あと1本。曇ってきたから雨が降って中止になればいいのに」とか「坂本君、負けてくれないかぁ。頼んでこようかな」と情けない声をだしていた。
【165】平成20年1月29日(火曜)
スプリントの決勝、2本目を前に坂本典男は「90%勝てないですよ」とギブアップ宣言していたのを、中野浩一は知るよしもなかった。王者の前に、圧倒された坂本。2本目は中野が先行した。坂本の奇襲を警戒しながら、徐々に加速をつけて、2コーナーではペダルをフル回転。後ろも見ない。テクニック封じにはパワーを生かすしかない。世界で身についた、中野式のスプリントだ。
坂本が半車身差まで迫った時には、中野が国内V7のゴールを駆け抜けていた。そして電光掲示板には“10秒57”が映し出された。スタンドはどよめき、観戦中の選手も一様に「10秒57とは信じられない。怪物や」と口をあんぐり。
「いい感じだったよ。久々に前だけ見て踏んだ。いいタイムだね。今日だったら中武君(克雄)にも負けなかったよ」
正式発表は10秒63だが、中野の公式試合では新記録だった。
こんな破格の時計に「しばらくモヤモヤしていたけど、これで吹っ切れた。もう一度、出直すには、いい全プロだった」と満足感を漂わせた。
新車のナガサワ号ともピッタリ。チャンピオンセーターの着心地もいい。次はスペイン・バルセロナでの世界選手権でV8への挑戦だ。
「いやいや、決めてませんよ。白紙の状態です。世界選の選考合宿には入ります。ボクにとっては後半戦へむけて、内容のある練習ができますから」
世界選から帰国後に備えて、選考合宿は中野に不可欠となっていた。まず高松宮杯競輪で全冠制覇にアタック。そして6月8日からの選考合宿(西武園競輪場)に参加。総勢31人の“候補”と練習に明け暮れてから答えを出す。
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【166】平成20年1月30日(水曜)
「スピードが戻ってきた」を実感した全プロ。直後の宇都宮記念21@着で、3月の西宮以来の記念優勝を飾った。5月31日からのびわこ競輪「第35回高松宮杯競輪」へ向けて万全の態勢が整った。
“宮杯”に9度目のチャレンジを前に「去年はね、オレが(井上茂徳より)先にと思っていたけど、今はどっちが先でもええんよ。西の者が勝たんと」と“全冠先取り合戦”に執着していなかった。あくまでも西日本、それも九州の誰かがタイトルを手にするのを願っていたのだ。
前検日の59年5月30日は近畿地方を中心に連続地震が襲った。最大マグニチュード5・5。新幹線も遅れ、群馬、栃木の選手は米原駅手前で2時間も足止め。“荒れる宮杯”のキャッチフレーズ通り、なにやら不穏な空気が漂っていた。
“全冠”を目指す中野と井上は空路で伊丹空港に着き、キャラバンタクシーで一緒にびわこ入り。注目の人へ、カメラマンも殺到。ツーショットを撮りまくった。
「優勝(宇都宮記念)の味はいいねぇ。特別な練習もしなかったし、全冠よりも、まず決勝戦に乗ること。そこで運があれば取れるでしょうね。強い人ばかりがいるから運が左右しますよ」
一次予選の組み合わせを決める無差別抽籤で、中野は「L」を引いた。なんと井上も同じ「L」を引いて、まずはひと安心。
「えっ? シゲも一緒? ええやない」
一人より、二人の方が組みしやすい。それも“史上最強タッグ”を言われる井上と同乗なら、中野にかかるプレッシャーも軽減される。まずは二人でワンツー決着だ。
【167】平成20年2月1日(金曜)
配当金は210円―“全冠制覇”を目指す中野浩一と井上茂徳は、宮杯初日の一次予選で同じ組。当然、ファンの支持は高い。押し切るか、差すか、の二者択一だ。買いやすい車券に、大口投票もどっさり。この日は尾崎雅彦や梨野英人の有力どころが8着に敗れ、損失補填に中野―井上の車券を“まとめ買い”したのだ。
“荒れる宮杯”でも、中野、井上はしっかり運んだ。中野は最終ホームで佐古雅俊にからまれたが車を下げ、細川忠行のまくりに乗って快勝。井上もぴったりマークだ。中野は最終バックで佐古に“お返し”の押し込みをするなど、レース運びは余裕たっぷり。
「(佐古に)からまれたけど、別に気にしてなかった。後ろ(井上)が信頼できるから慌てなかったでしょう。(自転車が)スムーズに出たね」
個人ラップは13秒88をマーク。初日の一番時計だ。そして井上とのワンツーで210円の配当。一番人気に応えた。2日目は休養日で、一次予選2回戦は3日目だ。
「3日目から連チャン。相手は誰でもいいよ。いっちょう、逃げてみるか」
気持ちはリラックス。2日目に藤巻昇が通算500勝を達成すると「いま422勝か。あと2年やね。ほんとは10年でやろうと思ってたんよ」と心の“秘密”までポロリ。競走と同様に舌の方も乗ってきた。
3日目の10R。中野はジャンで抑えると、型どおりの2角先行。1角半から佐古がまくってくるのを引きつけてフル回転。14秒1のラップで逃げ切った。
「レース前から先行でいいと考えていたんよ。ちょっと流しすぎたけどね。二次予選も別にやりにくい相手もいない。なんとかするよ」
二次予選は富原忠夫に乗って1着。3連勝で西王座戦へ。井上も213着で進出。“全冠合戦”はヒートアップしてきた。
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【168】平成20年2月2日(土曜)
東日本は尾崎雅彦が一次予選で、滝沢正光、吉井秀人、菅田順和が二次予選で、戦わずして中野浩一の前から消えていった。最終日の決戦を前に、まず「西王座決定戦」で、しっかりと地盤固めだ。
「ボクは王座を取っているし、とにかく決勝に乗れるように走る。戦法? 何でもいいよ。勝負を賭けるのは決勝戦だからね」
過去、西王座は5回進出して4回の優勝。それが“宮杯”となると、女神も微笑んでくれない。だから、勝つよりは負けた方がいいのかも。
西王座のメンバーは@高橋健二A佐々木昭彦B片岡克巳C大鹿隆史D中野浩一E西山良兼F国松利全G中嶋直人H井上茂徳の9人。
佐々木が「中野―井上さんの前を走りたいが…」の希望を持って臨み、中野―井上も佐々木に前を任せた。叩いた高橋を片岡が1角半からまくり上げ、佐々木は前方のもつれで仕掛け遅れ。片岡が3角でまくり切ると、中野が3半まくりで1着。井上は一瞬、中野から離れ、それでも3着をキープした。
「あーぁ、1着は優勝にとっておきたかったのになぁ。勝ってしまった。どうしよう」
顔で泣き、心で笑う、中野はなんとも言えない複雑な胸の内だ。5回目の王座Vに4連勝で決勝へ進んだのは4回目。ことごとく“宮杯”とは縁がない。
「4連勝の優勝は競輪祭(56年)であるけど、5連勝がねぇ…。何でやろ。方角が悪いんかな」
つまずきは「28回大会」でハイセイコー岩崎誠一にブロックされても、力ませにまくり切って3着に沈んでからだ。
「今は取ってやろうなんて考えない。全力を出し切って、あとはツキと運を天に託すしかない。とにかくファンも自分も納得のいくレースをしたい」
東王座からはフラワーのドン山口国男と健治が進出。中野、井上の全冠阻止へ兄弟で牙を剥く。一見して中野―井上が有利でも、バンクの上では何が起こるか予測がつかない。
【169】平成20年2月4日(月曜)
なんと、なんと、中野浩一も井上茂徳も最終ホームで落車だーびわこ競輪「第35回高松宮杯競輪」決勝戦(59年6月5日)は、後味の悪い幕切れとなった。
決勝戦のメンバーは@山口健治A井上茂徳B藤巻昇C山口国男D片岡克巳E佐藤彰一F中野浩一G国松利全H佐々木昭彦の9人。
目標のない健治―国男の山口兄弟は片岡―国松の岡山コンビと結束のムード。中野―井上は佐々木に任せる。藤巻―佐藤は一応、中野ラインに加担のケース。「4、5番手なら何とかなる」の中野。そうなれば“全冠合戦”も一騎打ちなのだが、びわこのバンクには“魔物”が住んでいた。
佐々木―中野―井上で前受け。片岡―国松―健治―国男で追い上げてくると、佐々木は突っ張りながら岡山コンビの分断に乗り出した。この時、中野のハンドルをめがけて山口健治が体当たり。バランスをくずして転んだ中野に井上、さらに藤巻も乗り上げて落車。山口健治は失格となった。そんな波乱レースで優勝を奪ったのは片岡の番手を奪った佐々木。初のタイトルを手にした。
喜びのウイニングランをする佐々木とは対照的に、担架に乗り、右腕で目を覆って引き上げてきた中野。後頭部を強打し、右大腿部、右胸部も…一瞬、意識不明になっていた。
ひと息ついて、「昭彦はどやった? 優勝した? よかった。ようやったねぇ」と笑みを浮かべ、またベッドに横たわった。大事をとって競輪場近くの伊藤外科へ検査を受けに行った。
タクシーに乗る前に「(山口が)ハンドルをめがけて当たってきた。まだ身構えていなかったから…。あとは分からん」と後頭部を痛そうに押さえた。
“全冠”の夢も、縁の無かった“宮杯”のタイトルも、ラフプレーの前に打ち砕かれてしまった。また来年、心に“傷”を残しながら帰路についた。
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【170】平成20年2月5日(火曜)
ある選手が「いつもやられてるんだから、たまにはやり返せよ。しまいに殺されてしまうぞ」と中野浩一に言った。が、中野は「ボクの立場では何もできないでしょう。受け身ですよ。ファン無視の競走はできない」と答えた。
また、中野のハンドルワークの未熟さを指摘する声もあった。「あんなの普通の競りだよ」と。ただ宮杯の決勝戦は、明らかにハンドルへ照準を当てた“故意”の中野つぶしだった。たとえ中野でなくても転んでいただろう。
中野に乗り上げた井上茂徳や藤巻昇は不運だ。井上は軽傷でも、藤巻は中野とともに救急車で運ばれた。両手指を裂傷、縫合した。その時、藤巻は「イチ(中野)、もっとシビアになれよ」と、今後に対してアドバイス。「ハイ」と素直に受けた中野。静かな病院の控室で、中野は藤巻のたくましい姿を目に焼き付けた。
「藤巻さんには、よく苦しめられました。でも、ボクにとってはレースの師匠みたいでした。力で押しまくろうとしても、ワザで力を封じられてしまう。病気を克服するたびに力をつけてくるんですからね。ボクのいいお手本です」
宮杯初日に通算500勝を達成した藤巻。山梨から神奈川へ、そして夫人の故郷・北海道へ移住。45年から48年頃は“不遇”の時代。北海道へ移って、51年にオールスター(前橋)、55年に高松宮杯(びわこ)を優勝。大スターとして地位を確立した。それでも、オールスターの後に肝炎、高松宮杯の後に脊髄炎と、二度も生死にかかわる大病を患った。節制と不屈の努力で、復活した。
そんな藤巻の言葉は、中野の胸を打った。落車を回避するのも一策だった。正常な競りでも、内に包まれるぐらいなら、下げて仕掛けるタイミングを考えれば良かった。結果論でも、ラインの大事さより、勝つことへの執着心を持って最良の道を選べと、藤巻は言いたかったのだ。
【171】平成20年2月8日(金曜)
無念の結果に終わった「第35回高松宮杯競輪」が終わった夜、下唇に内側を切り、右大腿部は包帯でグルグル巻き、後頭部にはコブができている姿で、大阪泊まり。タクシーの中で「すぐに下げれば良かったかなぁ」と深いため息をついた。やはり藤巻昇の「シビアになれよ」の言葉が気になっていた。
「医者が吐き気をしなかったら頭は大丈夫と言ってくれたんで、肉でも食べますか」
ステーキを2人前に、ビール1杯、ワインも口にして、翌日の東京への移動に備えた。テレビの料理番組の録画撮り、競輪学校での講師、さらに親友の歌手・山本譲二の番組に応援出演と、痛さも忘れて東京で数日、過ごした。そして、久留米へ帰って精密検査を受けてビックリだ。右第7肋骨の骨折で全治3週間の診断だ。
「打撲だけの痛さではなかったんで、ヒビが入っているかも知れないとは思っていた。せっかくいい感じになっていたのに、またイチから出直しですわ」
配分の決まっていた富山記念、函館記念に世界選の選考合宿も欠場。それでも6月19日には世界選のメンバーにも当然、選ばれ、V8への挑戦も決まった。
「選考合宿には入りたかったけど、参加させてもらえなかった。“自分で練習しろ”と言われましたよ」
V6の時も宮杯で落車、強化合宿などで鍛え直してゴードン・シングルトンと死闘を繰り広げた。当時の状況とは似ていても、今回は“合宿”がない。この点が不安な材料だ。
「まあ、久留米にも若い子がたくさん出てきて、いい練習にはなる。ボクが逃げても、バックからまくってきますからね。ほんと、いい練習ですよ」
50期前後の若手が、中野の胸を借りにくる。余計に、中野もバンクへ顔を出すのが多くなって、合宿と同じように仕上がっていく。診断の1週間後には7月14日からの福井記念へ向けて、みっちり乗り込んだ。
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