◆42〜55◆楽しき取材日記
◆42◆平成19年8月19日(日曜)
 39期、40期に続いて“最強軍団41期”も「新人戦」が組み込まれた。昭和53年5月にデビューして、7月は「新人戦」だった。だから、6連勝で10連勝特進をねらっても、まず同期が厚い壁となって跳ね返された。13位で卒業した佐久間重光は名古屋、松阪を6連勝で切り抜けながら名古屋新人戦で391着。「新人戦は負けるような気がしていたが、やっぱり負けたときはガックリきた」とショックを受けていた。
 そんななかで、新人戦を連覇したのが坂口正信だ。7月23日からの和歌山競輪のB級は41期が27人。佐久間に金岡泰孝、中村(唐津)信一郎、三浦信三ら有力どころを相手に、流れを的確につかんで、決勝に進出した。「先行できなかったが、前へ攻めて行ったのが結果的に良かった」。最終バックは最悪の7番手に置かれながら、3〜4コーナーで内へ切り込んで抜けだし、名古屋の逃げ切りVに続いて優勝を飾った。
 「新人戦を2つ取れてうれしいですね。これからも練習を積んで、目標の10連勝を目指します」。大阪産大付属高校時代は世界ジュニア選手権スクラッチで入賞、三重国体では1000b独走4位とアマ歴も輝かしい。1b81、72`の体を生かした強引先行で、多くのファンを引きつけた。

◆43◆平成19年8月22日(水曜)
 卒業記念レースが初めて伊豆・修善寺を離れたのが昭和53年9月7日・42期の時だ。卒業生110人(レースは2人欠場)は6日に競輪学校で予選1、2回戦を終え、翌日の準決勝、決勝に備えて川崎競輪場へ移動した。いつもと違う雰囲気に、生徒も大はしゃぎ? 通常の開催中の選手宿舎で“選手気分”を実感した。報道陣も伊豆から川崎へバスの旅。そして有名な川崎の夜を味わった。
 翌日のスタンドには家族以外にも、熱心なファンが早朝から詰めかけて、将来の“金の卵”をチェック。データーとともに、しっかりと走りっぷりを目に焼き付けていた。優勝したのは2位の薮田和夫のまくりに乗った27位の高木和彦だった。1位の神山功は内に包まれ、直線で突っ込んだが2着だった。
 42期は近畿勢が豊作だった。ベスト10に中里光典、八倉伊佐夫、井上薫が入り、予選も中里が1着失格で泣いたが、八倉、井上に木村光寿、塚本芳大、辻井克哉、浦川勝己が“川崎決戦”へ臨んだ。近畿から初のチャンピオンは誕生しなかったが、井上と木村が決勝入りする頑張りだった。
 橋俊一郎教官は「レベルは例年よりも上です。今後、伸びる可能性のあるのは中里、片岡克巳、八倉、木村らですね」と話していた。後に中里は大垣でダービーを制し、片岡はトップレベルで戦うなど、橋教官の眼力に敬服したものだ。

◆44◆平成19年8月27日(月曜)
 競輪42期生は昭和53年9月8日に競輪学校を卒業して10月上旬にデビューを迎えた。練習の期間は少なく実戦まで約1ヶ月しかなかった。神山功、薮田和夫がbP、2だったが、素質bPの評価を得ていたのが片岡克巳。1b83、74`の大型選手で、児島高校ではハンドボールの選手として体を鍛えていた。進学か就職か迷っている時に特別競輪のテレビ放映を見たのがきっかけで、松本信雄門下生としてプロ入り。
 レーサーに乗って間もない頃、1000bを1分12秒5のタイムで走り、適性組をやめて技能組で受験したほどの好素材だった。「学校へ入る前は一日に4時間は自転車に乗っていた。もう一度、デビューまでに鍛え直す」。実家は鷲羽山スカイラインの近く。急な登り斜面を力一杯に踏み込む。この練習で日本を代表する先行選手に成長した。卒業レースでも薮田にまくられたものの、果敢に主導権を握って逃げ、先行・片岡をアピールするなど、スケールの大きい戦いぶりだった。従兄弟に競艇の岩津宅一、片岡行晴がいて、片岡は「世界は違うが負けたくない」と話していた。タイトルは手にできなかったが、マーク屋には信頼度が高かった。だから42期のデビュー前の「本番待つ108人」の連載では、西日本編で将来有望な片岡を軸に取り上げた。

◆45◆平成19年8月30日(木曜)
 “本番待つ108人”の競輪42期生のうち、近畿からは大量19人がデビューする。名前を列記しよう。井上多津盛(福井)、八倉伊佐夫、浦川勝己、辻井克哉(京都)、志茂義和(奈良)、三島範典、前田和成、岡本新吾(和歌山)、井上薫、平川慎也、今中永司、石田裕紀、佐永田忠、大室哲夫、滝井雅弘(大阪)、塚本芳大、木村光寿、前田幸重、中里光典(兵庫)。
 この中で一番光り輝いたのが中里。200b11秒07、400b23秒02は学校記録を塗り替えた。「位置を取るためにごちゃごちゃしたくない。力でぶっ飛ばしたい。中野さん(浩一)を抜くことを目標にします」と、でっかい夢を描いていた。4年後の大垣ダービーでは破壊力満点のまくりで“日本一”の座についた。呼び名の『リキちゃん』の通り、パワーあふれるレースを披露していた。
 井上は父・豊彦(A4)、兄・豊(40期)の影響を受けてプロ入り。卒業記念でも決勝入りを果たすなど、レースセンスは抜群だった。「スピード戦が好き。これからは持久力をつけるように練習する」。世界選にも出場するなど、常にトップクラスで頑張った。石田は千勝レーサー・雄彦(A2)の長男。近畿大学を1年で中退して偉大な父の後を追った。
 八倉は書道5段で精神力を養い、相撲2段でからだを鍛えた。「大学で相撲をやろうかと思ったが、スポーツで身をたてたかったので競輪を選んだ」。根っからの優しさがネックとなって、大成にはつながらなかった。塚本は師匠・坂東利則の影響を受け、他人の面度見がよく、晩年は選手会の近畿地区本部長として、大きな世帯をまとめた。書けば書くほど懐かしさが浮かんでくる。

◆46◆平成19年9月2日(日曜)
 日本で初めてナイターで自転車競技が行われたのは昭和53年10月26日の西宮競輪場だった。野球場内の組み立てバンクなら、野球のナイター照明も使える。将来のナイター競輪をにらんでの“予行演習”だ。昼の開催が終わった後、午後6時から「第5回近畿地区プロ自転車競技大会」が始まった。
 6基のカクテル光線が組み立て式の特殊バンクをくっきりと浮き彫りにし、カラフルなユニホームに約4千人のファンが車券抜きの“ナイター競輪”を楽しんだ。スクラッチは渡辺孝夫が坂本敏博を2−1で破って初優勝を飾った。仲の良かった競艇のモンスター・野中和夫も渡辺の応援を兼ねて、ライバル競技のナイターを“視察”していた。
 一時は、函館よりも早く西日本のメッカ西宮で“ナイター競輪”開催の可能性も高かったが、一部の周辺住民の賛同を得られずに断念。その後、売り上げが低迷して、ナイター施設を持ちながら甲子園とともに競輪開催までもが廃止となった。大阪から、神戸から、地の利が抜群の西宮だったのに、ナイター開催に踏み切れずにファンの楽しみを奪った。初の“ナイター競技”の取材は希望に満ちあふれていたが、後々には空しさだけが残った。
◆47◆平成19年9月5日(水曜)
 “江戸鷹”の異名をとった山口健治。デビューからしばらくは先行、まくりで戦っていた。マーク屋・山口は昭和53年11月25日の小倉競輪祭「新人王」決勝戦で、仲良しの吉井秀仁の後ろで全国デビューした。先行・吉井との連動で、ワンツーをねらってのもの。ところが、一期下の木村一利が競りを挑んできた。激しい競りに決着をつけたのは山口だが、油断したところに木村が体当たり、これで山口はもんどり打ってバンクに叩きつけられた。
 「(木村が)来ないと思ったのが失敗だった。もうひと押し完全にキメて、息の根を止めておくべきだった」。優勝は吉井が獲得してOKだが、山口は勝負の厳しさを味わった。擦過傷の右腕、大腿部に巻いた包帯、ガーゼが痛々しい姿の山口に、木村が平謝りすると「仕方がないよ。お互い競走だもんな」と白い歯を見せた。だが、口ぶりとは裏腹に、その目はキッと木村をにらみつけていた。よほど悔しかったのだ。
 工藤元司郎に「非情にならなくっちゃぁ。勝負とはそんな甘いもんじゃないぞ」とアドバイスを受けたが、山口は兄・国男にも負けない人情家。どうしても非情になれなかったのだ。兄・国男も「競りはオレの方が年季が入っている。当分は先行主体に走ればいい」と、まだ兄からマーク屋への転向には許しが出なかった。その後は輪界屈指のマーク屋の看板を背負うのだが、“仕事人”になるには経験がものをいう世界だ。

◆48◆平成19年9月7日(金曜)
 松田隆文、中野浩一に続く「35期第3の男」としてデビューした井狩吉雄。4、5位の今中一光、佐野裕志より期待を集めての輪界入りだった。それがA3班でもたつき、A2班脱出もままならない。中野は世界のスター、松田、佐野は記念、特別で活躍。「今年はA1班の得点を目標にしたが、残念ながら102点ぐらいで止まってしまった。また来年にかけてみます」。
 中京大学時代はキャプテンとして自転車部をまとめ、ロード選手として活躍。埼玉国体でロード2位、長崎国体で千b4位、1971年のカナダ3日間ロードでは13位と輝かしいアマ歴を誇っている。根っからの“自転車野郎”なのだ。
 「いま考えると、気力ですね。脚はそう差がないと思う。気持ちで負けないようにしたい。今回もそうです。力を出し切って、元A1班の人たちに胸を借ります」。昭和53年12月14日からのびわこ競輪戦を前に、井狩がプロとの差を埋める決意をした。4月に小松島81@着でA級初優勝を飾り、6月富山、8月甲子園、11月豊橋で優勝と、やっと足が地に着いた成績を残しだした。このシリーズは年間V10の北村健や樋口昭宏、坂本敏博、南昇ら“元A1”の強豪が集い、井狩には試練の戦いだった。結果は準決勝で3番手からまくれずに散った。自転車が大好きで練習熱心な井狩、その後は35期のなかでも息が長く、今なおA級戦で決勝に乗るなど活躍している。

◆49◆平成19年9月10日(月曜)
 「ジロウがおったらなぁ」ー野中和夫が可愛がっていた北山二朗のことだ。昭和54年1月8日、住之江競艇の「ゴールデンサンスポ旗(GSS旗)争奪戦」で優勝したのが北山だ。インの長嶺豊に4、5コースから立山一馬、北山が連動攻撃。長嶺が1マークを先取りしかけると立山は中途半端な差しへ。その外、長嶺には見えないところから北山が強烈なツケマイを放った。2マークでは内で残す長嶺を、今度は一撃の一発。これで地元で初の優勝を飾った。4周タイム2分27秒7は彦坂郁雄の28秒1を上回るレコード。
 「どんなターンをしたか何も覚えていない。まるで宙を飛んでいるような4周でした。地元で優勝するのが夢だった。勝って手をあげたかったんです。勝因? 長嶺さんがインに入ったんで、まくりしか考えてなかった。それにしてもいい気持ちですね」
 控え室では長嶺が「…」と無言で、ショックを受けていた。同期の好敵手・津田富士男が暮れの住之江で優勝。北山もすぐに追いついた。フライングの多い津田に比べ、1マークでの俊敏な立ち回りに長けていた北山。二人の出世争いは注目の的だった。北山は51年度の“新人王”に輝き、一歩リードしていた。そして、この年、7月の浜名湖周年を優勝するなど、野中の後継者として着々と力をつけていった。が、翌年、整備違反で艇界を去った。レースぶりも、ファンの人気も、抜群の逸材だった。無念!
◆50◆平成19年9月11日(火曜)
 住之江競艇場は全国の競艇のメッカ。売り上げもそうだが、ファンの熱気もすすさまじい。それがGWにお盆、暮れ、正月とくれば、あふれんばかりの人の波、波、波…だ。南門から入って、中央の大時計近くの記者席へ行くのに、20分はかかることもしばしば。舟券購入の窓口に並ぶファンで、前へ進めなかったのだ。おまけに舟券を買いにいくと、買い漏れをするなど、締め切り間際は押し合いへし合いだった。だから、スタート練習が終わって、すぐに穴場に並ばないと間に合わなかったほど。
 昭和54年の正月開催は、大いに盛り上がった。「第21回GSS旗争奪戦」で、スター候補生・ヤング北山二朗の快走に、ファンも熱い声援を送ったのだ。売り上げのトータルは88億8142万8900円で、従来の52年正月=78億2564万9800円を10億円以上も上回るレコード。それも、6日間に渡って連日、10億円以上を売り上げたのは、53年の笹川賞(7日間)、太閤賞(6日間)についで3度目。とにかく売りまくっていた。こんな時代は、もう戻らないんだろうか???

◆51◆平成19年9月14日(金曜)
 力とワザで世界をひとひねりー。昭和54年1月18〜19日の和歌山競輪「開設記念」前節は、銀メダリスト・菅田順和が“一枚看板”を背負っていたが、3日間とも“主役”を演じたのが藤巻昇だった。初日特選は菅田が「突っ張って逃げる」作戦。赤板前から抑えた藤巻を、菅田は打鐘〜最終ホームでも突っ張った。が、藤巻は「菅田君とはきれいな併走。僕が前輪を差し込んだので引いてくれた」と、最終1角でハナを切って逃げ切った。菅田は「(藤巻マークの)国持(一洋)さんに締めこまれそうになった」とズルズル後退。これでは、いくら菅田でも巻き返せない。それに藤巻の上がり11秒8は初日の1番時計だった。
 準決勝は石川浩史のまくりに乗って余裕の1着。決勝に向けては「石川君と菅田君が叩き合ってくれればいいね。練習で弟(清志)と“四分六”ぐらいだったが、2日間走って、あるてどの自信は持てた」と実戦のデキに手応えを感じていた。国持一洋が「藤巻さんは何でもできるし任せます」と全面信頼。藤巻を「アニイ」と慕う渡辺孝夫も「アニイの後ろがいいが、前を取って勝負をする」ということだった。決勝は1角で強引にハナを切った石川の後位へ入った藤巻が「初めて自分でまくった」の天野康博をブロックして、直線一気に完全V。力を余したまま敗れた菅田は、この中途半端さが災いしてタイトル奪取へ時間がかかった。藤巻の頭脳プレーは選手のお手本だった。

◆52◆平成19年9月18日(火曜)
 決勝戦の2着ばかりが続くと、ゴールの瞬間は1着のつもりでも慎重になるものらしい。それが、この年の初優勝ならなおのこと。昭和54ね7月10日の岸和田競輪「サンスポ杯争奪戦」後節で、土屋隆の番手を奪った樫村行雄は直線に入ると一気に踏みこんだ。マークの須田幸雄が内へ切り込み、外を山下文男が猛スピードで突進してきた。土屋も粘っている。そんな状況で樫村は「ゴールへ入ったときも、また2着かなと思った。だからイン、アウトを見て、確認しました」と、ひと呼吸置いて右手を挙げて優勝を実感だ。
 岸和田までに、優勝2着が6回。勝てそうで勝てない歯がゆさをイヤと言うほど味わっていた。「前を取ることが優勝につながる。だから、どんなことがあっても前を取りたかった」とスタートに勝負をかけた。初日は先行で4着、準決勝は内に詰まって3着、不安な実戦の動きだったが、決勝戦は前取りから、すべてを自ら切り開いた。
 「須田さんのおかげです。ボクを前に前に回してくれたんですから。うれしい今年の初優勝です」と勝利の余韻にひたっていた。スタート全盛のころ、樫村のようにスタートで有利な流れに持ち込む選手が多かった。競艇ではないが、スタートの早い選手を探すのも、車券を当てるポイントでもあった。

◆53◆平成19年9月21日(金曜)
 39期生から始まった競輪の適性組で、初めて卒業記念のチャンピオンになったのが44期・岸本元也だ。技能、適性(スポーツの優秀者)の両面から幅広く人材を求めてきたが、5期かかってやっと成功を見た。記録会では200bで適性組の進出が目立つ。1位・橋本彰文が11秒43、4位・礒野実、7位・三浦世二、10位・佐藤正人と4人がベスト10に入った。ただ、持久力のいる3000bでは13位の川端保則が最高順位だった。競輪は“スピード”と“持久力”がついてこそ一人前と認められる。この点が適性組の課題となった。
 当時の豊田英之助校長は「いわゆる近代競輪の競走に、すぐ役立つ選手づくりを心がけた。適性組は入校前の2週間を“事前研修”として指導。一日も早く自転車に慣れさせたのが好結果を生んだと思います」と話していた。
 優勝した岸本は適性組の2位で全体でも14位のランク付け。ダイナミックな先行、まくりでチャンピオンの座についた。決勝戦のラップ11秒2は同期で最高タイム。「自分でこんなタイムが出てるとは思わなかった。優勝が夢なら、ラップもそうです」と信じられない顔つきだった。卒業レースは川崎競輪場で行われ、一般ファンの前で岸本は強烈なパワーを披露した。スタンドには当時、競艇のスター・中村男也が見ていて「強いねぇ。体もでっかいし、いいねぇ」と岸本に熱い視線を送っていたのを思い出す。

◆54◆平成19年9月22日(土曜)
 競輪44期生は昭和54年10月中旬からプロデビューする。中野浩一の優勝で幕を閉じた岸和田「オールスター競輪」では38、39、40、41、42期のヤングが暴れ回った。中野も「ボクもこの中に入ればベテラン(35期)ですから」というぐらい輪界の勢力図は若返った。44期にも大きな期待をこめて「東日本」「西日本」「近畿」と3連載を企画した。
 「東日本」は1の堂田将治は92勝をマーク。函館大学を1年で中退。わずか半年のアマ歴でbPの座についたのはスキーで鍛えた強靱な足、腰がモノをいった。「末の粘りには自信がある。人をアテにしないで、どんどん自分で動いていきたい。同期にはまけたくない」と強い口調で“勝利者”へ挑戦宣言。ラップ11秒52、1000b1分09秒74はトップクラス。後に中野と世界選手権にも帯同した。
 堂田に刺激を受けて大成したのが大橋秀人だ。学校では11勝で38位だったが、高校時代にバスケットで鍛えた足、腰のバネに磨きをかけて、ビッグ戦線でも活躍。とくに瀬戸内地区の玉野、観音寺、高松では記念優勝など、好相性の場所だった。学校時代に目立たなくても、努力次第で出世する顕著な例が大橋だ。弟子の菊池圭尚は将来の大器だ。
 鳴り物入りだった小笠原嘉は「基礎訓練のときに体調を崩して、長いこと調子をつかめなかった」ため、勝ち星の58勝のほとんどが後半に稼いだ。日大自転車部のキャプテンを務め、モントリオール五輪、世界選手権にも参加したアマ界のスターも、プロでは芽が出なかった。

◆55◆平成19年9月23日(日曜)
 競輪44期「西日本」では、卒業レースで優勝した岸本元也と礒野実が未完の大器だ。岸本は「ボクはずぶの素人。まだ1年しか自転車に乗っていない。優勝はしたけど不安でいっぱい」と183a、86`の大きなからだを小さくまるめる。高校、大学(九州東海大学1年中退)ではバスケットボールの選手として九州のベスト3にランクされていた。学校では“練習の虫”の異名がついた。明けても暮れても、自転車とともに過ごし、休暇も1年間返上。真面目で豪放磊落な性格。担当教官も「あれだけ練習する子はいない。すばらしい選手に育ってくれるでしょう」と太鼓判を押していた。トップクラスまでのし上がったが、落車、落車で苦しみ抜いた。
 礒野は400bの1位。岸本と同様にバスケットで鳴らした。そのウデを買われて神戸製鋼で2年半勤務。そして「お金の稼げる自転車に魅力を感じた」と転職。「岸本君をライバルとして先行で通用するようになりたい」。岸本と2人で九州の自力屋として、特別戦線をにぎわした。
 中部地区の安江俊樹は在校成績3位。タイムは平凡でも、実戦で威力を発揮するタイプ。各務原高校を3年で中退して、生きる糧をすべて競輪に賭けていた。「ダッシュ力はいいが、末の粘りがない。この点を克服したい」。レース分析に長けていて、一発は魅力だった。