【11〜18】頑張れ!岸和田競輪
【11=平成20年1月18日(金曜)】
 ◆不完全な初期の大阪住の江競輪◆
 その頃の住の江競輪場の走路は赤土と石灰で固めた和土であったから、自転車の疾走した後には轍が凹み、これに雨水が溜まるので係員は絶えず雑巾をもって走路に飛び出し拭き取ったものである。
 それにスタートラインは石灰で引いていたため、1レースが済む頃には白線が消え、その都度、白線を引き直していた。
 場内の放送施設も不十分だったから、車券の売上高や場内に知らすことは、いちいち黒板に書いて掲示する始末だった。
 レースごとの成績を関係者に伝達するために、女子連絡員が成績表を持って相手を探しまわって手渡すので時間がかかり、伝達を受けたときにはすでに次のレースが済んでいるというようなこともあった。
 審判席もお粗末なもので、着差判定の写真機もゼンマイ式の16_機械で、写真不鮮明のため審判員が多数決によって順位を決定しなければならないときもあった。
 ぺーサーも人手不足のため、開催執務員等が走路に降りてその役を勤めた。競輪を初めて見るファンにとっては、どの選手が優秀なのか判断がつかず、選手が場内を1周したとき「スタイルの良い選手は強いに違いあるまい」といって、それを目当てに車券を買う者も少なくなかった。
 このような調子であったから、大阪で初めて売り出された連勝式のことなど判らず、勝っているにもかかわらず車券を破り捨て、後で気づいて捨てた車券を探し回るという喜劇が随所で見られた。
 そういえば、私が記者を始めたころ、手書きのオッズや、成績があった。オッズも一度は書き換えられたが、書くのに時間がかかって、払戻金が決定すると、誤差もひどかった。ただ、ファンが何を本命に買っているかの判断材料にはなった。もちろん手売窓口の札の枚数によっても本命枠か穴枠は分かった。

【12=平成20年1月19日(土曜)】
 ◆メーカーと選手◆
  競輪場内には、すでに予想屋が登場していた。選手と自転車メーカーとは密接な関係があった。各メーカーは優秀な選手を抱えることに力を入れ、中には月給制で選手を確保している者もあった。それだけ各メーカーの競輪に対する力の入れ方も大変で、抱え選手が勝つと成績発表に際し選手の名と共にメーカーの名前や製品名を発表さすという有様だった。
 選手の力量に対するファンの認識が薄く、力量にもムラがあったりして、自然と番狂わせが多く大穴がよく出た。最初のころは1万円以上の配当が毎日続いて、1回に10万円、20万円と車券を買う人もでた。競馬でも1万円以上の配当など滅多にでなかったから、ファンが競輪に夢中になったのも当然だった。
 ◆悩みの種は場内取締◆
 大阪住の江競輪で騒擾事件が起こってから取り締まりの強化がやかましくなった。争乱防止の一策として進駐軍の軍人を招待することを考え出した。外国軍人が競輪場に入場すれば取り締まりのためMPが姿を見せることになる。当時、日本の警察力を侮っている群衆もMPにだけは恐れをなしていた。MPが競輪場に来れば躁乱防止にもなり、日米親善の一役を果たすことができると考え出したそうだ。
 そこで英文ポスターや英文出走表などを作成し、招待券も贈呈するなど、相当の入場があった。なかには競輪に興味を覚えて選手に記念品を贈るものも出たとか。
 そのころ、車券の売上向上とファンサービスをかねて阪神電鉄の切符売り場横に場外車券売場を設置したが、当時、電話連絡が円滑にゆかず成績も芳しくなかったので、間もなく中止した。

【13=平成20年1月21日(月曜)】
 全国的に相次ぐ騒擾事件が起こり、大阪通産局では「競輪場設備の不完全なところは早急に改修工事を命じ、完了まで開催を中止させる。また競輪場に対する警備力の不充分なところは当分開催を認めない」との方針通達に基づいて、大阪競輪も中止に踏み切った。ちょうどその頃、昭和25年9月3日のジェーン台風で府下競輪場は甚大な被害を被った。開催中の豊中競輪も第5日目から中止を決め、約2ヶ月の中止を受諾した。
 一時中止でも競輪の存廃論は一般社会でも活発に議論された。日本自転車振興会連合会が東京新宿の三越で開催中の明朗競輪展の会場で世論調査を行った。
 「競輪場へ行ったことがあるか」の問いに対し「ある」が213人、「無い」が103人。次いで「競輪をどう思うか」には「面白い」が217人、「つまらない」が77人。「競輪の地方財政への貢献を知っているか」には「知っている」が345人、「知らない」が53人という答えだった。
 また「競輪を存置すべきか、廃止すべきか」についての調査によると「改善して存続すべし」が圧倒的に多かったそうだ。
 競輪施行者である各府県市は地方財政の窮乏打開の点から、また各振興会自転車産業の振興に点からも競輪の存置再開を強く要望。通産省としても国内産業の振興の立場から、この考えを支持することを決めた。
 昭和25年10月30日、近畿競輪施行者行儀会は大阪・松坂屋南海交友クラブクラブで再開競輪の日取り決定について協議。再開は11月16日の西宮競輪が近畿のトップを切って、連勝式4枠制にすること、賞金は9車立の場合1レース8千円、6車立の場合1万円に増額し1、2、3着に賞金も増やすこととなった。

【14=平成20年1月22日(火曜)】
 再開後は、2ヶ月の中止があったためファンも待ちわびて競輪場に殺到した。車券の売上は上昇を絶するものがあり、24年度よりも200億円増加して331億円、26年度は530億円、27年度は571億円という競輪開始以来の新記録を樹立した。
 しかし、29年度は587億円、30年度は572億円と低下している。28年度のピークを中心として、この前後2、3年が競輪の興隆期、第一期黄金時代だったのだ。
 ただ、再開後は6日制6連勝式が4日制4連勝式に抑圧されたため、再開後の売上は芳しくなかった。
 明朗健全な競輪の育成と、発展の意気昂揚のため「競輪の歌」が作成された。作詞は詩人・大木惇夫氏、作曲・飯田信夫氏で、昭和26年4月から全国競輪場で一斉に放送した。
 「競輪の歌」の歌詞は次のとおり。
 @鳩が飛び立つ 平和のまつり 世界につながる 競輪だ たのしい自転車 国民の足 走れ 走れよ かちどきあげよ 動く花だよ 流れる虹だ リンリン 銀輪 鐘が鳴る
 A空は青空 自由のまどい 若さを讃える スポーツだ 明るい青春 国際の歌 合わせ 合わせよ かちどきあげよ 動く花だよ 流れる虹だ リンリン 銀輪 鐘が鳴る
 B血潮高鳴る 大地は躍る 選手はめざすよ 月桂樹 親しい民衆 健全娯楽 囃せ 囃せよ かちどきあげよ 動く花だよ 流れる虹だ リンリン 銀輪 鐘が鳴る
 どんな歌だったのか、おそらく記者として活動し始めた頃には競輪場で流れていたのかも知れないが、聞いた記憶もない。耳にしてみたいが、レコードか、テープか、現存しているのだろうか。ちょっと関係者に聞いてみたいと思っている。

【15=平成20年1月30日(水曜)】
 競輪再開後も魅力となったのは“穴車券”だった。大阪での最高は昭和28年9月1日の大阪住の江競輪場で15万2440円、的中者はわずかに2票だった。続いて31年3月8日の岸和田競輪場で12万2800円、続いて25年5月7日の大阪住の江競輪場で11万7410円、31年4月15日の中央競輪場で10万5670円の大穴が出た。
 ファンはどよめき、こぞって穴を求めたそうだ。10万円以下の配当はザラにあるが、32年10月4日の中央競輪場で、息子さんに連れられてきた老人が、間違って買った10枚の車券が5万500円の払い戻しとなって、一挙に55万円を手にする幸運にありついた。ビックリ仰天する老人を、警官が自宅まで送り届けたというエピソードもあったそうだ。
 レース形態では26年9月13日から大阪住の江競輪場で府内では初めての「タンデムレース(2人乗り)」が実施された。オリンピック大会に備えてや、タンデム車によるハイキングなどを奨励したい意向もあった。
 当日のタンデムレースは番外として昼の休憩時間を利用して1レースを実施したが、車券の発売はしなかった。このレースでの使用自転車は島野333、サンスター、トマス、ライオン、富士、勝盃、日光、エバレストだった。
 そして4日制4枠制が売上の不振を招いたため、6日制6枠制の復活を通産省に強く要望したが、6枠制は据え置きにされて、6日制だけが認められた。大阪の競輪も26年10月から6日制を実施の運びとなった。
 その後、競輪施行者や振興会から競馬や競艇に6連勝式を許しながら競輪だけ認めないのは平等性を欠くと通産省に詰め寄り、28年4月から6枠制復活の承認を受け、大阪でも7月1日から競輪創設当時の姿に完全復活した。

【16=平成20年1月31日(木曜)】
 全国争覇競輪(競輪ダービー)は第1回を24年6月に大阪で開催、以後、第2回・川崎、第3回・名古屋、第4回・東京後楽園と移り、第5回は再び大阪へ戻ってきた。
 26年9月30日から10月5日までの6日間、中央競輪場で開催された。29日には前夜祭で前景気を煽った。
 「講和記念自転車祭」と銘打って、堺市の南海電鉄高野線堺東駅前広場に舞台を設け、漫才家・林田十郎、芦野家雁玉、花月亭九里丸、松葉蝶子、東五九童、浪花家芳子、市松など芸能人が出場。自転車の宣伝、競輪の紹介などを行った。
 午後に入ってダービー出場選手が広場に集合して祝賀会を催した。堺市長、振興会理事長、堺自転車産業振興会会長の挨拶のセレモニーを終えて、333、ハクツル、サンスター、ポニー、プリミヤ、マルシン、富士、クラブ、カワムラ、ウエルビー、ツバメ、アルプスなどの各メーカー寄贈の自転車に乗った芸能人を先頭に、選手一行は5班に分かれてパレードに出発。
 沿道を埋める観衆の拍手、声援は熱い。堺東から住吉、阿倍野を経て松屋町から中之島へ行進。中之島公園で大阪市長より祝辞を受けてダービー前夜祭が終わった。
 迎えて30日、雨が降り出しそうな空模様だったが観衆は続々詰めかけ、開会式が始まる頃にはスタンドも埋まる盛観だ。9時半に合図の花火が打ち上げられ、空中には「全国ダービー」の文字が大阪市音楽隊の奏する「明朗競輪」の歌の軽快なリズムに乗ってゆらり、ゆらりと浮いていた。
 そんな中へ全国から集まった精鋭370選手が、男子は白のユニホームに黒パンツ、女子選手はピンクのユニホームに黒パンツに身を固めて入場した。
 第4回ダービーの優勝者男子競走車の山本清治、実用車の河内正一、女子競走車の黒田智子から優勝帽及び持ち回り賞品を返還、祝辞の後は選手を代表して山本清治が宣誓、熱戦の幕を開けた。

【17】平成20年2月1日(金曜)
 「第6回競輪ダービー」の競技が始まった。開会式直後から降り出した雨は7レース・女子予選のころに土砂降り。疾走する車輪から白い飛沫が上がるほど。そして1万650円の大穴が飛び出し、場内は興奮のルツボと化したそうだ。
 第2日目は爽やかな秋空。ファンも初日より多い2万1000人。2日間で3万6000人というレコードを作った。5日目の準決勝に入ると、車券の売上も増加した。この日から5000bの長距離レースが5レースも増え、昼食抜きの進行だった。
 連日の熱戦に大賑わいの中央競輪場は最終日を迎えた。午後3時には超満員となった。まず第8レースで女子決勝(4000b)が行われ、渋谷小夜子(神奈川)が久野治子(静岡)を制して1着。その素晴らしい競走ぶりに観衆は、ただ訳もなく歓声をあげたそうだ。
 実用車決勝(3000b)は河内正一(兵庫)が1着。最終12レース(1万b)の競走車決勝が始まるころは日は山の端にかかり、空は黄昏の美しさ。選手は1回、2回とピストルが鳴っても誰も飛び出さない。
 3度目の号音で池上岩男がトップを切って出走。最終回になると決勝点にはまばゆいライトが投げられた。バックストレッチから3〜4コーナーへくると3人が落車。難を逃れた選手がゴールへ殺到。
 高橋恒(大阪)が1着でゴールしたが進路妨害で失格。埼玉の高倉登が繰り上がって優勝、晴れの栄冠を獲得した。以下、2着・島野光彰(奈良)、3着・阪口和男(大阪)、4着・紫垣正弘(大阪)、5着・半田弘之(三重)、6着・植村央(東京)で松本勝明(京都)、池上岩男(奈良)、塚本勝(熊本)は落車棄権だった。
 閉会式では純白のユニホームの胸に赤く「サイクルダービー大阪」、背中に金モールの「優勝」の印をつけた高倉登を先頭に、決勝戦出場の選手が場内を一周すると、熱狂したファンが柵を越えて走路に殺到した。かくして空前の盛況ダービーは午後6時に幕を閉じた。

【18=平成20年2月2日(土曜)】
 「第8回全国争覇競輪」も中央競輪場で28年1029日から11月3日まで開催した。入場式では男子競走車選手はエビ茶、軽快車は紺、女子選手は白とそれぞれ揃いのユニホーム姿で、大阪市消防庁ブラスバンドの「明朗競輪の歌」の吹奏とともに四列縦隊で入場した。
 初日の第2レースはスタートで誰も前にでずスローレースとなった。周回中からファンがヤジを飛ばすなど騒然とした。ジャンが鳴って急にスピードが上がり、ゴールは一団となって写真判定。1着武田、2着吉田、3着山本で決定したが、制限タイムの3分を大きく越えて4分31秒6という珍しい記録となった。 
 2日目は昼食時を利用して、番外レース「先頭責任レース」が行われた。最初から猛烈なスピードで飛ばすので、観衆はスピードとスリルを満喫した。
 3日目は第4レースでダービーに汚点を残すレースがあったそうだ。女子一次予選1500b競走で人気の田中和子、山内春子、黒田智子、久野治子らがスタート直後、互いに牽制し合うと、人気薄の神徳弘子、入部福枝、玉井昌子が3人で先駆けして150bほど引き離した。それでも田中らは追わずに、神徳が1着、入部が2着に入った。連勝式の配当は5万6520円というダービー史上の大穴記録をつくってしまった。
 一時は物騒な雲行きになったが、即刻開いた制裁審議会で田中、山内、黒田、久野、奥野、佐藤の各選手は敢闘精神に欠けているとして6ヶ月の出場停止を命じて、納まった。4、5日目は、この一件で静かに終えた。
 最終日には入場者も増え、車券の売上も伸びた。第6レースの軽快車3000b競走は王者・河内正一が4コーナーで7番手にいたが猛烈なスピードで優勝した。第8レースの3000b女子決勝では激戦の末に有江美和子(長崎)が1着、2着に水野信子(愛知)、3着に吉武八重子(福岡)が入った。
 総理大臣賞のかかった5000b男子競走車の決勝はスタンドの観衆も大いに盛り上がった。阿部昂(大分)がトップを引き、山崎勲(高知)石川良(高知)黄金井光良(埼玉)松本勝明(京都)佐々木秀造(大阪)松村憲(高知)中井光雄(滋賀)山本清治(大阪)西田勇(大阪)杉山一男(愛知)白鳥伸雄(千葉)の各選手が力走を展開。ジャンで松村が前へ出て、中井、山本も続く。4コーナーを過ぎて石川、松村、西田、山本が相次いで落車。この間隙を縫った中井が優勝した。2着以下は山崎―黄金井―佐々木―松本の順。
 5基の投光器の光芒のなかで表彰式が行われ、熱戦に次ぐ熱戦の連続に、観衆のどよめきは容易に静まらなかったそうだ。